日建学院小倉校長の児玉です。
今日は、就職支援相談員の森永今日子さんに書いてもらいます。
皆さんこんにちは、森永今日子です。
先日、友人から陸上選手の為末大さんのtwitterまとめが面白いと教えてもらって読んでみたところ、人との関わり方においてとても参考になることが、為末さんの経験を交えてわかりやすく書かれていました。
為末大さん「我慢と部活動と鬱について。」
この中で特に、為末さんのお母様がおっしゃった「陸上なんてもう止めなさい」がなぜ為末さんの力になったのかということについて、心理学の視点から解説します。
この言葉は「陸上やっていてもやっていなくてもあなたはあなた。あなたの陸上以外の成分も認め愛しています」という無条件の受容と信頼の意味を持ちます。
この無条件の受容と信頼は、安心感と問題に向き合う力を与えてくれます。
では、「もう止めなさい」が全ての苦しみを除去して解決する魔法の言葉かというと、そうではありません。
「もう止めなさい」は「人生において重要なものを手放す」という重大な決定に関わります。
誰に対してもでも簡単に「いつやめてもいい」なんて言うことは無責任です。
「いつやめてもいい」と言ったからには、後から「あなたが『もう止めなさい』って言ったじゃない!」と責められる可能性も覚悟する必要があります。
その覚悟があってこそ出せる言葉です。
私に「心理学なんてもう止めなさい」と言った人はほとんどいません。
それは、私に関わってきた人たちが私のことを考えてくれなかったからではありません。
これだけ必死になっているものを手放す許可を出すなんて無責任なことはそうそうできないと思ってくれているからです。
ちなみに、「やめれば」「普通に暮らせばいいじゃない」は時々言われます。
私の生活を聞いた人から「変わってるねえ」と呆れながら言われることは何でもありません。
ただ、恋人や親しい友人などそれなりに長く付き合って信頼関係ができたと感じて、そこでつい「うまくいかない」「きつい」とこぼした時にそう言われてしまうと「ああ、この人も私にとって心理学がどんなに大切なものなのかわかってくれてなかったんだ」と、とても苦しくなります。
さて、私がこれまでにかけてもらった言葉の中で最もありがたかったのは「きついならいくらでも休んだらいい。あなたなら再開したくなったらいつでもまたやれる」というものです。
「休んでいいんだ」とほっとしたと同時に「あなたなら再開したくなったらいつでもまたやれる」という部分に、「心理学をやっている私」「心理学をこれまでやってきた私」を評価してくれているということを感じ、「ああ、私は大丈夫なんだ」と限界まで張りつめていた気持ちが溶けてしまいそうな感覚になったのを覚えています。
私が「ああ、私は大丈夫なんだ」と感じられたのは、「休んだらいい」に、為末さんのお母様がおっしゃった「陸上なんて止めなさい」と同様に「心理学やっていてもやっていなくてもあなたはあなた」という無条件の肯定と信頼の意味があったからでもあります。
それまで私は「やめなさい」「やめるな」のどちらを言われても苦しくなっていました。
そして、「『やめなさい』と言われても『やめるな』と言われても苦しくなるなんて私はいったいどうしたいんだろう?せっかく相手が私のことを考えて言葉をかけてくれているのに」とぐずぐずした自分が嫌で仕方ありませんでした。
ですから、「きついならいくらでも休んだらいい」と言ってもらえて、苦しくならない自分にびっくりしたほどです。
この言葉の見事さは「やめなさい」に比べて重大な決定に深く入り込んでいないということです。
確かに「休む」ということも大きな決定です。
でも「やめる」ほどではありません。
先に述べたように、誰にでも簡単に「やめなさい」なんて言うことは無責任です。
「きついならいくらでも休んだらいい」は、「人生において重要なものを手放す」という決定に無責任に入り込んでいません。
そしてこの言葉もまた、全ての苦しみを除去して解決する魔法の言葉かというとそうではありません。
「きついならいくらでも休んだらいい。あなたなら再開したくなったらいつでもまたやれる」という言葉は、「あなたならその気になったらやれる」という保証をするものです。
「この人が『またやれる』と認めてくれてるなら私はやれるんだ」と思えるからほっとするのであり、そのためにはその人が自分の能力をきちんと理解して認めてくれていることと、自分のその人への信頼感が必要です。
