2001年夏に当時のイングランド・プレミアリーグの史上最高額となる移籍金約41億円でイタリア・セリエAのラツィオからプレミアリーグのマンUに移籍するもわずか2年でプレミアリーグのチェルシーに移籍した元アルゼンチン代表MFベロンが当時を振り返り、「もっとプレー機会が得られる可能性があると思った。」と、元イングランド代表MFベッカムに元イングランド代表MFスコールズと元ウェールズ代表MFギグスと元アイルランド代表MFロイ・キーンを擁する当時のマンUの中盤よりもチェルシーの方が出場機会に恵まれると思っていたと明かしました。
続けてベロンはチェルシー移籍を振り返り、「でも、行くべきではなかった。チェルシーのせいではない。自分と契約したいとクラブが思ってくれるのも、チームのために何かができるとワクワクすることも良いことだ。ただ、私は(アルゼンチンの)ラ・プラタというとても小さな町の出身だったので、マンチェスターよりもロンドンで住むほうが大変だった。」 と、チェルシーをわずか1年で退団してセリエAのインテルへ移籍した理由も明かしました。
その一方で、ベロンは「残れば良かったし、きっと違う物事ができた。マンUにいれば、もっと継続的にプレーできたと思う」と、マンU退団を後悔していると明かしました。
そもそも2000年に26年ぶりのセリエA優勝を含むラツィオの3冠に貢献したベロンがラツィオからベッカム&スコールズ&ギグス&キーンの不動の4枚を中盤に擁し、特にFKではベッカム&ポジションではスコールズとバッティングするマンUに移籍した背景には、ラツィオの財政難に加えてベロン自身の国籍の問題で移籍せざるを得なかった部分もあったと当時は思っていました。
国籍の方は無実で、当時マンUを率いていたファーガソン監督も囁かれるベロン不要論を否定はしていましたが、事実としてやっぱりマンUの中盤には不要だったと思います。
ロイ・キーンによるプレッシャーで、ベロンがプレースタイルを抑制しなければならない部分もあったそうですが。
ただ、チェルシーでの1年と、その後のインテルでの2年を踏まえると、ベロンはそもそもプレミアリーグよりもセリエA向きの司令塔だったと思います。
もちろんローマやミラノと比べてロンドンの方が大都市なのかもしれませんが。
実際ローマやミラノに行ったことはないので、ロンドンとの比較はできませんが、、、。
それでもセリエAでは、サンプドリアからパルマ、そして当時勢いのあったラツィオへとステップアップしていった訳ですし。
ただ、ベロンがマンUを退団した時にベッカムもマンUからレアル・マドリーに移籍しており、ベッカムの代わりにマンUの右サイドハーフでチャンスはあったのかもしれません。
もっともベロン自身のポジションはセンターだと思いますし、ベッカムの7番と右サイドのポジションはポルトガル代表FWクリロナが引き継ぐ訳で、いずれにせよセリエAに戻らざるを得なかったかもしれません。