まほろば自然博物館(別館)

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

悩みなく 苦もない世界が 待っている 弥陀に呼ばれて 光の国へ

2022年12月06日 | 日記

 兄、木村秀雄儀かねてより療養中のところ去る10月21日に74歳にて永眠しました

故人の生前の意向により葬儀は身内のみで相済ませました

 また12月3日に49日法要を済ませましたことも合わせてご連絡申し上げます

 故人が生前に賜りましたご厚情に深く感謝し慎んで御礼申し上げます

 

 まほろば博物館を閲覧・訪問していただいていた方は既にご存知とは思いましたが一応のけじめとしまして、弟の私が報告させていただきました

 2005年4月から17年6か月もの永い間本当にお世話になりました

あらためて御礼を申し上げます

                          佐藤良夫

 

「道尽きて ふと来し方を 眺むれば 遠く聞こえる 大窪の鐘」

                            合掌

 

 


沈黙が黙って過ぎる白いバラ

2022年10月17日 | 日記

 10[月17日は朝から雨。夕方からは曇りとなる見込み。明日申し訳ないがそのような、そんな重苦しい天気。気温は20度から22度付近。明日もに多様な天気らしい。

 

 頭は普通に動くが手や足がうっ血のために動かない。それにパソコンも見習って動かない。ただ、これだけ入力するに4時間かかった。生きてはいるがそれだけ。その連絡だけ。多くは指が動かない。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


秋彼岸俺の手にあり花があり

2022年09月24日 | 日記

 24日のさぬき市は、高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は23度から28度。明日の25日は、高気圧に覆われて晴れるらしい。

 

 本日もバイタルサインに変化はない。ないけれど、両足のむくみに加えて両手が水ぶくれのようになってきた。それに椅子やベッドから立ち上がるのが苦しくなった。またまた腹水が溜まってきた様子。次回の腹水穿刺は日曜日。あと一日の辛抱だ。でも、腹水を抜いたと言っても苦しさや手足のむくみには影響しないと思うのだけれど抜かなければもっと苦しくなるばかり。ベッドに入るにも起きだして立とうとしても自力では無理になってきた。

 

 だから、午前中は何もできずにぼぉぉっと座っているばかり。テレビも土曜日は騒がしいだけ。でも、これが幸せだと言われれば、幸せというものはつらいものだなぁと思っていた。

 

 とある薬を処方されたので消化器はよく働くようで、朝はパンに野菜サラダなんぞを普通に食べた。だから、お昼は軽く済まそうとカップヌードルにしたら、これもぺろりと食べて済んだ。その直後のことに県立病院の藤山ドクターから、「今から参りますから・・」との連絡あり。旅行だか会議とかが台風でキャンセルになってしまったのだという。

 

 急遽、食事を片付け、昼間の薬も飲んだり歯磨きしたりと大慌て。だから、おなかは余計にパンパンになっている。でも、足に力がなくなったのか、体重が重くなったかで立ったり座ったりするのが困るので、ドクターの来るのを待っていた。今日は土曜日だというのに、若くて独身だからお仕事以外のこともできるのかなぁと待っていた。

 

 およそ、一時間半あまりで腹水を4.2リットル抜いた。ぱんぱんのおなかがあばら骨が見えるほどに小さく薄くなった。だから、一人で立ったり座ったりもできるようになった。今度は来週の木曜日らしい。これで一安心だとほっとした。

 

 今日の掲示板はこれ。本文とは全く関係ないが、「人生は、いつもいつも第一志望ばかり歩けるものでない。そして必ずしも、第一志望の道を歩くことだけが、自分にとって最良と言えないことだってあるのだ。」という渡辺和子さんの言葉から。第一志望を歩けなかった私である。これまでの私の道がベストなのかどうかはわからない。あれこれとさまよいながら、それでもやりたいことをやってきたような気もしないでもない。体が動くのであれば、これからもなお、あれこれと手探りながら、試行錯誤しながら年齢を重ねた方が返っていいことなのだと考えてもいる。だから、日々勉強だと思っている。色々な人に出逢い、いろいろな風景に出逢い、その時々を見ていきたいと考えている。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。 


雨だれに生きているぞと秋彼岸

2022年09月23日 | 日記

 23日のさぬき市は、台風第15号や湿った空気の影響で曇り、断続的に雨や雷雨となっている。気温は22度から27度。明日の24日は、気圧の谷や湿った空気の影響で朝まで曇るけれど、次第に高気圧に覆われて昼前から晴れる見込み。※昨日は違うブログに書き込んで、行方不明になって大慌てで見つけてきて更新していた。

 

 本日もバイタルサインに変化はない。ないけれど、両足のむくみに加えて両手が水ぶくれのようになってきた。それに椅子やベッドから立ち上がるのが苦しくなった。またまた腹水が溜まってきた様子。次回の腹水穿刺は日曜日。あと二日の辛抱だ。でも、腹水を抜いたと言っても苦しさや手足のむくみには影響しないと思う。体調は良くはならないで悪化するばかり。

