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渡辺淳一先輩の解剖
ヨーロッパ四万キロドライブ

父と母(八十五歳の展覧会)後

2009-04-30 22:04:12 | Weblog


前承

八十四歳を迎える春に、子供たちに「私の最初で最後の願いだけれど、個展を銀座で開催したい」と申し出た。

「銀座で個展開催」が日本画を始める時に、仲間の前でした公約声明であったようだ。
「ホラと公約は表裏一体だし、皆忘れているよ」と母を説得する「勇気ある子供」もいない事が分り、「どうせ、今頃、銀座の画廊に当っても、数年間は駄目と言われるでしょう。そうすれば、諦めるよ」と言う事になった。断念させる儀式は、母の目の前で行なわれた。
案の定、次々と断られて行った。

しかし、子供たちの計略は、銀座四丁目の玉屋ギャラリーの「それは素晴らしい事です。大変幸運にも、少し前にキャンセルがありました。是非どうぞ」という電話で崩壊した。 母の目はキラリと輝き、我々は絶句した。成り行きとしても断る事もできず、十一月の開催が決定された。「夏くらいになれば、どうせ諦めるよ」など、半ば真剣に言い慰め合っていた。

それより以降、母は睡眠と食事と、数箇所における排泄とその事後処理の他は、未完成の作品の完成化に全てを注いだ。画き疲れると、仮眠し、覚醒するとキャンバスに向かった。
貧乏人は安い料理から箸を付けると、よく揶揄にされるが、母もそうで、私がせっせと運び込む岩絵具を高価でもったいないとして、しまい込んでいた。
しかし、最後の晴れ舞台の決定に腹が決まり、それより以後は、この日のための岩絵具が惜し気もなくつぎ込まれた。
 
三月に入り、あと六ケ月にせり、母を交えての展覧会打合わせが行われた。横になったり斜めになったり埃を被ったりして寝ている作品の選別が開始された。数点を除き、すべては未完成であり、このままでは間に合わない事が明瞭になった。
(写真)
そういう騒動の中で、今度は四十六歳の妹の「横浜国立大学に合格」というニュースが伝わった。言語療法士の資格を取るためという。
なんだ、なんだと、混乱して白くなった私の頭の中を、妹の家が、台所が、そして放置された食器の山が、最後に自分の皿と箸を洗う高名な御亭主様の像などが次々と横切っていった。
【女房の留守内中(うちじゅう)がわんだらけ】 

まともで、静かな人生を歩んでいるのは、私だけか? とさえ思えた。(当然山のような反論はあるが)
次男の私が切り開いた素晴らしい道を辿ってみたいと考えたのだろうか?

春になり、壮年たちの新学士入学生たちは嬉々として、通学し始めた。

こうしたものは話題になりやすい。人々は簡単に「りっぱじゃないですか!」と感心し、悲しそうにしている私を不審に思った。他人はさて置き、我々身内は、心配しながら見守るグループと金の工面に走り回るグループと家事を分担する人々に分類された。

秋になり、展覧会が近づいたが、母の体力は次第に衰え、死と生と気力との闘いが本格化して行った。しかし、一つの事に的を絞った時、人間が見せる必死の努力の凄さは、たいしたものである。
時折、うつ状態が衰えてしまった肉体だけてなく精神を支配し、一日中床に就く日も見られたが、深夜になっても、気力さえ快復すればむくむくと起き上がり、絵に向かった。姉の助けもあり、着々と完成させていった。
どうせ、ギブアップするか、壁が埋まらなくて、我々の下手な絵も参加する事になるとタカを括っていた子供たちの予想は外れ、割愛する作品が出てくるほどになった。

気力は充実し、「八十五歳の日本画展!」と大書された展覧会は大成功を収めた。子供たちは連日出動し呼び込みをした。

八十五歳で、日本画個展を成し遂げた後は、母の生命は急速に消失し始めた。

そうした老人は自分でも幕切れを感じているのであるから、「おばあちゃんは、元気よ。九十までは大丈夫よ」などと言ってはならない。

事実、母も、眼科医から言われて、すっかり落ち込んでしまった。

母は長崎の生まれであり、小さい頃に母親を無くして、かなり苦労をしたそうである。しかし、母について知っている事は、「長崎生まれ、苦労し続け」くらいであったので、そろそろ、色々聞いて置きたい考えていた。

母自身も「自伝を書きたいけど、もう時間が無いわね」と何故か大胆な事を言っていた。苦労話全集以外にも書き残すネタが有ったのだろうか?

日曜毎に会ってはいたが、中々そうした内容に踏み込むことは少なかった。

八十六歳の誕生日、何時もと違う呼吸困難を訴えた。今度はまっすぐに東京の愛する病院に運び込んだ。深夜、学会から帰って来た専門医によって、改めて肺梗塞と診断された。

症状は刻々と悪化し、それにあわせて救命機器が装填されていった。二十四時間の点滴、心電図、酸素というふうに…
入院三日目、母はさすがにいろいろな事が理解できたらしく、見舞いに来た子供や孫に遺言をしてはじめていた。

私には「やっぱり、八十八の米寿まで生きるのは難しかったわね。胃カメラ検査を断ってくれてありがとう。患者は受け持ちのお医者さんが『おばちゃん、カメラしよう』言ったら、中々、断れないのよ。」など軽いものであったが、孫たちには「勉強しなくちゃ駄目よ!おばあちゃんも、八十五歳までがんばったのですよ」と言っていた。

