生活保護を受けようかどうか、迷って居ます。私は贅沢をしなければ持ち金で後4年はなんとか暮らせるのですが。。。まあ、もう歳なので、働くとしてもアルバイトしかない。Amazonが時給1100円で8時間勤務で週5日働いたとして月16万ぐらい、それしか働き口が無い。しかし相当にきついと思う。私は貧血に肝臓障害、内臓疾患で障害者手帳を持って居ます。働くとしても週5日ぐらいしか働けない。今日テレビを見て居たら。清掃作業で76歳の老人が月8万で働いて居る。歳を取ると、働き口が無い。他人事では無い。私は60歳だ。会社で働いて居た頃は月に30万貰って居た。それで月20万で遣り繰りし、月10万は貯めて居た。と言っても居住区は親元出し。食費は親に持ってもらって居た。思えば会社を辞めて早18年、この間入退院を繰り返し。認知症の母の面倒を見て来た。そして8年前に心身症に成り。姉弟から一人で生きていけと言われ実家を追い出された。当時外科医だった弟からデザイナーズ・マンションの家賃11万だけは毎月見てもらって居たが。その弟も3年前に亡くなった。認知症の母を見て居た時に、姉さんから月に6万円のお金を援助してもらって居たが、姉さんの家に行ったら。「あんた、ちゃんと旦那にお礼を言ってね!!」とつっけんどうに言われて、義理の兄にお礼を言ったら「いやいや、◯くん。」と言うので。それでお礼は言ったつもりだったが、或日、姉さんが運転するシボレーに乗ったら、突然姉さんが「◯!!おばあちゃんに旦那からお金貰って居る事!!ちゃんと話してね!!」と怒鳴り気味に言われた。その時もお礼を言ったが、その時も一緒にいた姉さんの旦那は「いやいや、◯くん」と言う。そのまま姉さんたちが自宅に来たので、私は認知症が当時まだ其れ程酷く無かった母と姉が話している間、義理の兄貴を自分の部屋に連れて行き。パソコンで当時やっていたHPを見せて、此れからはインターネットが主流に成ると言って色々と見せていたら、「◯くん...言わないの?」と聞く。それで礼だろうと思い「お金有難う御座います」と言うと黙って居る。そして20分が経過したらまた「◯くん。お礼は?」と聞く、私はまた礼を言ったら。結局1時間に4回礼を言えと言われた。しかし私は耐えていた。其れから3ヶ月程立って、急に認知症が重くなった母を看病していたら。突然、姉から怒りの電話が掛かって来て。「◯!!旦那が怒っているよ!!」と言うので、この母がおかしくなっている時にと思い。「すみませんね。今、かあさんが調子が悪いのでして・・・」と言ったら怒声で「旦那が起こってるんだバカヤロー」と姉が大声で怒鳴りまくる。私はついに切れた、「バカヤローは、こっちの言う事だバカヤロー!!」と怒鳴り電話を叩き切った。次の月からお金は送られてこなくなった。姉さんの旦那は医者だ。しかも私は援助を仕手貰いたいとは、一度も言って居ない。あくまで好意のはずだと思って居た。だから私はこれで良かったと思った。それ以来、義理の兄は姉に私からの電話には出るなと言って居るらしい。此の間、電話を6年振りに掛けてみたら「あんたなんかより!!私が死ぬわよ!!おばあちゃんの施設代に40万も掛かって居るのよ?毎日旦那と喧嘩よ!!」と言う。私は絶望した。なんで月40万も掛かるんだと思った。そして「あんた弁当なんか食べて居るとか聞いたけど、栄養失調で倒れたのよ?」と言う。そして、「ちゃんと自炊しなさい。あんたの面倒を見て居る人たちは心配してるわよ!?」と見当外れの事を言う。私は電話を掛ける前に、姉さんと旦那宛にワインを楽天から贈って居たが、その事に付いては何も言わなかった。私は姉さんに「6年ぶりに話が出来て良かったよ....」と言い電話を静かに切った。。。その姉から先々月の初めに私のケア・マネージャー宛に電話が掛かって来た。母が入院したと言うのだ。ケア・マネージャーは私と入院先に近い駅で待ち合わせをして、私に付き添って病院に向かった。母は病院で寝ていた。私が「母さん。来たよ・・・」と言っても寝て居て。私が話し掛けると、一言「バカヤロー」と言った。そしてまた目を閉じてしまった。その時にケア・マネージャーが。姉が、「私は冷たい女ではないよ」と言って居た様な事を言って居た。姉さんの旦那はパソコンを1週間開かなくて、メールを見たら来て居たので、電話を掛けたら。相手から怒られたと大分前に言って居た。医者だから医院のパソコンのソフトは動かせるらしいが、パソコンは苦手らしい。姉さんもキーボードアレルギーでタイピングが一切出来ない。