この「私はやれるんだ」という感覚を、専門用語で「自己効力感」といい、これを高めることは課題の遂行や問題解決を促進することが明らかにされています。
例えば自分のことをほとんど知らない人や信頼できない人から同じ言葉をかけられたとしてもほっとできる可能性はほとんどなく、「どうして断言できるの?」「私の何が分かってるの?」という反応になってしまうでしょう。
つまり、「きついならいくらでも休んだらいい。あなたなら再開したくなったらいつでもまたやれる」という言葉は、相手をよく見て話を聴いて理解すること、「またやれる」と力づけるに足る信頼感が相手と作られていることが前提となります。
全ての苦しみを除去して解決する魔法の言葉はありません。
私が心がけているのは、自分がかけられて嬉しかった言葉も辛かった言葉もどちらも受け止めて考えて大切にするということです。
私はとても要領が悪いので、一つ一つをひたすら大切にします。
今回の話も「休んだらいい+再開できる」という嬉しい言葉、その前にたくさんの人から「やめなさい」「やめるな」という言葉に苦しい経験をさせてもらったからこそ書けました。
自分がかけられて嬉しかった言葉は「どうして嬉しいのか」を考え、辛かった言葉は「どうして辛いのか」を考えます。
そして誰かが苦しんでいたら、まず見て聴いて考えて、自分が経験したのと類似した状況だと感じたら、自分がかけられて嬉しかった言葉を使ってみますし、日ごろから辛かった言葉は使わないように極力気を付けています。
ここのポイントは、「自分が嬉しかったからと単純に真似してむやみやたらに使わない」ということです。
自分の経験と完全に一致した状況というのはなく、人の感じ方もそれぞれですから、しっかり見て聴いて考えて、有効なポイントをしっかり見極める必要があります。
私が嬉しかったからといってその人も嬉しいとは限りませんし、時には辛い言葉になってしまうこともあります。
だからこそ、相手をじっくり見て聴いて考えることが大事です。
言葉をかける前も後も。
何度も書きますが、全ての苦しみを除去して解決する魔法の言葉はありませんから。
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今日は、就職支援相談員の森永今日子さんに書いてもらいます。
皆さんこんにちは、森永今日子です。
先日、友人から陸上選手の為末大さんのtwitterまとめが面白いと教えてもらって読んでみたところ、人との関わり方においてとても参考になることが、為末さんの経験を交えてわかりやすく書かれていました。
為末大さん「我慢と部活動と鬱について。」
この中で特に、為末さんのお母様がおっしゃった「陸上なんてもう止めなさい」がなぜ為末さんの力になったのかということについて、心理学の視点から解説します。
この言葉は「陸上やっていてもやっていなくてもあなたはあなた。あなたの陸上以外の成分も認め愛しています」という無条件の受容と信頼の意味を持ちます。
この無条件の受容と信頼は、安心感と問題に向き合う力を与えてくれます。
では、「もう止めなさい」が全ての苦しみを除去して解決する魔法の言葉かというと、そうではありません。
「もう止めなさい」は「人生において重要なものを手放す」という重大な決定に関わります。
誰に対してもでも簡単に「いつやめてもいい」なんて言うことは無責任です。
「いつやめてもいい」と言ったからには、後から「あなたが『もう止めなさい』って言ったじゃない!」と責められる可能性も覚悟する必要があります。
その覚悟があってこそ出せる言葉です。
私に「心理学なんてもう止めなさい」と言った人はほとんどいません。
それは、私に関わってきた人たちが私のことを考えてくれなかったからではありません。
これだけ必死になっているものを手放す許可を出すなんて無責任なことはそうそうできないと思ってくれているからです。
ちなみに、「やめれば」「普通に暮らせばいいじゃない」は時々言われます。
私の生活を聞いた人から「変わってるねえ」と呆れながら言われることは何でもありません。
ただ、恋人や親しい友人などそれなりに長く付き合って信頼関係ができたと感じて、そこでつい「うまくいかない」「きつい」とこぼした時にそう言われてしまうと「ああ、この人も私にとって心理学がどんなに大切なものなのかわかってくれてなかったんだ」と、とても苦しくなります。
