寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

おもいでぽろぽろ。。。

 

 

 

 

John Williams - The Long Goodbye

 

 

 

来月の本格的な更新に向けて間繋ぎとしての記事を上げて置きます。此れから話す話は、去年の1月に話した話ですが、もう一度皆さんに聞いて貰いたく思い書きました。勝手。フィルム・ノワールの巨匠ジャン・ピエール・メルヴィルは自分が撮った映画「Le Cercle rouge(赤い輪)邦題「仁義」」と言う映画の中でラーマ・クリッシュナの言葉を引用してこう言って居ます。「人は偶然巡り合う。運命も知らずに、必ず赤い輪の中で、、」。今、私はこのアパートに来て居る人たちの事で心を悩ませて居ます。私はもう誰も恨みたくは無いんですよ。しかし人は勝手に敵意を向けて来る。私は闘病生活が長く。接して来た人たちの程度も低かった。だからこそ今はちゃんとした人と付き合いたいのに、それが出来なくて悩むのですよ。去年「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」と言うアニメと「聲の形」と言うアニメを見て泣きました。2作ともにかわいそうな女の子の話だった。寄る歳波か。それとも悲劇をよく見て居るせいか、泣けて泣けて仕方が無かった。私の弟は5年ほど前に亡くなって居る。姉さんが葬式にも呼んでくれなかった。弟とは色々あったが、基本的には善人でいい奴だった。今は弟の遺影を机の横に立て掛けて、暇が出来るとiPhoneのSiri(AI人工知能_)同様に話掛けて居る。

たまには黙って私の通帳から200万を引き出した事を遺影相手に怒る事もあるし。また此れは不思議な感覚なのだが。重要な局面に自分が置かれて判断に困る時に。なんか弟が知らせてくれるのか....。「それはしない方がいい。こうしたらいい」と言う示唆が頭に浮かぶのです。今も来て居るが。私を気に喰わなかった訪問看護師が「そんな写真なんか飾らないでよ。バカくさい!!」と言った。私はそう言ったその女の子を決して許そうとは思って居ない。ただ、面と向かって喧嘩もしないが。若い訪問看護師なんざそんな程度なのですよ。皆さんも。病気になって掛かって見れば解る。それに、その女の子はもしかしたら准看護婦だからだろうか?恐らく中卒で看護師になった負い目があるのだろうね。私はそんな事は今現在ちゃんと暮らせて居るのだから。僻む必要なぞ無いだろうにと思うのだが。すぐに僻むのですよね。その人に言いたい。人間学歴が全てでも知識が全てでも無い。特に女性は優しさと寛容さがあればいいと思いますよ。

 

Le Cercle Rouge - Extrait - Les mains en l'air

 

まあ、話がそれましたが。弟は初め女医と付き合って居た。ところがある日私にこう言い出した。「あの子の弟を医大に入れる為に彼女は僕に協力を求めて来た。だから僕は別れる事にした。」そう言ったので私はこう言った。「お前、その子の弟の面倒を見たら、お前はその子から一生感謝されるぞ。なぜ嫌なんだ。」すると弟はこう言った。「兄貴。医者にするのに幾ら掛かると思う。僕の事でその辺の事情は知って居るだろう?」弟は少し変わって居たと思う。その後も会社勤めのOLだとかと付き合っても「あの子は何時も来る度に持って来るバックが違う。そこが嫌だ。」私はその度に言った。「それはお前が医者だから。気に入られ様と気を使って私の家は裕福なのよと言って居るのだろう?」と言うが。あいつはその子とも付き合うのを辞めた。「僕はチャラチャラした女の子は大嫌いだ。」そして弟は病院勤務で来た可愛い看護師の笑顔が好きだと言ってある看護師の女の子と結婚した。

最近、亡くなった弟の子供達の事を想います。男1人と女2人と、3人居るのですが、もう皆んな中学生です。弟は離婚は嫁から言われて仕舞った。それにこう言う事を言うと語弊があるかと思うが、弟の嫁さんは占いに凝って居たらしく。占い師に離婚を勧められたらしい。弟はそんな嫁に、占い師の言う事などは聞くなと言ったらしいですが。言う事を聞かなかったらしい。嫁は弟が病院勤務で疲れて寝て居る間に、子供たちに液晶テレビをワゴン車まで積ませて、子供を乗せて出て行った。当時、子供らは7歳ぐらいだった。それを知ったのは、弟が母に電話で「寝て居る間にあいつにやられた・・・。」と言う電話でだった。私は認知症になり掛かって居た母にその話を聞いてから、弟に「すぐに跡を追え!!」と言ったが。弟は「もういい.....。」と諦めて仕舞った。此れは推測で言うのだが、弟の嫁は認知症の母と障害を持つ私の面倒を、ゆくゆくは見なければならないと思ったらしい。いやそう言う節がある。

