寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

「1960年代から1980年代までの音楽の事」。。。。

お休み記事です。皆さん有難う御座います。。。。詳しい事情は前のblogの「告知文」にて書いて居ますので、よろしくお願い致しますね。( ◠‿◠ )

 

 

 

 

今回は私自身のバンドをやって居た時とダブる話です。昭和30年代の、丁度、1960年代から1970年代後半までの日本の音楽シーンに付いて書いて見ました。通り一遍書いてある事を読んで動画の歌やら演奏を聴いて頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。

 

最近つくづく思うが一般の人たちは「ブルース」と言うと、日本のブルース。要するにブルースと名の付く曲はムード歌謡とかにありますね。それだと思って居る。酷い人になると、ブルースと名の付く曲は全部演歌だと思って居る人が居る。何をか言わんやです。要するにブルーな心境の曲ならばブルースと言って居るのですね。ブルースとは本場のアメリカでは「ブルーズ」と発音しますね。この事は日本歌謡曲のブルースの女王、淡谷のり子さんはちゃんと「ブルーズ」と言って居たと言う逸話が残って居ますよ。楽譜がブルース形式でなくとも、タイトルに「〜ブルース」と付く曲も多く存在します。日本の歌謡曲の中にも、「雨のブルース」、「昭和ブルース」など”ブルース”とタイトルがつく曲も多いですが、メロディーやアレンジはアメリカの黒人由来のブルースとは異なるんです。

 

歌に生き、恋に生きたブルースの女王、歌手・淡谷のり子。津軽弁で「からきじ」と呼ばれる強情っぱり…。青森有数の大店に生まれた淡谷のり子は、やりたい事があると絶対に意思を曲げない「からきじ」だった。生家の没落の後、母と妹ときのみきのままで上京。東京で「歌」と言う生きがいを見つけたものの、その前には想像を絶する困難が次々に降り掛かる。そこで、のり子は「からきじ」魂を発揮し、文字通り体を張って現実を打破していく。また、歌う事への熱い情熱、プロ意識は、同じ時代に生きた歌手・藤山一郎、そして笠置シヅ子らとはまた異なるものだった。

 

●古賀メロディーから「ブルースの女王」へ
のり子の初ヒット曲は、古賀政男が作曲した「私此頃憂鬱よ」。その後、タンゴ、シャンソンと洋楽志向を強めたのり子は、新進作曲家・服部良一と組んだ「別れのブルース」の大ヒットにより、ブルースの女王と呼ばれて、昭和モダンを体現した存在となる。その栄光と影とは。(「私此頃憂鬱よ」「別れのブルース」「雨のブルース」ほか)

 

●極貧生活、失意そして信念
流行歌手になる以前、のり子は貧乏のどん底にいた。妹に失明の危機が迫り、音楽学校を休学してヌードモデルにも。芸術に身を捧げた青年との出会いと悲劇の結末。さらに、恩師との切ない別れ。(ブラームス「永遠の愛」、ヴェルディ「椿姫」ほか)

 

●モンペを履かない歌手
常に自身の信念のもと、大衆に向けて歌い続けたのり子。戦時中、日本国民はぜいたく、歌手はドレスを着ること、洋楽を歌うことなどは固く禁止されて居た。そんな中、洋楽とドレスを「これが私の戦闘服だ」、「国のトップがそんなこまごました事を言って居て戦争に勝てるか?」と、決してモンペを履こうとしなかった。「からきじ」魂は死なず。(「夜のプラットホーム」「ラ・クムパルシータ」ほか)

 

●歌とともに死んでいく
米軍キャンプ回りを経て戦後の歌謡界に復帰。戦後の歌謡界においては、ブギの女王・笠置シズ子、美空ひばりのよき相談相手にもなったとか。彼女は晩年まで地道なライブ活動を続け、歌手としての誇りを示した。(「君忘れじのブルース」「夜のタンゴ」ほか)「あなたは歌とともに死んでいくのね」。恩師の言葉を胸に、常に全力で歌と生きた淡谷のり子。

 

夜のプラットホーム 淡谷のり子 

青江三奈・You'd Be So Nice To Come Home To - Mina Aoe

夜霧のブルース 

 

