goo blog サービス終了のお知らせ 

寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

原田芳雄「五番目の刑事」・・・。「認知症?だったバカ親父!!」「1人幽霊]・・・・・・・。。。

 

 

 

ベタ慣れな保護子猫がやってきた!お兄ちゃんが好きすぎる子猫さんの日々♡

 

 

 

 

 

五番目の刑事』は、1969年10月2日から1970年3月26日まで、毎週木曜日20:00 - 20:54にNET(現:テレビ朝日)で全25話が放送された刑事ドラマ。

それまで背広姿で堅いイメージだった刑事ドラマの刑事のイメージを根底から覆し、ジーパンスタイルでジープを乗り回す"はみだし刑事"を主人公にした当時としては異色作であった。『太陽にほえろ!』などに代表される部類の先駆けでもあるが、その後東映ではこうした傾向の刑事ドラマはあまり制作されなくなる。

下の画像をクリックするとAmazonに行きますので、欲しい人は買うことが出来ますよ。。。

五番目の刑事 傑作選 DVD-BOX【DVD】
クリエーター情報なし
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)

 

此の作品は、子供の頃に観た記憶が有りましたが、今、改めて観てみても、ストーリーが良いですね、原田刑事(原田芳雄)の人物設定が戦災孤児で孤児院で幼少を過ごし、その半生は苦難に満ちて居て、グレて補導された事もしばしば有り、その時に彼を救ってくれたデカ長、山田隆三の感化で刑事を志し、上司の先輩刑事の思惑など一切関係なく、エリート刑事が犯罪から真正面に取り組むのに対し、彼は八方破れな方法で犯人を追い込んで行くと云う様な役柄で、パトカーではなく愛用のジープで捜査をする革ジャンとジーパンスタイルの刑事らしからぬ刑事、新宿を舞台に活躍する”はみだし刑事”は当時の新宿が思い出されて、今観ても充分、新鮮に観られました。此の後の、「太陽にほえろ」「俺たちの勲章」などの1970年代から始まる、刑事アクションの先駆けだと思います。今回、東映から発売されたDVDボックスは、半分の話数しか収録されて居ないので、是非、残りの話数もDVDボックス化して貰いたいですね。

 























Tea For One/Jimmy Page & Robert Plant_13.Feb.1996@Tokyo Budokan

Led Zeppelin Rock n Roll 1973

 

 

新宿

JazzBarサムライ

ジャズと猫の不思議な関係!?
「Olympus」と「招き猫」の
相乗効果に幻惑される。
 
JazzBarサムライ
 

アングラ文化が息づく唯一無二のジャズバー。

音楽と文学と若者に活気があった "1970年代のアングラな東京"を彷彿とさせる場所が、新宿という街にはいくつかある。そうした店々を覗くと、すっかり忘れていたあの時の情熱がこみ上がったり、またそんな時代を知らずともいっぱしの"通"を気取れるような錯覚を覚える。

 

此処「JazzBar サムライ」もそのひとつ。雑居ビルの小さなエレベーターを昇りつめ、扉を開けると異空間が広がる。まるで詩人、萩原朔太郎の短編小説「猫町」の一節、<見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。>のごとくである。しかし朔太郎が描いたのは生身の猫だが、ここでは"招き猫"が鎮座。その数およそ3,000体と壮観だ。「招猫秘宝館」という異名はダテではない。さらにこの招き猫様たち、マスターの宮崎二健さん曰くご利益目当てだけでなく、音響効果に大きな効果をもたらしていると言う。「四方が単なる硬い壁ではキンキンの音になってしまいます。そこかしこに招き猫を置くことで、この店の表面積が格段に広くなり、音が吸収拡散されるんです。それにね、いかしたプレイをするジャズメンのことを"cat"と言うでしょ。ほら、招き猫とジャズが繋がった!(笑)」と、宮崎さん。宮崎さんがマスターになって今年で39年目。そもそも「サムライ」はジャズライブハウスの殿堂的存在「新宿ピット・イン」の喫茶部として開業し、その後"旧サムライ"を経て、宮崎さんが引き継ぎ、1979年5月にこの地でオープンした。ジャズバーのマスターになる以前は、一年半ほどニューヨークに滞在していたと言う。

 

