私は今、闘病中ですが、、今回も散々迷いましたが、短いエッセー文を載せます。狼ジジイと言わないでね、これでも精一杯で挙げて居ますから。私はこのblogを通してしか、人との繋がりはありません。だから、これが精一杯なのですよ。どうか解って下さいね。本格的な記事は10月の末ぐらいになってから、またアップします。それまで是等の記事を読んで居て下さい。ハッキングで文字がおかしくされて居る場合があります。宜しくお願い致します。。。
辛い時に聞いて欲しい洋楽 Let it be-glee cast
『犬の話』
私が小学生の頃だ。学校の通学路にある。ある掘りのある家の隙間から、何時もコリーが。私がその家の前を通ると鼻先を出して甘えて来た。私は何故も人間より動物に好かれる。私は何時も鼻先を撫でてやる。すると。その堀から私が通る度に顔を出して「ク〜〜ン」と鳴く様に成った。私は「可愛いなぁ」と思い。頭を撫でて居た。そして自分の朝食のおかずをアルミホイルに包み持って行って。そのコリーに食べさして居た。私は動物が好きだ。出来れば犬でも猫でも買いたいのだが。ボロアパートでは到底飼えない。大体が大家さんが許さないだろう。私は学校の通学路にある。その家まで行くのが毎日楽しみだった。しかし或時に行ったら。壁が壊されて居て。そしてあのコリーは居なかった。どうやら立派な家だが。持ち主の借家だったらしくコリーを連れて出て行ったのだろう。其れから、4年程が過ぎた。私は高校1年に成って居た。或時に隣街まで散歩で出掛けたら。懐かしい鳴き声を聞いた。通りから一歩脇の道に入って行ったら。あのコリーが、飼い主に連れられて路上に居た。私はこの犬を見て微笑んで観て居たら。このコリーが気がついて私の方に寄って来た。私は近寄って来たコリーの頭を撫でた。持ち主が「君、犬好きなのかい?」と聞いたので「ええ、、」と言って。そしてこの犬に「じゃあな、元気でな」と言って傍を離れた。コリーはジィーと私が見えなく成るまで見て居た。。。
或時。実家の前の道に大型犬が捨てられたらしい、その犬はご主人様を探して大声で泣きながら歩いて居た。そう、まさに泣いて居たのだ。近所の人達が出て来て。「あの犬、人間みたいに泣いてるよ〜〜!!」と言って居た。まさにその犬は泣いて居た「ウォ〜〜ン、ウォ〜〜ン」と。彼はご主人様の匂いを嗅いでその後を追い掛けたらしいのだが。匂いを嗅いで道路の真ん中を歩いて居るから。大型トラックが来て後ろからビービークラクションを鳴らしても。匂いを必死に嗅ぐので後ろ何か見ては居ない。イヤ気が付いても居ない様だった。そのうちに余りにヨタヨタ前を歩く犬に、痺れを切らした大型トラックの運ちゃんがスピードを上げた。犬の足はトラックの前輪に巻き込まれて後ろ足が1本折れて仕舞った。其れでも犬は足の事なぞ、どうでもいいと言った風だった。匂いをずう〜〜と嗅いで居た。そしてトラックがその犬を通り越そうとしても前を譲らずにとうとうトラックに跳ねられて仕舞った。運転手が降りて来て言った。「だから俺があれほど、どけと言って居たのに!!」、其れから30分程して保健所の連中が来て遺骸は持ち去られた。私も勝手事情があって猫を捨てた事があるから人の事は言えないが、可哀想だったな。。。。
『マリーとメリー』
私が大学2年ぐらいの時に、ある空き地の廃屋に行ったら、猫が2匹蹲って居た。1匹は親猫で、もう1匹は生まれたての子猫だった。私は朝早く餌を持ってその廃屋の犬小屋に行くと。何時も魚だったが、それを猫に食べさせて様子を見て居た。そう猫達は犬小屋で2匹で暮らして居たのだ。恐らくは、次の家に連れて行けなくて止む無く捨てたのであろう。私は、何時頃からかその猫を拾って連れて帰って2匹の面倒を見る様になった。母猫は利口な猫だった。何時も私の部屋の窓から表に出るのだが、自分で窓を開けて出て行った。そして帰って来ると、私に「帰ったよ」と言うが如きに「ウンニャ、」と言って。私が窓を開け様とすると自分で開けて入って来るのだった。そして何と自分で窓を閉めて部屋のベットに上がって来るのだった。
