寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

杉原千畝・日本のシンドラー「命のビザ」。6千人のユダヤ人を救った男。

 

古手川祐子 1976年にミス・サラダガール・コンテストで優勝し、芸能界へ。78年のNHK連続テレビ小説「おていちゃん」…

古手川祐子

 

1976年にミス・サラダガール・コンテストで優勝し、芸能界へ。78年のNHK連続テレビ小説「おていちゃん」や、翌年公開の映画「あゝ、野麦峠」などに出演し、美人女優と評判になった。

80年代以降も、映画「細雪」や、「西部警察」などのテレビドラマで好演。音楽番組「ミュージックフェア」の司会も長年務めた。 

古手川祐子さんのお宝画像~厳選セクシー写真

 

 

皆さんは日本の外交官、杉原千畝と言う男を知って居ますか。彼はリトアニアのカウナスと言う所に駐在して居ました。1940年。彼は日本政府に背いてユダヤ難民6千人にビザを発行した男です。彼の発行したビザは「命のビザ」と言われました。そして彼はあのオスカーシンドラーと並ぶ人物だと言われて居ます。晩年彼は子供にも死なれ。奥さんは妹に死なれ。外務省はユダヤ人を救ったと言う理由で彼をクビにしました。しかし彼はそれから数10年後にイスラエル政府から「諸国民の正義の人賞」を贈られました。そして2000年になって外務省は要約、彼の功績を称えました。彼は86歳で亡くなりました。

 

日本のシンドラー 「杉原千畝物語 六千人の命のビザ」のドラマです。観て下さい。

 

杉原千畝とは

 (1) 杉原千畝 領事館の執務室 (大正出版提供)

 杉原千畝 領事館の執務室

(2) 杉原千畝 リトアニア・カウナス 「ユダヤ人入るべからず」と書かれた看板の前で (大正出版提供)

 杉原千畝 リトアニア・カウナス 「ユダヤ人
入るべからず」と書かれた看板の前で

杉原千畝(すぎはらちうね)、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官です 。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスと言う都市で、ナチス・ドイツによって迫害されて居た多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られて居ます。

この「命のビザ」の物語をめぐって、アジ歴の資料から何が見えてくるのでしょうか。

「東洋のシンドラー」

  • (3) リトアニアの日本領事館の外観(1940年) (大正出版提供)

    リトアニアの日本領事館の外観(1940年)

杉原がリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理に任命されたのは、昭和14年(1939年)でした。 写真 は、当時の在カウナス日本領事館です。彼が多くのユダヤ人を救い、「東洋のシンドラー」と呼ばれる事になったドラマの舞台がこの場所です。

所で、「東洋のシンドラー」の「シンドラー」とは何の事か、ご存知でしょうか。これもまた人の名前です。オスカー・シンドラーと言うドイツ人(生まれは現在のチェコ)の実業家で、やはり第二次世界大戦末期に、多くのユダヤ人の命を救った事で知られる人物です。彼は、ドイツ占領下のポーランドで自らが経営して居た軍需工場(戦争の為に必要な物資を製造する工場)に労働者としてユダヤ人を雇い入れ、その身柄を保護する事で、1200人に上ると言われるユダヤ人の命を救いました。彼がユダヤ人労働者の保護を申請する為に作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれて居ます。此れをタイトルにした映画は大きな反響を呼び、シンドラーと言う人物はさらに多くの人の知る所となりました。

こうしたシンドラーの行いになぞらえて、のちに杉原千畝は「東洋のシンドラー」と呼ばれる様になったのです。

ユダヤ人迫害と難民

  • (4) 外務大臣から在サンフランシスコ総領事への電報

    (1) 外務大臣から在サンフランシスコ総領事への電報 

さて、杉原が在カウナス日本領事館領事代理となった頃には、ユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害が激しくなって居ました。この様な状況下では、ドイツ占領下のポーランドをはじめ、ナチス・ドイツの影響の強い地域から逃れて来たユダヤ人にどの様に対処するか、と言う事が国際的な問題となりました。日本もその例外ではありませんでした。 (1) は、松岡外務大臣が在サンフランシスコ総領事にあてて、昭和15年(1940年)7月26日に出した電報の一部です。この中では、ヨーロッパから日本経由でアメリカに渡るユダヤ人難民が、この月の13日横浜発の鎌倉丸という船に13名、22日発の氷川丸という船に77名あり、引き続き多数に上るであろう、と述べられて居ます。この様に、日本にも可也の数のユダヤ人が逃れて来て居ましたが、その多くは、日本を通過してさらに他の国に避難して行きました。日本では、ユダヤ人に限らず、すべての外国人について、避難先の国の入国許可を得て居ない者には通過ビザを発給しない、と言う方針を決めて居ました。