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 01

「Olympus」の中央、神棚ならぬ招き猫棚の中央には 注連縄(しめなわ)が。奥には儒教のお札が祀られている。

 

「ジャズが大好きで、本場のジャズに触れたくて。でも遊んでいるわけにはいかないので、日本食のレストランで料理人として働いていました」

 

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 02

 

そのときに手に入れたレコードは、もちろん今でも大切な宝物。数々のミュージシャンらのサインを指でなぞると、往事の息吹が聞こえてくるようだった。

 

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 03

いたるところに招き猫! 外国からの観光客も多く訪れ、記念撮影のスポットにもなっている。

Olympusという
ヴィンテージがもたらす既視感。

摩訶不思議な空間ゆえ、一見、どこにスピーカーがあるのかわからない。が、まろやかな音色が聴こえてくる方向に目をこらすと、奥のステージ上方、神棚ならぬ"招き猫棚"の両サイドに「Olympus」があった!「Olympus」と言えば、JBLの音響技術と木工技術の結晶として誕生したスピーカーシステムで、言わずと知られた名機である。「招き猫や般若心経など、"和"と言うか"昭和レトロ"たっぷりのこの空間に難なく溶け込んでいるでしょ。Olympusは座敷にも合うだろうし、おそらく、尾形光琳の絵ともマッチすると思うんです(笑)」

 

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 04

天地逆に設置されたOlympus。確かに招き猫との親和性が高い。

もちろん見た目の満足度だけではない。自宅では「LANCER101」を愛用したこともあるほどのJBLファンだが、「ジャズにはJBLが適している、それもこのOlympusが一番だね」と呟かれる。このOlympusはご承知の通り、かなりのヴィンテージである。が、その経年があってこそ、さらに良い音を響かせるのだと言う。そして招き猫がもたらす効果もあなどれないそうだ。「ジャズ喫茶はね、同じレコードであっても、その店によって鳴り方、聴こえ方が異なるんです。その違いを味わうというのも愉しいですよね。うちみたいなオンボロでも、Olympusと招き猫のおかげでステレオ感が乱反射すると言うか、しっとりと温かくなるんですよ」

招き猫のほかにも工夫がある。「Olympus」はフロア型のスピーカーだが、「神棚の両サイドに」と先述した通り、天井近くの高い場所にある。そのためバッフルの角度を考慮して、天地逆に設置している。また、ずいぶん前のことだが、経年でエッジ部分のモルトプレーンがボロボロになってしまったときのこと。ウーハーを外そうとしてもまったく外れず困難したそうだが、自分自身の手で直すという行為も愉しさのひとつだと言う。モルトプレーンの代用は、カメラ専門店で見つけた特殊な生地を切り抜いて使ったそうだが、「そこに至るまでの試行錯誤もたまらないんです」と宮崎さん。

 

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 05

かつてのサムライの写真がさり気なく飾られていた。

ジャズを入り口に
さまざまな門戸が広がる場所。

店の佇まいと聴こえてくる音色から、「アナログレコードをかけている!」と思い込まされるが、じつはデータ音源がほとんどで、インターネットラジオも流している。とはいえ、店にはモダンジャズから知る人ぞ知るプレイヤーまで約6000枚のレコードがあり、もちろんリクエストもOKだ。そんな宮崎さんにもっとも気に入っているプレイヤーをたずねると、

 

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 06

次から次へと話題がつきない、マスターの宮崎さん。

「南アフリカ・ケープタウン出身のアブドゥーラ・イブラヒムですね。人種差別や厳しい政治状況におかれても、孤高で魂を揺さぶる演奏をしています。本当にすばらしいです」

 

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 07

宮崎さん愛するアブドゥーラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)やドラマーのマックス・ローチなど、壁にはサイン入りのレコードがずらりと掲げられている。

一見、シャイな宮崎さんではあるが、こちらから話かければ、その糸口からさまざまな話題が展開する。ジャズはもとより、俳句に回文、江戸に庶民文化、武士道に生類憐みの令、仏教に儒教、神道、政治に陰謀説…と、その幅広さは天下一品。会話が進むうちに、このお店が「サムライ」という名前であることに合点が行くはずだ。また「JazzBar」とはいうものの、料理人修業をした宮崎さんだけに、フードメニューが充実している。断然人気なのはピザだが、「ポテトフライもうち独特です。生のジャガイモを潰してから軽く下茹でして、低温で揚げるんです。潰すことで表面積が増え、味が染みまろやかに。ほら、これも"招き猫効果"と同じでしょ(笑)」

