甲南一期会(こうなん いちごかい)












一期会(いちごかい)の皆様の情報などを載せて会員様の親睦を図ります

このブログ 初めての 教養講座  能についての考察

2013-02-13 08:22:25 | ためになる話
山村師匠からのメール その2

コレは一般の方が 能 についての 予備知識が無いので

能 が 非常に分かりづらいと思われていることに

よく分かるような 予備知識 を与えてくださる 講義です

少し長いのですが 学生時代を思い出して お読みください


以下メールそのまま引用



能楽について    山村(旧姓星丘) 和敬
 
能は、正直なところ解りにくい芸能だと思いますが、ちょっと知っておくともしかすると興味を持って観ることができるかも知れないことを書いてみたいと思います。

能では、ほとんどの曲目が前半・後半に分かれています。
主人公のことを“シテ”と呼びますが、前後半で“前ジテ”“後ジテ”と呼び分けられており、前ジテでは若い女性だったのに、後ジテでは鬼になったりすることもあります。 前半ではおじいさんだったのに後半では、武士になったり神様になったり・・・
年齢も、人格もすっかり変わってしまうことが多いのです。
これが、「能は解りにくい」という一つの要因かもしれません。
演じる人、役者の方は変わりませんので、前後半の間に“中入り”というのを設けて、その間も、舞台の上は休みなく続けられていますけれど、シテは幕の裏で着替えをしたり水を飲んだり、気分を変えたりしているわけです。
その時間稼ぎのために、「間狂言(あいきょうげん)」なる狂言方の出番が用意されてもいます。

「船弁慶」という曲目がありますが、題名からするとあたかも弁慶がシテかと思いきや、前ジテは「静御前」、後ジテは「平の知盛の亡霊」という、人格どころか性別まで変わってしまうという・・・・ そんなものもあります。
前半は、静御前が義経との別れを惜しんで舞う「舞い」を見せるのがメインで、後半は、船の行く手を阻もうとする平知盛の亡霊がなぎなたで立ちはだかるのに対し、弁慶たちがそれを鎮めようと祈祷する。 その息詰まる対戦が見せ場ということになります。
この「船弁慶」には、義経も当然ながら登場しますが、「子方」といって子どもに演じさせる役どころになっています。 静御前と恋をしている訳ですから、子どもではおかしいのですが、能ではシテ以外をあまり目立たせないような演出がなされるのです。
この辺りも写実的な現代劇に慣れ親しんだ目からすると、小学校の学芸会よりも完成度の低いものじゃないのか知らん?・・・・ と感じてしまうかもしれませんね。

能では、シテが多くの場合「面」をつけます。いわゆる”能面“です。
シテの他にツレと呼ばれるシテの仲間も一緒に面をつけることもありますが、限られた曲目だけです。
そもそも、お面をつける演劇というのは世界中にあったようですが、ほとんどは廃れてしまって、現在でもしっかり残っているのは日本の“能”ぐらいだと言われています。

“能面”は、基本的には表情が変わりません。
“面(おもて)を照らす”とか“曇らす”とか、多少上を向くか下を向くかで、喜び・悲しみを表現していると言いますが、ほとんど自己満足の範疇だと思われます。

能の中に、数はそんなに多くはありませんが面をつけないものがあります。(安宅・芦刈・小袖曽我など) 直面と書いて“ひためん”と呼ばれますが、このときも顔に表情を作ってはいけないことになっています。

テレビドラマを初め、ほとんどの演劇では顔の表情で演技をすることが多いと思いますが、それを封じているのが能なのです
嬉しさを表現するために微笑み、怒っていることを表現するために怖い顔をする・・・・という方が観客にはずっと解りやすいのですが、それをあえてさせないのです。 表情だけでなく、仕草も極力控えめにしなければなりません。
見た目の演技という意味では信じられないぐらいジミな演技をすることになります。

能に比べ、「目ぢから」など顔の演技を一つの売り物にする歌舞伎の方がより一般に支持されているのは充分うなずけるところです。
 
では、何故「能」がそんなことにこだわっているかということなのですが、これは多分、能では「感情」の動きを観客の想像力にゆだねているということだと思います。
どういうことかと言いますと、「能」を見ながら観客が自ら過去に経験した悲しみや、怒り、恨み、喜び、というものをそれぞれの場面で思い浮かべてくれることを期待しているということになるでしょうか。 能の物語の舞台は昔々のことで現代では経験できるものではありませんが、例えば子どもを助かりようのない戦場に送り出す場面では、放射能でどうなるか分らない地に家族同様に暮らしてきた牛や馬を残してきた人にとっては、その悲しさは容易に想像できることでしょう。 もし、それがペットだったりわが子だったら、その苦しさは役者の演技力を借りるまでもなく、悲しみ・苦しみの感情は溢れるに違いない。 むしろ、大げさな演技で、観客の感情のほとばしりを邪魔してはならない・・・・ という考えがあるのだと思います。

現代演劇では、悲しみの状況を役者自ら最大限に悲しんでみせてその気持ちを伝えようとするわけですが、それをすると観客の想像力をかえって邪魔する恐れがあると考えている訳です。 

「七騎落ち」という能があるのですが、これは頼朝が石橋山の合戦で苦戦して味方が大勢やられてしまったため、船で一旦引き揚げることになりました。
その段取りを土居の実平(シテ)というものに任せるわけですが、たまたま船に同乗するのが頼朝を含めて8人になってしまいます。 そうすると、頼朝が言うにはおじいさんの為義も父の義朝も負けたときは八騎だったから、八騎は縁起が悪い、一人船から降ろせ・・・と無茶苦茶なことを言います。

