故山帳

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太陽の門とチチカカ湖(2014.12)

2015-03-23 | 日記
今から数昔前、私たちは若かった。
強烈な印象だった、ボリビア・チチカカ湖畔の「太陽の門」

事の始めは、
喫茶店で「アマゾン探検」のとほうの無い話だった。
メンバーは、サラリーマンだったら定年を迎える年の自称フリーカメラマン。
そのサードを勤める二十歳すぎの若いカメラマン。

(メインのカメラマンにはセカンド、サードと二人の助手がつく、これが古き良き時代の話です)

五十歳代の作家。
それに三十歳代の冒険家。
それに二十代後半の私。
時代は東京オリンピックの頃、発端はお茶のみ話の映画作りからだった。
まず記録映画か教育映画、小さなプロダクションは、教育映画を撮ってその配給に流せば商売になる。
以前「月の輪古墳 発掘」の記録映画を作り、教育映画祭最高賞を受賞した教育映画がある。
「あの程度のもは作れるんではないか」
高知県には佐川盆地があり、地質学の化石の宝庫だ。それに「佐川造山運動」という、地殻の変動理論もある。それを主題に教育映画を作れば、、、。
そんな話がいつの間にか、アトランチス大陸の話になり、アマゾン探検の話に発展した。


「アマゾン探検」は、アトランチス大陸伝説に始まる。
アトランチスは古代の哲学者プラトンが著書に書いているそうだ。
「大きな島ががあり繁栄していたがゼウスの怒りに触れ海中に静められた」
この大きな島は、ジブラルタル海峡のはるか先の大西洋にあったと。

おりから大陸移動説が1960年ごろ見直され話題になっていた。
身近には「佐川造山運動」で南海トラフ地震を解説する素人もいたが、プレートテクトニクスにかかると、まるで幼稚児と大学生の話のようで、大陸移動説は目が覚めるような話でした。

このような時代、アトランチス大陸の話題も活発化してくる。
それに太平洋にはムー大陸があったとか。これも大変動で海に沈みその末裔が各地へ逃れた。
イースター島の巨石像やミクロネシアのナン・マトール遺跡、それにマヤ、アステカ文明、インカと
まるでなぞなぞのパッチワークのような本が出版されたりした。

ある日、老カメラマンが若者を連れて現れた。
触れ込みは「探検家、冒険家」、今で言えばバックパッカー。世界の秘境を歩きそれを雑誌に投稿したりして生活している若者でした。
持っていたのはチチカカ湖畔のチワナク遺跡の「太陽の門」の写真でした。

チワナク遺跡----世界遺産(動画の撮影はだめ、静止画撮影料1000円ぐらいかな)



この当時は1ドル=360円、ドルの持ち出しは制限され、日本から脱出するには相当の隘路のある時代だった。
若者の履歴がよかった。お父さんは、有名新聞記者。その子ありて冒険家ありのような具合でした。
「南米ボリビアに海軍があります」
「うそつけボリビアは内陸国ぞ」
「いやアマゾン川は海のように広い、ちゃんと海軍があります」
説によると、昔ペルーと戦争して太平洋に出る回廊を封鎖され、今の国境線になった、そのため海軍は組織として残ったーーとか?、
それはともかく「アトランチスかムー大陸かの末裔がボリビアのアマゾン上流のジャングルに暮らしている。
それは、インカ民族と違い、肌が白く目は青い。」青年の熱弁は続く。

「ボリビア海軍とわたりをつけているのでアマゾン川の奥地に、探検隊を出そう、
テレビ放映用の記録映画を作れば経済的にも成り立つ」
若者と老カメラマンはすでに「探検熱病」にかかっていた。

しばらくすると、講談社か文春社から「世界のフィクション全集」のようなものが出版されるうわさが伝えられた。
その頃出版社は「日本の歴史」など全集もので稼いでいた。そのノンフィクション全集に「フォーセット大佐の日記」と言うのが収録されると知った。
話の内容はイギリスの探検家フォーセット大佐がアマゾンの奥地を探検して、言い伝えの白い肌、青い目の住民を知っているインデオの案内で奥地に入り行方不明になった。
その後、ジャングルで大佐の遺品から日記を発見した息子が書いたものだという。