 

JBLが聴ける店・新宿・JazzBarサムライ 08

ポテトフライ650円には、ウイスキーハイボール650円の爽やかさがよく合う。

SHOP DATA

JazzBarサムライ

東京都新宿区新宿3-35-5 守ビル5F
(JR新宿駅下車徒歩約2分)
  • 月曜日
  • 18:00〜25:00
  • 定休日
  • 年中無休
  • 席数・特記事項
  • [テーブル]36席
    [カウンター]3席
    [お店のルール]以心伝心

'Bridge Over Troubled Water' - Simon & Garfunkel 【lyrics & 和訳】サイモンとガーファンクル「明日に架ける橋」1970年

 

 

 

 

 

「認知症だったバカ親父.....。」

或日、私が食事をして居たら、バカ親父が突然、私のおかずの魚を寄越せと言って、箸で引ったくってバリバリ食べ始めた。そうしたら「おめぇのおかずを全部俺に寄越せ〜!」と私の食べていた皿事引ったくって抱え込んで食べ始めた。私はその浅ましさに、吃驚し、そして食欲が無くなった。そうするとあのバカ親父は「食べないなら。おめえの飯も俺に食わせろ!」と言って、茶碗を私からもぎり取ってガツガツ食べ始めた。一体なんだと思った。母は「まあ、食い物の恨みは凄い事になるわよ」と言って笑って居る。明らからにバカ親父の様子が変なのだ。普通は人が食べて居る食事を寄越せと言って喰うまい???それからこんな事もあった。私が部屋で本を読んで居たら、突然部屋に入って来て、「おめぇはな、腕にこんな筋肉を付けてな、腹は腹筋で割れ、そして脚は競輪選手見たいになれ!!」「何言ってるんだ50歳廻った息子に対して!!いい加減にしやがれバカヤロー!!」と言うとこう言うのだ。「ランボー見たいな体におめえはなれ!!俺はそう言う風になって貰いたいんだ!!」私は激怒して言った「い、い、か、げ、ん、に、し、や、が、れ!!この大馬鹿野郎!!」思うに親父は頭がおかしかったのだろうとは思う。認知症になると男の場合は見境が付かなくなる。しかし何故、、周りが気が付かなかったのかだ。この事は何遍も書いて来たが、あのバカ親父がフランス料理のフルコースで、突然料理に顔を突っ伏して意識が無くなった時に、私は親父の挙動不審な様子を見て居て、すぐに救急車を呼んだのに、お袋は、「お前はお父さんが突っ伏すまで見て居たじゃ無いか薄情だ」などと言う、あの日は、バカ親父は散々私の事を色々と蔑んで言って居たのだ、それなのに、私が気づいて一早く救急車を呼んだのだろうに、、私が統合失調症なのは、バカ親父のせいだろうに。あの人がおかしかったから、私も脳の障害が出て来たのですよね、、、

 