さて、私がこれまでにかけてもらった言葉の中で最もありがたかったのは「きついならいくらでも休んだらいい。あなたなら再開したくなったらいつでもまたやれる」というものです。
「休んでいいんだ」とほっとしたと同時に「あなたなら再開したくなったらいつでもまたやれる」という部分に、「心理学をやっている私」「心理学をこれまでやってきた私」を評価してくれているということを感じ、「ああ、私は大丈夫なんだ」と限界まで張りつめていた気持ちが溶けてしまいそうな感覚になったのを覚えています。
私が「ああ、私は大丈夫なんだ」と感じられたのは、「休んだらいい」に、為末さんのお母様がおっしゃった「陸上なんて止めなさい」と同様に「心理学やっていてもやっていなくてもあなたはあなた」という無条件の肯定と信頼の意味があったからでもあります。
それまで私は「やめなさい」「やめるな」のどちらを言われても苦しくなっていました。
そして、「『やめなさい』と言われても『やめるな』と言われても苦しくなるなんて私はいったいどうしたいんだろう?せっかく相手が私のことを考えて言葉をかけてくれているのに」とぐずぐずした自分が嫌で仕方ありませんでした。
ですから、「きついならいくらでも休んだらいい」と言ってもらえて、苦しくならない自分にびっくりしたほどです。
この言葉の見事さは「やめなさい」に比べて重大な決定に深く入り込んでいないということです。
確かに「休む」ということも大きな決定です。
でも「やめる」ほどではありません。
先に述べたように、誰にでも簡単に「やめなさい」なんて言うことは無責任です。
「きついならいくらでも休んだらいい」は、「人生において重要なものを手放す」という決定に無責任に入り込んでいません。
そしてこの言葉もまた、全ての苦しみを除去して解決する魔法の言葉かというとそうではありません。
「きついならいくらでも休んだらいい。あなたなら再開したくなったらいつでもまたやれる」という言葉は、「あなたならその気になったらやれる」という保証をするものです。
「この人が『またやれる』と認めてくれてるなら私はやれるんだ」と思えるからほっとするのであり、そのためにはその人が自分の能力をきちんと理解して認めてくれていることと、自分のその人への信頼感が必要です。
この「私はやれるんだ」という感覚を、専門用語で「自己効力感」といい、これを高めることは課題の遂行や問題解決を促進することが明らかにされています。
例えば自分のことをほとんど知らない人や信頼できない人から同じ言葉をかけられたとしてもほっとできる可能性はほとんどなく、「どうして断言できるの?」「私の何が分かってるの?」という反応になってしまうでしょう。
つまり、「きついならいくらでも休んだらいい。あなたなら再開したくなったらいつでもまたやれる」という言葉は、相手をよく見て話を聴いて理解すること、「またやれる」と力づけるに足る信頼感が相手と作られていることが前提となります。
全ての苦しみを除去して解決する魔法の言葉はありません。
私が心がけているのは、自分がかけられて嬉しかった言葉も辛かった言葉もどちらも受け止めて考えて大切にするということです。
私はとても要領が悪いので、一つ一つをひたすら大切にします。
今回の話も「休んだらいい+再開できる」という嬉しい言葉、その前にたくさんの人から「やめなさい」「やめるな」という言葉に苦しい経験をさせてもらったからこそ書けました。
自分がかけられて嬉しかった言葉は「どうして嬉しいのか」を考え、辛かった言葉は「どうして辛いのか」を考えます。
そして誰かが苦しんでいたら、まず見て聴いて考えて、自分が経験したのと類似した状況だと感じたら、自分がかけられて嬉しかった言葉を使ってみますし、日ごろから辛かった言葉は使わないように極力気を付けています。
ここのポイントは、「自分が嬉しかったからと単純に真似してむやみやたらに使わない」ということです。
自分の経験と完全に一致した状況というのはなく、人の感じ方もそれぞれですから、しっかり見て聴いて考えて、有効なポイントをしっかり見極める必要があります。
私が嬉しかったからといってその人も嬉しいとは限りませんし、時には辛い言葉になってしまうこともあります。
だからこそ、相手をじっくり見て聴いて考えることが大事です。
言葉をかける前も後も。
何度も書きますが、全ての苦しみを除去して解決する魔法の言葉はありませんから。
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