フォーセット大佐は1906年、ブラジルとボリビアの国境線確定のためジャングルの奥深く分け入り測量をしていた。
大佐は1867年生まれで時に39歳、身長186か7センチの大男だったそうだ。
測量隊は23人、インデオの襲撃や病気で4人を失い、1907年5月て測量を終えイギリスに帰国した。
1908年にはアマゾンに帰り9人の隊員で、ブラジルとコロンビアの国境沿いの川の調査した。
その後も1910年、1911年隊員を失いながらも緑の魔境の探検に熱中し、この奥地に知られざる文明の遺跡がエル・ドラドが存在すると信じるようになった。
しかし、フォーセット大佐は折からの第1次世界大戦で西部戦線に出征し職務を全うした。

1919年戦争終結後。1920年、52歳になったフォーセット大佐は鳥類学者やわずかの隊員でアマゾンのジャングルに古代都市を求めて分け入った。
このときは戦後のためスポンサーも少なく資金、隊員ともに心細かった、それに熱帯病にはばまれ失敗したが、フォーセットのアマゾン熱は続く、そしてあの映画「インディ・ジョーンズ」のモデルだと言われている。
1925年またしても探検を決行、同行のポーターはマットグロッソのジャングルに恐れをなし同行を拒否、大佐はそれまでの原稿や写真をポーターに託し一人で密林に消えた。
フォーセット大佐は過去の探検で密林に住む白い肌、青い目の人々に会ったとするインデオの証言を得て「エルドラドはアトランチスの植民地で大陸が消滅したとき人々はここに移り住んだ」と確信、しかもその地への道順を知っていたようだ。
フォーセット大佐が密林に消息を絶って後、大佐の息子が父の後を追う。そして、息子はジャングルの大木のほこらに人骨を発見、同時に油紙に包まれた分厚い手帳を取得し解読した。それによると父フォーセット大佐がエルドラドに至り帰り道にここで果てたことを知った。この詳細が「フォーセット大佐日記」です。

これがノンフイクション全集に収録されているらしい。全集はすでに何巻か発行されており5,6巻目に収録されているらしい。
喫茶店の「フォーセット探検隊」は盛り上がっていた。
この「フォーセット大佐の日記」を参考に記録映画を作ろう。
作家はいる。カメラマンはいる。道案内はいる。ルートは着いた。あとはおマルだ。
まず車が要る。車はトヨタだ。その頃、トヨタクラウンでロンドンから東京までドライブした本も出版されていた。
ビザは?「ボリビア領事館へ行ってみよう」
ボリビア領事館は丸の内のビルの中にあった。領事に会うべく訪問すると現れたのは日本人、きっと偉い人は忙しく簡単には会えないんだ。
「領事さんは?」
出された名刺を見ると領事は日本人。
「私どもの商社がボリビアと関係が深いので私が全て取り仕切っています」
「、、、」
大きな蛇、アナコンダの皮を見せてもらい、熱帯病の話に花が咲き先行き明るい感触を得た。

チチカカ湖


さて、おマルの方は、映画スタッフがそろっているので、当面、映画製作で自活しなければならない。そこで企業PR映画を手がけた。
映画の題字は黒澤明監督のナンとやらのタイトルを手がけた○○さん、一流だ。
撮影に入る。
ある日、茶道クラブの部分を撮影することになった。広い講堂にそこいらの襖を立て畳を敷き、部屋には床の間を作り、青竹で一輪挿しをしつらえ、椿を一輪挿す。
若い男のお茶の先生が青竹を切り、花屋さんが大きなバケツいっぱい椿の枝をものを届けてきた。
すごい量の椿から一輪選び挿す、できたかな。
「さー撮影だ」
老カメラマンがミッチェル(多分,土井ミッチェル)を構える。
セカンドが露光を測る。
サードが三脚をしっかり抑える。
セカンドが「先生」と声をかける。
老カメラマンはファインダーを覗いて「OK」をだす。
「よーい」
と言う具合に現場は進んでゆくのだが。
ライトを点けカメラポジションを決めようとすると、お茶の先生から「ストップ」が入る。
青竹の一輪挿しの切り口が悪いとやり直し。
青竹をギーコギーコのこぎりで切り最初からやり直し。
この日は、椿の写るカットを数かっと写しただけだった。
やはり黒澤明監督がこの現場まで忍び込んでいたようだった。