此処でバカ親父の事をもう一回記載して置きます。。。

正月に、弟がプリンスホテルで食事会を模様した時だ。あのバカ親父は当時、私はカカトが8センチあるブーツを履いて居たのだが。親父は車の運転は止められて居て。以前に車を運転するなと医者から止められて居たのに「おりゃ〜〜。大丈夫だ。運転するんだ!!」と言って。母が居ない私と二人っきりの時に私が怒って止めたのに、車に乗って行った。そして運転をして車のケツを振って帰って来たから。私が怒って家中のガラスのコップを叩き割ったら、それ踏んでバカ親父が怪我したと帰って来た母が言って居たが。私は怒り心頭だった。もし事故でも起こしたらどうなるのだ。この時も皆んなして電車で行ったのだが。あのバカ親父は背が自分よりも私が大きく見えると言って「このバカヤロー。ブーツ脱いで来い」と怒鳴りまくった。私は「イイ加減にしろバカヤロ〜〜!!」と怒鳴った。そして駅に着くと「ブーツを脱いで見せろ!!」と言うのだ。私は黙って居た、そうしたら「こいつはなぁ、チビなんだ!!」と周りに聞こえる様に言う。私はこんなバカヤローは居ないと思って居た。そしてホテルに着いて姉さんたちがまだ来て居ないので。ラウンジで待って居たら。あのバカ親父はおどおどして居て、「俺が見に行って来る」と居なくなったが。すぐに帰って来て「遅いな〜〜!」と言って居たら。姉さんたちが要約やって来た。そして食事会が始まった、フランス料理のフルコースだ、弟が家族のために奮発してくれたのだ。私は弟に「お前、無理したんじゃないか、これ10万円ぐらいのフルコースだろう」と言うと。彼奴は微笑んで居た、しかしその直後。あのバカ親父は私の名を呼んで「喰え!喰え!喰え!!」と言いながら自分はフランス料理にむしゃぶりついた。私は嫌な光景だなと思って前菜を食べ出したら。いきなりバカ親父は顔を料理に突っ伏して気を失って仕舞った。私は冷静にその一部始終を見ていた。そして、私は大きな声でホテルの従業員に救急車を頼んでくれと言った。

そしてコーヒーを注文して飲んで居たら救急搬送の人たちが怪訝そうな顔をして、部屋に入って来たので。私が状況を説明しようとしたら「うるさい!黙れ!」と救急隊員の人から罵声を浴びせられた。そうしたら。あのバカ親父はひょっこり起き上がって、「なんだ皆んな、どうしたんだ、おりゃ寝てたんだ!!」と言った。救急隊員たちは怒りまくった。それはそうだろう元旦にフランス料理のフルコースを食べて居て、気を失ったバカを見て居るのだ。そうしたら、弟は下を向いて複雑な顔をして黙って居たが。私が言った「弟は医者ですよ。私の隣に座っている兄貴も医者です」そう言ったら。要約、「なんだお医者さんの一家でしたか?」と言って低姿勢になった。「先生・・・。」と救急隊員の人が私に話し掛けるので「俺は違うだろ!!」と怒鳴った。そうしたらあのバカ親父は「なんだ、なんだ?。おりゃ、寝て居ただけだぞ???」と言う。私はこんなバカヤローは親でもなんでも無いとは思ったが。気落ちして居る弟と姉さんたちが何も言えないので。母と2人で「気は戻ったけれども、一応病院まで搬送して下さい」と頼み込んだ。そして弟が乗り込んで搬送先の病院まで行った。あのバカのおかげで10万円の料理が全て台無しになった。皆んなして部屋を出ると会計はもう弟が前もってしてあったので家に帰って来た。2時間ぐらいしてから弟がタクシーであのバカを連れて帰って来た。医者の家系だと言ったら下にも置かれなかったそうだが。そうしたらあのバカ親父は腹が減ったと言うのだ、仕方が無いんで出前でラーメンを取った。帰って来てもあのバカ親父はまだ言っていた。「なんだ。おりゃ〜〜、眠っていただけなのに!!」おそらくは脳梗塞を起こし掛けたのだろうとは誰でも想像が付く。認知症は困る、、

 

 

ブラック・ナイト ディープ・パープル 

 

 

 

それから親父のパチンコ狂いの日々が始まった。毎日会社が終わるとパチンコ屋に行くのだ。そして、店が閉店になるまで7時間居るのだ。初めは私に「おいATM で通帳から金下ろすのはどうしたら出来るんだ?」と聞いて来たが私は一切教えなかった。だからあのバカ親父は自分では金を下ろせないから、母から小遣いを貰って居たはずだ。そして金が無くなるとパチンコ屋で、隣の人が打って居るのを被り付きで見て居て。仕舞いには「このクソジジイ。球でも欲しいのか!!。何時も何時も隣に来て見て居やがって。乞食野郎!!そんなに欲しければくれてやる!!」と言って数10発玉を叩きつけられる様に貰うと、それをありがたがって使ってまた遊び。そして、それもなくなると床を張って。落ちている球を拾い、それでやって入ったと帰って来て私に得意げに言うのだ。そして帰って来ると会社のジャンバーを着込んで居るからタバコのヤニの匂いが凄まじい。私は怒って言った「あんたさ、このヤニの匂い何んだ。この大バカヤロー。肺癌に罹って死にてえのか!!。」そう怒鳴ると「おめえは何を言っているんだ。」と言うのですよ。だから私がまた「癌になりたいのかと言っているんだ!!」と言うと「ああ、俺はなぁ、親父が72歳で死んでるんだ。だから俺も生きても72歳だ!!」と言う。