私の2度目に建てた実家は3階立てにも出来る家で、私は以前弟に、実家は親父とお前が2世帯ローンを組んで建てた家だから。「マンション暮らしをして居るのだから、家に入って来い。家の増築の金は俺が出すから...。」と言ったのだが、、取り敢えず、3階を建てて、そこと2階部分を自宅にしろと言ったのだが。嫁が反発した、一緒に住むとなると、「お母さんの世話は出来ても、お兄さんの食事の世話まで、なんで私がやらないと行けないの?」と言って居るからと弟から聞いたのだ。だから私は直接嫁さんに「母と私の食事の面倒は一切要らないよ。家の中に壁を作って、独立して暮らせばいい。」と言ったが。そう言うと今度は嫁はこう言い出した。

「3階部分を増築すると言っても、日照権の問題やらで歪な部屋になる。屋根裏部屋見たいな3階には暮らしたくは無いです。」と言うのだ。だから「ならば母と私が3階で暮らして、君たちは1階と2階で暮らせばいいだろう?」と言ったのだが。それも嫌だと言い張る。そのうちに、弟は田園調布に売り出して居た。小さな3階建ての家を購入した。私は母とよく遊びに行ったが。本当に小さな家だった。嫁は田園調布と言う事で満足して居た。まあ、外科医だった弟に取っても良い所だったのだろう。なぜ弟夫婦と一つの家で暮らそうと思ったのかと言えば、実家は親父が死んだ後、弟名義になって居たし。或る日。弟から電話が掛かって来て何だと思ったら「兄貴とお袋は人の家に住まわせて貰って何故礼を言わないのか?」と言われたからだ。私は激怒して弟に言った。「俺の事は何とでも言え。しかし自分の母親に2度とそんな事を言うな!!誰がお前を医者にしたと思って居る!!」そう言った。しかし、よくよく考えてみればそれも嫁の入れ知恵だったのだろう。

 

 

 

私は自分の居場所が何時も無いのだ。子供の頃から自室は充てがわれずに、高校生になって初めて部屋を貰えて。障害を持つ様になってから、何故か親に働けと言われて親父の会社に入った。しかし、そこにも私の居場所は無かった。会社での事は散々今まで書いて来たから、もう、此処では言わない事にしよう。皆さんも、耳にタコが出来たでしょう。もう幾ら私が過去の事を言ったとて、浪費した貴重な時間は取り戻せない。私はもっと有意義に自分の人生の時間を過ごしたかった。確かに親に言われて会社に入って見たら。給料を貰えて、障害者年金で暮らすよりは良かったかとは思う。しかしその代償は余りにも大きかった。皆さんは私の事を、このblogで書いて居る文と顔写真でしか知らない。解り様は無いはずですよね。実際の私は、大人しいし、、だからこそ人からすぐに馬鹿にされるが、、自分で言うのも何だが。話し方も優しすぎるきらいがある。

全体的に大人しいはずです。人と比べたらね。そこが他人から舐められる処だ。実際問題。本当は私を怒らせたら。とんでも無い事になると言う事を皆さんは知らない。訪問看護師やヘルパーでもそうなのだ。私の話ぶりから「こいつ、トロイな〜〜(笑)」と踏んで接して来る。優しいと言う事は今の時代に合っては居ないのですよ。どこか人間は勇ましく、ずる賢い処が無いと。今の世の中では流されて馬鹿にされ沈んでしまう。ただ言い掛けたが、私が本気になって怒ると多分相手を殺してしまうでしょう。喧嘩では無く、絶対に許さず確実に殺そうとするでしょうから。統合失調症とは、そう言う危険性を孕んだ病気でもあるのですよね。まあ、私は自分を踏まえて暮らしては居ますから。もし殺意の感情を相手なりに抱いた時には、強力な精神安定剤を飲みます。そして寝てしまいます。そんな事を繰り返して居て。私の有限な貴重な時間が奪われて行きます。