ただインターネットは見て居るらしい。。。姉さん達には一人娘が居る。彼女はシンガ・ソング・ライターとしてCDを出し。ネット配線でも曲を配信して居た。倉木麻衣やら愛内里菜に楽曲を提供して居たが、6年前にIT企業で社長をして居た男性と結婚をし。今は音楽業界を引退して暮らしている。暮らし振りはいい様だ。処で母が認知症で薬を貰って居る最中、母さんの姉妹から電話が良く掛かって来た。その叔母さんは材建屋をして居て。何時も時間が無いと言っては夜12時を回ると電話を掛けて来た。そして「私は、今しかないの!!今しかないの!!」と喚く。私がいつも電話に出て居たが。母はアルツハイマーの薬を飲まされて居て、もうその時間帯は寝て居る。何遍言っても叔母さんは夜中に電話を掛けて来る。そして私がたまに母を起こして出させると、いかに自分が大変かと愚痴を延々に溢す。母は薬を飲んで居るので寝ながら電話を聞いて居る始末だ。私は叔母さんに「すみませんが母は寝ていますので」と言って毎回電話を切って居た。彼女には淳也と恵という二人の子供が居る。恵ちゃんはアメリカとイギリスに留学して居た。まあ、学校に通って居たのでは無く。かの地で4年間ぐらい暮らして居たのだが。今は結婚をして娘が生まれて生活をしているが、弟の淳也は何かと突っ掛かって来て居た。なんでも彼に言わせると、自分は実家で育つのが嫌だったので叔母さんに小学校から東京で面倒を見てもらって暮らしたかったのに。それを仕手貰え無かったと言って居た。そうすれば私と一緒に大学まで行けたのにと言う。どんな根性をしている。母は何遍も言うが学生を置いて家計を助けて居たのだ。甘えるのも程々にしろと言いたかった。父が死んだ時に葬式で「前厄!!後厄どっち〜!!」と叫んだ男だ。私は許せないと今でも怒って居る、そして叔母は或日、「お姉ちゃん、私、末期ガンに成ってしまって、治療代に大金が必要なのすぐに送って!!」と電話を掛けて来た。母は驚き大変だと800万程、銀行から送金した。その後、電話を掛けたら旦那が出て「いや〜この間の金で、会社が潤った」と抜かした。私は許すつもりは無い。会社が苦しくてお金が必要なら、なぜそう言わなかった。末期ガンなどと言う丸嘘を吐いて。娘の恵ちゃんは私からこのblogを聞いた時に「これでそっちの家の事情が丸見えだわ!!」と喜んで居た。恥を知れ!!このblogを読んで楽しんでいるのか?アドレスなぞ教えるのではなかった。。。何時もうちの生活を良く思って。自分らに何もしてくれないとふざけたことを言う。まあ、もう10年間音沙汰は無い。実家は失く成って居る。連絡も取れまい。母の妹はもう1人居る。その叔母さんには2人の子供が居るが、彼女は2人の娘を短大まで出した。処が貧乏暮らしを仕手居る。しかし2人の娘は嫁にも行かずに両親の面倒を見て居るらしい。しかし私は思う。母たち3人の姉妹はまだ未成年で両親に死なれて、父親の莫大な財産を養子に仕手居た男に取られた。そういう意味では3人とも苦労をして居るとは思う。ただ、どの姉妹も母に頼って来るなと言いたいのだ。まあ、下の叔母さんは自分の暮らしが大変だが一度も頼って来る事は無かったし、娘2人に助けられて生きて居る。私の母が前に言って居た。一番上の妹がお父さんの聴診器やら、医者としての形見を持って居るので、「一度見せて」と言ったら「嫌だ!!お姉ちゃんは息子が医者じゃないか。私には何もない!!」と言ったそうだ。あの世まで持って行く気らしい。私は10年ほど前に叔母さんと話していて「私は病気だから、、頭もね、末期癌だからカツラなのよ」と白々しい嘘をつくので「淳也が父の葬式の時、前厄!後厄どっち〜!と言ってましたよね」と言ったら声を失っていたけど。もう親戚の縁は切れていると思っています。恵さんは私のblogを読んでどう思っているのかと思う。私は姉に頼ろうとは思っては居ない。私は1人で生きて行く。生活保護は最後の手段だ。ギリギリまでは頑張る。Amazonの仕事が出来れば。働きたいとさえ思う。ただ、その体力があるのかと思って居る。この間、引っ越して来てから、近所の内科を探したら、アパートから5分の処にあった。高血圧の薬を出して貰い。血液検査をしてもらった結果は先週の木曜には解って居たが、医者に行って居る暇が無い。明日辺り行こうかと思う。年齢的に脂肪肝、糖尿病の疑いがあるかも知れない。歳はとりたく無いものだ。。。。
恋のマジックポーションLIVE SCANCH
最後の本音 / 石田長生展 Happiness!!