そして私が当時は、放送大学の芸術論と心理学をテレビで観て居たが。すると。決まって観させない算段をワザとする。私の前でわざと夕刊を広げるのだ。そして言う「人間はなぁ、勉強は学生時代だけすれば良いんだ!あとは遊んで暮らすんだ!!」そして勝手に人が見て居るのにスポーツ・ニュースにチャンネルを変えるのです。時間はもう12時を廻って居る。そして当時は松井選手が評判で人気があったが。夜中になんか寝ていたら、何処かからスポーツ中継の放送が聞こえて来る。時間を見ると夜中の3時だ。私は父と母の寝室に行って見ると母は寝ているがバカ親父は居ないのです。そして音が聞こえる方を辿って行くと。弟の留守にして居る部屋で、BS放送のアメリカでの松井の大リーグの登板を見て居る。そして松井が出て来るとこう言うのだ「ゴッジラが吠えるぞ〜!!」私は呆れて言った。「おい、親父!!ビデオに録画して置いて早朝見ればイイだろう!!」するとこう言うのだ。「バカヤローだな、てめえは、野球はな、その時見るものだ。」私はもうこんなバカは。どうなっても知らないと思って部屋に入り、鍵をかけて寝て居た。

それから数日経って。私は小さめの丸いメガネを購入して、それを掛けて会社に出勤した。周りの社員たちは「そのメガネ洒落て居ますね。ジョン・レノン見たいですね!!」と言ってくれたが。いきなりバカ親父がやって来て「なんだ?このちっこいメガネは。大体がお前は目つきがおかしいんだサングラスを掛けてろと言っているだろう!!」と。丸いメガネを手で払って叩き落とした。私は身体中から怒りが汲み上げて来た「この腐れ外道が!!」と言って親父をぶん殴って居た。そうしたら親父は言った。「大体がお情けで会社に入れて貰って於いて!。何だその態度は今日かぎり首だ!!出て失せろ!!お前何かいなくなれ、バカヤロー!!」私は前の日にギターを道路に叩きつけて壊していたから。もう辞め時だと思って居た。そして正式に会社には行かなくなった。母は認知症になり掛かって来て居た。大体が統合失調症だと親に言って、本も買って来て読んでくれと言って居るのに。母も親父も読みはしなかった。そして倒れる様な薬を処方されて飲んで居るのに。会社で肉体労働をさせた。障害者年金だって貰えたはずなのに手続きもしなかった。障害者年金は10万は貰えたのだ。年金と合わせれば18万位にはなる。いやそれを少し超える額か?私は働いて居て一時期は無理が祟って34kgも体重が減った事もあった、身内でさえ冷たいのだ。他人が誰が私を気遣ってくれる人が居るのだ。そして、家に居ながら暮らして居たら。姉さんから電話が掛かって来た。

姪が結婚するとかで。その結婚式はハワイで行うとの事だった。処が問題があると言う。新郎の背が低いのだ、姪は身長が170センチはある。だからハイヒールを履くと176センチくらいにはなる。だから私がたまに履く。8センチのブーツがどこで売って居るのか聞きたいと言うのだ。私は「だって男用のヒールのブーツだよ?」と言ったが「バカヤロー!!さっさと教えろ!!」と言うのですよ。私はそれよりもシークレット・シューズの方が良いのではないかと思い。ネットで調べて居ると「このクソバカヤロ〜〜。さっさとしやがれ!!」と怒鳴る。私が姪の旦那の身長を聞いても言わない。何センチぐらいだと聞いても言わないので。多分165センチぐらいだろうと思ったから5センチと7センチのシークレットシューズを紹介したら。「どこに行けば買えるか、ちゃんと教えろバカヤロ〜〜!!」と言われてマジギレしたくなったが。「銀座に「トールシューズ」と言うシークレット・シューズ専門店があるから。行ってみれば試着できると思うよ。それからネットからも購入する事が出来る見たいだね」と言ったら「ネットのアドレス教えろ!」と言う。私はそんな事ぐらい自分で調べる事が出来るだろうとは思ったが。アドレスを教えたら電話は黙って切れた。その後。姪は結婚したが一度も母と私の処に挨拶には来なかった。姪の旦那の姉さんは世界に名だたるバイオリストで。旦那は東大卒で資産家らしいが、どうやら礼儀を知らない連中らしい。