そして小さな子猫は私がスポイトでミルクを飲ませて育てて居た。親猫はメス猫だった。私は幸せだった。2つの小さな命を私が生かして居る。そんな風に思って居た。そのまま幸せは続くと思って居た。私が働く様に成り、私はゆきかず。けんじに嫌がらせをされて、帰って来ると。何時もイライラして居た。そのメス猫「マリー」は私を心配したのか傍に寄って来た。しかし私は心が荒れて居た。何とそのマリーを掴むと壁に叩きつけたのだ。マリーは鼻血を出すとそれを自分の舌で綺麗に拭って私に「ウンニャ、、」と言って寄って来た。私は度を失った自分が嫌に成り。マリーを強く抱きしめると暫く声を出さずに泣いた。そうしたら娘のメリーが寄って来て膝の上に乗って「ミャアミャア」と泣いた。私は泣き崩れた。
そうこうして居たら、けんじが言った。「お前さ、猫飼ってるんだってなぁ。俺も昔、マルと言う犬を家で飼って居たけどなぁ〜〜。動物なんてな世話が掛かるだけで餌代も掛かるし飼うだけ無駄だ!!」私が黙って居ると続けてこう言った。「飼うの辞めな!!」私にそう言うと、彼はニヤ付いて、あのバカ親父に何か話して居た。バカ親父は自分が無いから「おい〇〇!!猫は1匹で良いだろ親猫捨てて来い」と言った。私の周りに居る人間達は底意地が皆悪かった。私は嫌々ながら。捨てなければ成らない羽目に追いやられた。仕方がないのでペットショップに引き取って貰おうかとも思って居た。しかし周りは許さない。或日、仕事から帰って来ると。このblogでは有名な小学校もロクに出て居ない男だが。彼が猫を見せろと、突然、玄関先に入って来た。するとマリーはその男の殺気を感じたのか近寄っては来ない。
その男は埼玉までこの猫を捨てに行くと言うのだ。そして私が彼女を抱き上げると大声でこう叫んだ!!「首を絞めろ!!さっさと殺せ!!」私は彼を憎しみ一杯の目で睨見つけた。そして私がもう仕方が無いと断腸の思いで。マリーを抱えて彼の軽トラックに乗ると。ジィーと私を見つめるマリーを。愛おしみながら、彼女を見て居た。そして彼女を当時は1970年代だから空き地が結構あったのだが。そこにマリーを下ろすと彼女は捨てられる運命だともう分かって居て。一言「ニャ〜」と鳴いた。私は彼女の食事は1週間分は持って来て居た。ダンボールで出来た箱に煮干しやら何やらを入れて。「マリーこれで数日は暮らせるからな、雨降ったらドラム缶が此処にあるから中で寝るんだよ、、」そう言うと。その小学校中退のバカは、私にまだ言う。「何故、首絞めて殺さないんだ!!。」昔は、要するに貧しい農家の家で育った彼は、昔は赤犬の野犬やら猫を撲殺してその肉を食べると言う事が日本にはあったのだ。私は「何時か見て居ろ!!このド畜生!!」と思って彼を睨んだ。すると私の目を覗き込み「へへへ〜〜!!」と笑って居るのだ。
マリーは悲しそうな顔をして私を見つめて居たが。私がふと目を離した隙に何処かに行って仕舞った。私は後ろ髪を引かれる思いで帰って来た。その晩は眠れなかった。次の朝、親父も母も何も言わずに食事を食べた。私は思った。「此れからはマリーの忘れ形見のメリーをしっかり育てよう」と。私は薬を飲まされて居る事で何も出来ないが、其れぐらいはしよう。マリーも其れを望むだろう。私はそう誓った。其れから数年が経った。私の実家は2階建てだったのだが。ベランダがあり。そこから、隣の物置の屋根に移れる事が出来、そして、地上の道に降りられる様になって居た。猫なら容易い。そして彼女の大人に成った娘の、メス猫「メリー」は、彼女に似て頭がいい猫だった。或時、横断歩道で信号を待って居たら道路の向こう側にメリーが居た。私が「あれ?」と思って見て居ると。彼女はちゃんと人間の様に、信号を見て渡って向こうの通りまで行って居たのだろう。横断歩道を渡って此方まで帰って来たのだった。