1999
恋の1,000,000$マン/すかんち
今日は、ケア・マネージャーとヘルパーが来た。ケア・マネージャーは初めて来るとの事なので、道順を教えたが、迷わずに来てくれた。話と言っても、私の住居がどんな風なのかと思い来てくれたので、私が此処1ヶ月ほどの事を話した。まあ、アパートに付いては、ずい分と値段の割にはいい物件を見つけたと喜んでくれて居た。東京の京王線沿線で新宿に近くて月5万円のアパートで6畳1間と5畳のお勝手の物件は無いと言って居た。街も私が前に住んでいた、不便な処に比べたら、開けて居るし、大体が今は横に6畳間があるアパートは無くて今は縦にあるらしい。建蔽率の関係でそうすれば横に6畳間を作るよりも縦にワンルームの部屋が3部屋ぐらい作れるらしい。そうすれば部屋は小さいが大家は部屋数が多いのでその分家賃が入ってくる見たいだ。私が不動産屋にはガッカリしたと言ったら。「なぜ?」と聞くので仲介手数料でお釣り6千円の処を4千円だと言われたと言ったら「10万円とか誤魔化さられるならともかく、それは不動産屋のキャラからして単に間違えただけですよ」と言うけど。私は疑っている。まあ、間違えたふりをして言われれば残りを払うし、言われなかったら、そのまま儲けだという気が見え隠れしているからだ。まあ、でもいいのです。私もお金が間違えているとは言わなかったし。もう、歯医者でも同じような事があったので、殆、嫌に成って居る。まあ、その気が無かったにしろ。お釣りの金額を間違えるのはおかしいだろう。大体が私が6万円を渡したらお札を広げて数を数えて、6万円だからお釣り4千円ですと言い切ったのだから。いい親父がそんな計算を間違えるとは思えない。何遍も言うけど電気屋を呼んで単2の電池を二つ持って来てくれと言ったら、「4千円です」だ。どうしたら2百円二つの電池で、十倍の4千円に成るのだ。いい加減にしろと言いたい。皆んな、アコギな真似をしているから、儲からないのでしょう?良心的な事を仕手居る店ならば、仕事依頼は幾らでも来るだろうに。昨日か、ドキュメンタリーの「プロフェッショナル」で空港で働いていた誠実な掃除婦の話をしていた。彼女は残留日本人と中国人の間に生まれた人で中国では日本人とバカにされて差別を受け。両親と日本に来たら、今度は中国人とバカにされて差別を受けたそうだ。両親が日本で仕事が上手くいかなかったので、高校生の頃から掃除婦の仕事を仕手家計を助けて居て、19歳の頃に成田空港で掃除婦をし始めたらしい。しかし彼女はこの職が天職と思い。如何に綺麗にするかと言う事を肝に据えて働いて来たらしい。20歳を超える頃には清掃師の全国大会に出て1位に輝き。今や中国本土からも大金を積まれて引き合いがあると言う。ただ彼女は自分は仕事師、職人だと言って日本に留まって今は空港の清掃職員として働く他にハウス・クリーニングとか掃除の事全てに取り組んで仕事をして居る。日本の中学の道徳の教科書にも、紹介される程の人物になったが、おごることは一切ない。今日も一人静かに清掃の仕事を仕手居る。こんな話を何かで読んだ記憶がある。ある有名な企業で入社の面接があったそうだ。その時に来た若い新入社員がトイレを使った処。そのトイレを掃除しているおばちゃんをバカにして「俺だったら、男子トイレなんかの掃除婦なんかのサイテーな仕事はしねえよなぁ」と言って仲間と話していた処、その会社の社長が入って来て。「そう思うのなら会社に来るのを辞めなさい」と言ってせっかく決まっていた内定をチャラにしたという話だ。かのマイクロソフト社のビル・ゲイツも掃除婦をたいそう大切にしたらしい。人がやらない仕事を喜んでやる人は今や貴重な存在だ。最近の世の中は世知辛い。誰もが人を騙そうとするし。人を嘲り馬鹿にしようとする。私はこの番組を観て居て、心からこの女の人が幸せになることを祈った。ゆきかずは道路工事の警備員を「あんな女がやるような仕事をして情けないねぇ〜」と馬鹿にした。私はゆきかずをその場でぶん殴ってやろうかと思ったものだ。人には事情があるものだ、どんな心境でその仕事をして居ると思う。ゆきかずは大学の頃、無銭旅行をして「俺は色々な処を見たんだよ。え〜〇〇ちゃん!!」と得意になって私に話したが、ゆきかずの両目は恐らく腐って居るのだろう。あいつは何も解っては居ない。ゆきかずよ、お前はもう70歳を超えたんだ。もう死に時だぞ。何時迄、世の中にお前のクソのような存在を見せびらかしているんだ。とっとと、死にさらせ!!。処で今日はいつも来ているヘルパーのオバハンが風邪引いて休んで居るので、前来ていたヘルパーさんが来たが。