甲府ライオンズクラブ 活動報告&最近の出来事

山梨330-B 10R-1Z

山梨で最初のクラブ「甲府ライオンス」のアクティビティの紹介です。

飯田蛇笏・龍太を知る、飯田秀實様 講演

2010年10月12日 | 日記
平成22年9月24日(金)、当クラブ9月第二例会は、芸術の秋にならい「飯田蛇笏、龍太を知る」と題し、竜太先生のご子息、飯田秀實様の講演をお願いしました。
飯田様は富岡会長とは同期で友人であることから、山梨が生んだ俳人蛇笏・竜太の生涯、俳句への取組み考えなど文献では得られない、孫・子供だからこそ話せる貴重な講演して頂きました。
簡単に両名のプロフィールを紹介したいと思います。
飯田 蛇笏
明治18年(1885)~昭和37年(1962) 本名;武治(たけはる)
東八代郡五成村小黒坂(笛吹市境川町小黒坂)に生まれる
甲府中学、京北中学(東京)を経て早稲田大学に進学。若山牧水らと親交。在学中から高浜虚子に認められ頭角を現す。早稲田大学中退後生涯境川で過ごす。大正4年(1915)創刊の俳誌「雲母」を主宰。大正、昭和の俳壇を牽引した。重厚かつ格調高い作風。没後、その業績を記念して俳壇最高の賞「蛇笏賞」が創設された。
飯田 龍太
大正9年(1920)~平成19年(2007)
東八代郡境川村小黒坂(笛吹市境川町小黒坂)に蛇笏の4男として生まれる
甲府中学、國學院大学卒。3人の兄が亡くなり(長男;戦死、二男;結核、三男;満州抑留中死亡)生家を継ぐ。戦後、俳壇に伝統派の旗手として登場し、蛇笏没後「雲母」を主宰。平成4年(1992)雲母900号で終刊。一切の作句活動を断つ。句集10冊、随筆集、鑑賞集多数。平成17年「飯田龍太全集」全10巻刊行。読売文学賞、日本芸術院賞恩賜賞、紫綬褒章。日本芸術院会員。
小黒坂にある両名の生家には、「山ろ」と呼ぶ居宅があります。母屋は江戸時代後期の建築で茅葺の屋根は明治期に瓦葺、平成に現在の合板に葺き替えられた。邸内の老松は樹齢300年以上の赤松。
両名の俳句を数点載せておきます
蛇笏
冬瀧の きけば相つぐ こだまかな
お霜を 照る日しづかに 忘れけり
死火山の 膚つめたくて 草いちご
たましいの たとへば秋の ほたる哉(かな)
芋の露 連山影を 正しうす
死病得て 瓜うつくしき 火桶かな
龍太
父母の亡き 裏口開いて 故木山
白梅の あと紅梅の 深空あり(みそらあり)
雪の峰 しづかにはるの のぼりゆく
どの子にも 涼しく風の 吹く日かな
去るものは 去りまた充ちて 秋の空
最後の一句
誰彼も あらず一天 自尊の秋;昭和37年
またもとの おのれにもどり 夕焼中(ゆうやなか);平成4年
P.S.
実は、飯田家とは仕事などで多々お邪魔しておりました。さすが蛇笏先生のことはほとんど記憶がありません。なんせ私はまだ幼児でしたから。龍太先生はお亡くなる数カ月前まで拝見しておりました。とても穏やかな物静かな素敵な方でした。その後まもなく奥様も他界されてしまいました。奥様も器量な穏やかな婦人でした。さぞかし苦労があったと思います。多くの客人の接待や家の中のきりもりなど有名な夫を持った宿命みたいなものでしょうか。
先にありますように、ご自宅は古い中にも重厚で、囲炉裏のすすのせいか黒光りがしてケヤキの大黒柱が印象的です。また、赤松は本当にすごいもので、下の枝は10m以上あります。両先生が散歩していた裏の庭園は地味ながら自然そのままで、裏山まで続いています。
境川では俳句が盛んで、全国小中学生を対象にした俳句大会を開催しております。地元の小中学生は必ず授業にて俳句を考え、参加しております。
今までの子供たちの作品のなかで記憶に残っている一つを掲載させてください!
母の日に 田んぼで渡す ネックレス
とても感動させられます。
また、龍太先生の心に残る句も紹介させてください。山梨国体の時、境川に自転車競技場を建設しその大会が開催されました。その時詠んだものです。
とき(鋭き)者を とき(鋭き)目が追いて さわやかに
自転車で滑走している姿をとても的確に表現していると思います。
秀實様には、末永くご活躍することを祈願しまして御礼を申し上げます。

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