忠臣としては主君の言うことを聞くのが常識の世のことです。
実平は、誰を降ろすべきか悩みます。
たまたま、端っこに乗っていてしかも最も年寄りの岡崎義実に声を掛けますが猛反対されます。 それどころか、命を二つ持っているものが降りるべきだと主張されてしまいます。 命が二つというのは、親子で乗っているものという意味なのですが、実は土居の実平の子供、遠平も乗っていたのです。
その意見は尤もだと思った実平は、自分の子どもに「お前が降りろ」というのですが、遠平に自分はまだ稚いけれど主君のために充分役に立つ自信はある・・・・ と反発されてしまいます。 実平は「まあそこまで言うなら・・・・」と自分が降りようとすると子どもの遠平が思い直して「やっぱり自分が降りる」とけなげに申し出ます。
父の実平にしてみると、客観的に考えるとやっぱり、自分の方が役に立つ筈だと思うからこそ息子の申し出を褒めながら、心を鬼にして船から降ろすことにします。
しかし、陸には敵の侍が大勢います。 結果は日を見るよりも明らかです。息子の命を諦めなければならないという悲しさ・寂しさ・苦しさを、ただじ~っと沖を見つめるだけの演技で表現するのです。
が、観客の想像力が豊かであればその方がより深い悲しみとして伝わる・・・・としてもおかしくないのではないでしょうか?

もっとも、このようなドラマティックなものは少なく、例えば後ジテとして神様が現れ、地球の安寧を祈って舞いを舞う・・・・ などの「神様もの」。 あるいは、戦で命を落とした武将が通りすがりの僧に、戦の様子を見せながら弔ってもらい、やがて成仏して行く・・・・ というような「修羅もの」等。 型にはまったような能も多いのですが、そこには背景や人間関係の違いがあってそれぞれ固有のものになっています。
能の中で謡われる文句は、もともと解りにくい言葉である上に、韻を踏むためにだけに使われている文章があったり、お経の中の一節を引用していたり、何の予備知識もないままに「能」を観て理解できる人は、そうはいない筈だと思います。

「羽衣」という有名な能があります。 「羽衣伝説」というものは世界各地にあるそうですが、能の羽衣ほど清らかなものは他にはないのではないでしょうか。 衣をたてに夫婦になったり、衣を取り返すために一時的に男に仕えてみたり・・・・ そんなことは一切ありません。
三保の松原で、美しい衣を見つけた漁師が「家宝」にしようとその衣を持って帰ろうとするのですが、そこに天人が現れ「衣なしでは天に帰ることができないので返してほしい」と言います。 漁師は「天人の羽衣」なら国の宝物にする・・・・ と応じようとしません。
しかし、天人の嘆き悲しむ様に哀れを感じた漁師は、「天人の舞」を見せてくれるなら衣を返そうと申し出ます。 喜んだ天人が、舞うために衣をまず返してほしいと言うと、漁師は「衣を返してしまうと舞わずに天に昇るのではないか?」と疑います。 そのときに発せられる天人の言葉が『いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを・・・・』というのです。
偽りのある人間界には疑うということもあるかもしれないが、そもそも偽りのない天には疑うという心も存在しないのですよと、優しく諭すような、はたまた哀れむような言葉。 
これも、けっしてオーバーでなく、押し付けがましくなく、しっとりと語るのが能なのです。

能の出演者は、笛や鼓の囃子方をはじめ、ワキ専門の人、狂言専門の人、地謡の人という具合に、一曲の能は思いのほか大勢の力で出来上がっています。

囃子方やワキ方、狂言方などの専門職はもとより、出演者は皆それぞれで練習を積み、本番前の全体練習(申し合わせ)は一度きりだと聞いています。
それを可能にしているのは、一つにはそれだけ伝統を重んじる保守的な面があるということになるでしょうが、もう一つは各自の芸に対する真面目さと自信のなせる業だという気がします。
シテを演じるものは、ワキやツレのことはもちろん、囃子のこともすべて熟知した上でなければ上手く演じられないと言われます。
舞台全体の調和を図るのがシテの重要な役割の一つであるのでしょう。

そう言えば、「能」は「歌舞伎」のように連続何日も公演を続けることはありません。 続けても客が入らないという面もあるかもしれませんが、実際は続けるだけの体力は残っていないのではないでしょうか。
指揮者がいないオーケストラをたった一回の全体練習で仕上げることの大変さを、真面目なシテは一身に背負っているのかもしれません。

(文責 山村)


山村師匠の 能 にたいする 愛情と理解から生まれた アドバイス

ホンの ど素人の 変酋長にも 深く響き入っております

同級生諸君 チョットはためになったと思うのは 変酋長 出・愚痴 だけでしょうか



こういう企画は 大歓迎

一期会メンバーの教授諸君や 博士さんたち 医学博士諸君に 他の学術的な考察原稿の投函もお願いしたいものです

神戸 サテンドールでの 松岡先生の健康講座を思い出しています


そんな硬いものでなくとも コレが言いたい!!と言う物でも 大歓迎です

ためになる話 ゼヒゼヒ よろこんでぇ~~

他の専門家の方々も宜しくお願いします メールいただければ多少のデッチ揚げで記事にしたいと思っています


宜しく    変酋長  デ。愚痴