前承
八十四歳を迎える春に、子供たちに「私の最初で最後の願いだけれど、個展を銀座で開催したい」と申し出た。
「銀座で個展開催」が日本画を始める時に、仲間の前でした公約声明であったようだ。
「ホラと公約は表裏一体だし、皆忘れているよ」と母を説得する「勇気ある子供」もいない事が分り、「どうせ、今頃、銀座の画廊に当っても、数年間は駄目と言われるでしょう。そうすれば、諦めるよ」と言う事になった。断念させる儀式は、母の目の前で行なわれた。
案の定、次々と断られて行った。
しかし、子供たちの計略は、銀座四丁目の玉屋ギャラリーの「それは素晴らしい事です。大変幸運にも、少し前にキャンセルがありました。是非どうぞ」という電話で崩壊した。 母の目はキラリと輝き、我々は絶句した。成り行きとしても断る事もできず、十一月の開催が決定された。「夏くらいになれば、どうせ諦めるよ」など、半ば真剣に言い慰め合っていた。
それより以降、母は睡眠と食事と、数箇所における排泄とその事後処理の他は、未完成の作品の完成化に全てを注いだ。画き疲れると、仮眠し、覚醒するとキャンバスに向かった。
貧乏人は安い料理から箸を付けると、よく揶揄にされるが、母もそうで、私がせっせと運び込む岩絵具を高価でもったいないとして、しまい込んでいた。
しかし、最後の晴れ舞台の決定に腹が決まり、それより以後は、この日のための岩絵具が惜し気もなくつぎ込まれた。
三月に入り、あと六ケ月にせり、母を交えての展覧会打合わせが行われた。横になったり斜めになったり埃を被ったりして寝ている作品の選別が開始された。数点を除き、すべては未完成であり、このままでは間に合わない事が明瞭になった。
(写真)
そういう騒動の中で、今度は四十六歳の妹の「横浜国立大学に合格」というニュースが伝わった。言語療法士の資格を取るためという。
なんだ、なんだと、混乱して白くなった私の頭の中を、妹の家が、台所が、そして放置された食器の山が、最後に自分の皿と箸を洗う高名な御亭主様の像などが次々と横切っていった。
【女房の留守内中(うちじゅう)がわんだらけ】
まともで、静かな人生を歩んでいるのは、私だけか? とさえ思えた。(当然山のような反論はあるが)
次男の私が切り開いた素晴らしい道を辿ってみたいと考えたのだろうか?
春になり、壮年たちの新学士入学生たちは嬉々として、通学し始めた。
こうしたものは話題になりやすい。人々は簡単に「りっぱじゃないですか!」と感心し、悲しそうにしている私を不審に思った。他人はさて置き、我々身内は、心配しながら見守るグループと金の工面に走り回るグループと家事を分担する人々に分類された。
秋になり、展覧会が近づいたが、母の体力は次第に衰え、死と生と気力との闘いが本格化して行った。しかし、一つの事に的を絞った時、人間が見せる必死の努力の凄さは、たいしたものである。
時折、うつ状態が衰えてしまった肉体だけてなく精神を支配し、一日中床に就く日も見られたが、深夜になっても、気力さえ快復すればむくむくと起き上がり、絵に向かった。姉の助けもあり、着々と完成させていった。
どうせ、ギブアップするか、壁が埋まらなくて、我々の下手な絵も参加する事になるとタカを括っていた子供たちの予想は外れ、割愛する作品が出てくるほどになった。
気力は充実し、「八十五歳の日本画展!」と大書された展覧会は大成功を収めた。子供たちは連日出動し呼び込みをした。
八十五歳で、日本画個展を成し遂げた後は、母の生命は急速に消失し始めた。
そうした老人は自分でも幕切れを感じているのであるから、「おばあちゃんは、元気よ。九十までは大丈夫よ」などと言ってはならない。
事実、母も、眼科医から言われて、すっかり落ち込んでしまった。
母は長崎の生まれであり、小さい頃に母親を無くして、かなり苦労をしたそうである。しかし、母について知っている事は、「長崎生まれ、苦労し続け」くらいであったので、そろそろ、色々聞いて置きたい考えていた。
母自身も「自伝を書きたいけど、もう時間が無いわね」と何故か大胆な事を言っていた。苦労話全集以外にも書き残すネタが有ったのだろうか?