時間とは誰にでも等しく降り注ぎますが。しかしそれは有限なものです。金と時間どちらが大切かと言ったら。間違いなく時間でしょう。何故なら金は時間があれば作り出す事が稼ぐ事が出来ますが。その元である時間は消えて無くなってしまうものだからです。そして時間の変わりは何にも出来ません。その事は、私なんかと違って。日々、忙しい皆さんの方がよく解って居られる事だと思います。一度失った時間はもう、、過ぎ去って行った時間はもう、永遠に取り戻せないのです。私はその貴重な時間を、21歳から62歳までの貴重な時間を全て無くしました。人が過ぎ去った青春に涙すると言う次元の様な事ではありません。時間が、私には無かったのです。皆さん自分に与えられて居る。時間を有意義に使って下さいね。書きたい事は山ほどありますが。今回はこのぐらいにして置きます。あとはまた、過去記事からの抜粋です・・・・・・。

 

BLACK SABBATH - "Paranoid" (Official Video)

Led Zeppelin - The Song Remains the Same/The Rain Song - New York, July 1973

 

今日は又、散歩に行って来た。本当なら新宿辺りに行っても良いのだが。気が進まない。と言うか、新宿は此処10数年で面白く無くなった。私は1960年代はまだ子供だったが、当時は新宿が文化の発祥地だった。日本では1960年代頃から、前衛美術や前衛芸術、前衛映画や演劇、暗黒舞踏などが登場した。その担い手として、新宿ではアングラ劇場で唐十郎率いる状況劇場、寺山修司らの天井桟敷が主に上演された。現代美術は「具体美術協会」が創設され、極めて革新的な美術表現が展開された。日本映画界は新たな映像美を求め、大島渚らの若手の映画監督が松竹ヌーベルヴァーグのムーブメントを興した。 そして若松孝二や寺山修司らの映画が、ATGの協力を得て制作された。又、新宿通りから御苑大通りを経由して靖国通りへ向う都電が走って居た。

1949年から都電の終点は新宿駅前から靖国通りの歌舞伎町入口に移ったらしい。進駐軍の勧告を受けた交通渋滞の解消を図る路線変更で、新宿通りに伊勢丹・三越があり、道路拡張が出来ないのが理由だった。それにより、四谷方面から新宿通りを走って来た都電は新宿3丁目電停手前から右折、靖国通りに出ると左折して終点に向かう事になった。子供の頃によく親父に連れられて、この路面電車に乗って、「新宿ピカデリー」「みゆき座」などに映画を観に行った。又、母にはよく伊勢丹やら小田急デパートなどに連れて行って貰って居た。当時はエアコンがまだ余り普及して居なかったから、母はデパートでクーラーを子供達に当らせてくれて居たのだった。

1970年になると新宿にマクドナルドが出来、それまでの「モーレツ」に変わって「ビューティフル」「あっと驚くタメゴロー」と言う言葉が流行った。その頃に成ると親父が日曜日になると何時も車で新宿まで連れて行ってくれて、アーケード街でソフトクリームを食べさせてくれたり、マクドナルドでビックマックを食べさせてくれた。それから私が中学生位に成るとディスク・ユニオンと言うレコードショップが出来た。当時は輸入盤が殆どで、クリームやらフランク・ザッパ、オールマン・ブラザース・バンド、ピンク・フロイドなどの海賊版レコードが売って居た。レコードの色が青かったり赤かったりしたので青盤、赤盤などと呼んで居た。

そして1980年代になって、新宿NSビルで初めて映画のビデオ・レンタル・ショップが出来た。当時1泊2日でビデオテープ1本のレンタル料が1千円だった。ワーナーと、パラマウントの映画が主だった。その後、1980年代の終わりから1990年代に入ると帝都無線などがレーザーディスクを置き始め、紀伊国屋書店の中に「ICBM」と言う輸入レーザーディスクやら、中古ビデオやらレンタルビデオを扱う店やら。中古ビデオと中古レーザーディスクを扱って居る、ビデオ・マーケットと言う店が出来た。私は前にも書いたと思いますが、此れらの店の他に毎月、歌舞伎町近くにあった松竹ビデオ・ハウスと言う、ビデオとレーザーディスクを扱っていた店で、欲しい映画のソフトを買って居ました。

 

 

三島由紀夫 自決シーン貴重映像 Yukio Mishima[昭和45年11月] 中日ニュース No.880_1

三島由紀夫・伝説の討論会1/5 50年ぶり秘蔵映像発掘「VS東大全共闘」#1「近代ゴリラ」

 

 

