人生に迷える老羊

還暦過ぎましたが、いまだ生き方に迷ってます。
でも、丁寧に日常を楽しみながら、死ぬまで現役で働きたいと思ってます。

無駄が受け入れられる程度には、豊かな国であってほしい

2020-11-04 09:03:37 | テレビのこと
BSの「フランス人がときめいた日本の美術館」という番組が好きで(ていうか、ちょうど身支度を整えている時間帯にやっているので、つい見る)、時々見ます。
この前は、かつて財閥として栄えた豪商・三井家が収集したコレクションが並ぶ「三井記念美術館」を紹介していました。



”財閥”と聞いて何を思い浮かべますか?
80代以上の方でないと「昼ドラに出てくる令嬢」ぐらいのイメージしかないかもしれません。
自分の生きてきた時代にかかわりのない人たちですもんね~
私もそうですけど。
でも何となく”日本の富を一手に一族だけで独り占めした人たち”っていうイメージを抱いている人も多いんじゃないでしょうか。
だから解体させられたんだ、って。
でもあれはGHQがやったことですからね。
イタリアのメディチ家もそうでしたが、あまりに富が集中するとただの市井の人間が国家権力にまで関与するようになってしまい、それを恐れた国の権力者たちがそれをつぶしにかかる、という構図。
どこの国でも同じことが繰り返されています。



さて、三井家もそんな四大財閥といわれるほどの富豪だった、ということを踏まえて。
改めて番組を見ていたら、こういう人たちが居てくれたからこそ、日本の文化や芸術は守られてきた、という面もあるんだよなぁ、感謝しなきゃなぁ、と思いました。
三井はとくに円山応挙を応援していたようで、彼の作品を買い上げたり、注文を出したり、と生涯にわたってパトロンであり続けました。
応挙も三井には終生感謝していたようです。
いまや、「なんでも鑑定団」などで円山応挙の作品がでてくると色めき立ち、「すわ! 何千万の出物か!? いや、憶いくか!?」みたいな応挙ですけれど、当然そんな大家にも駆け出しの頃はあったわけで・・。
国宝「雪松図」がテレビに映し出されましたが、すごい・・
確かに応挙はすごい、と思わせられました。
絵画に造詣が深くない私でも、この作品のすごさはわかる。

こちらがその「雪松図」。
三井記念美術館のネットの画像からお借りしました。
松の枝に積もった雪が描かれているのですが、これはよぉく見ると、「白」はいっさい使っていません。
ただ、白い紙の地肌を生かし、そこを塗らないようにしただけなのです。
遊びででも、画用紙にパステルで描いてみるとわかると思いますが、ただ塗り残すだけではやはり絵に厚みが感じられないのです。
ちょっと蛍光の白かシルバーかを上に塗り重ねないと。
それをこの「雪松図」では、見事に積雪として描かれている。
しかも、この松は一切縁取りなどが描かれていません。
日本画、恐るべし。
この1枚を見るためだけにでも「三井記念美術館」に行ってみたくなりました。



さて、三井家が財閥解体の憂き目にあったとき、三井としては自分たちの生業の大元ともいえる呉服だけはどーしてもやめたくありませんでした。
残したかった。
そこで三井としては苦肉の策を打ち出します。
それが「三井」という名前は残らないが、「三越」として別部隊を設けて、そこに呉服を販売させる、という策です。
これが三越百貨店の始まりですね。
う~ん、考えたね~
やっぱ、頭のいい人たちが集まって知恵を絞りだすとなんかかんか道が出来るものですね。
だから、今でも三越百貨店では呉服売り場には並々ならぬ力を入れているようです。
一瞬だけですが、映し出された、たぶん日本橋店の呉服売り場。
それはもはや「美術館」と呼んでもいいのではないか、というような着物が掛けられていました。
こんな着物を見たら、着物なんて全然私の日常には登場しないのでまったくこちらも無知蒙昧ですが、「なんかすごそう・・」「この着物、格が違う・・」ってことだけは私にもわかりました。
要するに、そんじょそこいらのチェーン店で売っているような着物とはわけが違う、って感じです。



番組を見て思ったこと。
私たちは「財閥」と聞くと、冒頭でも書きましたが、”一族だけで一手に日本の富を独占した人たち”という、一般人からしたらちょっと悪の権化かのようなイメージを一部持っていたりしますが、ちゃあんとこうして文化や芸術を守ってくれたのもまた彼らなんだよなぁ、と感慨深く思いました。
彼らとて長い間には山あり谷ありだったことでしょう。
けれど、芸術を守っていくにはいっときだけのお遊びでは済まない、いったんこの人の芸術を守っていってやろうと決めたなら、それは自分も厳しいときがあっても必ず見捨てず生涯面倒をみるのだ、という気概があってこそではないでしょうか。
もちろん、ある程度の余裕がないと文化や芸術というのはおいそれと簡単にまもっていけるものではありません。
それは時には2代目の放蕩だったりしたかもしれません。
でも、あまりに厳しい世間の監視の目があると、そういった放蕩も許されなくなってしまう社会の雰囲気があると思います。
「そんなことをしてごく潰しが!」
「俺ら庶民がどれだけ汗みずくで、少しばかりの賃金を得てると思ってるんだ!」
Etc.
けれど、誰だって失敗がないと芸術を見る目も養えませんし、コレクションも出来ません。
むやみやたらと集めればいい、ってもんでもないんですから。
私は、多少の無駄は世間にあっていいと思うんです。
そういうものを一切排除し許さない、という風潮はちょっと息苦しい。
でも、残念ながら現代ってどうもそういう風潮に世の中がなってきているような気がしてならないんですよね・・
芸能人の人たちがちょっと逮捕されたというニュースなんかも、
「なんでこんな程度のことをこんなに大きく取り上げるの?」とか、
「この人って単にスポーツ選手ってだけだよねぇ・・ そりゃ人気があったならばみんな知ってるからニュースにせざるをえないのかもしれないけど、そこまでこういう人たちに日本国民のお手本になるような生き方をしろ、ってのを押し付けるのもどうかと思うわ」
といつも思ってます。
そりゃ正論で責めればぐぅの音も出ないから、糾弾には黙らざるを得ない。
けれど「マスク警察」なんて言葉もあるように、1憶総出で人を責めるときだけは一致団結するようなそんな国に、日本はなってほしくない。
でないと、心を潤すような文化や芸術がなくなってしまうよ、と思います。





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