ビザ発給をめぐる問題

  • (5) 内務省警保局長から外務省への文書

    (2) 内務省警保局長から外務省への文書 

  • (6) 内務省警保局長から外務省への文書

    (3) 内務省警保局長から外務省への文書 

しかし、それだけでは対処しきれない問題が出ていた事が、 (2) の内務省警保局(警察部門を管轄)長から外務省に宛てた文書から解ります。此処では、ますます増加するヨーロッパからの避難民の中には、避難先の国で入国許可を取る事が出来る、と偽って日本の通過ビザを得て来日して於ながら、実際には行き先が無く、それを理由に日本にとどまろうとする者が居る、と書かれて居ます。また、日本までの乗船券しか持っておらず避難先の国に行く為の費用も無い者が居て、取り締まりに困って居る、とも述べられて居ます。此れらは、ヨーロッパの戦火を逃れた避難民全般の事を指して居ますが、添えられて居る表 (3) を見ると、やはりユダヤ人が含まれて居ます。そして、いちばん左、国籍が「猶太系 リスアニア」(ユダヤ系 リトアニア)となって居る人物の「通過査証月日及官庁」の欄には、「同年(昭和15年)7月16日 在カウナス帝国領事代理 杉原千畝」と書かれて居ます。つまり、この人物は、杉原からビザの発給を受けて日本にやって来た事が解ります。しかし、その背景には以上の様な難しい状況があったのです。

「命のビザ」のために

  • (7) 杉原千畝から外務大臣への電報

    (4) 杉原千畝から外務大臣への電報 

  • (8) 日本領事館でビザ発給を訴えるユダヤ人避難民たち(1940年7月) (大正出版提供)

    (5) 日本領事館でビザ発給を訴えるユダヤ人避難民たち(1940年7月)

(4) に書かれて居た様に、昭和15年(1940年)7月16日には、杉原によるユダヤ人へのビザ発給は既に行われて居ましたが、これは決して順調に進められた訳ではありませんでした。 (5) は、この直後の7月28日に杉原より本国の外務省に宛てて出された電報で、その末尾には、日本通過ビザの発給を求めて連日100名ほどのユダヤ人が領事館に詰め掛けて居る、とあります (5)。しかし、実は、この様にビザ発給を求めて領事館にやって来るユダヤ人の多くは、規則に従えばビザの発給が認められない人々でした。この規則と言うのは、昭和13年(1938年)10月7日に外務大臣から各地の在外公館に宛てて発せられたもので、日本通過ビザの発給が認められるユダヤ人の資格として、「避難先の国の入国許可を得て居る事」や「避難先の国までの旅費を持って居る事」などが定められて居ました。(レファレンスコード:B04013205200 民族問題関係雑件/猶太人問題 第四巻 分割2 77画像目~80画像目)

本国はあくまでこの規則に従って居た為、杉原に対して、資格を持たないユダヤ人へのビザ発給の許可を出す事は最後までありませんでした。それでも杉原は、独自の判断で発給を続けたのです。こうして発給された日本通過ビザによって日本に渡ったユダヤ人の中には、先ほど見た様に、避難先の国の入国許可を得て居ない為に、結果として日本で足止めとならざるを得ない人々も多かったでしょう。しかし、命の危険が迫るヨーロッパから脱出させる事が出来た事は、まさに彼らの命を救った事にほかなりませんでした。ソ連への併合にともない、杉原の居たリトアニアでは各国の在外公館が相次いで閉鎖されて行きました。日本領事館もまた閉鎖する事を求められ、杉原もこの地を離れなければなりませんでしたが、それでも杉原は最後までビザの発給を続けたと言われて居ます。

杉原千畝の人道性

  • (9) 在ハンブルク総領事から外務大臣への文書

    (6) 在ハンブルク総領事から外務大臣への文書 

  • (10) 在プラハ総領事代理の杉原千畝から外務大臣への電報

    (7) 在プラハ総領事代理の杉原千畝から外務大臣への電報 

この様な杉原の行為の人道性が特に注目される様になった背景としては、ユダヤ人へのビザ発給をめぐる他の国の領事館の状況が大きな意味を持つと考えられます。ユダヤ人へのビザ発給を行って居たのは、杉原の居る日本領事館だけではありませんでした。 (6) は、昭和15年(1940年)9月12日に在ハンブルク(漢堡)総領事から外務大臣に宛てて出された文書の前半部分です。此処には、中南米その他の国々の領事や総領事の中には、ビザの発給の際に避難民に手数料以外に高額な代金を要求して居るものが居る、と書かれて居ます。しかも、そうやって発給されるビザの中には、本国の了解を得て居ない。いわゆる空査証(空ビザ)があり、此れでは実際にその国に行っても入国が認められ無い為、通過国でその扱いに困って居るとも述べられて居るのです。

この様に、決して人道的とは言えないビザ発給の実態がある一方で、本国の考えに背き、また困難な状況であっても力の限りビザを発給し、ユダヤ人を救おうとした杉原の勇気と人道性は、現在に至るまで高い評価を受けて居ます。