戦後の日本の歌謡・ポップスの歴史で、一大転換点となった伝説的な音楽フェス。昭和33年、有楽町にかつて存在した日本劇場(日劇)で、1日1万人近くの観客動員を記録した「日劇ウエスタン・カーニバル」。東京ドームも武道館もまだ存在しない時代、それは日本の音楽シーンにあって画期的なイベントになっただけでなく、そこから生まれたアーティストたちは新しい音楽シーンのスターとなっていった。その第1回の舞台で鮮烈にデビュー、和製ロカビリーブームを巻き起こした歌手が、山下敬二郎である。バンド時代の初期ザ・ドリフターズのメイン・ボーカルだった山下敬二郎は、ポール・アンカの代表曲「ダイアナ」をはじめ、アメリカのヒット曲を日本語でカバー。平尾昌晃やミッキー・カーチスと共に「ロカビリー3人男」と呼ばれ、その後のグループサウンズやアイドルグループによる大箱コンサートの原点を作り上げた。

 

舞台に立てば、若者や女性客の絶叫に包まれ、大量の紙テープが投げ込まれ、失神する女性が続出。中には身に付けていた下着を脱いで投げつける女性も出るなど、現在では考えられない数々の伝説を生んだ男だった。しかし、ブームが去ると表舞台から姿を消し、一時はどん底生活までを味わった山下だったが、その後、見事に復活。生涯、ロカビリー歌手として現役を貫き通した。その執念は一体どこから生まれたのか。偉大な父、落語家・柳家金語楼との確執。「不良」のヒーローから転落し、挫折を経てつかんだものとは…。盟友・ロカビリー3人男、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、そして晩年、共に舞台に立ち、音楽活動を続けた愛妻・山下直子らが居た。

 

 

 

山下敬二郎 ダイアナ 1958 / Diana

 

 

ミッキー・カーチス カレンダー・ガール 1961 / Calendar Girl 

 

 

1960年代は、まさに怒涛の時代だったと言っても過言ではない。

60年代は、東西冷戦の真っ只中にあった。キューバ危機(62年、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとした)に端を発し、米ソ核戦争が一触即発の瀬戸際に陥ったが、米ソ両国首脳のぎりぎりの駆け引きでなんとか回避された。

 

米ソ核戦争の危機を回避した米国大統領ケネディは、63年に暗殺された。64年、トンキン湾事件を機に、米国はベトナム戦争に本格介入しその激しさを増していった。やがてベトナム戦争は泥沼状態となり、60年代を通して米国は内外から非難を浴びて居た。中国では、実質的な権力闘争である「文化大革命(66年)」による大粛清の嵐が吹き荒れ始めて居た。日本では、「安保反対闘争(60年)」にはじまり、学生運動が激しさを増していた。64年、東京オリンピックが開催された。

 

『アートはポップ、音楽はロック』

 

東西冷戦、ベトナム戦争に揺れる一方で、文化の世界では、アートはポップアートが、そして音楽はロックという新しい息吹が生まれていた。音楽で言う、ロックは黒人音楽(ブルース、R&B)が発祥であり、それを一般に広く認識させたのは、言うまでもなく50年代のエルビス・プレスリーだった。しかし、その当時のロックは、まだ従来のポップスの概念を引きずったままだった。ロックがその概念を定着させて、大衆音楽の一大潮流となったのは、60年代のビートルズをはじめ、その他多くのミュージシャン達の活動だったのは間違いない。

 

50年代のエルビスと、60年代のビートルズたちの違いを端的に言えば、60年代は自作自演するバンド形態が主流だった事だ。バンドのメンバーが作詞・作曲し、それを演奏する事でよりオリジナリティを際立たせて居た。そして、その流れは以後の音楽シーンの主流となっていく。したがって、60年代は、大衆音楽に革新を起こしたエポックメイキングな時代だったと言える。日本では、グループサウンズが登場!そのような時代の流れのなかで、日本でもビートルズたちのようなバンド形態による音楽が生まれて居た。それが、「グループサウンズ」であった。

 


ザ・タイガース 人気ナンバーワン
引用:http://www.toho-a-park.com/gsage/gsand60s.html

 

 