そして更に1年が過ぎた。或夏の事だった。メリーが外で遊んで居て、自室で私が映画を見て居たら。母が息せき切って、私の処まで飛んで来た。私が「どうしたの?」と聞くと。なんとマリーが道路の端からメリーが遊んで居るのを暫く見て居て、母が気付いて名前を呼ぼうとしたら。ふっと居なくなったと言うのだ。私は呟いた「マリー・・・・・・・。」其れからメリーはたいそう可愛がわれて居たが。病気で4年後に死んで仕舞った。其れから月日は流れ。私の実家は弟が父親と2世帯ローンを組んで建てた家だったので。親父亡き後は、弟の持ち家になって居たのだが。弟も、今から5年前程に、亡くなって居るから。姉が実家を処分して居る。だが姉は嫁に実家を売った金を渡した。弟の嫁は弟と離婚して居る。勿論。私は追い出されて居る。そして、今から3年前に、私はこうやってパソコンを見て居たら突然意識が無く成った。そして2日間、発見されずに居て。やって来た訪問看護師が意識が無い私を窓から発見して、救急車を呼んで。緊急医療班が警官達と一緒にマンションの窓を壊して中に入り。救助されて、タンカに乗せられて、今の松沢病院に収監された。
私は意識は丸1ヶ月も無かったらしい。そして1ヶ月頃に成ると、自然に気がつき。要約目が覚めたのだが。その時ぐらいにか。或日、寝て居たら。誰かが私の腕を叩くのだ。なかなか私は起きられない。だから私はまた眠るのだが。また、誰かが、ぽんぽんと私の腕を叩く。私は眠いので薄目を開けて自分の右腕を見て居たら・・・・・・。猫の前足。其れも4本の猫の前足が私を仕切にまるで心配して居るが如く軽く叩いて居るのだった。私は「マリーとメリー」が心配して来てくれたと思って居ます。私が死んだら親と兄弟は近寄っては来ないだろうけど。マリーとメリーがあの世で待って居てくれると思って居る。ちなみに。マリーを「絞め殺せ」と言った男は難病に罹り唸って苦しんで死んで行った。私のblogを改竄して居る人たち。私は改竄されても、このblogを続けますよ。私はこのblogで知り合った人たちが居るのです。彼らは私を応援してくれて居るだから辞めません。
ワンサくん「捨て犬のテーマ」
『バカ親父』
私の親父は大概のバカだった。会社に吉川というフーテン娘がパートで入って来たのだが。鼻の下を伸ばして「吉川ちゃ〜ん....。」と言って喜んで居た。私は バカ女と嫌って居たし。親父の事を大概のバカ野郎と軽蔑して居た。ある時に親父がテレビを見て居て私に言った。「あの回答者の女の子観て見ろ。吉川ちゃんに似て居るぞ。母さんに吉川ちゃんに似て居る子が、テレビのクイズ番組に出て居ると言って来い」と言う。飛んだ大バカ野郎だった。母が言って居た。昔、事務員の頭が少し弱いバカ女を自転車の後ろに乗せて悦に耽って喜んで居たと言う。私は毎度、あのバカ親父には呆れて居た。前にも言ったが、私が子供の頃に大映の特撮映画「大魔神」と言う映画があった。どう言う話かと言うと城主が村人を蔑ろに扱い。無理無謀を働くと。大魔神と言う身長50メートルの魔神が現れて。城主を殺して去って行くと言う話なのだが。まあ、時代劇風のホラーなのだが。或時、親父が矢張りテレビを観て居てこう私を呼んで言った。「おい〇〇。あのおじちゃんを観て見ろ。あの人が魔神だぞ!!」私は訝しがって言った。「お父さん。あの人じゃないでしょう。大魔神の顔は作り物だよ?」そう言っても「お前はバカだな。何を言うんだ。あのおじちゃんだろ!!」と言い張るのですよ。私は自分の父親は大概のバカだと思った。そして私が親父は何も知らないだろうからと思い。宮崎駿の「もののけ姫が出来るまで」と言うメイキングビデオを見せたら。ピント違いの事を言うのだ。「おい、宮崎駿は風の作家だぞ!!」「あいつしか風は描けないんだ!!」どこをどう見ればそう言う事しか思い浮かばないんだと思う。そして、寝る時には持って居るラジオの安いものをイヤフォンで聴いて居る。そして其れを寝たからと外そうとすると「う〜〜ん」と言って嫌々をする。
『大魔神(Daimajin)三部作』 怒り!、何処ともなく去っていくシーン集
多分、まあ、親父は耳を塞がないと仕事の事とか思い出してイヤな気分になったのだろう。そして或映画で、父親が息子を奴隷みたいに扱い頭を殴ると、私にその真似をそっくりする。まあ、飛んだバカなのだ。バカ親父の2番目の兄貴の達吉は、母が親父の実家に居た頃に突然「ギャ〜〜」と喚いて部屋から表に飛び出して行ったと言い。後で母が「お兄さん、あの時どうしたの?」と聴いたら「ああ、あの時な。頭の中から女の声が聞こえて来たんだよ」と言ったそうだ。皆さん結婚の時には充分注意しましょう。私は親父の血筋を引いたのです。だからこんな病気をして居る。私は親父を憎んで居ます。其れは確かに子供の頃は良かった思い出もある。