(7) は、昭和16年(1941年)2月に、在プラハ総領事代理となって居た杉原から本国の外務大臣に宛てて出された電報です。此処では、リトアニア人と旧ポーランド人に発給したビザの数は2,132枚、このうちユダヤ系については約1,500枚と推定される、と述べられて居ます。ビザは、1家族につき1枚あればよかった事から、杉原千畝が「命のビザ」によって救ったユダヤ人の数は、少なくとも6,000人に上ると言われて居ます。

※画像  は大正出版の本からです.....。

 

 

「差別・・・。」

妖怪人間ベム 変身1【映画〕

映画CM 「妖怪人間ベム」①

妖怪人間ベム 悲しみ1 失望

【MAD】妖怪人間ベム -最高の片想い-

 

 

 

 

社会的カテゴリー(性別、人種、年齢、出身地、職業など)によって、生じてしまう「偏見・差別」。しては行けない事だと解って居ながらも、なかなか無くならないのも事実だ。なぜ偏見や差別が生じてしまうのか、どうすれば無くす事が出来るのか。東洋大学社会学部教授で、『偏見と差別について』で研究して居る北村英哉氏の著作から抜粋して考えて見た。

 

社会集団から生まれる
偏見や差別

 
「普通」の存在で居たがる人の多い日本人は、マイノリティーを差別する事で安堵感を抱きがちだ。人間が営む生活に於いて、あらゆる状況や場面で偏見や差別が生まれて居ると言っても過言ではない。
 

たとえば、心の中で偏見だとは思いながらも、「女性の方が家事や育児に向いて居る」「男性のほうがリーダーシップがある」と言った固定観念(ステレオタイプ)を持つ人は案外多いのではないだろうか。

『偏見や差別はなぜ起こる?』(ちとせプレス)によると、社会心理学ではステレオタイプ、偏見、差別は、それぞれに定義があると言う。

まずステレオタイプとは「ある集団に属する人々に対して、特定の性格や資質を皆んなが持って居る様に見えたり、信じたりする認知的な傾向」、偏見は「そのステレオタイプに好感、憧憬、嫌悪、軽蔑と言った感情を伴ったもの」。そして差別は「ステレオタイプや偏見を根拠に接近・回避などの行動として現れたもの」として居る。
 
また、一般に社会心理学では、一個人の先入観ではなく、なんらかの社会集団、社会的カテゴリーから生じる偏見や差別を対象にして居る。偏見や差別については、これらの区別を前提にして考えなければならないのだ。

 

 

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敵を見下すことで
自己肯定感を高めるのが本質

それでは、何故、人間社会に於いて、偏見や差別が起きて仕舞うのだろうか。北村氏はこう説明する。

「簡潔に言うと、『人には自分が有利になりたい、偉くなりたい』と言う心理があるからです。心理学用語では『自尊心』、今のはやり言葉だと『自己肯定感』とも言い換えられます。たとえば、自己肯定感が低い人が、違うタイプの人をけなして、自分の方が上だと思う事で、相対的に自己肯定感を補うのが一般的なケースと言えます」

 

社会心理学では、人は味方と敵を分ける心理が働き、自分にとって大切な味方を「内集団」、それ以外の敵を「外集団」と区別するのが基本的な考え方とされる。

外国人差別はこの典型的なパターン。特にヘイトスピーチの対象となりがちな在日韓国人や中国人は、日本人にとって身近な存在だからこそ敵だと判別されやすく、偏見や差別が頻発するのだ。

偏見や差別にさらされる対象は、LGBTや私の様な障害者などの様に。マイノリティー側である事が多い。日本のマイノリティー差別の問題について、北村氏は以下の様に指摘する。

「日本は諸外国と比べても、自分たちが社会の中で『普通』の存在だと考える事で安心感を得る人が多い傾向があります。障害者問題、性的マイノリティー問題、民族差別の問題に於いても、偏見や差別を持つ側がマジョリティーである事に安堵感を抱き、日々の生活を送って居ます」

民主主義国の日本では、原理的にあらゆる意見が多数決によって決められる事が多く、少数者の意見が黙殺されやすいのも確かだ。

「とは言え、それでは少数派が常に負け続ける事になり、人権的な価値が侵害され、不公正な社会になります。その様な社会にしない為にも、マイノリティーへの配慮が必須なのです」

 

マイノリティーへの理解が
必要不可欠

偏見や差別が生じてしまうのは仕方の無い事であり、決してゼロになる事は無いと考える人の方が多数派かも知れない。しかし、北村氏は社会全体で真剣に取り組めば、それほど難しい事では無いと語る。