そうこうして居たら、言った通り。バカ親父が肺癌に罹った。自業自得だ。そして入院をした。母はカードで見られるテレビ付きの個室の病室を当てがったが。あのバカ親父はカードを1日5枚は使って居た様だ。毎日数時間テレビを見て居たのだ。ある日。バカ親父はオムツをして居るのにトイレに行きたくなったと言い。身体中にさしてある管を抜いて自分でトイレに行こうとしたらしい。後から主治医と看護師から言われた「あんたの父親が何したか病室に行って聞いて見ろ!!」その当時はバカ親父は2人部屋になって居た。病室に行くともう一人の入院患者が言って居た。「下の始末なんざ、看護婦がするのになぁ、、あの人はオムツも外して廊下でうんちと小便垂れ流して糞尿まみれになったんだよなぁ....。」私はかわいそうだなどとは、とても思えなかった。どこまでバカなんだと思っただけだ。そして親父は肺癌と骨癌に罹り、病院から電話が掛かって来て。私と姉夫婦と弟が病院に呼ばれた。母はすでに認知症に罹って居て調子が悪くて寝て居た。そして担当医が言うのだ「もう手遅れ状態ですね、骨癌にも罹っているし肺炎にも罹っています。注射をしようと思うのだけども、すると死ぬ確率が高い。私はねぇ、患者から訴えられたくないんだ!!」そう言われ最後は安楽死を主治医から強要された....。弟は「あの医者、訴えてやる!!」と怒ったが、私が「辞めて於と言った。お前も医者なんだから泥試合になるぞ」と言った。あんな手の掛かる末期癌の患者は早く始末すると言う事だ。医者は患者を治すとでも皆さん思っていますか。大抵の医者は患者は特に重症患者は見殺しにするものなのですよ。

さあ、、バカ親父とも最後だ。私はなんかスッキリした気がしていた。ただ癌の末期患者が収容される部屋に入って。口を開けて目を閉じて身体にチューブが刺さっていて。一見意識がないであろう。。横たわって居る親父の手を握り。「親父、、意識がない様に見えるけど、意識あるんだろう。あったら俺の手を握り返してみな」そう言うと。あのバカ親父は必死になって渾身の力で私の手を握り返して来た。そんな様子を見ていて弟が言った。「兄貴、金なら今1千万貯めた金がある。金なんてまた貯めれば良い。親父をもっと設備の整った良い病院に移して末期治療をさせる」と言ったが私が言った。「この人の運命が此れなんだよ。金はお前たちには子供がいるんだから大切に取って置きな。親父はもうダメなんだよ。散々周りに迷惑を掛けてくれて、、もう最後だな.....。」そう言って居たら母が病院に到着した。するとバカ親父は目を開けてこう言った。「鳥が居る。お母さんこの下は鳥屋なのかい?」そして「ショールが舞って居る綺麗だなぁ、あれお母さんのかい・・・。」幻覚を見て居るのです。母も私も黙って居た。さて、これから、安楽死になるのだ。自業自得です。暫くして看護師が来て注射をした。そうしたら親父はかすれた声で何かを言ったが何を言ったかは聞き取れなかった。そして死んだ。。。

弟の嫁は泣いてくれたし弟も泣きそうになったが。私が泣かなかったから我慢した見たいだ。母はすでに認知症の毛が出始めて居た。母も最後は立ち会ったが私があえて母を親父から遠ざけて居たから。母は側で見ては居たが、よく臨終の際は解らなかったらしい。その後。母から私は言われた「お前のせいでお父さんと最後のお別れが出来なかったよ!!」そして母は重度の認知症になって行った......。この様に特に男の認知症は始末に負えませんね。しかし私もこの親の子だ。自分が父親見たくはならない様に気を付けたいです。私の場合は両親とも認知症だし。私は統合失調症の病気持ちです。私は一見、健常人とは変わらなく見える。確かに此の間来た、訪問看護師の女性はkiyasumeさんは頭がしっかりして居るし。分別もある(おかしい事やおかしな身振りをしないと言う事)とは言ってくれては居るが。最近自分でおかしいと思う事がありますよ。病気のせいですね。此処まで読んでくれて有難う御座いました。。。

