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徳川家康 エピソード

2024-06-02 03:33:00 | 日記
徳川家康(1543年 – 1616年)は、日本の歴史における重要な人物であり、江戸幕府を創設し、長きにわたる平和と繁栄の時代を築きました。彼の興味深いエピソードをいくつか紹介します。

幼少期の人質生活

徳川家康(幼名:竹千代)は、幼少期に織田信長や今川義元のもとで人質生活を送っていました。これは戦国時代において同盟関係を強化するための常套手段でした。しかし、幼少期の家康はその環境に適応し、敵対する大名のもとでも知恵を絞って生き延びました。特に今川義元のもとで過ごした時間は、後に彼の政治的判断力や戦略的思考に大きな影響を与えたと言われています。

三方ヶ原の戦いと「三方ヶ原の屈辱」

1572年、武田信玄との三方ヶ原の戦いで家康は大敗を喫しました。この戦いは家康にとって大きな屈辱でありましたが、彼はこの敗北を糧に自らを鍛え直すことを決意しました。家康は自分の敗走の姿を描いた「三方ヶ原の屈辱」として知られる肖像画をあえて自宅に飾り、常に自身の失敗を忘れないようにしました。このような姿勢が後の成功へと繋がったと言われています。

鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス

家康の性格をよく表すエピソードとして、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という有名な句があります。これは、信長が「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」、秀吉が「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」と詠んだのに対し、家康は忍耐強く待つ姿勢を表現したものです。家康の忍耐力と長期的な視野が、最終的に天下統一を成し遂げた原動力となりました。

健康志向と長寿の秘訣

家康は非常に健康志向の強い人物で、健康管理に細心の注意を払っていました。彼は薬草学に興味を持ち、自ら薬を調合して服用していたとも言われています。また、彼は規則正しい生活を送り、食事にも気を使っていました。これらの努力が実を結び、家康は73歳という当時としては非常に長寿を全うしました。

掛川城での逸話

家康が掛川城を訪れた際のエピソードも興味深いです。城主の山内一豊の妻が、家康のために特別に仕立てた茶碗を提供したところ、家康はその美しさに感銘を受けました。しかし、家康は茶碗に口をつける前に「この茶碗は価値があるので、万が一のために保険をかけておくべきだ」と言い、あえて茶碗を割ってしまいました。この行動は、物の価値を理解しつつも、それに執着しない家康の哲学を象徴しています。

晩年の平和主義

晩年の家康は、戦国時代の荒波を生き抜いた経験から、平和の重要性を深く理解していました。彼は諸国大名に対しても戦争を避けるよう指示し、江戸幕府の安定と繁栄を最優先しました。家康のこの平和主義は、彼の治世を経て200年以上続く江戸時代の平和の礎となりました。

これらのエピソードは、徳川家康の人間性や統治者としての資質をよく表しています。彼の忍耐力、戦略的思考、そして平和を重んじる姿勢は、日本の歴史において今なお高く評価されています。


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