「現実問題として、偏見や差別をゼロにする事は難しいかも知れませんが、少なくとも努力次第で極力減らす事は出来るはずです。その為には、マイノリティーの人への理解を深める事が重要。たとえば、義務教育の段階で、障害者施設を訪問するなど、障害者と触れる事で知る事が何よりも大切です。ただ、接触仮説と言って、理解が深まる事でますます嫌悪感を抱くケースも少なくありません」、私が精神病院に入院して居た時の事です。ある高校生が社会科の見学か何かで病院を訪れましたが。そのうちの一人の男子生徒がこう言いました「ふん!所詮。皆んな気狂いじゃ無いか!!。」だから、そこは教師の力量によって感情を変える事も出来なくは無いと思って居ます。

個人的な感情はどうしようも出来ないと考える人も多いかも知れない。ただ、それを仕方が無い事だと社会が認めてはいけない。感情を法律で罰する事は出来ないが、モラルが低いとは言えるだろう。

日本社会も徐々に偏見や差別がいけない事だと言う認識が深まりつつある様にも思えるが、現実ではまだまだマイノリティーへの理解は足りて居ない。差別根絶の為には、まず知識を得る事が最初の一歩の様である。

 

TOKYO WALK 東京・神保町の街並み jimbo-cho tokyo japan 2020.05

 

 

kiyasumeが今日の昼に食べた昼食。シンプル・イズ・ベスト。「オムライスにアイス・コーヒー」今日は外は24度ありましたからね。オムライスが900円でアイスコーヒーが400円で合計1300円だけども200円割引があって。これで1,100円かな....。

 

 

 

悩みの多くは・・・いえ、殆んどは、人間関係に関する事なのかも知れません。

そして、そんな人間関係の悩みで人は怒ったり、傷ついたり、悲しんだり、時には、もう立ち上がれない位に落ち込んでしまう事があるのだと・・思います。

ダンマパダと言う仏典があります。法句経(ほっくぎょう)と言う名前の方がよく知られて居るかも知れません。そのダンマパダ(法句経)の中にお釈迦様のこんな言葉が記されて居ます。

他人と自分

ダンマパダの中に記されたお釈迦様の言葉の1つが

「他人を自分自身の様に思いなさい」

・・・と言う言葉です。たった此れだけの短い言葉の中に、多くのヒントが詰まっている居るな気がして、私が時々思い出したいと思っている言葉の1つです。

「他人を自分自身の様に思う」・・・私は100%それが出来た事が今まで一度もありません。

きっと、一生、出来ないのかも知れません。でも、それに近づきたいなとは思います。そう思うことが、何故でしょうか....。私の心を軽くしてくれるんです。

だから私は、その相手の方の為と言うよりも、自分の為にそれは続けて行くものなんだと思って居ます。

他人は本当は関係ない

もう1つ、お釈迦様の言葉があります。ダンマパダより、

「わずかづつであっても善行を積み、自分の中を善で満たす」

これは自分なりにある意味大胆に解釈するなら、よい行いは自分の為に行うもので、誰かの為にやるわけじゃない、つまり、他人は関係無いのだと言うお釈迦様の考えであると思って居ます。

以前の私は他人がすべてでした。
人の言葉や身内がすべてで、そればかり追い求めて居ました。

だけど、ある時からそんなものは捨ててしまおうと思う様になりました。

今は大袈裟に言えば、他人は本当は身内も含めて関係ないのだと思うようになったんです。

私に「自分の為にやって居た事だったのに、何時の間にか人の評価を求める様になって、楽しく無くなりました」・・・。そう話して下さった方が居ました。

おっしゃる事がよく解る様な気がしました。
私も同じだったからです。

本当は誰かの為じゃなくて、自分の為にやった方が楽しいのかも知れません。

何をやるにも。

お釈迦様がおっしゃる善行、それは自分の為にやる事なのだと要約理解する事が出来ました。

「自分の中を善で満たす」・・・なんて綺麗な言葉でしょうか。

今日は最後にもう1つだけ、お釈迦様の言葉を紹介させて下さい。

「他人が何をし、何をしなかったと言う事を問題にすべきではない。自分自身が何をし、何をしなかったかを顧みなさい」

此処まで紹介させて頂いた3つのお釈迦様の言葉は私の中ではつながって居る様に思って居ます。

結局は、他人じゃない。自分が何をどうするかが大切なのだと言う事をお釈迦様は伝えようとされたのだと思います。

他人をどうしようとかじゃなくて、自分がどうするのか・・・?

その問いかけを自分にするだけで多くの悩みは消えてゆくのかも知れません。

お釈迦様の3つの言葉・・・何時も、何時までも忘れないで居たいと思って居ます。

 

 

Flower Travellin' Band - Satori, Part II (DVD Resurrection, 2008)

 

 

「自分のやりたい事しかしない」「自分さえよければいい」「人の話を聞かない」――。あなたの身の回りにそんな「自分勝手な人」、居ませんか?