みんな部屋のドアに貼り付けてある表札を褒める。私もこの表札は気に入っている。埼玉のデザイナーが3千円で作ってくれたお洒落な表札で。このデザイナーには感謝して居る。漢字の表札なんだけどもフォントのセンスがいいのです。今日はヘルパーさんが色々と気を利かせて部屋を片付けて呉れたので。片付いた。ただ靴を収納するラックが無いと言って、Amazonで探させて安いもので、空いて居る場所に置けそうな物を一緒に探して、買ったので届くだろう。。。。流石に女性だ。私は靴入れはダンボールで済まそうと思っていたが、彼女とネットで探しているうちに安くて、いいものを見つけた。届くのが楽しみだ。
さて、月に16万で暮らして行こうと思って居る。持ち金しかお金は無い。働いて居ないのだから当たり前だけども。本当に生活保護は当てに成るのかと思い出して居る。しかし、Amazonで月16万の仕事をしたとしても生活保護で月15万ぐらい貰っても大して差は無いのだが。色々とネットで生活保護に付いて解って来ると、如何に貰うのが大変だと言う事が解った。大体が生活保護で足りないからと働いたらそれが例え1万円であろうとも許されないのです。収入金額は生保から差し引かれる事に成る。何が文化的で最低限な生活の権利だとつくづく思う。障害がなければこんな苦労はしていない。処で、私は今、ある障害を持って居る若い女性のことを心配して見て居る。その人は何十苦の障害を持って居る、しかしそんな身で企業に面接に行って内定を貰って居た。彼女は頭がいいのです。でも、医者からドクター・ストップが掛かり内定を辞退して居る。可哀想な女性だ。私は陰ながらネット上でだが、その女性を見守って居るつもりだ、いやいや、こんな事を書くとその女性からは怒られそうだけども。私には彼女の気持ちが解るつもりだ。人は哀しい生き物だ。特に最近の世の中は世知辛い。みんな頑張って下さい・・・・
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また自撮りの写真です。。。最近は顔が腫れて居る・・・下膨れかなぁ・・・・
ガロ / GARO
日本の前衛漫画雑誌
概要
ガロ」は1964年に長井勝一によって編集された日本の月刊漫画雑誌。青林堂発行。オルタナティブとアヴァンギャルドな作風が特徴である。
初期の「ガロ」は、白土の忍者漫画『カムイ伝』を中心に構成され、おもに大学生に支持された。また辰巳ヨシヒロやつげ義春といった劇画漫画家たちに影響を与え、多くの新人漫画家を発掘した。ピークは1971年(「カムイ伝」終了時)で発行部数は8万。以後は部数が減少し続け、80年代なかばには2万部発行、実売3000部台にまで落ち込んだ。1991年に「ガロ」はゲームソフト会社に買収され、1992年には長井が編集長を辞し、山中潤が編集長に就任。しかし長井は死去する1996年まで「ガロ」の後見人であり続けた。1960年代に商業性・大衆性・娯楽性をかならずしも目指さない芸術が出現しはじめた。いわゆる“前衛” や”実験”が次々に試みられた時代だった。マンガにおける前衛や実験は、小説における純文学を連想させ、かつての文学青年と同じ意味でのマンガ青年を生んだ。その牽引車になったのが「ガロ」「COM」の2つの月刊誌である。この時期、次のような作家が活躍した。
●水木しげる
怪奇、戦記、諷刺の諸短編、また鬼太郎ものの連載、エッセーなども連載した。
●楠勝平
江戸の職人の姿を甘さをおさえた情緒で描くのを得意とした。病弱だったため作品数は少なく、また締め切りの厳しい一般のマンガ誌に執筆することも少なかったが、生命を刻みこむようにして描いた作品には熱烈な読者がついている。
●つげ義春
思い切った実験作を発表。66年の「沼」、68年の「ねじ式」など、従来のマンガの概念を超えた幻想的な作品は、詩人や演劇人など広い範囲のひとびとに衝撃をあたえ、難解マンガの祖となった。
●つげ忠夫
つげ義春の弟。うらぶれた中年男、スラムの住人など、人生の陰を感じさせる人たちの凄みのある線で描く。
●滝田ゆう
遊郭ものが独特のもちあじ。
●林静一
土着的なテーマとリリシズムが融合した作品が多い。上村一夫に影響をあたえている。
●佐々木マキ
ストーリー性を排除したイラスト的な作品注目された。
●勝又進
農村を舞台とした現代の民話に秀作が多い。
●鈴木翁二、安部慎一、古川益三、ますむらひろしは私小説風の作品やメルヘンで人気をはくした。大阪在住の川崎ゆきおのように、野暮ったさとキッチュ感を逆手にとって、ロマン的心情を描く特異な作家も出てくる。