ついには気道確保のために挿管がされ、人工呼吸器も付けられて、発語できなくなった。部屋は監視のために煌々と点灯されて、八十六歳には辛い姿が展開されていった。

入院して五日目、のぞき込むと、母の目は怒っているようだった。うっすらと、涙がにじんでいた。「私はこんな機械に繋がれて最後を迎えたくない!博重さんには言ってあったでしょう!」と責めているようだった。
母がすーと死ねなかった理由の一つは団地の継承問題であった。このまま母が死んですぐに明け渡すとなれば、父母が大切に持ち続けた財産は、即座に引き取り手の無いゴミと化し、十分な選定もされず一括処分されるのは明らかであった。

それにしても父の遺品を改めて調べると、思わず手が伸びる品物は皆無であった。「お父さんがあんなに愛していた物だから、お棺に入れて上げましょう」という発言が続き、母が押し止めなければ、ひと財産を持たされるところであった。

男は残せないのだ!生きている間、自分の巣の中にいろいろ並べるであろうが、死ねば皆に首を傾げられるだけである。

母の物も衣類類は昔の人が言ったように「着てるから服だが、脱げばボロ」に近いとも言えた。寄席でも【現金以外のお忘れはされませんように】と声を掛けられる。

大騒ぎの中で、継承問題など誰一人として
思い付きもしなかった。

死ぬ三日前の「無理でしょうねー、あの家」という母の啓示が直ちに私に行動を起こさせた。存命中に住民表を移せば、継承が問題なくできる事も分った。時間が無いことは明らかであった。「継承が可能でかつ必要なのは、三人の子供のいる姉だけだ。あの一家に取って、あの家は将来十分な価値がある」と私と私は話し合い決定した。

「私が私に諮問し、即座に私が答申する」はよくある事だった。

私は、母の魂の代理人として、決めつけるような言葉で迫った。夜十一時も回っているのに、病院と駅との短い距離の間で、姉一家を一時間も掛けて説得した。雨は我々に降り注ぐ。電車も無くなる。涙と大声の出し合い合戦が続いた。

兄弟がせっぱつまったこういう時に集まると、しこり、わだかまりは水に流される。

しかし、踏み込んだ議論をしようとすると、それぞれの環境が全く違う事を忘れて、いつの間にか、昔の感じで言い合ってしまう。それでも、「昨日怒鳴り合ったのに、今日は元に戻る」という子供の頃の癖も復活する。

 人の心とか歩幅などずいぶん小さい。だから同じ方向に歩むときは離れることも多くないし、すぐその差は取り戻せる。しかし、反対方向に歩き出すと、みる々々間に遠ざかる。
だから、今、決めなければ、父母の存在を証明するものは捨てられ、核を失って歩き出し、兄弟が空中分解してしまうことは明らかである。姉は夫の最終判断によってようやく引継ぎを決断した。

即座に手続きがなされた。名義変更遂行を耳元に伝えると母は大きく肯いた。

すべてが終った翌日、母の生命は尽きた。病理解剖がされ、稀な心臓の疾患と結論された。

「仕方ない、仕方ない」と最初に受持ちの医師が納得し、次に病理医そして上の指導医たちも納得し、最後に遺族である我々も納得した。

 世の中というか、我々の人生には、不可能としか考えられないことが、実現してしまう不思議な事がある。思いがけないことを実現させたりする力を考えると、大いなる力、何か未知な力、我々には想像もできないような力の存在を想定したほうが、自然であるとしか思えない。

八十五歳の日本画展(しかも銀座で!) についても、天にある力を想定しなければ理解できなかった。
 今度の場合の「母の入院中の、浦和の家の名義変更に至るまで行動」もそうである。忽然とその名義変更問題に気付かせ、悩ませ、討論させ、そして解決させて、そして報告を聞いた後、待っていたようにこの世を離れた母の一連の粘り強さである。

いま思っても不思議としか思えない。

私にしても不思議なほど命が拾われている。深夜の往診時にベンツが大破し、エア・バックが作動した激突においても、無傷だった日は、父の命日であった。
それ以外も、奇跡と思われる事が私の周りに存在する。

病院にいる姉から「とうとう、お母さんが死んだ」と電話が入った。昼近くになって、外来患者が途切れたので、「まー、こんなものかな。後をよろしくね!」と分ったような分らないようなことを言って、浦和に向かった。
車窓からすっかり見慣れた景色を見ているうちに、ふと、何であんなに母は、長生きができたのだろうか?と考えた。
そして、又、あの最後に見せた「流涙しながらの生命の維持」に思いが行った。
昨日でなく、今日までがんばったのか。サングラスの男の耳に突然、母の声が聞こえた。「姉が家の権利を継承してくれて良かったですね。お母さんは本当に嬉しいですよ。いろいろな事がすべてうまく行きヤレヤレです。では博重さん、さようなら」
父の時同様、人前で泣くことは無かった。その代わり、ひとり浦和に向かったこの電車の中で、サングラスをかけ黒ジャンパーを被って、十分間だけ涙腺の堰を解放してやった。
ふっ切れて、主を失った団地の家で、母の品物を整理していたら、妹がやって来た。常々勝ち気で通っている妹の目が真っ赤になっているのを見ると、私の涙腺の堰崩れが再び起こりそうになった。危なかった。
我々兄弟はみんな今でも悲しみを秘密にしている。
苦労続きの八十六年間の一生を振り返れば、母が主役であったのは、あの展覧会の一週間と六ケ月後の葬儀の瞬間だけだつたかも知れない。
母は画家としての八年間に百三十枚以上の絵を描いた。父は本と釣り道具を残した。大きな古い箱には、子供達の着物が大切に詰められていた。五人の子供たちは、これらの両親の遺産をで分け合った。
【泣きながら良いものを取る 形見分け】