日曜毎に会ってはいたが、中々そうした内容に踏み込むことは少なかった。
八十六歳の誕生日、何時もと違う呼吸困難を訴えた。今度はまっすぐに東京の愛する病院に運び込んだ。深夜、学会から帰って来た専門医によって、改めて肺梗塞と診断された。
症状は刻々と悪化し、それにあわせて救命機器が装填されていった。二十四時間の点滴、心電図、酸素というふうに…
入院三日目、母はさすがにいろいろな事が理解できたらしく、見舞いに来た子供や孫に遺言をしてはじめていた。
私には「やっぱり、八十八の米寿まで生きるのは難しかったわね。胃カメラ検査を断ってくれてありがとう。患者は受け持ちのお医者さんが『おばちゃん、カメラしよう』言ったら、中々、断れないのよ。」など軽いものであったが、孫たちには「勉強しなくちゃ駄目よ!おばあちゃんも、八十五歳までがんばったのですよ」と言っていた。
ついには気道確保のために挿管がされ、人工呼吸器も付けられて、発語できなくなった。部屋は監視のために煌々と点灯されて、八十六歳には辛い姿が展開されていった。
入院して五日目、のぞき込むと、母の目は怒っているようだった。うっすらと、涙がにじんでいた。「私はこんな機械に繋がれて最後を迎えたくない!博重さんには言ってあったでしょう!」と責めているようだった。
母がすーと死ねなかった理由の一つは団地の継承問題であった。このまま母が死んですぐに明け渡すとなれば、父母が大切に持ち続けた財産は、即座に引き取り手の無いゴミと化し、十分な選定もされず一括処分されるのは明らかであった。
それにしても父の遺品を改めて調べると、思わず手が伸びる品物は皆無であった。「お父さんがあんなに愛していた物だから、お棺に入れて上げましょう」という発言が続き、母が押し止めなければ、ひと財産を持たされるところであった。
男は残せないのだ!生きている間、自分の巣の中にいろいろ並べるであろうが、死ねば皆に首を傾げられるだけである。
母の物も衣類類は昔の人が言ったように「着てるから服だが、脱げばボロ」に近いとも言えた。寄席でも【現金以外のお忘れはされませんように】と声を掛けられる。
大騒ぎの中で、継承問題など誰一人として
思い付きもしなかった。
死ぬ三日前の「無理でしょうねー、あの家」という母の啓示が直ちに私に行動を起こさせた。存命中に住民表を移せば、継承が問題なくできる事も分った。時間が無いことは明らかであった。「継承が可能でかつ必要なのは、三人の子供のいる姉だけだ。あの一家に取って、あの家は将来十分な価値がある」と私と私は話し合い決定した。
「私が私に諮問し、即座に私が答申する」はよくある事だった。
私は、母の魂の代理人として、決めつけるような言葉で迫った。夜十一時も回っているのに、病院と駅との短い距離の間で、姉一家を一時間も掛けて説得した。雨は我々に降り注ぐ。電車も無くなる。涙と大声の出し合い合戦が続いた。
兄弟がせっぱつまったこういう時に集まると、しこり、わだかまりは水に流される。
しかし、踏み込んだ議論をしようとすると、それぞれの環境が全く違う事を忘れて、いつの間にか、昔の感じで言い合ってしまう。それでも、「昨日怒鳴り合ったのに、今日は元に戻る」という子供の頃の癖も復活する。
人の心とか歩幅などずいぶん小さい。だから同じ方向に歩むときは離れることも多くないし、すぐその差は取り戻せる。しかし、反対方向に歩き出すと、みる々々間に遠ざかる。
だから、今、決めなければ、父母の存在を証明するものは捨てられ、核を失って歩き出し、兄弟が空中分解してしまうことは明らかである。姉は夫の最終判断によってようやく引継ぎを決断した。
即座に手続きがなされた。名義変更遂行を耳元に伝えると母は大きく肯いた。
すべてが終った翌日、母の生命は尽きた。病理解剖がされ、稀な心臓の疾患と結論された。
「仕方ない、仕方ない」と最初に受持ちの医師が納得し、次に病理医そして上の指導医たちも納得し、最後に遺族である我々も納得した。
世の中というか、我々の人生には、不可能としか考えられないことが、実現してしまう不思議な事がある。思いがけないことを実現させたりする力を考えると、大いなる力、何か未知な力、我々には想像もできないような力の存在を想定したほうが、自然であるとしか思えない。
八十五歳の日本画展(しかも銀座で!) についても、天にある力を想定しなければ理解できなかった。
今度の場合の「母の入院中の、浦和の家の名義変更に至るまで行動」もそうである。忽然とその名義変更問題に気付かせ、悩ませ、討論させ、そして解決させて、そして報告を聞いた後、待っていたようにこの世を離れた母の一連の粘り強さである。
いま思っても不思議としか思えない。
私にしても不思議なほど命が拾われている。深夜の往診時にベンツが大破し、エア・バックが作動した激突においても、無傷だった日は、父の命日であった。