●花輪和一、ひさうちみお、蛭子能収、渡辺和博、みうらじゅん、根本敬らは、近代的ヒューマニズムにたいする挑発的姿勢が強い。
●女流作家も多い。やまだ紫、杉浦日向子、近藤ようこ、肥後十三子、森下裕美、内田春菊といったマンガ家も登場してきた。(現代マンガの全体像 呉智英)
歴史
白土三平とつげ義春の時代
「月刊漫画ガロ」が創刊されたのは、1964年7月24日。創刊号(9月号)は130ページ・130円だった。青林堂という法人自体は、62年に創立されていたが、当時末期にあった貸本店向け漫画単行本を出す出版社であり、知名度もそれほど大きいものではなかった。「ガロ」創刊は、96年に死去した初代編集長・長井勝一が、白土三平により「忍者武芸帳」に次ぐ新しい長編の構想を開き、それを掲載するための雑誌を創ろうと話し合ったというのが、直接のきっかけだった。このことは、漫画出版の流れという大枠で見れば、貸本漫画から雑誌への転換期の象徴と見ることができる。
白土の長編漫画「カムイ伝」が登場するのは4号目にあたる12月号からで、それ以降白土は、60年代を通じて、ほぼ毎回、数百ページという分量でこの大作を描き、当時の知識人や大学生、漫画を読まなかったと言われる層、にも衝撃を持って迎えられた。また、水木しげるも一連の短編作品、エッセイ「ロータリー」、「イソップ式漫画講座」などを創刊号から精力的に執筆して高い評価を受けるようになっていく。この時期の代表的な作家に、諏訪栄(小島剛夕)、楠勝平らがおり、また、65年には有名な「つげ義春さん、連絡ください」という文句が「ガロ」の欄外に載った。それを見たつげが、水木しげるのアシスタントをやりながら作品を発表し始める。また当時、池上遼一も、水木しげるのアシスタントをやりながら「ガロ」に作品を発表していった。
「ガロ」は、このように貸本漫画以来のベテラン作家が、自由に自分の描きたい作品を発表する場であると同時に、無名の新人たちが自分を伸ばしていく場でもあった。藤沢光男やおがわあきらが、その最初期の新人である。そして、65年6月号で白土三平が「マンガを描こう」と呼びかけると、それに応じて125篇の作品が集まり、そのなかから星川てっぷ、つりたくにこ、渡二十四などがデビューした。
白土が、この呼びかけで強調したのは「実験精神」ということだったが、実際これ以後、66、7年にかけて続々と登場する新人たちは多種多彩で、それぞれが個的に自分のマンガ表現の形を探る力作を発表していった。また、創刊号に内山賢治や李春子の童話が載っていたように、マンガ以外の読み物ページがあるというのも「ガロ」の伝統で、その初期を代表するものとして「カムイ伝」が始まった翌月からスタートした佐々木守の「日本忍法伝」と「目安箱」がある。「ガロ」が売れ出したのは66年の秋からだったと言われている。当時の執筆者には勝又進、田代為寛、佐々木マキ、林静一、さらに日野日出志、仲佳子、矢口高雄、淀川さんぽといった新人たちが続々と登場した。彼らはそれぞれのスタイルで、それまでの漫画表現の枠を広げようと競い合った。また、つげ義春は「李さん一家」、「紅い花」といった傑作を毎月のように発表していった。さまざまな才能が漫画という場において、それぞれの力を最大限に発揮しつつ、互いの差異を肯定しあう時代であり、「ガロ」はまさにその先頭を走っていたのである。
ガロとCOM
「ガロ」の新人育成と実験漫画に刺激され、手塚治虫は67年に「COM」を創刊し、「火の鳥」の連載を開始する。それから数年の間、「ガロ」と「COM」が双璧と呼ばれ競合する時代が続いた。
当時の漫画における大手出版社の動きとしては、68年の「月刊ビッグコミック」の創刊がある。すでに大手の出版する漫画雑誌としては「少年マガジン」や「少年サンデー」があり、特に「少年マガジン」はこの前年に百万部を越える勢いを示していたが、「ビッグコミック」の創刊はそれとは違い、一方で貸本出身の劇画界の巨匠たちを取り込むと同時に、読者層を青年から大人へと広げようとして行われたものだった。
60年代末の「ガロ」に話を戻せば、ベテランの永島慎二と滝田ゆう、それにつげ忠夫の登場がある。永島慎二は「COM」の創刊と同時に「フーテン」の連載を始めたように「COM」の都会的な雰囲気によく合った作家だったが、「ガロ」に描くようになって「ガロ」の土着的な誌面が永島の都会的な色彩によって幅を広げた。滝田ゆうは試行錯誤の末「寺島町奇譚」に至ると、がぜん独自の飄逸な味を発揮するようになった。