母のいない団地に、名義人となった姉が時折訪れる以外は多忙な子供たちが訪れることは稀となった。私は姉に明け渡すべく、日曜毎に片付けを始めていた。締め切られた無人の室内は線香の匂いが染み付いていた。乾したミカンが良いと信じられ、各所に置かれていた。 
展覧会後の作品は分配の決まらなかったために、梱包されたままで、人気のない部屋に置かれていた。
すぐそこに迫って来ている梅雨に耐えられるはずはない。一刻も早く、兄弟たちの家に送られなければならない。母の作品が子どもたちや友達たちに引き取られて行くとすれば、これからの少しの時間が一箇所 に集まる最後の機会である。

私は、照明道具、カメラを持ち込み、全作品を撮影し始めた。

満足な写真は中々得られず、条件を変えた撮影を幾度も行った。疲れて、夕食を作り、風呂に入って終電で帰宅した。

一ヶ月掛けて写真に収め、焼き増ししたセットを兄弟に配った。作品の分配に付いては、「私の偏見と独断」に了解を取り付け、梅雨前に絵は無事、嫁に行った。

やっと落ち着いて、改めて母の絵の写真を眺めた。この時初めて、母が成し遂げた事の素晴らしさに気付いた。どうせ八十五歳では大したものはないと、決めてかかっていた自分を恥じた。
その時、アイデアが閃いて、その写真を大きな和紙に張り付けた。和紙の空間をブラック・ジェッソで埋めると素晴らしい作品となり、私の診察室に掲げられた。

多くの人が不思議そうにその作品に近づき見とれる。母の作品も二枚掛けている。「こ・・れはなんですか」と質問を受けた時、或いは「老いが深くなって、生きる目
標が不確かになり、元気が無くかけている患者さん」を見つけた時には、得意げに、話し始める。
「これは母の絵です。母は七十七歳頃から、絵を習い始めたのですよ。八十五歳で展覧会をしたのですよ!」と。

老若を問わない多くの人が勇気付けられたと話してくれた。

 四月二十一日、全国の新聞は「最年長の合格者は杏林大学を今年卒業した五十六歳」というニュースを掲げた。

父や母が見せた壮烈な生き方が影響したと確信している。
後記
亡くなって十五年ぶりに母の絵が集合した。そして展覧会は終わった。母の絵と父の魚拓はみんなの絵と膨大な量の花に囲まれて。
そしてわずか六日間なのに千名を超える人びとが訪れてくれた。
 追記
五十年前、札幌に新天地を求めた時であるが、父は我々五人兄弟の空腹を見かねて、先祖伝来の土地を手放した。
引き換えの米数俵は瞬く間に我々の腹に消えていった。我々子供たちにとって、その土地は走り回り、西瓜を植えた天国であった。子供たちの心には消失した土地がトラウマのように覆いかぶさっていた。それがいくつもの奇跡が重なり、再び兄弟のもとに帰ってきた。
 
兄弟たちはそこに、思い思いの木を植えた。兄は夏みかん、姉はラッキョと沈丁花、私はさくらぼ、妹はナツメ、弟はきんかんである。そして、早世した妹には八朔を。
頼んで、今年に実がなるものにした。

 その忙しい最中、六十九歳の姉が、東京農大に入学したというニュースが入った。
 この春、五人の兄弟は、そろって、桜の満開の四国に墓参りをした。
 「これが兄弟そろって来れる最後かもしれないね」など言える歳となっていた。
(終わり)

父と母(八十五歳の展覧会)その中

2009-04-30 21:55:20 | Weblog

(前承)
そのころの札幌は馬車が横行し、馬糞が強い風で舞い上がり、石炭ストーブの煤で町全体がくすんだ姿をしていた。冬になると町はすっぽりと雪に包まれた。

南国育ちの父母はその寒さに飛び上がっていたが、子供たちは初めて見る降り積もる雪を大歓迎していた。

四国の標準語は北海道の悪言葉からみると劣悪な言葉と聞こえるらしくからかわれた。
そのから十年間は近藤家の星である長兄の叱咤により、兄弟も落第もせず穏やかに義務教育時代を過ごした。

父は小企業のエンジニァとして真面目に働き定年まで務めた。

近藤家では、女はなんとなく高校を卒業すると就職し、男はなんとなく大學に行くという雰囲気となっていた。妹は銀行に勤めた(振りをして…)後、ひそかに勉強して三年後埼玉大學に合格した。近藤家の家計を支える姉はずるずると働いた。

姉は私と兄に「分っている?私はあなたたちの犠牲になったのよ!」と長い間、言っていた。男供三人は「金の掛からない大学を選択するかわり、二年間の浪人は権利だ」と、高校を卒業すると、躊躇うことなく浪人生活に入って行った。このため、よその家より十年間以上は教育期間が延長された。(今、改めて、計算すると実際は、十六年間長かった)
【親の気になれとはむりなしかりよう】