しかし、グループサウンズはロックではなかった。表向きロックを装った歌謡曲の流れにあったのは間違いない。なぜなら、作詞・作曲の多くを、演歌や歌謡曲の作者たちが楽曲制作に携わって居たからだ。グループサウンズでは、バンドのメンバーが作詞・作曲することはまれだった。レコード会社が作家制度を採用して居たからとも言われる。グループサウンズの楽曲の多くは、切なく甘い詩と、哀愁を帯びたメロディーが特徴であり、それはもろ歌謡曲のものだった。それをバンドが自演することで、ロック風を装って居たに過ぎなかったとも言えよう。

 

「ロックの様であり、実はロックではなかった」、と言う日本独自の音楽形態が生まれて居た、と言っていいだろう。しかし当時はロックと見做されて居たのだ。GSと呼ばれては居たが、どこか初期から中期のビートルズ的だった。どのバンドも、、、グループサウンズの全盛期は、60年代半ばから後半に掛けての、ほんの数年でしかなかった。怒涛の時代に合わせるように、グループサウンズもまた怒涛のように押し寄せて、あっという間に消えていった。そんなグループサウンズは、まさに「時代の徒花」と呼ぶに相応しいだろう。

  
 
『グループサウンズ全般記・ビートルズはずーと先に居た。』

 

グループサウンズが全盛を迎える頃、1967年にビートルズは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」と言うアルバムを発表した。その音楽性は業界やファンに強い衝撃を与えるものだった。ビートルズは、もはや単純なロックではなく、より音楽の幅を広げて見せた。大衆音楽に革新性をもたらし、その可能性を示したと言える。このアルバムがその後の音楽業界に大きな影響を与えたのは言うまでもなかった。

 

繰り返すが、ビートルズが「サージェント・ペパーズ〜」を発表したのは、1967年だった。日本のグループサウンズは、その時期から全盛期を迎えていく。その違いには、とにかく愕然とするしかない。なぜなら、あまりにやってる事に違いがありすぎるからだ。その格差はなんだと思うしかない。日本で、日本語によるロックを生み出したのは、細野晴臣をリーダーとしたバンド「はっぴいえんど」である。そして、趣はだいぶ違うが70年代のキャロルや、その他のバンドへと続いていくーー。

 


ザ・スパイダース グループサウンズの老舗
引用:http://www.toho-a-park.com/gsage/gsand60s.html


グループサウンズを否定的に捉えた見解になりましたが、実は嫌いではありません。グループサウンズをロックと同義とすると、否定的になりますが。あれは日本ならではの音楽ジャンルの一種として考えれば、意外といい楽曲もあるし、日本でしか生まれなかった音楽だと思います。

グループ・サウンズ(和製英語: group sounds)とは
ギターなどの電気楽器を中心に数人で編成される、演奏及び歌唱を行うグループ。欧米における「ヴォーカル・アンド・インストゥルメンタル・グループ」の影響を受けたとされ、1967年(昭和42年)初夏より1969年(昭和44年)春にかけて日本で大流行した。略称GS。

 

当時(60年代)は長髪やエレキギターといった要素は不良、若者の非行に結びつけられ、一般社会からの風当たりは非常に強かった。そのため、グループ・サウンズのコンサートを観に行った高校生には停学もしくは退学処分を下され、コンサートに行くこと自体を禁止する中学校・高校が続出した。(ウィキぺディアより)

冒頭動画:愛する君に – The Golden Cups “1968

グループサウンズの代表的なグループと楽曲


引用:https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ae-85/xqjng092/folder/187268/68/25135668/img_0

 

 

1968年の最盛期までに、100をこえるグループがレコードデビューしたと言われる。しかし、その後は人気バンドの主要メンバーが脱退したり、歌謡ムード路線へと移行するバンドなどが出て人気に陰りが出始めた。

 

1969年には一気に衰退の兆しが顕著となり、70年代初頭までに多くのバンドが解散、あるいは自然消滅した。そして本格的な日本のロックバンドが登場し出した。此処ではGSの曲を聴いて見よう.....。

 

 

ザ・タイガース The Tigers/ 花の首飾り(1968年) 
 

グループサウンズのなかで最も人気が高かったのが、ザ・タイガースだ。沢田研二の美貌と歌唱力、メンバーのキャラも立っていた。楽曲もかなりいい曲が揃っていたようだ。メンバーは途中で1人が脱退し、71年に解散した。

 

 

 

