Choose what you love. Love what you chose.

悩みながら、不安だけど。
いつでも自分の選択を信じて。

「自分の感受性くらい」  茨木 のり子

2012-03-12 19:45:21 | Diary (Yamagata)
同じ学年の先生が被災地(福島)出身の方で
今日発行された彼のクラスの学級通信に次のような詩が記載されていました。


自分の感受性くらい


茨木 のり子


ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを 近親のせいにはするな なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ


彼は先週末東北私学の研修会に出席なされていたようで・・・
そしてその研修会をふまえて、研修会後地元に帰られた時の心境をつづった後に
彼は次のように締めくくっています。

「社会は大きく変わる・・・。そのときに自分とは何なのかを考えさせられた一日でした。」



日々、人のせいにするな。と自分を戒めてはいますが
彼の心情を思い、研修会に参加された被災地の先生方を思い
また、彼の家族、そして自分の家族に思いを巡らせたら・・・

自らの未熟さをしらじらしく顧みることと
それでも・・・とおさえられない未熟な私の心のうごめきを感じ
なんだか苦しくなりました。


1年経ちました。




だからなんだよ、正直よ。

区切りをつけるのは勝手だ。

その一方で私たちは日々一生懸命生きている。

がんばるぞ、東北。がんばるぞ、日本!

2011-12-31 23:54:53 | Diary (Yamagata)
笑顔抱きしめ
悲しみすべて
街のなかから消してしまえ

晴れ渡る空
登っていこうよ
世界中が幸せになれ


Let's go 2012!

これが自信ってやつですね・・・

2011-12-28 20:32:24 | Diary (Yamagata)
「日々、精進」

ほんとにその通り。
春に投稿した文章を締めくくった言葉。

「精進」=心を打ちこんで努力すること。

それだけはやってきた、2011年。

これまで努力するときは
誰かに負けたくなかったり
誰かに何かを証明したかったりしたけれど

今年は
自分のために
生徒のために
「教育」のために
「英語教育」のために

私、努力した。

右も左も関係なしにがむしゃらに
やった一年でした。

そして、その姿勢を評価してもらった年になりました。

来年はさらに新しい経験を積みたい。
ここで学べること
ここでやらせてもらえること
十分に経験したい。

そうしたら
迷わず次のステップを踏めそうな気がする。

自分の糧となるものにつながる日々を送ること。
来年は挑む年。

林 綾野/キュレーター

2011-08-29 01:07:54 | 「情熱大陸」
「これを糧に生きていこうと思える瞬間があって・・・」
そんな彼女の言葉を聞いて・・・


ちょっと「信じる」というものをやってみたくて。

友達が私の幸せを願って、私を信じているように。
生徒が授業を一所懸命聞いて、私の言葉を信じているように。
家族が無条件に私を信じているように。

私は人を信じてきたけど
簡単に疑ってもきたと思う。

誠実で正直であるべきだ、と。
疑われるほうが悪い、と。
自分にある不安要素を相手のせいにして。

この人は大丈夫。と一度信じたことを信じ続けることって難しい。
人はいろんな側面をもっているから。
長くいればいるほど
近くにいればいるほど
それは多面的で奥深い。

結局はどこかで折り合いをつけて
どこかで妥協し合って
ここだけは信じているという
ある意味では洗練され、研ぎ澄まされた信頼に変わっていく。

人間関係なんて、そんなものだ。
それができていることが
何かお互いを「知っている」という優越感を与えてくれるから、お互い「特別」でいられる。
けれど、それは近くで見れば「妥協」だ。

非難しているのでもなく
嘆いているのでもなく
ただ、それがうらやましい。
そんな信頼関係が築けたら、と思う。

「信じる」ことは自分で選択するしかない。
相手を「信じさせる」ことなんてできない。
信頼は後付だ。

やさぐれる春。

2011-04-06 22:21:30 | Diary (Yamagata)
春の気配が、ここ山形でも徐々に感じられるようになりました。
みなさん、お元気でしょうか。

春はいろんなことの始まりの季節ですね。
私の1歳にも満たない姪は、義理の姉の職場復帰とともに保育園デビューしました。
しかし、一日行っただけで、目つきが変わり、表情が消えたそうです。
今日はお迎えに行ったら、泣き叫んでいたとか・・・一日中何も食べなかったんだって。

そんな話を聞いた母は涙目になりながら、「ayumiもそうだった」と言いました。

そうそう、そうだった・・・姪と私はやさぐれコンビだな、こりゃw


けれど
どんなに親元でやさぐれてみても
社会にいつかは出ていく。


実際、その「やさぐれayumi」は新しい職場での日々を送っています。
姪のように泣き叫びはしませんが、日々新しい環境と情報と気持ちのコントロールで疲れています。

春から常勤で働いている高校は、生徒のほとんどが卒業後就職するような進学校とは程遠い学校です。
発達的にも、学習能力的にも、また精神的にも問題を持った生徒を受け入れ続ける学校。
なかなか簡単な学校ではありません。

そこで働く先生方は並々ならぬ精神力の持ち主ではないのかと日々思ってみています。
けれどそこに見るのは、ほかの学校の先生方と変わらない姿です。
ただちょっとだけ、余計なものを身に着けていない感じ。

人見知りではないけれど、簡単に殻を破ることのない私。
けれど、もうすでに先生方のしかけにのせられ、殻が自然とはがれていっている気がします。
なれたもんですよ、先生方。すごいな。

生徒と向き合うって「一生懸命すること」じゃないのかも。
ただ教師としてじゃなくて「自分」で当たることなのかもな。
それが、発達障害・学習障害・不登校・非行っていう枠を超えて「学校」を成り立たせている。のかも。



2月・3月は小学校で学級崩壊寸前クラスの副担任をさせられました。
そして、今度はこういう学校から声がかかりました。
「苦労は買ってでもしろ」というけれど、私の場合、買わなくても神様は必要な学びを常々提供してくれます。
それを真摯に受け止め、「時が満ちる」までがんばってみようと思います。

時々姪と一緒にやさぐれながらもw
日々精進です。