 

 今日は「秋分の日」で「休日」だという。秋分の日は戦前、「秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)」と呼ばれており、これは、歴代天皇ならびに皇族の霊をまつる儀式を行う日のことらしい。昭和23(1948)年に「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日として、秋分の日と改名。日本国民の生活に深く根づく祝日となった。私たちは、これらのことを「祭日」だと言い慣わしてきたけれど、「祭日」とは「休日」ではなくて皇室の霊祀祭の日だったという。それを、戦後になって「休日」にあらためられたという。ふ~ん、祭日と休日は違うのか・・・。私らは学校が休みなれば祭日でも休日でもよかったのだ。

 

 こういう食べ物も、「おはぎ」と言ったり、「ぼた餅」と言ったりしていた。今でも多くの人が、そう呼んでいるみたいだ。

 

 でも、秋には「萩」が咲き乱れるので「お萩:おはぎ」というらしく、春には「牡丹」が咲くから「ぼたん餅」になったとかならんかったとか。物事は多方面から眺めて呼びならわしたものだから、どっちでもいいといえばどっちでもいいのだけれど。ま、今日もまだ生かされておりますよ・・・というご挨拶まで。

 

 今日の掲示板はこれ。「どうにもならないことは忘れることが幸福だ」というドイツのことわざからの言葉である。中国の孔子も言っている。『虐待されようと、強奪されようと、忘れてしまえばどうということはない。』と。時間というのは幸か不幸か一次元に流れる。人間はそれに合わせて生きていくことしかできない。それに逆らうことが出来ないのだ。 その圧倒的な力のせいで、人は死ぬこともあるが、そのおかげで生かされることもある。それが『忘れる』ということだ。時に人は、遠い記憶の彼方に忘れたい現実を置いて、自分の時を、前に進めるのである。そうか、そうなのか、忘れることがしあわせなのか。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


秋雨を受けて恥ずかしススキの穂

2022年09月22日 | 日記

 22日のさぬき市は、湿った空気の影響で曇り、昼前からは雨が降っている。気温は22度から26度。明日の23日は、湿った空気の影響で曇り、断続的に雨や雷雨となるらしい。あの秋晴れや夕焼けはどこに消えたんやろうか。

 

 相変わらずバイタルサインはそのまんま・・・。良くも悪くもない状態。そこで訪看の金井さんに聞いてみた。「看取りの意味は、定義はどうなってるんすか」と。「あんたはすぐに暇だ、退屈だ、することがないというけれど、それは最高の贅沢で幸せなことなんよ」という。「みんなは生活をするうえで、自分が生きるために朝から晩まではたらくのよ」という。「それをしなくても生活ができるなんて最高の贅沢じゃないの」

 

 病院だと食べたくないものは捨てて、おいしいものばかりを選ぶことも、トイレもシャワーも自由にできないのよ。それに娘さんが付き添いで看病してもらえて、これが最高の「看取り」でしょ。家族そろって看病してもらえるあんたは「最高のしあわせなのよ」という。「パソコンにテレビも自由に使えてまだ不足なの」という。

 

 あんたが他人さんの時間を盗み、自分の時間は貯蓄しているじゃないの。働きづくめ、遊びづくめ、飲み食いし放題だったでしょ。今は、その貯蓄していた時間を取り戻しているの。何もせずに時間だけを食べて生きているなんて、あんたくらいなものよ」という。さすが腕ききの訪問看護師さんだ。うまくかわされてしまったみたい。

 

 そうか、時間どろぼうが時間を食べている時間なのか。まだまだ、時間の預金はたぷりとあるらしい。「ふーん・・・これが最高のしあわせなのか。」と、まだ、納得のできない患者であることよ。

 

 今日の掲示板はこれ。「命には必ず終わりがある。病気に負けたんじゃない。俺の寿命を生ききったというこだ」という大島康徳さんの言葉からで、宝円寺さんの掲示板からである。

 プロ野球の中日で活躍し、日本ハムの監督も務めた野球評論家の大島康徳さんが令和3年6月30日に大腸がんのため死去したことが報じられた5日、妻・奈保美さんが、大島さんのブログを更新。今年の春ごろに記したという大島さんの言葉をファンに届けた。タイトルは「この命を生きる」とした。以下、ブログの投稿内容。

 「この先の人生何かやりたいことがあるか?と真剣に考えてみたけれど 特別なことは何も浮かばない(笑) 高校を卒業してプロ野球選手としての人生をスタートし この年になるまで 野球一筋、野球人として生きることができた。皆様のおかげです。どうもありがとう。そりゃ辛いこともあったけど それ以上にこの世界にいなければ 得ることができなかったであろう ファンの方からの声援や感動や喜びをたくさんいただいた。貴重な経験もたくさんさせて頂いた。よき先輩、よき後輩 よき仲間、よき家族に恵まれ 美味しいものをよく食べて旨い酒をよく呑んで 大いに語らい 大いに笑い 楽しいことやりたいことは片っ端からやってきた。楽しかったなぁ…これ以上何を望む? もう何もないよ。幸せな人生だった。

