ちょい散歩”

日常の投稿。 
1.自然や身近な出来事
2.人としての思い。
 ごく一人の視点で綴る。

謙遜(謙虚)とひがみ・・・

2017年05月19日 | こころ
謙遜であることは大切なこと。

本当の謙遜なら、人格的なこと。

しかし、ひがみとの関連が深かったり、裏返しなことも多い。

謙遜に、「私は良くないんです・・・」などと引き下がるような態度をとる人がいる。

ある程度は社交辞令もある。

しかし、「そんなことないですよ!」とその人の言葉を否定しなければ、恨まれる。

自分で自分を駄目扱いして、それを聞いている人がそれを否定しなければならない。

ひがみの押し売り状態。

「ふーん。この人は本当に自分でそう思っているのかな・・・?」なんて、間をあけてはいけない。

その人は、相手に自分を高めて欲しいだけ。

自分のお世話をしてほしい。

ついつい謙遜を装い、自分を低くすることは多くある。

しかし、自分の口で自分の事を言った以上、それに見合う反応がなくてもしょうがない。

決して貶めようなんて思ってないのに。

「ひがみ」、それは勝手に進行していく病気のようなもの。

周りの人に投げかけ、言いがかりをつける。たちが悪い。

そうしてますます、「ほらやっぱり。」、「どうせ私は」と自分の駄目さを確認しようとする。

また、ひがみの仲間を作りたがる。自分たちには届かない恨めしい人を集団で陥れるために。

「落ちるなら、みんなで落ちよう!それで平等だ!」

「苦しんでいる人(ひがんでいる人)を平等にする良いことをしているのだ!」

「出る杭、打たれる」 ひがみの国。

そして秀でている所がある人も、まずは「自分はダメですから」という類の言葉を使わなければならない。

足の引っ張り合い。

「謙遜」のお面を被った「ひがみ」

思った以上に蔓延している。


年をとっても子どもな人

2017年05月18日 | こころ
20歳で成人。酒、たばこがOK。

20代は「挑戦が許される」と言われる。自分探し、転職、海外渡航・・・

30代、そうは言えなくなり、周囲は結婚や仕事で身を固めだす。

仕事求人の制限年齢は30代あたりが多い。やり直しがきかなくなる。

40代、ベテランの域や働き盛り。20代のころの歩みによる差が顕著になる。

子育て、ライフワーク、それぞれが異なった自分のモノができる。

50代、仕事も人生も後半を感じる。後進に譲ったり任せたりする部分も増える。

60代、引退の節目をどこで持つか。引退後の身の振りを本格的に考える。

70代、これまでの過ごし方がいろいろな所で影響する。中には本格的な動きをはじめる人もいる。

以上、個人的、主観的な憶測。

20~30代で人格的に大人に成り切れない人がいるのは確かである。

一方、70代を過ぎ、人生の一通りを経験したはずの人の中に、子どもままで通してきた人がいる。

自分の事を、自分でしてこなかった人だ。

何でも人のせいにする。だから愚痴や陰口が多い。

自分の気に入らないことは受け入れられない。だから怒りの表現が多い。すねる。

自分が基準。自分が王様。相手の心中が分からない。まさに3歳児。

その人にとって何時だったか、だだをこねたら願いが通った。そして味をしめた。

自分の我が通る方法を手に入れた。

人格は子どもでも、知識があるからたちが悪い。

年齢的にももうこわい者がいない。

感じたことを直結に、そして即表現。この面においても子どもだ。

周囲は親しみを込めて接しているのではなく、恐れをもって顔色をうかがっているだけだ。

顔色をうかがうのがうまい人も多い。その人たちが子どものままの人を助長する。

本人は、それにも気付かない。

なぜだか、このような人たちは結構体が丈夫で長生きだったりすることが多い。

周囲を恐れさせて、自分を誇示して自分の立場を守り続けようとする。

「どうだ。見たことか。この私を尊敬しろ。」と言わんばかりに。

子どもが自慢して認めてもらおうと必死になっているのと大差ない。

自分を成功者だと思っている。いや、思いたい。

長年の仕事生活での抑圧の反動か?!

「これぐらいして当然だ」と思っている。

自分を客観的に見ることができない。自分のことででいっぱいなのである。

周囲に成長を求めるが、自分の成長は求めない。

「私の域まで達してみろ! まだまだだな。」と。

自分自身を養い、自分と自分の気に入ったものだけを守ろうとする。

それはもはや動物的。

心が育たなかった。もし、それに気づいたとしても、今さら引き返すなんてもってのほか。

その人たちは、その道をやり抜くしかないのである。

「お疲れ様」である。





よく自分で「牧師です」とか言えるよなぁ・・・

2017年05月02日 | こころ
自分の肩書、職業名で「私は〇〇です。」と言う。

教師、会社員、鉄鋼、技術者、アルバイトなど様々。

「私は牧師です」と言うことに一つ物申す。

職業名をどうしても言わなければいけない場合はしょうがない。

でも、「私は牧師です」と何の躊躇もなく、それどころか胸張って言うことに違和感を覚える。

その人が、本当に謙遜にわきまえて言っている場合もあるだろう。

しかし、自分の肩書、そこに生きていると胸張って言える人はどれだけいるのだろうか?