手のひらの半分に乗る一枚の写真に、そのころの父の姿が残っている。小さな机に向かっている父。頭が少し薄くなった父。黒い袖袋を両手にはめて、機械設計に打ち込む父の姿である。

四十台からは、判で押したような規則正しい日課を送っていた。
昔の人は皆そうだったのであろう。
北海道の朝六時半はいつも寒い。父は、手の切れるような冷水で、毎朝歯と顔を洗う律義な男だった。私にはそうした悪癖はない…そして、貧しくとも、髭剃りはジレットにこだわっていた。
そして一個の半熟の卵焼きとみそ汁の朝御
飯に向かう。まず、御飯の半分を白味で食べる。そして、残った黄味を半分のゴハンの上に乗せ、梅干しを少し置いて、かき回す。これでご馳走様である。お茶を飲み干して終る。

母と差し向かいの朝食から始まる一日が、何十年と繰り返された。あんなに、愛しているアルコールも旗日と家族の誕生日に「今晩は飲めるかな」と嬉しそうに声を弾ませるくらいだった。

親の苦労も空しく、二浪生は、またもやK大の法学部に落ちた。しかし、何の気なしに受けた医科大学に合格し、この道に入って来た。
この合格発表の朝は、残された二期校の受験の日でもあった。

まだ暗いうちからストーブには大量のコークスが入れられていたらしく部屋は充分な暖かさになっていた。父も母もかなり前から起きていたようだった。この日の朝ごはんの光景が今でも脳裏に焼き付いている。
「おめでとう」と軽く言うだけだったけれど、両親が安堵感で満たされていることを知るには十分であった。

医学部など考えてもなかったので、興奮も特に無く、両親と朝ごはんを共にして、小樽に向かった。結局は小樽の急すぎる坂道に閉口して急速に医学部入学に傾いた。

一年後、定年になった父は次の仕事を東京に決め、一家は私を残して上京した。

一年後、念願の新築団地に当選し終の棲家となった浦和市に転居する。
このころから近藤家も経済的に安定し始め、テレビの前に長いすを購入したくらいである。

さて、母は姉さん女房で、二歳年上であった。賢い年上の妻に単純な父のすべての行動は読み切られていた。「そんなに、飲んだら身体に良くないでしょう」から始まり「ほら、そこに物が有りますよ、気を付けて」「ボタンが外れていますよ」まで、とりわけ利発でもない子供たちからみても、賢い女の掌中でもがく男の姿に見えた。

子供の人生において父親という役どころはなんなのであろうか。また父から見て子供とはなんであったのか。
数多くの大病を乗り越えて(もっとも、若い頃の狭心症を始めとする病名と加療の大成功の宣告は医者が言っているに過ぎなかった。そして、与えられた薬剤も今にして思えば無効薬だ。)

診ていた医者よりも長生きをして、子供たちが中年になるまで元気に酒を飲み、すべての孫を見ることができた。子供たちの早期生産打ち切りを笑ったであろうが…そして、分に応じた趣味を持つことができた。

その後、一家には大きな不幸も少なく、子どもたちも結婚し、父母はふたりで団地生活を続けた。
子供たちみんなが社会人になった頃、父母は既に七十歳台後半になり、生き物としての終息に向かっていた。
十年も前から、父の足は閉塞性動脈炎で、歩き始めると激しい疼痛を見せていた。徐々に増悪して来たが、働くことを辞めなかった。仕事は電気保安の個人契約で、重い道具を担いで行く必要があり、今考えると最悪の職業であった。

子供たちというものは、親の仕事上過酷さについての理解が希薄で、そんなものと受け入れ過ぎるかも知れない。その事は、自分自身が、高齢の親となって、自分の子供に過大評価を期待するというか、夢想する頃に、やっと分ってくるのである。「孝行のしたい時に親は無し」は誠に真実を突いている。

死ぬまで苦痛の連続の仕事を受け入れるのは「究極の親の美学」かも知れない。

父が晩年熱心になったのは囲碁で、念願の日本棋院二段を獲得したときには静かであるが深い喜びにある父を感じた。
そのころの日曜日は仕事をしていなかったので、私は昼前に団地に向かった。

父と碁盤を挟んで、勝たないように、露骨に負けないように努力していたが、隣の部屋で母は日本画を描いていた。
老人クラブでは長い間、俳句クラブに所属していたと聞いていた。

七十五歳頃、前・側・後頭葉間の連携が衰え、発想と構成が重要な俳句を作るのが辛くなりはじめ、隣のサークルつまり日本画クラスに入って行ったと聞いた。時々雑然とした画室を見に行ったが「まだまだ…」だ、なんて思っていた。

その父が、引き揚げ者に共通の波乱に富んだ八十年間の人生を終えようとしていた。
 
さて「医者は肉親を冷静に診る事ができない」と良く言われる。
「肉親すら…」と言われないかと心配ではあるが、親を若くして癌をはじめとする簡単な疾患で失う医者の例は数えきれない。