 

 

 

「1人幽霊・・・。」

最近、一人幽霊に出くわす。此間は駅前の書店に居た。「お前さあ、こんな本は読まないだろう。そうだろう、だから聞いてんだよ」とあたかも相手が居るか如く一人で勝手に喋って居る。見れば年の処、30歳ぐらいの中年の男だ。見た目は少し小太りな中年に成り掛けの青年か?と言う様な出で立ちだ。頭がおかしいのかと思うが、ごく普通に話している。多分、彼の耳には相手の声が聞こえて居るのだろう。以前にも居た。電車に乗って居た時だ、矢張り30歳ぐらいの男だった。彼も小太りだった「本当によう〜。俺、困っちゃったぜ。もう、お前と来たらよう・・・」とか一人で話して居た、病院にも一人居た。彼は痩せぎすの23歳ぐらいの青年だった。「俺さあ、あれほど皆んなが居る前では喋ってはダメだと言って居たろう?なんでおとなしく黙って居ないんだよ・・・」と言って居た。此間は、本屋で本を2冊買って、お金が端数4円と言われたので、「ちょっと待って下さい・・・」と探すが、こんな時に限って小銭が無い。なので「すみません4円あるかと思ったら無かったです」と3千8百円を渡すと。「ブックカバーをお付けしますか?」と聞かれた。「いや、いいです.....。」と言い。お釣りを貰って、会計から離れると、「今の人はおかしくなかったわよ?」と女の子の店員が若いイケメンの青年の店員に話し掛けて居たら、彼は大きく頷いて居た。私は「ちょっと、俺もおかしく見えて居るのかよ?」と思い、店の中にある鏡の前に立って自分の姿を映してみた。確かに、私は若作りだ。今時こんな格好をしている初老の男は居まい。でも、そんなにおかしくは見えまいとは思う。

しかしこの間、J:COMの営業が来て一緒に家の近辺を歩いて居たら。前から来た50歳ぐらいの奥さんがジーと私を見て居た。私は目が合わない様にしたが、しばらく自転車を押しながら見て居た。確かに、歳取ってから長髪にして居る人はあまり居ない。と言うか。ロン毛の若者も余り見ないご時世だ。最近は増えては来たが。私は1970年代風ファッションをして居るだけなのだが、矢張り目立つのだろうと思う。ヘルパーのオバハンが「何時もちゃんとした格好をして居るけど、堅っ苦しくないの?」と此の間聞いて来た。私は少しびっくりして「なんで?」と聞いたら、「だって何時も白いワイシャツか黒いワイシャツを着ているじゃない?」と言う。「そうですね・・・」と言ったら、「それ汚れたらどうするの?」と言う。私がその時は洗濯しますよと言うと。「替えはTシャツ着ないの?」と聞いてくるので「Tシャツは、最近、殆んど着ないですね」と言ったら「へぇ〜〜。」と言うので、「替えのワイシャツはありますので、、」と言ったら。「いちいち洗うんだ〜」と言って不満そうにして居た。私は映画監督の小津安次郎がいつも同じ格好で居て、不思議に思った女優が小津監督の家に行った時、監督が席を外した隙にタンスを開けたら。同じ服が沢山ハンガーにぶら下がって居たと驚いたと言って居た話を知って居る。お洒落とはそう言った物だと思う。人間こだわりを持たないと行けない。今は、ファスト・ファッションの時代だ、みんな脱個性派の格好をして居る。それは言い方を変えれば世の中、世間に溶け込む方法でもある。1990年代に入ってから個性的な格好をして居る人はメッキリ少なく成った。私はその頃40代だった、そしてミリタリージャケットを羽織り生活をして居た。今やミリタリージャケットを着て居る人は少ない。ああ、此の間、歯医者で同じ60代の親父が来て居たっけ....私は原田芳雄さんを真似ただけだが・・・。1990年代から2000年代に掛けてはミリタリーファッションが流行ったものだ。

 

 

 