田辺昭知とザ・スパイダース/夕陽が泣いている(1967年)
 

1965年5月、田辺昭知とザ・スパイダースは『フリフリ』を発売、この曲が最初のグループ・サウンズのレコードとされているそうだ。堺正章氏が在籍していた事で有名である。リーダーの田辺昭知氏はいまでは大手芸能プロを経営して居る。

 

 

ザ・ゴールデンカップス。Nagai Kami No Shoujo 
 

グループサウンズのなかでは最もロック色が強いグループ。もとは横浜のゴールデンカップと言うライブハウスに出演して居た。地元では有名なバンドだった。R&Bやブルースなどが得意だった。今では伝説のバンドと言える。

 

1969年)

 

ザ・テンプターズ。涙のあとに微笑みを (1969年) 俳優として有名な萩原健一が在籍していたバンド。タイガースのいわば対抗バンド的な位置付けにあった。

 

 

ザ・ワイルドワンズ    Yuhi To Tomoni 
 

グループサウンズのなかでは希少なメンバー作曲によるオリジナルを楽曲とした。作曲の多くは加瀬邦彦が担当していた。加瀬氏はのちに有名作曲家となり、多くの歌手に曲を提供している。とくに沢田研二が有名である。

 

 

ザ・カーナビーツ The Carnabeats/好きさ好きさ好きさ I Love You (1967年)
ドラムを演奏しながら歌もうたう、アイ高野の存在が目立つバンド。

 

 

またもやゴールデンカップス。最大のヒット曲「横浜ホンキートンク・ブルース」原田芳雄さんが歌って大ヒットしました。Yokohama Honky Tonk Blues 

 

 

ズー・ニー・ヴーZoo Nee Voo/ズー・ニー・ヴー ひとりの悲しみ (coverOtoizumi) 
ボーカルの町田義人の声質が渋すぎる。ロックというよりソウルがよく似合う。

 

(1969年)

 

ザ・ジャガーズThe Jaguars/マドモアゼル・ブルース(1967年)
タイガースがあるから、ジャガースもありか。なんだかアップルのMacOSの名称のようだが、この楽曲はなかなか侮れない出来具合いだ。

 

 

モップスMOPS/朝まで待てない

ロック色が強いグループ。実力的には申し分なく、ゴールデンカップスとおなじく、当時は異端の存在と思われる。

 

 


 

おまけ/60年代のファッション

60年代のファッションといえば、とにかくミニスカートである。マリークワントによって世界に発信されて一躍人気となった。しかし、それも60年代半ば以降にツイッギーが穿いた事からだ。アメリカなどでは60年代初頭は、ジャッキー(ケネディ夫人)の様な清楚で上品なファッションが受けて居た。ちなみに、当時のファッションの震源地はロンドンだった。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

ブルース・ロック(Blues Rock) は、ロックのジャンルの一つ。1960年代以降のロックの中で、白人がブルースをロック的なスタイルで演奏したジャンルである。ブームはイギリスで始まり、アメリカでもブルース・ロックを演奏するミュージシャンが現れた。 ルーツはBBkingやマディー・ウオーターズ、エルモア・ジェイムスらのブルースであり、その模倣から始まった。エレキギターがバンドの主役となり、歌よりも即興による演奏に白人のブルース・ファンの関心が集まった。スタジオ録音作品では、エレキギターの即興がブルース・ロックの魅力を特徴づけていたが、一部のバンドは、実際のライブでは爆音とも言える大音量で演奏を繰り広げた。それがハード・ロックに継承された側面もある。

 