マンガのような時間を過ごしていると、フォーセット大佐の日記はどうやらフイクションで嘘っぱちだということで、既発行本を回収しているらしい、と言うことだった。
八方手を尽くしたが、この本は手に入らなかった。嘘っぱちでも読んでみたい。
あれから、およそ50年、回収漏れの本に出会わないかと古本屋で目を光らせるが未だに出会えない。
ともあれ、マンガみたいな話は「生もの」。
時がたつと腐ってしまう。
生活を考えると、ほんとにマンガだ。
そこで「いち抜けた」となった。

しかし、冒険家たちは走った。トヨタさんでランドクルーザー1台獲得。旅費は、
ボリビアの隣国チリーのアタカマ鉱山から鉄鋼石を運ぶ運搬船の会社に渡りをつけ、ただで便乗できるように計らっていた。
若者は、どこからかベル・ハウエルの16ミリ撮影機をてにいれていた。
フイルムは私が自分の会社の管理部門で「たな卸しの、簿外で期限切れが近くていいから」と頭を下げ100フィート巻き20本ほど手に入れた。
これにはチト訳がある。
例の喫茶店会議で「こんな仕事は,サラリーマンや損得考えるような仕組みでは成功しないね。同志的結合がないと無理でしょう」と「かっこつけた」経緯があり「いち抜けた」となると、少し照れくさいから罪滅ぼしデス。


結局、探検隊は二人となり、冒険家とサード・カメラマンの若者がボリビアに向かった。

その後
二人の消息はフォーセット大佐と同じように解らない。
ジャングルにたどり着く前に、ボリビアの風土に消えた。

風の便りに、その後二人は別れ別れになり、カメラマンの若者は、言葉もわからず帰りの旅費も無いので現地で自活しラパスで写真屋を始めた。
その後結婚し孫もいる。老カメラマンから知らせがあったように思う。
もちろん老カメラマンはもう鬼籍だ。

ついでに
セカンドカメラマンは、その後ベトナム戦争の後方支援する日本の船の乗組員とベトナム娘のラブストーリーみたいな話の劇場用映画の撮影で戦争まっさかりのサイゴンに行った。
そのときも「一緒に行かないか」と誘われたが、最後の最後に一応、戦場という現実を考えると、やっぱり「いち抜けた、サラリーマンはぬるま湯だもね」になった。

その映画は有名な俳優が、俳優業脱出して映画を作りたい。その心意気でプロデュースしたもので、プロダクションは経済的に行き詰まりが解散、俳優君は本業で活躍したが、映画は試写会を開いただけで終わり大衆の目に触れることは無かった。

話が右往左往したが、私のボリビアは、青春の思い出でもある。
今回ボリビア訪問で若いカメラマンがどのようにこの国で過ごしているのか、現在もいるのか、写真屋の看板は無いか目を凝らしたが、世の中マンガの世界は二度と私の前に現れなかった。


昔話題に出た コカの茶 葉っぱも見たが 写真が逃げた

この先にアマゾンがある

だがだが、荒野を走る車はほとんどがトヨタ・ランドクルーザー。
もしかしたら、あの探検家が五、六十年前に走った一台のランドクルーザーが子供を生み、
その孫のランドクルーザーが私たちを運んでくれたのではないか思った。(トヨタの販売に努力した駐在員さんゴメンネ)
年齢を考えると二度と訪れることはないと思った、チリ・サンチャゴ。
アタカマ高地、ボリビアの旅は終わりにします。
プログ訪問の皆さんありがとう。

ラパス街です(2014.12)

2015-03-19 | 日記
ラパスの町は、スペイン人が風除けのため谷間に作り、それが発展、傾斜地にビルがたくさんある
上部は空気が薄いため低所得者、下部は富裕層と決まっているらしい。


夜景



街にはデモが多い、外務省の安全情報では、不測の事態が起きないよう敬遠すべし、と書いている。
ガイドも何のデモか知りません--と


オールドタウン、ラパスの路地


安全のためには一人で入らないこと?首絞め強盗ははやりです。
偽警察官のいちゃもんつける強盗もいるとか、でも、比較的治安のいい国だそうです。

街角の白バイ  ハーレーだったかな 他の街では カワサキだったように思います


これなーに?