働き始めると、学生時代とは異なり、付き合う人をなかなか選べなくなります。職場やクライアント、近所に1人でも自分勝手な人が居ると、日々ストレスが溜まってしまうものですよね。

私はよく、曲やら、歌を貼り付けて掲示板に書いてあげるのですが。喜んでくれる人は喜ぶけど。ダメな人は私の事を自分勝手な人と取る見たいです。要するに大きなお世話な訳ですね。ですから書き込んでも返事が貰え無い場合は行くのを辞めました。

自分勝手な人の性格を直す・改善する方法

自分勝手な人を改善させて性格を直すのは至難の業です。しかし、身近な人物が自分勝手だった場合には、少しでも改善して貰える様に働きかけて見てもよいでしょう。少しでも穏やかな毎日が送れる様になれば、可也のストレス軽減に繋がる事でしょう。

相手の立場に立って物事を考えて貰う

自分勝手な人は、自分自身を「自分勝手」と思って居ません。自分が周囲の人に与えてしまって居る嫌悪感に気づけないからこそ、その様な性格になってしまって居るのです。もし面倒ごとを持ち込まれた際には一言、「あなたが同じ事をされたらどう思うのか」と、此方の立場を理解して貰いましょう。

他者の善行について話す

自分勝手な人は、自分の行いによって他人に迷惑を掛けた場合にも、感謝や謝罪の心を示さない傾向にあります。それは、周囲の人への興味が薄い為です。自分本位で物事を考えて居る為、“して貰った事”へ関心を持って居ないのです。

そこで、一度周囲の人が取った「親切な行動」について話し合って見ましょう。誰かを批判したり攻撃をしたりするのではなく、他者の善行について話す事で、意識を変えるキッカケになるかも知れません。

周囲からどう思われて居るかを伝える

自分勝手な人は、他人から自分がどう思われて居るか。と言う事に関心を持って居ません。そこで、一度その視点を持って貰う為にも、周囲からどう思われて居るのかを伝えて見ましょう。この時、その場に居ない人を挙げて「あの人はこう言って居た」と伝えてしまうと、陰口になる為、出来れば直接「あなたは自分勝手だ」と直接意見を伝える事が重要です。

自分勝手な人との付き合い方

自分勝手な人の性格を改善させるのはなかなか難しい事です。時間を掛けて少しずつ考え方を改めて貰う事も出来ますが、そこに至るまでは可成りの労力・時間が必要でしょう。しかし、わざわざそこまでの労力を掛けたく無い場合には、上手に付き合って行く様にしましょう。

自分勝手な人の特徴

此処では、自分勝手な人の特徴を紹介します。あなたの知って居る自分勝手な人の特徴と照らし合わせて見て下さい。

自分のやりたい事しかしない

自分勝手な人は、自分のしたい事だけをして、他の事は他人に任せがちです。そして、困った事があるとすぐに他人に頼りたがる半面、自分が他人に頼まれると嫌がる場合があります。また、自分の望む通りにならないと不機嫌になる事があります。

自分が良ければ他人の事は気にしない

相手の立場に立って物事を考える事が出来ない為、自分自身が満足する事を最優先に行動する傾向にあります。また、自分がきっかけで面倒な事が起きた時や自分が失敗してしまった時にも、責任を他人に転嫁しがちです。

自分の話は聞いて欲しいが他人の話は聞かない

自分勝手な人は、自分の感じた事や価値観ばかりを人に押し付け、自分自身は他人の話を聞きません。また、自分の意見に自信を持って居る事が多いため、周囲が矛盾を指摘したり諭したりする事に対して不機嫌になりやすいです。その為、助言やアドバイスであっても、聞かない場合があります。例えば短な例であげるなら。私の処に前に3回ほど来た。30代ぐらいの若い看護師の女性です。この61歳の私が「1970年代にロックがあった」と言ったら。全否定して。

「その当時は歌謡曲と演歌しかなかったわよ。」と言い切りました。彼女が何1970年代の事を知って居るのでしょうか。当時。私はバンドを組んで居たんですよ。彼女は平成の初めの生まれでしょうに。昭和の事など何も知りはしないでしょう?それと人が統合失調症だと言って居るのに「単なる不眠の思い込みだ」と言って「違うなら薬、何飲んで居るか教えてよ!」と言って来た女性も居ました。私はこのblogで何遍も統合失調症の事と自分の病状の事を書いて居るのにです。私が自分が飲んで居る薬の名と個数とミリ数を書いて医学的な補足を書いたら。ようやく納得しました。

***

自分勝手な人に振り回されて居ると、ストレスが溜まっていきます。頼まれた事を断る勇気を持ったり、いっそ距離を置いたりなどして、出来るだけ迷惑を被らない様にしましょう。

 

以上、今回は差別についての話になりました。実は今日。また酷い事を言われたのですが。それは次回のblog記事にて書きます。人ってどうして、すぐに約款だり僻んだりするのでしょうね?私には解りません。自分は自分。人は人では無いでしょうか・・・・・。それでは次回。また更新出来たらお逢いしましょう。

 