帰宅時や、里帰りの時に、親の糖尿病を見抜ける糖尿病専門医はまれであろう。
親孝行と診察は並び立たないのである。
私も父の碁の相手をしながら「どう、足は痛い?ふーん・・医者に行っている?そう… 
この黒石アタリヨ」と呟くくらいが精々であった。
「親、少し元気なし」ということで、我々五人兄弟が団地で顔を合わす機会が増えた。 
皆既に四十歳を超えていた。狭い部屋で待機していることも考えられ、時間潰しのなにかしらの小道具を持参していた。
妹は英語、兄は物理の教科書と言うふうに。
父も若いころから、ドイツ語を勉強する事を心の支えとしていて、ポケットにはそれを入れていた。
入院前日まで聞いていた「ドイツ語のカセットテープとテープレコーダー」は棺の父の手の近くに添えられた。
 その八十歳の父が、胸痛と息苦しさを訴えたのは、昼間私が訪れ、いつものように碁を打ち、夕食を共にして、私が家についた後である。 
「救急車を呼んで」という私の指示により、近くの救急病院に搬送された。
見舞うと、外科系の医師によってゼンソクとして加療されていた。
翌日、かねて、大病の時は運び込むと決めていた三井記念病院に転送した。
そこで、心筋梗塞と診断が変り、強力な加療が始まったが、老人が往々にして辿る全身の血液不全で二週間後に亡くなった。
第二病日に愛すべき病院に転送された父(そして後に母も)にとって、多少不運だったのは、循環器学会期間であった事だ。 

このために、近くの救急病院に向かう他無かった。肺も心臓も距離的には近いとは言えるが…
循環器学会期間中には心筋梗塞になってはならない。
その父が重篤となって、母も近くのホテルに宿を取った。

我々子供達は、医者や弁護士を含めて皆、再び無力な子供たちに戻り、目の前に展開して行く父親の人生の店仕舞を唯々見守るだけであった。
しかし何故か、暗い雰囲気がなかった。「歳には不足が無い」と言う奇妙な台詞が要所々々で飛び通った。父重篤という連絡で、子供たち夫婦と孫たちはワーツと集合すること癖が付いてしまった。

「歳に不足は無い」などと、誠に簡単に言ってしまうが、これ程無意味で、無礼な言葉も無いかも知れない。 
歳と言わずに「彼なら、まあ、そんなものか」などが大病の時に関係者の間で交わされているのかも知れないが、主治医を含めた人々の「そんなもの」かとする基準が「風聞による財産・外面的な風貌・迫力」などによってねじ曲げられる恐れが有る。

つまり、立ち会った人々の価値観で決まるのである。

昔から「夜、爪を切る人は、親の死に目に会えない」と言われるが、それは経験からして、五分々々に過ぎず、「関係者の判断が間違うと、死んじゃうよ」が正しい。
それからの二週間、最多時二十人になる子供と孫たちは、見舞いに行き、夜八時、不夜城から去り、ぞろぞろと、駅に向かう途中、一杯の酒と食事の遅い宴会をするのが、常となった。
兄弟たちは久しぶりで会うので、食い、飲みながら、笑い騒ぐ。
ガヤガヤと笑い合っていると、母は「お前たちなにか、良いことでもあったのか?」などと寂しげに我々に八つ当たりしていた。 

我々兄弟は初めて遭遇した肉親の葬儀に混乱した。近くで待機していてくれたのではないかと思うほど即座に、業界の方が来てくれた。棺と祭壇のメニューが、食堂のように渡された。
一番左には「この際思い切って親孝行をするセット」が数百万円の定価であった。  色々あって、イカダ・(並み近辺)そして最後「なるべく金を掛けたくないセット・潜水艦」とあった。並み(波)の下で良いセットだそうである。その他、戒名に至る不可解な出費に、混乱は更に深まった。

 母は短期間の子供たちの家で過ごしたが、住み慣れた浦和市の団地での生活を切望し帰って来た。その後は独りで生活し、徐々に本物になっていく日本画に打ち込む日々となった。
私も、日曜毎に、母の元に行き、夕食を共にして深夜帰る様式が固定した。

その年の正月頃から、兄の行動が変だという噂が流れ始めた。「物理だけでなく数学の本も持っている」「医学部を受験するというのは本気らしい」「銀座の法律事務所も整理しているらしい」という「らしい、らしい」噂である。
「なんだって!そんなばかな! 六十で医者になって何をするのだ!」と私の頭の中は、パニックになってしまった。私立では数千万円の授業料を必要とするのである。悪徳で金を溜めたという話は皆無であるし、金はどうするのだ?
若い医師に課せられた当直を初めとする激務に六十歳台が耐えられる筈がない。また、昔ならいざ知らず、習得すべき現代の医学知識は莫大で、五十歳台には無理不可能である。あの国家試験に合格できる筈がない。金、体力、頭いずれも不可能な事は明らかである。

昔から、二点豪華主義として、貴公子然としていたのだ。今更「マダム、オシッコが近いのですね、残尿感はありますか?」とか「ウンチに血は混ざりませんか?ムッシュ」などは似合うわけが無い。

「お兄ちゃんは病気だ」「お前こそ病気だ」と互いに頸動脈血流を乱行流させながら、喚き合った。電話による説教ほど迫力に欠けるものも珍しい。説得しようとする相手の状況姿態が分らないのである。
ソフアーで横たわり、ビールを片手に、眼線の先はテレビであるかも知れない。
初めから相手が間違っていると結論されているので、交代で、「お前が間違っている」「兄ちゃんはおかしい」と言い合う訳である。だから、相手の番になると受話器を耳から外している恐れがある。そもそも、「お前」と「兄ちゃん」とでは迫力が違う。