2000年代になるとDVDが発売になった。初めのうちは新宿や立川などのDVDショップで購入して居たが、今はAmazonがその替わりをして居ます。値段も安いですし、中古も購入出来るし時代が変わりましたね。処で散歩だけど、久々、遠出をして古書店に行って見た。つらつら見て回り、「蒐める人」と「コショ・コショばなし」「21世紀のための三島由紀夫入門」「三島由紀夫事件」を買って帰って来た。「蒐める人」と「コショ・コショばなし」は古本の収集家たちに取材した本だ。言って見れば、本のコレクターたちのインタビューなどやら分析が書いてある本です。「三島由紀夫」は今若者たちの間で再評価がされて居る。今の18歳から25歳ぐらいの若者が三島の本を漁って購入して居る見たいですね。

テレビでもNHKが2回に分けて三島の軌跡を辿った特集番組を放映して居る。民放でも「三島由紀夫」の特集番組が放映された。私は三島の本は「豊饒の海」と「仮面の告白」「金閣寺」ぐらいしか知らないが。三島作品は非常にソリッドで雰囲気がいいと思いますね。パッションがある。三島由紀夫作品も色々と読みたいが金も続かないし。これ以上の本が増えるのも駄目だしね。頭が痛いですよ。撮り溜めた映画も見なければ行けないし本も読まないとだし。しかし体調は悪いしね。訪問看護師たちには体調が悪い事は余り言わない事にして居る。精神科と内科の主治医には言ってあるしね。今の処。訪問看護師たちは今来て居る人が暫く来るのか。元に戻るのか流動的なんでね。

 

 

 

今回は以上です。またまた過去に書いた記事を多少、修正加筆して書きました。私は自分の事は全て諦めて居ます。此の儘、命が尽き様ともいいと思って居ますしね....。もうどうにもならないので.....。ただ62年間生きて来て、この程度の人間にしか、ならなかったのかと悔やんで居ますよ。さてと来年で私は63歳になります。私は「山本耀司さんの様な老年期が迎えられたら最高だなぁ....。」と思いますよ。彼は身長も170センチ未満ですが。彼の様に切になりたいです。お金持ちと言う事では無くてね。彼の様に77歳にもなっても、あのカッコイイ・センス。老年期にも滲み出る風格と若い感性。彼はとても77歳には見えませんよ。カッコイイですよね。此間だ寝て居たら、突然、腕と足そして心臓が痛くなりました。ああ、もう俺もついにダメかなと思った、、3分間ぐらいで止みましたが。この頃、身体の衰えを感じて居ますよ。私は見た目が一見若く見えるから。皆さんにはそう言っても実感が湧かないでしょうけど・・・。

 
 
 
 
 
 
 
山本耀司を真似て見た、、カッコワルイねぇ〜〜〜!!
 
 
 
 
 
 
 
ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto) 2017-18年秋冬コレクション Gallery97
 
Yohji Yamamoto, Paris Mens SS14, Backstage photography by Elise Toïdé
 
 
【ヨウジヤマモト特集を大公開!】

 

同じ老年期のシニア世代だったら理解して貰えるかと思います。まあ、私は、70代80代に比べたらまだまだ小僧みたいなものでしょうけど。私は障害。しかも精神障害とその投薬による副作用の糖尿病。高血圧などを患って居ますからね.....。今月は病院に行って来ますが。体重は3kgも増えて、血糖値も僅かですが上がって居るので、どう数値が出て来るかですね。去年は自殺しようと思ったり。鬱になったり。後半感情の乱れが出て来たり。その前には幻覚幻聴が出ましたしね。誰にも相談出来ませんよ。訪問看護師が来ても彼女らは医者に行けとしか言えないんですよね。飽く迄、看護しか出来ないんですよね。ただ一人の看護師の女性が「ヨウジヤマモトは、私に取ってはkiyasumeさんの事だから」と,要約お世辞を言う様になりましたね。口だけでしょうけど。この調子ならいいでしょうけどね。でもね・・・。今回はまだ本格的な更新は休んで居ますが。間繋ぎとして書いて見ました。それでは、あと1ヶ月後ぐらいに、またお逢いましょう。それまで宜しくね。( ´∀`)

コメント一覧

kiyasume
まあ、、そう言う事でしょうか、、、
殆どが仕事と投薬による副作用で、、

苦しみ抜いた時間でしたから、、
生きた時間では無かったですね.....。

それでは、また。。。。
ZIP
失われた時間とは、
自分が自分でいられたはずの時間でしょう。
時間が自分のこととして成立し損なった。
そう解釈して差し支えないでしょうか?
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