突き詰めると自分を牧師とする自己推薦である。

TPOでもあるが、自己推薦型で言っているように聞こえることが多いと感じる。

聖書には、「自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」(Ⅱコリント10:18)とある。

ことに牧師、神の働きをする聖職者に限っては自己推薦は、受け入れられない間違いと言えよう。

手に職を付けている人が自己推薦をしたり、売り込むのとはわけが違う。

牧師でも、聖書や教えをすすめるために「私は牧師です」ということはあろう。

しかし、自己推薦とは違う。

この辺、はき違え、思い込みの者が少なからずいることと思いつつ、それぞれ自身の帯を締め直したい。


何を仕事したのだろう…?!(確定申告版)

2017年03月15日 | こころ
確定申告の時期。

青色、白色あるけれど、

学校じゃ、こんなこと教えてくれなかった・・・

「扶養」に「控除」に「源泉徴収」という四文字熟語。

何をどこまで申告すればいいの?していいの?

私用と事業用の境目は?

何から何まで分けなければならない?!

あ~ 領収書整理、計算、書き込み・・・ 

これらがもともと苦手な人がいると思う。生理的に受け付けないような。

理系の人が得意かも。

申告に臨むのは、ひとつの試験勉強に臨むようなもの・・・

文明がここまで発達した現代、どうにかならないのかなぁ?

本業以外にひと仕事・・・ 本業が手につかない。

何を仕事したんだろう?

何を生産したんだろう?

社会人として。誰のためになったんだろう…

何を儲けたのだろう?

何個作ったから、〇〇円稼いだ。のならわかりやすい。

自分の仕事ぶりと、収入が釣り合っているのか分からない。

食べるのに困らず、車を持ち、基本的に不自由はない。

携帯、PCも持っている。

当然だけど、ある意味、自分の仕事の生産量や労苦を見たら、贅沢。

何をどれだけ仕事しているのだろう?

現代社会の不思議。

だれかが損をしているのか?

上手く稼ぐ人が得なのか?

仕事の達成感と見合った報酬が分かりづらいことの多い現代。

色々考えると、それまた労力。

ある人々にとっては、いわゆる「管理」、「マネージメント」、「備え」や「物事への対応の仕方」が仕事なのでしょうか?

時間制や作業労働の方が分かりやすい(※差別ではありません)

「仕事」とは?・・・

以心伝心・・・感情編

2017年02月01日 | こころ
「以心伝心」とは本来、

無言のうちに心情が相手に伝わること

という意味。

先日、ある人から感情的に強く怒られた。

感情をぶつけられたという感覚が強い。

自分にとっては悲しいような、どこか悔しいような気持ちがあった。

その人と同じようなケースはこれまで何度かあった。

今回は私も少々疲れていて、落ち込む気持ちがあまり起こらなかった。

過去の事を持ち出された。

今回の事は、故意ではないが、私に非がある。

しかし、その人の怒りの中に、その人自身ののやりきれないような気持ちを感じた。

そんな気がした。

その人のずっと以前、今回と似た経験をしたのか。

その時、その人の声は届かず、とても悲しい思いをした。

大きく傷ついて、どこかでトラウマとなって残っている。

今も似た状況に心が激しく反応する。

そして悲しいかな、同じ状況を呼び込みやすい。

それは、慢性的で気づきにくい恐れ。

その状況には誰よりも大きく心が反応してしまう。

本人も何が起こっているのか分からない。

その人にとってはただ、またやって来た悲しさに輪をかける状況。

どこかでどうにか処理しなければならない。

ぶつけられる人にぶつける。

これは想像の域だから断言できない。

でも、そうであれば、その人が哀れでもある。

同じ状況におびえる。

同じ感情が繰り返す。

私が感じた「悲しいような、どこか悔しいような」気持ちは、

その人自身の気持ち。

それが何かのきっかけで出てくる。

トラウマがあるうちは再び出てくる。

出ないのは我慢しているだけ。

だから私に何ができるかと言うと、

何もできない。

何も言えない。

自分の認めるべき非は別として、

「悲しいような、悔しいような気持ち」は自分のものとして受け取らない。

そっとそこに置いておく。

気持ちが揺さぶられるときもある。

でも、その人の感情だから。

そのまま受け止めて、自分もトラウマを持つ必要はない。

その感情の流れを、引き継いで、他の人に伝える必要はない。