そして上野昴志いわく「つげ忠夫は鋭い直線で描く作風風景は凄く、この数年間のつげはただ一人で、崩壊しつつあった劇画の魂を担って奮闘したといってもいい」。このような、まさに「ガロ」の第一期黄金時代は「カムイ伝」の終了、71年の7月号まで続いた。呉智英氏も「「ガロ」三十余年の歴史の中でははっきりと時代区分できるのは1971年以前と以後である。」と述べているように、これ以降白土が「ガロ」誌上に新作を発表することはなかったのである。
すでに作家レベルでは交流が活発になってはいたが、71年の「COM」終刊、奇しくも「カムイ伝」終了と同じ年の後、「COM」の作家たちが続々と「ガロ」に登場してくる。宮谷一彦、古川益三、やまだ紫、真崎守はその代表格だ。また、それまで「ガロ」に関係のなかったベテラン作家たちが、70年代の「ガロ」には執筆するようになったのも大きな特徴である。秋竜山、岩本久則、高信太郎らはそれまでの「ガロ」にはない、新風を吹き込んだと言えるだろう。
また一方で「ガロ」の発掘した新人作家もまた、69年の高橋(矢口)高雄、川崎ゆきお、菅野修といった異才が続々とデビューした。中でも安部慎一、鈴木翁二は先の古川益三と合わせて「一、二、三トリオ」と呼ばれ、一種独特の雰囲気、私小説的という共通項もあり、人気を博した。
また、この時期の漫画状況も変わり始める。79年には「ヤングジャンプ」が創刊、小学館・講談社がこれに続き少年誌からの読者をそのまま青年誌に取り込む戦略を明確に打ち出したのである。そのため、必然的に「ガロ」は、そうした大資本の漫画雑誌と否応なしに作家の面でも競合する時期を迎え、60年代から続く「新人漫画の発掘」「新しい創作のための実験場」という性格をより強めることになった。
そして、この時代の新人発掘ということで欠かせないことに、自身も後には漫画を描くようになる南伸坊や渡辺和博が「ガロ」編集部に入ったことが挙げられる。このことによって視野の広がった「ガロ」は広告やイラストの世界からも積極的に才能を取り入れて行くようになった。安西水丸、湯村輝彦、糸井重里、鴨沢祐仁、たむらしげる、ますむらひろしらは、現在広告、イラスト、絵本など漫画以降のジャンルで著名な作家だが、70年台には「ガロ」の一翼を担う主要な新人作家でもあった。
花輪和一、蛭子能収、ひさうちみちお、吉田光彦など、きわめて特異な作風で知られる作家も、この時期に「ガロ」で出発している。後にはAV作家となる平口広美も「ガロ」執筆者だった。また女流では、近藤ようこと肥後十三子が79年に登場した。
70年代に外部の才能を積極的に取り入れた中でも特筆すべきは、写真家の荒木経惟による「浪漫写真」である。これは84年まで続いたのだが、村上知彦氏は、この「浪漫写真」を「この時代の「ガロ」にとっての「カムイ伝」だったのではないかという思いが、いま改めてする」と述べている。
80年代に入ると、漫画にも「ニューウェーブ」と呼ばれる新しい感覚の作家が登場し始めた。これは「ガロ」に限ったことではなく、70年代に全盛を極めたエロ劇画-三流エロ劇画誌御三家と呼ばれた「漫画エロジェニカ」「漫画大快楽」「劇画アリス」や、チャンネルゼロの「漫金超」を始め、「コミックアゲイン」「SFマンガ大全集」「マンガ奇想天外」「JUNE」などの雑誌でさまざまな才能が活躍していた。
前述したように、「ヤングマガジン」や「ビッグコミック・スピリッツ」などの青年誌が創刊され、メジャーとマイナーの区分があいまいになり始めていた時代だったから、「ガロ」のポジションは微妙なものになっていた。
村上氏はこの時代の状況について「80年代に「ガロ」はあらゆるメディアを席巻し、その分だけ本体である「ガロ」自身の印象を希薄にしていった。だが現実には、存在が意識されないほどに、それはすでになくてはならないものになっていたのだ。」と述べていてる。
つまり、作品よりも作家の印象が強くなったこの時代では、「ガロ」でデビューした作家も境界線があいまいになっていたメジャー誌と自由に往来し、雑誌メディアには漫画であるなしさえ関わらず、「ガロ」の作家があちこちで活躍したのである。そのことが、「ガロ」が「ガロ」であることそのものを希薄にした、ということなのだ。
この時期にデビューした作家には、みうらじゅん、杉浦日向子、泉昌之、加藤賢崇、ユズキカズ、根本敬、東元、森本暢之、森下裕美、松本充世、井口真吾、山野一、イタガキノブオ、土橋とし子、みぎわパン、津野裕子、鳩山郁子、ヤマダリツコ、石川次郎、大越孝太郎、トオジョオミホ、山田花子、安彦麻理絵、望月勝広(逆注いみり)らがおり、その顔ぶれからもわかるように、彼らの多くが「ガロ」デビューとほぼ同時に他誌でも積極的に活躍している。