このblogで言ってもせんなき事だけども。GACKT君。ブチギレないで。我慢ですよ。君のファンたちは皆んな君の事はよく解って居ますからね。でわでわ。。。

 

 

コメント一覧

kiyasume
ZIPさんへ返事が遅れました。私が此処の処上げて居る記事は、
最近書いたものでは無いのですよ、、書き溜めて居たものを、、
ようやく挙げて居る始末でして・・・・・・・・。

だから、体調が悪いので、余り難しい話には着いて行けないのです。
zipさんは頭がいい人だから変幻自在に話せるのでしょうけど、、
私は特に今は、難しい事を考えると偏頭痛が起きる始末でして、、

だから暫くは音楽の話だとか、映画の話だとか書いて貰えたら嬉しいです。
すみません、返事が遅くなりまして、、仏教徒が他人から食事を貰わなければならないと言うのは修行僧の事ですよね。お寺の方ではお布施やら、、
ありますものね。すみません仏教に疎いものでして、、、

それでは、また。来て下さいね。返事が遅れて申し訳ありませんでした......。
kiyasume
ハナさん、書き込みどうも有難う御座います。

そうですね、私が前に居た地域に。被差別があって、、
そのの真ん中に道が通って居まして、、

そこに住んで居る人たち、私が観たのは、女の子の姉妹でしたが、
洗面器に石鹸とシャンプーとリンス入れて、家から出て来て、
最近ですよ?今から10年ぐらい前でしたから・・・・・・・。

家が古ぼけた和風の昔の作りでして、私はその子らを見て、、
この子らの家に、風呂、今時無いのかと思って見てました。
民の生活とはいまだにそんなものですよ・・・・・・。

今回書いた様に。2003年に生肉解体業者に、
脅迫の手紙を大量に送り付ける事件がありました。

要するにケガレて居ると言う訳です・・・・・・。

世の中に職業の貴賎も人間の貴賎もありません。
しかし人は、差別をしてしまう。それは言ってみれば
差別をすると言う事は、その人の劣等感の裏返しなんですよね。

この話は以前誰かに書きましたが。私の中学時代の、
幼馴染みの子が掛け算が出来なかったらしくて、、
少し知能が遅れて居たんですよ、、その子、、

そうしたら「死んでしまえ」とクラスの半分位の生徒から、、
殴る蹴るの暴行を受けまして、女の子たちも面白がって、、
その生徒の腹を三人がかりで蹴り上げて・・・・・・。
そうしたらそいつは吐いてしまって、、、

学校の担任の教師は、自分は関係ないと
言った態度でしたね。弱いものは、徹底的に蔑まれる、
特に今の世の中の仕組みはそうですよ。

今の団塊の世代は人を潰して、、のし上がれと言う教育
をされて居ますね。皆さんは同情は出来るけど本当に相手の
気持ちは分からない。何故なら、その人と同じ様な目に合わ
ないと分からないからです。

今から、確か28年ぐらい前でしたが、子供電話相談に、
作家の大江健三郎が出て居て、子供らに回答を答えて居たのですが、、
ある日「ねえ、何故、人を殺しては行けないのですか?」と言う
小学3年生の子供から、電話が掛かって来たのですよね。

その時に大江さんは烈火の如きにその子を怒鳴り
付けて怒りました。そうしたらネットで大江さんが叩かれて
彼の掲示板が炎上してしまいました。「何故、子供に人を殺しては
いけないかと答えられなかったのか」と・・・・・・。

そう言う世の中なんですよ。

学校で子供らはすぐに「死ねや!このボケ!」「死んじまいな。カスやろう!!」
そう言い合って居ます。今の学校は道徳の時間が無いですからね。
私の所に来た訪問看護師の歳は28歳ぐらいだと思うけど、
私が「土方歳三」と言ったら、解らなくて、私が「「新撰組」って知らないの?」

と聞いたら知らなかったんですよ。小学校。高校で習って居るはずですよね。
そんなものなんですよ。最近は。看護師も准看護師と正看護師が居ます。
差別をする訳では無いですが、正看護師は大学までいくのですよね。
看護大学です。そこで医療と医学の事を学びます。

しかし准看護師は高校中退。中学卒でもなれるんですよ。
私は差別をして居るのではありませんが・・・・・・・。
正看護婦と准看護婦の差は俄然ありますよ。
だから、この看護師さんおかしいなと思ったら。
その事を考えた方がいい。

例えば今はゲームが流行って居ますが私は一切やりません。
ゾンビを殺すシューテング・ゲームは、まるで障害者を殺して居る
如きに見えるからです。映画も私はバイオレンス映画は好きですが、、
最近の訳もなく。ただ人を殺しまくるハリウッド映画は嫌いです。

昔、バイオレンス映画の巨匠、サム・ペキンパーと言う監督が居ました。
彼の映画では西部劇の大傑作「ワイルドバンチ」と戦争映画の金字塔
「戦争のはらわた」が凄くいい映画でした。あと「ガルシアの首」とか、、

どれも暴力映画でしたが最近のハリウッド映画の様にただ殺しまくると
言う映画では無いですね。人間の尊厳と悲しみが常にありました。
見て居て感動するのですよ。そう言う映画は、そうそう最近の映画では
ジョン・ウー監督作の「狼・男たちの挽歌、最終章」が良かったですね。
凄まじいバイオレンスシーンの連続ですが。孤独な殺し屋が愛を知ったが
故に一人の女性を守って組織と戦うと言う映画です観ましたか?