ラパスの隣の町の電柱、はて何か飾りがあります。近づいてみよう。


よくわかりませんね---。でも、でも、これはぬいぐるみです。人間の形しています。何のおまじない?
「この街で悪いことすると、電柱に縛り付けるぞ」警告のお人形、実際、自警団に捕まりリンチを受けた人もいると---?。

こちら最近できたカーブルカー、下を見ると、お墓のアパート。



カプセルホテルのような黒い点が一個の墓らしい、時々、発生したガスで爆発もあるらしい、なんせ、気圧が低い高地ですから
ついでに、消防署は無いとか、空気が薄いので、火事はめったに無いとか?
がけの上を見ると、どうしてはまったのか、車、
割れ目は結構大きいです、どうやって運転手は脱出したのかな
不思議な国です。

そうそう チェゲバラもいたよ。あれから48年たつんだと。

ウユニからラパスへ(2014.12)

2015-03-16 | 日記
ウユニで遊んで、また車2台でラパスへ (途中中型バスに乗り換えた)

道は相変わらず


途中の町は 


この国の人は 写真嫌い カメラを向けると なかなか映らせてくれない


この若者たちは OK 手前の店の人は カメラに入らずチップよこせといった


この建物は 公衆便所 お守の親子がいた 料金は3--5円ぐらいかな


ゲートは日本が発明した 有料道路方式 日本ではほとんど高速だが この国や ミャンマーでは
普通の道路をせき止めて 料金を取る、 料金は 50円ぐらいかな。

道沿いの 作物 これでこの地方は潤っているそうだ


道端の不思議な犬小屋? 場所によっては 十字架や花の飾りがついている
お地蔵様とおもったら やっぱり 交通事故死者を弔うものだった。

いよいよ 事実上の首都ラパス到着 最近できたケーブルカーがある。町の 上部4000m下部2800m 上部は経済的に豊かでない人が多く
下部の 空気が十分吸えるところは お金持ちが住むそうだ。土地は低いほど高い。
ほんとの議事堂のある首都はこの町ではないそうだ。



ウユニ塩湖舟遊びー車遊び(2014.12)

2015-03-12 | 日記
塩を売り物のウユニ塩湖 パラシオ・デル・サル・ホテル

廊下 黒い柱以外はすべて お塩デス

 製塩所 といっても 集めて水を切っているだけで出来上がり それでも塩工場
手前の土色は どうするんだろう 少し沖には 真っ白のがある 色つきは安いのかな

これは彫刻販売所


岸辺は土もあり このとうり

舟遊びに出ようか

2時間ぐらいで沖合いに蜃気楼のような島が見えてきた


サボテンの島


インカフアシ島 今は呼び名が違うらしい  インカの人たちに気を使っているのかな


変な筒は ごみ入れか タバコの灰皿か  サボテンの古木でできている
サボテンは 建材に活用されている
頂上にはインカの祭壇があったーーーああしんどーー島の高さは100mぐらいーーそれでも湖面が3650mぐらい富士山ぐらい




少し沖合いで 昼食   はるか沖にテーブルパラソルの二人連れ ワインでゆっくりお食事 時々釣り糸をたれるのかな
今日は べた凪です

ウユニへ到着(2014.12)しました

2015-03-12 | 日記
ウユニに到着
まずは街中、やたら派手なビルが目につき住民も派手な服装でした。

町からウユニ湖畔のホテルへ
ロビーは塩づくし、柱も塩のブロックでデコレーションしている

塩のベッドから上を見るとドーム状になっている天井が塩のブロックです


そして このたびのメイン ウユニ塩湖へ
岸から10キロぐらい、ボートで沖に出る、ボートはトヨタランドクルーザー 一台はナンバーなし(砂漠でえんこして修理、チリから持ち込んだ私たちの貴重な水6リットルを飲み込んだ、ランドクルーザー)


朝夕は寒いが日中は 40度近くになる 雪原みたいだからサングラスは必需品
はるかかなたは 500キロぐらいだとか
湖の沖合い10数キロに ホテルを作った商魂は 世界中の自然保護者に批判され、ホテルは営業中止で取り壊す予定だそうですが、取り壊しには未練がありそうだ

厚さ30メートルぐらいの、塩は独特の模様を作る
雨季には20センチぐらいの水が積もるそうだ  交通はランドクルーザー   クルーザーは船なのか?


超日常の風景はこんな写真をとっても楽しい
ちなみに乾燥と高温の風土はコーラがよく似合う