また80年代にも、それ以前からの流れをくみ、外部から永田トマト、マディ上原、杉作J太郎、内田春菊、しりあがり寿、桜沢エリカ、とり・みき、唐沢商会といった面々が誌面に登場した。また、以前からマイナー劇画誌に掲載していた作品を青林堂から刊行し、経済的に青林堂をずいぶんと救っていた丸尾末広が、「ガロ」に作品を掲載するようにもなった。
サブカルチャー情報誌
80年代の「ガロ」を総括する文章の最後に、村上知彦氏はその後の-90年代の「ガロ」に非常に示唆的な一文を書かれている。
「90年代の「ガロ」はどうなってゆくのだろう。91年以降、「ガロ」のアイデンティティの再確認とでもいうべき作業が始まっている。その上で、「ガロ」はもうそろそろまんが誌であることをやめてもよい時期にさしかかっているのではないかという気がする。
60年代から今日まで「ガロ」の果たしてきた仕事は「ガロ」文化とでもいうべき文化圏を確実に形づくってきた。それはもはや、まんが雑誌という枠には収まりきれない広がりをもって存在しているように見える。それらをもう一度統合し、交流させ、再発信する場として機能するような、そんなある種の文化総合誌としての「ガロ」がありえないものかと、いま夢想している。」
90年代に入る頃、青林堂は長井勝一の高齢による体力的な不安と、先の「ガロ」の存在感の希薄化による部数減少=経済的不安に陥っていた。現実に「ガロ」の搬入部数は数千部にまで落ち込み、いつ取次からも搬入を断られてもおかしくない状況だった。
そんな時期に、当時コンピュータソフト会社・ツァイトの社長だった山中潤が青林堂救済に名乗りを上げた。すでにゲームソフト「ねじ式」を発売するなど、「ガロ」の熱狂的なファンであった山中の熱意に押され、青林堂の経営権を譲渡した。そして自身は勇退を希望したのだが、これまでの「ガロ」の歴史的状況を鑑み、会長職として残るよう要請され、山中体制に完全に移行するまで、非常勤ながら発行人と編集人も長井名義で刊行された。
山中は周囲も驚くような熱意を持って、「ガロ」を蘇生させるべく、連日編集会議を重ね、瀕死の状態であった「ガロ」の部数は三倍まで伸びたのである。このことにより、当面の廃刊の危機は免れた。これは間違いなく山中の功績であると言ってよいだろう。
しかし、90年代半ばになると、こうした功績を元に強引な経営・制作を進める山中と現場サイドとの軋轢が徐々に表面化してきた。そして96年1月5日、長井が亡くなると、その亀裂は修復できないほど深くなっていき、翌年97年、「ガロ編集部総辞職事件」が起こり、30余年続いた「ガロ」はついに休刊に追い込まれたのである。
徹底的にダメージを与えられたツァイトは倒産し、失踪した山中に変わって青林堂だけは残そうと奔走した福井源も、その年の暮れに一度は「ガロ」を復刊させたものの、新たな方向を打ち出せないまま、98年には再び休刊となり、「ガロ」の灯は永遠に消えたかのように思われた。
迷走した90年代にも、休刊前には、ねこぢるを始め、三本善治、Jerry、秋山亜由子、魚喃キリコ、古屋兎丸、キクチヒロノリといった才能がしっかりデビューしている。また沼田元氣、吉田戦車、岡崎京子、パルコ木下、花くまゆうさく、東陽片岡といった作家も外部から登場するなど、誌面は漫画の割合が相対的に減ったとはいえ、活気にあふれていた。
また長戸雅之を編集長に招聘しての復刊号では、80年代の「ガロ」的雰囲気に加えて、意外ともいえる町野変丸、あびゅうきょ、永野まゆみといった作家を登場させ、情報誌的側面を切り捨てた結果、漫画ファンからは一定の評価を受けた。
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ブルースハープ(10ホールズ・ハーモニカ)の持ち方を紹介していきます。
といっても、正しい持ち方という概念は曖昧でして、基本はリラックスして構えられるようであればOKです。
プロの人でも個性的な持ち方、構え方をしてる人は少なくないので、これが吹きやすいなと思える持ち方を追求していくのも一つのやり方です。
基本は自由。
そうは言っても、適当持ちでイイよ!ではおそらく混乱してしまうと思うので、一番オーソドックスともいえる持ち方を説明しておきます。
ハープの音色は空気の流れで大きく変わります。フォームはそれをコントロールする重要なファクターなのです!