弁護士に「お前は鬱病だ」と言われる医者も情けないものであった。
 
世の中で不条理な事柄の一つに「兄は弟を一生涯、下に見る権利が有る」という事である。弟の意見はガキの意見なのである。妹や弟などは「四十年前の鼻たらし」から成長する筈がないのである。りっぱな大人になったのは自分だけだと疑わないのだ。環境が遺伝子を一度だけ変化させる例である。

「オイ、次郎!座布団を持って来いよ」と、兄さんに顎で使われる著名人などはざらである。不思議なことだが、弟、妹たちは、昔と同じように今も小遣いに不自由していると思い込んでいる。

本人の方がよほどに手元不如意な時にも、弟や妹を見ると「お小遣い」をやろうとする。妻に「おい、サイフ貸せ」と言うだけ。大切な金としてひっそりと隠れていた金であったのに、哀れ、弟妹の財布にある大金の中に紛れ込む。当然、帰る頃には大変困り果て、後悔する。
仏様ほどではないが、人生で開眼する瞬間があるとすれば、この不条理に気付いた瞬間が正にそれである。 
この閃きはマカオのブラック・ジャックのテーブルで起こった。なぜ、兄が納得しないかに結論が付いた。「弟の私が言っても、駄目だ」と悟った。
恫喝泣き落としを含めた様々な工作のすべてが失敗したが、試験は通る訳がないと確信していた。「面接さえあれば、自分よりも年上の学生を入れる筈がない」と。
しかし、私の願いも空しく、二十年間(いやいや、弟から見れば、四十年間)、口と手振りとで飯を食って来た兄に、杏林大学は「なるほど、いや立派」と納得させられて、入学を許可してしまった。医者は弁護士には弱いのである。

現代の老人は命が容易に尽きないために、新たな試練に立たされている。それは苦痛に近い。父が亡くなった時に、母は後五年間の生活費と葬儀代として二千万円が必要と計算していた。葬儀代金の四百万円という計算が正確であっただけに、余計に悲しい。
商売柄、超高齢者の死亡に立ち会うのであるが、最近は「葬儀は簡単に、簡単に」と言う事を忘れない。喪主が七十歳を越える時など、死者を知る人など誰も来ないのである。孫の会社関係者など意味の無いのである。

 残された母も糖尿病、高血圧、不整脈、軽い鬱気分など多くの病を持ち、入退院を繰り返していた。インスリン注射を自分のお腹に打っていた。あの時代あの年齢で自分でインスリンを打つ患者は珍しかったが、子供が内科医ということで頑張っていた。

母は子供が医者だからとがんばっていても、子供本人は親を患者として客観的に扱うことは困難であった。
「どう元気?」と声を掛けたり、薬剤を運んだりするレベルに止まっていた。

 父の死後、浦和団地で独居する事を決心した八十三歳の母は日本画制作に本格的に取り組み始めた。

改善する事はない多発性脳梗塞を持つ老人が見せる「まだらボケ」に本人も苦しみ、周りの多くの人々も徐々に混乱し始めた。

八十四歳を迎える春に、子供たちに「私の最初で最後の願いだけれど、個展を銀座で開催したい」と申し出た。
「銀座で個展開催」が日本画を始める時に、仲間の前でした公約声明であったようだ。
「ホラと公約は表裏一体だし、皆忘れているよ」と母を説得する「勇気ある子供」もいない事が分り、「どうせ、今頃、銀座の画廊に当っても、数年間は駄目と言われるでしょう。そうすれば、諦めるよ」と言う事になった。断念させる儀式は、母の目の前で行なわれた。
案の定、次々と断られて行った。しかし、子供たちの計略は、銀座四丁目の玉屋ギャラリーの「それは素晴らしい事です。大変幸運にも、少し前にキャンセルがありました。是非どうぞ」という電話で崩壊した。 母の目はキラリと輝き、我々は絶句した。成り行きとしても断る事もできず、十一月の開催が決定された。「夏くらいになれば、どうせ諦めるよ」など、半ば真剣に言い慰め合っていた。

父と母「八十五歳の展覧会」前

2009-04-30 19:23:29 | Weblog
   


父と母
どの子供も親を選ぶことはできない。
しかも生きる事を強制されている。しかし、与えられた数十年は振り返ると実は短い。
我々五人兄弟は母の遺骨を抱え、故郷に帰って行った。関東から遠く離れた愛媛県の瀬戸内の海辺と言うこともあって、この故郷に全員が揃ったのは、父の納骨以来で、これから暫くは無いであろう。
改めて、父も母もいなくなってしまったことを突き付けられた。
五人の子供たちは孤児になったのだ。親というのは不思議な存在である。かなりヨボヨボに成ってしまっても、父と母はいつまでも父であり母であった。

我々子供たちも、壮年に達し、それなりに偉そうに見えていたが、親の前では、子供は子供に過ぎなかった。

時が経ち、運命は両親とも奪い取る。

直後には分からなかったけれど、ある時から「子供として受け入れてくれる者がいないこと、甘える事も叱られたりする事も無くなってしまっている」ことに気が付く。
叱られたことも懐かし御魂祭

親という絆が消失してしまった今日からは、孤児たちはそれぞれ独自の道を歩まねばならない。

法要が行われた寺の前は五人のうち四人が通った小学校である。
それは遥か四十年前のことだった。
この小学校は毎春、組みかえられた新しいクラスで写真をこの寺の庭で撮った。