しかし、親父はバカだった。例えば小学校も出て居ないバカな社員と一緒に軽トラに乗って、水飴の一斗缶を100缶積んで山道を行った時にその男が「おらさ、トップにシャシャリ出ました。おらさは一番です! !」と言って身をくねらせて運転をすると。親父は私を車に乗せたときに「さぁ、おりゃあ、一番です。トップにシャシャリ出しました!!」と同じ事を言って身をくねらせて運転する。私は親父は自分が無いのを見抜いて居た。しかし哀れだとも思う。確かに明治大学を卒業してから、香料の会社に就職し、そこから独立して会社を作った。始め親父の会社は、香料を扱って居た。其処から、お菓子の材料会社。不二製油と旭電化の特約店に収まり製菓材料の会社となった。昭和30年代。親父はまだ車の免許を持って無くて、ホンダのバイク1台で仕事をして居た。私の子供の頃の記憶では、僅か3歳の頃の記憶だが、私が車に乗りたいと言うと、バイクの荷台にダンボールで出来た箱を括り付け、私をその中に入れて「坊主。車だぞ」と言って走って居た。
私はその都度「これ車じゃないよ」と言って居た。貧しかった、だが、あの時代は皆どこも似たり寄ったりで貧しかった。皆、そんな中、高度成長期になり汗水流して働いて。やがてバブル期になって行ったのだ。あの時代はそうだった。新宿争乱の時に私はまだ10歳程だったが、事件の現場の新宿に居た。新宿はきな臭く。地下道には学生が屯して居た。あの当時、美輪明宏は寺山修司の「青森県のせむし男」を公演したが。新宿で夜12時に劇が上がって控室で休んで居たら。寺山修司が慌てて入って来て。「美輪さん、頼む!!客が押し寄せて来て居るんだ。もう一幕演じてくれ!!」と言われたそうで。外を見たら、学生が3重にも劇場の周りを囲んで居たらしいですね。其れで彼女は「面白い!!やりましょう!!」と言ってやったそうです。そんな時代でした。親父に連れられて新宿に居たのですが。私はあの異常な雰囲気を今だに覚えて居ます。親父は馬車馬の如きに働いた。そのうちに、社長一家が親父に一緒に会社をやらせてくれと言って来た事から、それまでの有限会社から株式会社に会社を格上げした。資本金は一千万円だ。その金は親父の兄貴が出したらしい。だが親父の兄貴は私が会社に入った直後は私に頭が上がらないと言った具合だった。だが、ゆきかずは違った。会社の次期社長は自分こそが相応しいと言い切り、私に猛然と嫌がらせを仕始めた。「俺が次期社長だ!!貴様は何故入って来た!!」と言う。そんな中。何も事情を知らないバカな姉は「お前は何で会社に入ったんだ!!会社の時期社長はゆきかずだろう!!すぐに会社を辞めろ!!バカ野郎!!」と言って来た。親父は私が後を継げ無いと踏んで何と弟に跡を取ってくれ。会社を盛り上げてくれと泣き付いた。
弟が当時私に溢して言って居た。「まったく、嫌になるよ。親父は午前1時になると僕の部屋に来てさ。受験勉強をして居るのに、『学歴なんて無くていい。会社に入って俺の後を継いでくれ』と言って来るんだ」と言って居た。私は親父に聞いた事がある。「何で弟がせっかく医大の受験をしようと勉強して居るのに、あんたはその邪魔をするんだ!!」すると親父は言った。「俺が惨めなんだよ!!」ゆきかずは親父を陥れ、そして会社はゆきかずのものになった。まあ、言いたい事は色々とあるがもう言うまい。ただ親父もバカだった。兄弟だからと資本金を兄貴に出資して貰った事だ。確かに兄貴の息子である。ゆきかずが社長だろう。理に叶っては居る。私はあんな会社。親が無理矢理、行けと言ったのだ、私はそのせいで精神病院に3回も入院する羽目になった。確かに親父も運がなかったのだろう。しかし私はどうだ。私は親より運が無いではないか?このblogにも私を利用仕様とする人々も僅かだけど居る。私は此処で考えたい。ゆっくりと、ハッカーのハッキングは止まる様子はない、幾ら警察に通報して居ると言っても、警察でさえ手間取って居る。私は生きて来て一体何だったのだろうか。こんな目に遭う為に何故生まれて来たのだ。世の中、老いも若きも、ろくな奴が居ないものだ。話は今回は此処までにしときます。。。また更新します。しかし其れは10月になったらです。この blogは緊急記事として書いたものです。