最近の人たちはそう言う教訓的な映画を観ない。例えばタランティーノ
が作る映画は全て昔の映画の焼き直しですよ・・・・・・・・。
彼は映画通だから、よく分かって居ますよね、映画の作り方を。

私は同和問題はハレ・ケ・ケガレとよく言いますが、「ケガレ」とは、抽象的であり精神的な感覚上のものですよね、我々の祖先は葬儀、いや、人の死をケガレとして捉えて居たし、それに接するとケガレが身に付くと考えました。

今回同和問題で書きましたが、肉を扱う職業。皮細工の職業。
などに、人は「ケガレ」の意識を持ちます。不浄なもの。卑しいものとして、、
その職業は秀吉の時代からの人たちが背負わされて来た職業です。

また一つ話をしますが。成田に清掃婦のおばちゃんが居ます。彼女は日本人と中国人のハーフです。中国では「この日本人!!」と蔑まれて日本に来たら「この中国人!!」と蔑まられて、しかし彼女は生活の為に清掃婦になりました。彼女の掃除は完璧で、その働き献身ぶりは中学の社会科の教科書に載りました。今や噂を聞きつけた中国から、引っ切り無しに企業で働いてくれと誘いが来るそうですが。その女性は今でも成田空港で掃除をして居るそうです。立派な女性ですね。人は氏素性が全てではありませんよ。

経歴やら家柄の問題は人を見る場合に傀儡しますが。
私は人は性格とどれだけ心が暖かくていい人かと言う事で
判断して居ますよ。でもね、最近は優しさの時代に入ったと
美輪明宏さんも言って居るのですよね・・・・・・・・・。

私は思いますが被差別の事は、今後一切。後世に
伝えなければいいと思いますよ。だって差別は無くならない
でしょうから。人とはそう言う生き物です・・・・・・・・・。

簡単に話をしたつもりですが。こんなにも長くなってしまい
申し訳ありませんでした。また来て下さいね。宜しく。。。。
haha2017
久しぶりの同和問題を読ませていただき あらためて考えさせられていますが 学校問題と同じで 善し悪しの判断のできない人がいると言う事が問題なのではないのでしょうか?
教育方針とは 「良い学校に入って高給取りになって人生を楽しく生きる」とかを教えているわけではないのでしょうけれど
良い大学に入るためには 点の取れる教育が大切であって 道徳教育なんぞ必要ないとした何年間かもありましたよね。

「他人を自分自身の様に思いなさい」
本当に この一言にすべてがあると私も思います。

身分制度(同和問題)は その時代のお偉い人が自分の損得のために勝手に作ったものであるのに それを真に受けて 未だに差別を続ける人があるという・・・なんだか情けない話です。

でもね いじめられてもいじめられても生きていかなければいけないように追い詰められた人たちは まずは 仲間で力を合わす事しかありませんから 差別問題を利用して 何かをやらかすこともできてくるのです。
朝鮮人と言うものもあったと聞いていますが そこはそこで やはり仲間で力を合わせて生きる!!ことからしか方法はなかった。

でもどうしてそのような集団を作ってしまったのかと考えると 作ったのではなくて善悪の判断のできない輩に作らされたのですよね。考えてみると なんとも馬鹿馬鹿しい話だと思います。

『自分を顧みず 他人を差別するなんてことは 恥ずかしい事』 だと思えるような教育を望みます。

追伸
今日の動画は 大変良かったです。
美しい女は永遠の花ですなぁ~(⋈◍>◡<◍)。✧♡
映画の方は またゆっくり見させていただきます。
ZIP
知的土台の人柱の話はさておき、

仏教徒が日々の糧を得る為には、必ず他人から食事を貰わなくてはならないわけです。
働いてお金を稼ぐことは禁止、捨ててあるものを拾ったりしてもダメ、あくまで他人から貰う以外は方法がないわけです。
即ち、自尊心を捨てなければ食事を得られないこの方法が、修行として一番難しいのではないでしょうか。

無理に返事などしなくても大丈夫ですよ。
私は気にしたりはしませんよ。
ご自分のペースでお願いします。
kiyasume
「学校とは一定の教育目的の下に,一定の場所において組織的,計画的に教師が児童・生徒・学生に継続的に教育を施す施設」であり,『岩波小辞典教育』に於いては,学校とは「人類と民族が歴史的に蓄積して来た文化を直接の生活の為の労働から解放された場で,成長中の世代に伝達する教育・教養の為に格別に組織された施設」と規定されて居ます。