カメラなど持たない近藤家では子どもたちの成長の記録はその写真だけであった。
 足の痛さと格闘する法要が終わり、庭に出た。池も松も石垣も、時間を止められたように昔に変らぬままであった。
互いの記憶力を競っているうちに、「昔のようにあの石橋に並ぼうよ」となった。澄み切った青空の下、我々は四十年ぶりに帰郷記念写真を撮ることになった。五十二歳の長男から四十二歳の弟まで、元気の良い姿が、お寺に咲き誇るサツキと新緑の中に鮮やかに印画された。

 始めて父母の存在を意識したのは父と母を失ってしまってからだった。
つまり、父について、生きている頃には、その存在の意味をあらためて考えたことはなかった。子供たちにとって父親とはどんな存在だつたのだろうか。
八十歳直前まで父が黙々と働き続けて来たのを、みんな知っていた。
さすがに、その姿を「親としては当たり前」とは考えはしなかったけれど、感謝の言葉をかけたことは少なかった。
【親たちがねむった跡で目が覚める】

生物が地球上に発生して以来、すべての生物で親子の関係が生まれた。人間以外に見られる絆は「親は子供がある程度の身体になるまで、命懸けで守る」である。
その時期になれば(草木やシャケは即座に、ラッコやふくろうはやや長く、ライオンは三年間、野良猫は中を取って八ケ月で)強制的な親離れが実行され、生涯親子としての団欒が続くことはない。

その中で、人間だけが奇妙にベタベタとした親子関係を一生涯続ける。他と比べて、金が掛かっているせいも有るか…

しかし、子供は親の生き様を見て育ち、親は子の笑顔を見て…という訳にはいかない。子供に見せる背中だと、張りきっても、ダーレも見ていないのが普通だ。

各自、辛くともビュウティフルに生きるように強いられている。子供への頼み事も、八割は腹に入れたままに…

最近、子供が優れている家庭は、父親が早死にしているなどと、父親の早期立ち退きを迫る意見すらある。夫が早めに退陣した後の未亡人の溌剌さ元気さを、私は商売柄よく目にする。自分のために生きる以外ない。
 だから、父が慌ただしくこの世を去った時も、意外に淡々としていて、泣くこともなかった。脳の店仕舞いがドンドンと進行してきている母のことで頭が一杯になっていたせいもあったかもしれない。
 
次の年、久しぶりに訪れた札幌で、懐かしいビール工場を撮影している時に、突然、全身が「父を失った悲しみ」に包まれた。自分が懸命に撮っている写真が「父に見せるための写真」であることに気付いたのだ。写真は父の晩年における大切な趣味のひとつであった。自分が撮ろうとしているアングルを父に喜んで貰おうとする目的である事に気付いたのである。父の視点で撮っていたのだ。しかし、褒めてくれる父、喜んでくれる父はもういないのである。札幌は、田舎から出てきた我々一家が長く辛い日々を過ごした町であった。大きくなった子供たちと揃って札幌を訪れることが一家の夢であった。遂に実現させることができなかったその夢に気付いたのだ。夏の終わりを告げる短い雨が、立ち尽す私を追い立ててしまうまで悲しみに包まれていた。
その後、生まれて始めて降り立った博多を歩いている時に、突然父が九州大学学生として青春時代を送った街である事に気付き、大学構内を何時間も父の歩幅で歩き回った。古い建物の石段にはいちいち座ってみた。遠くを眺め、近くに目を落とした。去る時にも何回も立ち止まって遠ざかる大学を見て「また来るからな」と声をかけた。   
《引き揚げ》
我々六人兄弟の内五人は満州で生まれた。私のすぐ下の妹はお誕生日を迎えることができず、早死にをした。父母たちは、あの子が一番きれいだったよ、と証拠の無い話を何回もしていた。
姉はその子が死ぬ時、次の間で父母が長い間泣いていたことを覚えている。
母には既に、その胎内に新しい命が芽生えていた。生まれたとき、みんな「生まれ代わり」と考え大切にしたそうである。

敗戦決定的になった時点からのロシアの参戦と満州侵略そして乱暴狼藉は、我々一家をはじめとした全ての人々に悲惨をもたらした。
昭和二十一年、我々は引き揚げてきた。父が持てるだけの財産を全身に巻きつけ、母は前に妹、背中に(恥ずかしながら)三
才の私を背負い、両手に兄と姉の手を握り、四国の父の実家に転がり込んだ。

こうして一家の流転の第一回目が始まった。一番下の弟は母が四十五歳のとき生まれた。このがんばりには確固とした理由がアッタノダロウカ?結果か?

一番人生が変ったのは父であろう。九州大学を卒業し、満州電機で技師生活をして居た父は、それまでは誠に幸せな生活を送っていた。大好きな酒もふんだんに飲めた。鼻を赤くしてしまうほど続けた酒であったが、敗戦後は生活に追われ、辛い人生を続けることとなった。
とは、言え、あのまま、満州で酒浸りになっていたら、四十歳までに落命していたであろう。そうなれば、我々の人生行路も全く違ったものになっていたであろう。
この異国における敗戦国民としての生活とその後の引き揚げるまでの行程は危険極まりなく、文字通り必死の逃避行であったようだ。