イギリスでは1961年に、アレクシス・コーナーがスキッフル仲間だったシリル・デイヴィスを誘い、ブルース・インコーポレイテッドを結成し、ブルース・ロック・ブームのさきがけとなった。さらにコーナーはエレクトリック・ブルースを演奏するだけでなく、ブルースのライブハウスまでオープンさせた。コーナーのバンドには、ジャック・ブルースやデイック・ヘクストール・スミスも在籍して居た。また、ライブハウスの客にはミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズ、スティーヴ・マリオット、エリック・クラプトンらも居た。そして彼は、イングランドの田舎で活動して居たジョン・メイオールをロンドンに誘い出し自分のライブハウスで演奏させた。ジョン・メイオールが作ったブルース・ブレイカーズにはヤードバーズでブルースギターを弾く様になって居たエリック・クラプトンやら、ピーター・グリーン、そして後にローリング・ストーンズのギタリストの、一人となったミック・テイラーなどが加入して居る。そう言った具合に後にはローリング・ストーンズやアニマルズもブルース・ロックを演奏し始めたのだった。そして本場のアメリカでブルース・ロックを演奏するミュージシャンとしては、ポール・バター・フィールド・ブルース・バンドやオールマン・ブラザーズ・バンド。ZZトップ、CCR、マイク・ブルーム・フィールド、ジョニー・ウィンターらが有名である。なお、チキン・シャック、フリードウッド・マック、サヴォイ・ブラウンらを「三大ブルース・バンド」と呼ぶのは日本独自表現であり、サヴォイ・ブラウンはイギリスでは特に評価が低かった。しかしチキン・シャックのギタリスト、スタン・ウエッブは日本で評価が高い。

 

Chicken Shack - Night Life (1969)  (live) 

 

 

CHICKEN SHACK - The Thrill is gone 

 

 

Stan Webb's Chicken Shack - Poor Boy (Long version, HQ) 

 

 

BLUES INCORPORATED - ALEXIS KORNER AND CYRIL DAVIES 

 

 

 

 

 

日本人がアメリカのブルースを演奏し出した頃は1970年代だった。ちょうど1970年頃にブルースを演奏して居たのは「ブルース・クリエイション」だった。このバンドの竹田和夫は当時イギリスで流行って居たブルース・ロックを吸収してブルースハード・ロックアルバム「ファースト・ブルース」「悪魔と11人の子供たち」などと言うアルバムを発表して居た。この時期のロック界の伝説的なギタリストにもう一人「成毛滋」が居た。「ブルース・クリエイション」は名前を「クリエイション」と変えて活動を続けた。

 

 

 

(MV) Atomic Bombs Away (1971) - Blues Creation 原爆落し - ブルース・クリエイション

  Blue

 

Blues Creation - Baby Please Don't Go 

 

 

Blues From The Yellow 

 

 

ジプシーアイズ/Keep On Trying (成毛滋)。

 

 

El misterio oculto del Rock - Flied Egg (成毛滋)。

 

 

 

日本では、1960年代後半から70年代前半にブルース・ブームが起こった。1971年、BBkingが初来日を果たす。1973年にスリーピー・ジョン・エステスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of Sleepy John Estes)」がオリコン・チャートに食い込むヒットとなった。

 

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティシュ・ラッシュらの来日が実現した。京都、大阪を中心にウエストロード・ブルース・バンド、優歌団、ブレイクダウンなど、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。 

 

 

 

 

1975年4月1日、ウエスト・ロード・ブルース・バンドがアルバム『Blues Power』でバーボン・レーベルからデビュー

1970年代初頭から中頃にかけて日本のロック・シーンを席捲したものに“ブルース・ブーム”があるが、そのブームを生み出したのは主に関西のブルース・バンド勢だった。そんな事から“関西ブルース・ブーム”とも呼ばれたが、その中心的存在且つ火付け役として登場したのがウエスト・ロード・ブルース・バンドだった。

 

同志社大学の軽音楽部に在籍して居た。塩次伸二、永井隆(ホトケ)、小堀正の3人に山岸潤史、松本照夫が加わる形で結成され、京都の西大路を本拠に活動して居た事からウエスト・ロードと名乗り、72年にはB.B.キングのオープニング・アクトを務めて話題を呼んだ。が、グループの結成は71年だから僅か1年程でB.B.と共演するところまで漕ぎ着けたと言うのは、今考えて見ると驚異的な事だと思う。シンプルにして強靭なリズム・セクションに、強力無比の2本のギター、そしてホトケのスモーキー・ヴォイスで聴かせるシカゴ・スタイルのモダンなブルースは、当時最強だった記憶がある。

 

せっかくなので此処に、当時の関西のブルース・シーンの一端が垣間見れる生々しい証言を紹介して於こう。

 