それ以外も、奇跡と思われる事が私の周りに存在する。
病院にいる姉から「とうとう、お母さんが死んだ」と電話が入った。昼近くになって、外来患者が途切れたので、「まー、こんなものかな。後をよろしくね!」と分ったような分らないようなことを言って、浦和に向かった。
車窓からすっかり見慣れた景色を見ているうちに、ふと、何であんなに母は、長生きができたのだろうか?と考えた。
そして、又、あの最後に見せた「流涙しながらの生命の維持」に思いが行った。
昨日でなく、今日までがんばったのか。サングラスの男の耳に突然、母の声が聞こえた。「姉が家の権利を継承してくれて良かったですね。お母さんは本当に嬉しいですよ。いろいろな事がすべてうまく行きヤレヤレです。では博重さん、さようなら」
父の時同様、人前で泣くことは無かった。その代わり、ひとり浦和に向かったこの電車の中で、サングラスをかけ黒ジャンパーを被って、十分間だけ涙腺の堰を解放してやった。
ふっ切れて、主を失った団地の家で、母の品物を整理していたら、妹がやって来た。常々勝ち気で通っている妹の目が真っ赤になっているのを見ると、私の涙腺の堰崩れが再び起こりそうになった。危なかった。
我々兄弟はみんな今でも悲しみを秘密にしている。
苦労続きの八十六年間の一生を振り返れば、母が主役であったのは、あの展覧会の一週間と六ケ月後の葬儀の瞬間だけだつたかも知れない。
母は画家としての八年間に百三十枚以上の絵を描いた。父は本と釣り道具を残した。大きな古い箱には、子供達の着物が大切に詰められていた。五人の子供たちは、これらの両親の遺産をで分け合った。
【泣きながら良いものを取る 形見分け】
母のいない団地に、名義人となった姉が時折訪れる以外は多忙な子供たちが訪れることは稀となった。私は姉に明け渡すべく、日曜毎に片付けを始めていた。締め切られた無人の室内は線香の匂いが染み付いていた。乾したミカンが良いと信じられ、各所に置かれていた。
展覧会後の作品は分配の決まらなかったために、梱包されたままで、人気のない部屋に置かれていた。
すぐそこに迫って来ている梅雨に耐えられるはずはない。一刻も早く、兄弟たちの家に送られなければならない。母の作品が子どもたちや友達たちに引き取られて行くとすれば、これからの少しの時間が一箇所 に集まる最後の機会である。
私は、照明道具、カメラを持ち込み、全作品を撮影し始めた。
満足な写真は中々得られず、条件を変えた撮影を幾度も行った。疲れて、夕食を作り、風呂に入って終電で帰宅した。
一ヶ月掛けて写真に収め、焼き増ししたセットを兄弟に配った。作品の分配に付いては、「私の偏見と独断」に了解を取り付け、梅雨前に絵は無事、嫁に行った。
やっと落ち着いて、改めて母の絵の写真を眺めた。この時初めて、母が成し遂げた事の素晴らしさに気付いた。どうせ八十五歳では大したものはないと、決めてかかっていた自分を恥じた。
その時、アイデアが閃いて、その写真を大きな和紙に張り付けた。和紙の空間をブラック・ジェッソで埋めると素晴らしい作品となり、私の診察室に掲げられた。
多くの人が不思議そうにその作品に近づき見とれる。母の作品も二枚掛けている。「こ・・れはなんですか」と質問を受けた時、或いは「老いが深くなって、生きる目
標が不確かになり、元気が無くかけている患者さん」を見つけた時には、得意げに、話し始める。
「これは母の絵です。母は七十七歳頃から、絵を習い始めたのですよ。八十五歳で展覧会をしたのですよ!」と。
老若を問わない多くの人が勇気付けられたと話してくれた。
四月二十一日、全国の新聞は「最年長の合格者は杏林大学を今年卒業した五十六歳」というニュースを掲げた。
父や母が見せた壮烈な生き方が影響したと確信している。
後記
亡くなって十五年ぶりに母の絵が集合した。そして展覧会は終わった。母の絵と父の魚拓はみんなの絵と膨大な量の花に囲まれて。
そしてわずか六日間なのに千名を超える人びとが訪れてくれた。
追記
五十年前、札幌に新天地を求めた時であるが、父は我々五人兄弟の空腹を見かねて、先祖伝来の土地を手放した。
引き換えの米数俵は瞬く間に我々の腹に消えていった。我々子供たちにとって、その土地は走り回り、西瓜を植えた天国であった。子供たちの心には消失した土地がトラウマのように覆いかぶさっていた。それがいくつもの奇跡が重なり、再び兄弟のもとに帰ってきた。
兄弟たちはそこに、思い思いの木を植えた。兄は夏みかん、姉はラッキョと沈丁花、私はさくらぼ、妹はナツメ、弟はきんかんである。そして、早世した妹には八朔を。
頼んで、今年に実がなるものにした。
その忙しい最中、六十九歳の姉が、東京農大に入学したというニュースが入った。
この春、五人の兄弟は、そろって、桜の満開の四国に墓参りをした。
「これが兄弟そろって来れる最後かもしれないね」など言える歳となっていた。
(終わり)