是等の規定から見ると学校は教師が「教育を施す」処であり,「成長中の世代に伝達する」処である。勝田守一は次の様にのべて居ます。「現在の学校は『国民教育』の機関として国民を形成すると言う役割を負って成立して来た。この事は近代国家発展の歴史的過程において生じて来たのである。教育を社会的統制の手段として意識的に使用しようとする意図は教化としての教育を成立させる。」「学校は一定の社会がその子どもたちを,その社会の存続の為に教育する機関」である為,教化(固定した権威にもとづく範型や規則にしたがって個人の行動を統制的に形成しようとするはたらきかけ)が必要とされる。

この様な役割を教化の役割と呼んで見たいと思います。この役割は近代学校成立当初から当然の事ながら存在しました。フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」の中で,「吾々は新しい教育によってドイツ人を一つの全体にまで育成し,その全体はすべての個々の部分に於いて。同一共通事件によって動かされ,活気づけられて居る様にしたいのである……。こうする事によって,この新しい教育が特別の階級の教育とはならないで,国民の一人の例外もなく国民そのものの教育となるのである」とのべて居ますが,個々の国民を 1 つの方向に教化していこうとする姿勢がはっきりとうかがわれます。

教化の役割は産業資本の論理からも必要であったし。パレットと言う経営者は,「立派な普通教育をうけた労働者がもっとも従順で,もっとも容易に,合理的な要求に同意し,騒動が起きた時には有益で,かつ保守的な影響力を及ぼす事が事実であり,他方もっとも無知な労働者は,もっとも手に負え無い事は事実」であるので,労働者が「よき労働者」になる為,彼らに対し教化の必要があると主張して居る。

教育方法の在り方に関しては、大きくは「開発主義」と「注入主義」の2つに分類する事が出来ると言えます。子どもたちに大人の考える「知識」を体系立てて教える事を「注入主義」と言います。「注入主義」は、知識を伝達する事には優れて居るが、子どもの興味や関心に合わせた教育とならない事から、「詰め込み」教育に陥ると言った批判がある。一方、子どもの興味関心に合わせて、教員/大人は子どもをサポートする立場である事を前提とした「開発主義」がある。「開発主義」は、子どものやる気を醸成する作用がある一方で、多くの子どもたちを一斉に指導することを前提とした近代学校の枠組みに於いては、実際に指導するには教員の数も限られて居る中で個々への対応が難しいと言う課題があった。是等の考え方は、近代学校制度が成立する以前から、教育の根本として考えられて来ました。

以上の事を踏まえて、ZIPさんの言葉を借りれば今の教育制度は個性的な教育を図るものではなくて。皆一律に同じ人間を作る事を目的として居る教育制度な訳ですよね。皆同じな人間を作り上げる制度になって仕舞って居て。個性的な人間は排除される。例えば、現在、不登校やいじめ、校内暴力、貧困、児童虐待など、子どもを取り巻く課題は複雑化・多様化して居ます。地域によっては過疎化の進行による児童数の減少、地域の繋がりの希薄化、ひとり親家庭の増加による家庭の孤立化などと言った問題も。

子どもたちが抱える課題が複雑化・多様化して居る事も、教職員にとっては頭が痛い問題。この様な教職員の労働環境、労働条件がニュースなどで広く知られる様になり、教員採用倍率は全国的に低下の一途をたどって居ますよね。言い換えれば教職員に良い人材を採用出来る機会が毎年の様に少なくなって居ると言う事。この状況はまわりまわって子どもたちにとって大きな不利益につながります。出来るだけ早期の改善策が求められる課題の1つと言えると思います。それと確かに教育の質を考えなければなら無い時に来て居ると私もそう思いますよ。

それから、最後にちょっとZIPさんにお願いがあるのですが、、
私は病み上がりなものですから、続けてのコメントははっきり言って
返事が書けません。なので当分の間。間を開けての投稿をお願い致します。

それでは また.....。
ZIP
学校教育の目的が生徒の均質・均等化を図ることにあるのだとすれば、それから溢れる者はどうしたって教師の手を煩わす厄介者になるわけです。
教師にそのつもりはなくとも、子供達は敏感にそのこと察知して、その厄介者をクラスの均質化を乱す者として、即ち、イジメという儀式の生贄として扱うわけです。
そもそも排除自体が不可能ですから、陰湿且つ陰惨な集団的行為が尚更長期間にならざるを得ないわけです。
その間生贄には、抵抗はおろか無抵抗さえ許されない、極めて過酷な状況下に置かれるわけですから、後々の人生において重篤な影響が残ることは当然なことでしょう。
そもそも教育現場というゲットーには脱出用のパスポートは発行されていないはずです。
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