「後に銀閣寺のロック喫茶『ダム・ハウス/Dom House』を根城にして西部講堂のコンサートとかを企画していく岡崎タカオさんて言う人が居て、バンドやるとしたらお前どうするみたいな事言われて、「僕は楽器出来ませんから、歌ですかねぇ」って言ったら、歌の事ならコイツに聞けって横に居る人を紹介してくれた。それが永井“ホトケ”隆さん(ウエスト・ロード・ブルース・バンドのVo.)。あの時、岡崎さんが僕に声を掛けてくれなかったら、永井先輩と知り合う事もなかったし、また永井先輩も気に入ってくれて下宿まで連れて行ってくれた訳さ。で、下宿に入り浸る様になって、そこにハッチャン(服田洋一郎、ブルースハウス・ブルース・バンドのリーダー)も一緒に住んで居た訳だ。そこにまた塩次伸二(ウエスト・ロード・ブルース・バンドのG.)が来るわけ。」(西村入道談)

 

こんな風に関西からはブルース・ハウス・ブルース・バンド、憂歌団、ファッツ・ボトル・ブルース・バンドなど続々とブルース・バンドが登場することになる。私も此の当時、ブルースバンドで演奏して居ました。

 

 

WEST ROAD BLUES BAND ,Sweet Angel 近藤房之助 

塩次伸二・大木トオル 

 

Everyday I Have The Blues / 私が18歳当時に結成して居たブルースバンドの練習音源です。下手ですが聞いて見て下さいね。リードギターが私です。

 

 

ストーミーマンディー(リードギターが私です。17、8歳当時の音源ですから、、まあ、多めに見てやって下さい。(笑)

 

 

ジャズ・ブルース。(音が悪いですが、エレキギターが私です。これも私が18歳当時ぐらいの音源です。 

 

 

 

が、ブルースが人気を集めたのは関西に限った事ではない。そんな時代の流れを象徴するかの様に、72年5月には新宿西口に東京初のブルース中心のライヴ・ハウス「マガジン1/2」が開店した。此処に出演して居たのはレイジー・キム・ブルース・バンド、ウィーピング・ハープ妹尾らだったが、関西からウエスト・ロード・ブルース・バンドや憂歌団も出演して、関西で火がついたブルース・ブームの熱さを最初に伝えた店でもあった。当時東京でウエスト・ロードが出演していたのはこの「マガジン1/2」と吉祥寺の「OZ」だったか、そのどちらかで彼らウエスト・ロードと妹尾さんを見た記憶がある。

 

その後、ウエスト・ロードは、'75年に徳間音工が日本のロックの専門レーベルとして設立した「バーボン」レーベルから『Blues Power』でデビューを飾る。当時、「バーボン」は日本のロックに特化したレーベルと言う事で脚光を集め、あんぜんバンド(安全バンド) 、上田正樹&サウス・トゥ・サウス、紫など、トップ・アーティストが次々とこのバーボン・レーベルからデビューを飾って居る。これが契機となったのか、それまで日本のロックに見向きもしなかったレコード会社がこぞって日本のロック市場開拓に乗り出し、ブラック(テイチク)、フライング・ドッグ(ビクター)、ニュー・モーニング(フォノグラム)、TAMA(東宝レコード)、SEESAW(ポニー・キャニオン)など、各社が日本のロック専門のレーベルを立ち上げて居る。こうして、以後しばらくはロック・バンドのデビュー・ラッシュが続く事になる。そんな時代でもあったのですよ。

 

 

典型的なブルースは12小節で、C7|C7|C7|C7|F7|F7|C7|C7|G7|F7|C7|C7||というコード進行が簡単な型ですが、歌謡曲ブルースはこの型でつくられず、単なるマイナーの曲であることが多いです。ブルースの特徴にブルーノートの使用がありますが、歌謡曲ではマイナーの音の中でそれらしく使われる程度です。つまり第3音のフラット。しかし、どちらもⅠⅣⅤのスリーコードがもとになって居る事が多い点が似て居ます。日本で○○ブルースがつくられたのは戦前からですが、黒人のブルースを一応意識はして居た様ですが、日本の大衆に理解される曲を歌謡曲として作るには、本物のブルースをやる訳にはいきません。こんなにアメリカ文化が入って来て居る現在でも、ブルースの音は一般的にはならないのは不思議です。ロック系の人がブルースを何か不良の音楽みたいに捉えて居たのも日本ならではだと思います。アメリカのブルースは決して暗さいっぽんやりではなく、むしろ明るいなかに憂鬱がある。ただ、昨今、歌謡曲、ロックでもブルースっぽい曲は聴かれなくなって残念です。日本のブルースは都会の大人の愁いがあっていいですね。

