小山田圭吾さんがオリンピック開会式における作曲による参加を辞退されました。辞退は当然と言えば、当然なんでしょうけど、そもそもこの方を担当として組織委員会が任命したことが間違いですよね。
百歩譲って、いじめしていたのは子供の頃、学生の頃で、今は加害者としての過去を反省した上で、こういうまっとうな人間になりましたっていうのなら理解はできますが、この方、いい大人になってもそのことを自慢げにメディアに向けて語っていたわけですよね。またそれも二十何年も前だという方もいるようですけど、これまでも何度かこの件が話題になったことがあったようですが、何らかのアクションはとっていたのか、というところもポイントなのでしょう。
さて、太田光さんという方が、この件について語っておられました。「時代の価値観を知りながら評価しないとなかなか難しい」とのこと。私には全く理解できませんね。
この方、奇をてらったような、世間の感覚とは違ったような
コメントを、意図的なのかどうかは知りませんが、よくされますよね。私からするとかなりズレているなと感じることは多々ありますが、それはそれでそれぞれの意見、考えですからいいでしょう。
しかし、いじめというものが、肯定される、擁護される、あるいは自慢げにメディアに話しても許されるような価値観があった時代なんてないんじゃないでしょうか?
昭和だろうが、明治だろうが、いつの時代だろうが、世界のどの国だろうが、いじめらた側の苦悩、つらさは、変わらないはずです。絶対に。いじめた側の罪深さもかわらないはずです。絶対にです。
小山田という方が、障害のある方に行った壮絶ないじめ、それを自慢げにメディアに語ったことへの評価が、太田氏がおっしゃる時代の価値観によって変わることはないはずですし、変わってはいけません。
太田さんの言ってること全く意味がわかりません。一体、いつの時代のことをおっしゃっているのか??
私は個人的にいじめは本当にきらいです。
小山田さん件がメディアで出たとき、いじめられた方への猛烈な同情と彼への怒り、嫌悪感、軽蔑感を覚えました。ネットニュースでもいまだに彼の写真を目にしますが、ヘドがでます。最悪です。
言葉は極端で悪いですが、いじめられた方は死ぬまで彼をうらんで、ゆるさないでしょう。
いじめは罪です。
ものすごくい大きな罪です。許されません。