正しいフォーム(図を使って説明しましょう。)
左手
ハープの左端を人指し指の付け根にくっつけて、親指と人指し指ではさみます。
この時親指と人指し指の位置は必ずそろえましょう。
右手
写真のように親指の関節あたりではさみます。
親指と人差し指以外は自由に動かせるようにしておくのがポイント。
両手を合わせると
左手に右手をかぶせる形で合わせます。この時両手の親指の付け根(Cの部分)をピタッと合わせて隙間が出来ないように気を付けましょう。
両手を合わせたら、肩の力を抜いて脇を閉め、口許に持っていきます。赤くマークしたABCが顔に当たる部分です(意外と広範囲でしょ)。 余計な空気漏れが無いことが良いフォームの条件です。
右手を閉じた時はこもった音、開いた時は抜けるような音、とはっきり音色が変わらなければいけません。
正しい持ち方になっていると吹いた時「2番」の音が鳴るはずです。
Doxy (by Chikara Tsuzuki)
八木のぶおソロ 雅歌小屋 2018年8月19日
chop onz 八木のぶお&あけみどん 09/07/19
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まずは ブルースハープとは10個の穴のハーモニカの事です。
ブルースと言う音楽ジャンルで使用されたり、 ストリートミュージシャンがギターと一緒に演奏しているあれですね。
有名どころのミュージシャンで言えば
「山崎まさよし」や「ゆず」、「いきものがかり」などがギターと一緒に吹いてるあのハーモニカの事です。
このブルースハープと言う楽器に興味が出てきて、ちょっと始めてみようかなと思っている方は、この機会に是非ともチャレンジしてみてはいかがでしょう?
この楽器は別名 “10ホールズ” とか“ブルースハーモニカ” とも呼れております。
『ブルースハープ』という名称は実際は元々HOHNER社の商品名だったそうですが、いつしかこの楽器が「ブルースハープ」という呼び名が定着してしまったらしいです。
このハーモニカには 穴が10個しかありませんが、10個の穴でも 充分 幅の広い表現力を持っていて、尚且つ楽器としては約3000~4000円程度とお手頃な価格。
おまけにポケットに入るほど小さいんです。
この楽器の構造は単純だけれど、奥の深い楽器なんです。
演奏する人の特長がハッキリと音に出てくる“生”のアナログ楽器なのです。
人が発する言葉の発音がそれぞれのクセのあるように、この楽器もそれぞれ人によって音色が違ったり、クセが違ったり、その人のそ人それぞれの色があります。
ハーモニカを演奏するにあたって大事ことは “イメージをえがく” です。
口にくわえて、息を吹いたり吸ったりして音を出す楽器、つまり、演奏中は穴が見えないわけです。ピアノやギターなどは自分がどこを指で押さえているかなど目で確認することができます。 しかし、ハーモニカはそれが出来ません。 イメージと言うものは自分の頭の中だけにあるもので、人それぞれ違っているということ。そのイメージがダイレクトに演奏につながる楽器だからです。
今回は懐かしの「グラム・ロック」から、デビット・ボウイとマーク・ボランです。。。
David Bowie - Ziggy Stardust - live 1972 (rare footage / 2016 edit)
David Bowie - Space Oddity live excellent quality
David Bowie - Ziggy Stardust live at Glastonbury 2000.
T Rex - 20th Century Boy
T.Rex / Jeepster - マーク・ボラン& T.レックス / ジープスター
T-REX (MARK BOLAN) - DANDY IN THE UNDERWORLD
T. Rex - Metal Guru