父の故郷では祖母が独りで家を守っていた。われわれ七人の親子はそこに身を寄せた。父に力仕事ができるわけがなく、それからの五年間は生活費を稼ぐために多くの業種に就いた。電気屋さん、高校教師等などは九大工学部電気科卒の学士と関連があるともいえたが、毅然とした性格は「いじめ、騙され」などの対象となり、長続きをさせなかった。
そのうちの何年かは、自宅の狭い土間に二十個近くのボックスを並べての駄菓子売りまでしていた。
目の前にお菓子が並んでいる状況は飢餓状態の子供たちに最悪な環境と言えるであろう。
今、その時のことを考えていると、私の脳が「強制消去したこと」もあったように思う。多分「自分の店の菓子を盗み食べて、親に強くしかられた」という記憶ではないか?「もう二度としません!」と泣いたような記憶が「脳のゴミ箱」に捨てられているに思う。
今考えれば「目の前の菓子に手を出す」ことは子供にとって当たり前のことである。しかし、真実か否か不明でさえある記憶がその後の私を縛り付けた。
「黙って盗らない」と決意させただけでなく、「周辺で物が紛失しただけで、自分がしたのではないか?自分が疑られているのではないか?」という奇怪な感覚に襲われることである。これに勝つには、死に物狂いで働いて、金に困らない人生を送ることである。

近藤一家の話を書くに当って、引き揚げ前後は重要な事であるが、昭和十七年生まれの私には空白である。父母の環境が落ち着いたら、その辺を聞いて置きたいと思ってはいたが、ついに聞かないままに終った。満州孤児一時帰国の番組に、大変真剣になっているのを見ると、「もう一人くらい居たのかな?」などと思った。

引き揚げから子供たちが分家するまで続いた「近藤家の悩み」は「家の狭さ」と「引越しの多さ」であった。私たちは十回引越しをした。七人家族のために広い住居を手に入れる事が出来なかったのは、我々兄弟の教育費用捻出のためであった。

父母は終に自分の家を持つ事はなかった。
その四回目の引越しで、父母と五人の子供が、慌ただしく故郷を離れたのは昭和二十六年であった。
幾つかの職を経た結論が「この寒村での物を食うだけ稼ぎを続けているかぎり、子どもたちが成長することは不可能」で、父は北海道に単身赴任した。

母と子供たちは、三つ駅向こうの町のはずれに身を寄せることになった。天国と見えた故郷を離れたり、の「ワンポイント引っ越したりをした理由が、子供たちにはよく理解できなかった。そんなものか… 
はじめの数ヶ月は、八畳と六畳の部屋にいて、その後の八ケ月は別の家の「ゴザを敷いた納屋」に移った。日ごとに月ごとに家具は、米に化けて減少し、住いは広くなって行ったが、六人にはやはり狭かった。 
引き揚げてより、ずうっと連続した間借り生活であったから、十畳あれば広いとさえ感じていた。
札幌でも間借りが続いたから、広い家に対する願望は、すべての兄弟の骨身に染み込んでいた。特に公団のトイレは狭く、使用の度に頭をぶっつけたので、遺伝子の一部さえも変化したのであろう。
一方の「引越しの多さ」について、ある時ふと、我々一家は何かから逃げ回っていたのではないか?との疑惑が湧いた。

NHKを始めとするあらゆる集金に恐れ慄いていたことも知っていた。(今は、抗議のために視聴料について意見を持っているが…そのころは払えなかった!(開き直る訳ではないが…)
そのころのNHKは国民の視点に立っていた。単純明快放送が国民を鼓舞させていたのだ。夕暮れ時の「鐘が鳴る丘」とか「新諸国物語」などがなければ、我々は暗い夕方を送ったであろう。幼い(並外れた兄を除いた)四人兄弟たちは丸まって暗い中で想像の世界に精神を開放していた。

 母は次々に現れる辛いこと悲しいことを腹に飲み込み、暴れまわる五人の子供たちの中心に悠然と座っていた。
母に取っては、五人の子供たちの現在を切り抜けて行く事だけが全てであったのだ。
思春期を迎えた兄は、学校と映画館に半々に行っているようだった。
このままだと入場料に困って、間違った道へ歩み始める事は時間の問題だった。

母は、先人が軽い気持ちで使用し続けてきた「出世払い」という空手形を映画館の受付の人に乱発した。

その後も、何十回かは出された手形は回収されているのだろうか?
四十を超えた時、札幌の米屋さんとお医者さんに、手形の回収を申し出たが、帰ってきたのは、当惑の笑顔だけであった。

だから、医者である私は、いつも「この当惑した笑顔」を用意してある。

そのようにこの頃はかなり、どん底の生活を送っていたようだ。

ほかの四人はきちんと、学校に行った。なぜなら、学校給食であったので、昼の鐘が鳴れば、確実にご飯を食べることができたからである。

夕方五時になって新居浜の町に流れて来る「新世界の第二楽章家路」が、その日の苦労終了の合図であった。
今でも、我々兄弟は、この曲を聞くとこの辛かった日々を思い出す。

村のガキ大将であった私も町の転入生となると、目立たぬ子供となっていった。
それまでの小学校の写真では、いつも大きな態度をして、真ん中にいた私であったが、前列の左端っこにちょこんと位置させられるようになった。それ以後、何時の間にか、端に並ぶ癖が付いてしまった。

昭和二十七年夏、父は我々を札幌に呼び寄せた。父は大阪まで迎えに来てくれた。丸一日、列車は日本海側を北上した。駅前の食堂で一家は札幌の生活のスタートを切った。平均的貧しさにある近藤家の都会での新たな闘いが始まった。