しかし今は何来てもいい時代だと思う。私が、50代の頃、矢張り髪を長髪にして帽子をかぶり、長めのコートを羽織って、冬場、認知症の母を連れて歩いて居たら、若者から「あの人、目立つ格好を仕手居るよな・・・」と声が聞こえて来た事があった。見るとその若者二人は安手のパーカーにマフラーを仕手居たが。最近の若者は虚栄心が強い。ちょっとカッコイイなと思う若者を見ると人の目を気にして男も女もスノッブな感覚で歩き始める。原宿のある人気ナンバーワンのカリスマ美容師の元には日本全国から若者がやって来る。皆んな彼による。カッコイイ髪型を求めてだ。しかしその美容師は注意深くその若者を見て、例えば前髪を長くして目を隠している若者には、「眼が大きいのだから、前髪を切ろうと思うのだけども、どう?」と聞く。若者はその美容師の言う事は意味があるのを知っているから任すのだ。そうすると俄然カッコイイ髪型に仕手くれる。思えば若者はいい。美容師でもスタイリストなカッコイイ髪型に仕手くれる美容師が居る。それに比べたら、年寄りには、そんな美容師は居ないし、大体が髪は短めにするのが決まり見たいな風潮がある。私はよく年配の方から「ご職業は、物書きですか?藝術家ですか?」と聞かれることが多い。そんな時は何時も「ミュージシャンです」と答えて居る。。。私は50代の頃の自分に戻しただけなのだ。それは20代の頃やら30代の頃に戻したいが、寄る年波には勝てない。此間、美容院でパーマを掛けて貰って居たら、57歳ぐらいのハゲ掛かって居る親父が髪のカットと染めに来た。私は此の男は何で床屋に行かないんだと思って横目で見て居たら、その男は真ん中が禿げて居るのに、周りの毛を短く刈って貰って居る。

そいつにこう言われた「あの人、女?何で髪の毛あんなに長くして居るの?俺は女かと思ったよ。フン!!」。私は自分よりも若いその男を反対に軽蔑の目で見てやった。「あんた歳幾つだ?長髪の歴史も知らんのか?バカはどうしようも無い。」と思った。美容師は私の手前何も言えなくて困って居た。私の住んでいる街にはカット屋が2店舗もある。髪を短くするのなら、そう言う処に行けばいいだろうに。そこだってサービスは良いはずだ。要するに単なる僻み以外の何者でも無いだろう。昔は1970年代から1990年代までは男も長髪の人が可也居たモノだ。何を見て一体何の教養を身につけて生きて来たのだ。最近もまた若者を中心として30代から40代の人が長髪にして居る。大体が人の勝手だ......。そして私も生きても後13年程の歳になった。後7、8年は若作で居たい。茶髪にして部分的に金髪にしようと思う、そう私が行きつけの美容師さんが此間提案してくれた。いいでは無いか。生きて居るうちだけだ。おしゃれで楽しめるのは。私はいい加減に自由になりたいのですよ。しかし太って居るのは薬のせいとて如何にかしなければ成るまい。問題は痩せる事だ。更なる減量を始め様と思う。

 

 

「美」を創る仕事〜美容師としての四半世紀〜 

窪塚洋介×高木琢也 (OCEAN TOKYO)   “We Are Kodonas”(前編)  

 

 

 

 

コメント一覧(10/1 コメント投稿終了予定)

kiyasume
hiroshijiji1840さん、お早う御座います、、
此方こそ、今週も先週同様に、宜しくお願い致しますね、、、

今日は東京は晴れて日差しがあって、暖かいです・・・・・・・。
もう、此間見たいな、寒波は通り過ぎた様ですね、、
今日は病院ですか?気をつけて行ってらっしゃい、、、

それでは また・・・・・・・。☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
hiroshijiji1840
◆👴:Kiyasumeさん・お早う御座います。
💻コメントや応援👍ポッチを有難う御座いました。編集・投稿の励みになり✌で~す!
(^_-)-☆今週も先週同様に宜しくお願い致します!
@('_')@今日はこの後病院に行く為に明日ゆっくりとお伺いさせて頂きますネ。
*👴:今朝もblogはアップしてますので遊びにお越し下さ~い。<welcome!>
🔶それではまた明日👋・👋!
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事