 

 

 

 

 

この当時に私は、ウイーピング・ハープ・セノウこと妹尾隆一郎さんと出会って、ブルースハープを始めた。しかし精神疾患に罹って仕舞い。一時はハーモニカもギター同様に諦めて居たが。それから20数年して会社で倉庫番をして居た時に荷物を運びに。トラックでブルースハープの音源を掛けながら来た若者に。私が「昔、ブルースハープ吹いて居たよ....。」と言ったら。「何故、今吹かないんですか?」と怒られたのです。「私がもう歳だから.....。」と言ったら、その若者が「歳がなんですか?昔バンドでヘタだと言いながらも吹いて居たのでしょう。なぜ自分から辞めてしまうのですか?」「だって俺ももう50歳になるんだよ?」と言ってもその20歳代の若者は「吹いて下さい!!自分がして来た事を簡単に諦めないで下さい」そして最後にこう言いました「今のあなたなら、今のあなたなりの吹き方が出来るはずです。楽器に上手い下手は関係無いですよ。」そして「今日は、いい人に会えてよかった。俺は吉祥寺でライブして居ますから。よかったら、観に来て下さいね」そう言うとブルースを掛けながらトラックで帰って行ったんですよ。私は言われて考え込んで仕舞った。その若者の言う事は筋が通って居る。私は今まで人によって全て奪われて来た。親からしてそうだった。それに私は最早、障害者の身だ。精神障害で飲まされる薬は強い福作用がある。私は今だに映画が観れない。購入したDVDが6枚。録画した映画は最近では20作品ぐらいはあっても、どれも観られては居ない。何故なら私は飲んで居る薬を夜に全て纏めて居る為に、副作用が昼間は午後3時ぐらいまで出る。昔はアカシジアが出た時もあったし、

 

 

大体が、主治医が何時も痒み止めの薬をくれるので、最近まで断って居たら、最近になって体に痒みが出て来た。薬を出してくれて居たのは。こうなるからだと最近になって思った。だから薬の副作用が辛くて、大体が何時も午後1時ぐらいまで寝て居るのですよ。そしてそんな状態ながらも、もう一度、ハーモニカだけは吹こうと決めて。楽器屋でブルースハープ全部のキー。12本購入して10年ほど前から吹き始めた。まあ、ブランクが間20年近くはあるから、上手くは吹けないが。でも最近になって吹くフレーズもすんなり考えられる様に慣れた。私は何時も腰のベルトにハーモニカ・フォルダーを2つだけ挟んで居て、その中にブルースハープを、マイナーハープとメジャーハープ2本だけ入れてある。よく人によっては無知な人がナイフが入って居ると勘違いして、そう言われる事もあるし。怪訝そうに観られる事もある。無知ほど恐ろしいモノは無い。前も喫茶店のウエイトレスが怪訝そうに見て居るので、蓋を開けて中からマリンバンドを出したら、「なんだ〜〜!!ナイフじゃなくてハーモニカなんだ。あんなに小さいハーモニカなんてあるんだ〜〜!!」と驚いて居て。まあ、そんな事です、最後になりましたが。今から43年前にバンドで演奏したヘタクソなハーモニカ入りのバンド演奏と、最近に録音した音源をまた挙げて於ますので宜しく。今回は雑な話になりましたが。此処まで付き合って下さって有り難う御座いました。日本人のブルースの事やらがよくお解りに成られたと思います。それではまた更新出来たら会いましょう......。

 

一つの音源は2分程度です。ああ、一つだけ6分弱の音源とバンドでの7分弱の音源があります。

 

私のハーモニカ 

私のハーモニカ

私のハーモニカ 

私のハーモニカ 

私のハーモニカ 

私のハーモニカ

私のハーモニカ

私のハーモニカ 

私のハーモニカ 

私のハーモニカ

私が18歳当時バンドで吹いたムードブルースです。 

 

 

 

以上。此処まで読んでくれて有難う御座いました。なお私のハーモニカとバンド音源は以前に載せたものの再録でした。それでは、また何時かお会いしましょう。。。

 

 

 

 

 

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事