 命には必ず終わりがある 自分にもいつかその時は訪れる その時が俺の寿命 それが俺に与えられた運命。病気に負けたんじゃない 俺の寿命を生ききったということだ その時が来るまで 俺はいつも通りに 普通に生きて 自分の人生を、命を しっかり生ききるよ 大島康徳」。

 

じゃぁ、また、あした、逢えたら、いいね。


雨の後夏水仙は背伸びする

2022年09月21日 | 日記

 21日は、湿った空気の影響で曇っていたが、夕方からは高気圧に覆われて概ね晴れる見込み。気温は17度から22度。明日の22日は、湿った空気の影響で曇り、午後は雨の降る所があるらしい。

 

 相変わらずバイタルサインはそのまんま・・・。良くも悪くもない状態。そこで訪看の金井さんに聞いてみた。「看取りの意味は、定義はどうなってるんすか」と。担当ドクターは確かに「看取りの段階ですが、病院ですか、自宅ですか」と言った。それが6月の中旬だった。あれから三か月が過ぎた。それでもバイタルに変わりはない。

 

 「看取り」介護とは、身近に迫った「死」を避けられない状態にある人に対しての介護のことで、肉体や精神の苦痛を緩和させつつ、人としての尊厳を残したままの生活支援を目的としている。これまでは死の間際となった際、肉体に機器をつなぐ、栄養を直接胃に流し込むなどの治療で延命治療を行ってきた。しかし、これらの行為で人間の尊厳を保つことができるのかというと、疑問は拭いきれないことになる。「看取り」介護では、医師の指示に従って痛みを和らげる方法をとり、静かに自分らしい最期を迎えることを支援するものだという。

 

 ここ数年、感染症対策で、病院での看取りはできなくなった。病院で静かに旅立つのか、自宅で家族に、人生の最後の御礼を言って人生の区切りをつけたいかと問われると、答えは後者が九割を超えることだろう。私も後者を選んだ。本当の健康ではないにしろ、食事もテーブルで自分で食べるし、トイレにも自分の足で行くこともできる。でも、腎臓炎のためのカテーテルや、心臓の心不全で酸素マスクも離せない。それだから、私は病気なのか、病人ではないのかと考えたりもする。

 

 「看取り」を実行するためには以下の条件があることを理解する必要があるらしい。
・どのような医療処置を持っても回復する見込みのない対象者に限ること。
・医師や複数の専門家と家族の連携が重要であり、家族にも負担が発生すること。これらを医師や専門家から説明を受け、十分理解したうえで、手続きをすすめる。

「最期は自宅で迎えたい」そう望む患者さんもいるらしい。自宅での看取りの場合、看取りを行ってくれる医師を探すことから始め、入院していた病院や介護施設で紹介してもらえる場合もあるが、「在宅療養支援診療所」というグループが自宅から半径16km以内にない場合は、自宅での看取りは難しいかもしれない。

 

 私の場合、担当病院が遠くで往診を頼む医師がいない。誰が死亡診断書を書いてくれるのかも心配だったが、介護でお世話になっているケアマネージャーさんが一連の流れを組んでくれたので安堵したものだった。また、自宅での介護は経済的な負担が少なくすむのだが、反面、いつも家にいて面倒をみる人が必要になる。家族だけの介護はとても大変なので介護保険サービスや、訪問看護を利用してもらえることにもなった。また、患者本人の意思表示ができるうちに、終末期にはどうしてほしいか、エンディングノートなどに明確に残しておいたので、いざというときに慌てずにすむはずである。

 

 今日の掲示板はこれ。「境遇や環境を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる」という、渡辺和子さんの著書、「置かれた場所で咲きなさい」の中からのことばである。「こんなはずじゃなかった」と思ったこと。あなたは、今日まで生きてきて何回あっただろうか。受験に失敗し不本意な進学をしたこと。目標を持ち、仕事をしていても会社に馴染めない自分。結婚し幸せになれると思ったが、理想とは違う現実。人生は嬉しいことも嫌なこともある。山あり谷ありだ。しかし、人は闇の中で、もがき苦しんでいるとき、自分も周りも見えなくなる。辛く悲しい気持ちは、脳を、身体をすべてを麻痺させる。今回紹介する本は、渡辺和子著「置かれた場所で咲きなさい」というエッセイ集。著者はシスターであり、岡山市にあるノートルダム清心学園の理事長だった。聖書の教えなどを交え、生き方や人生の在り方を説いたこの本は、悩める人々の心の支えになった。160万部のベストセラーである。

 

じゃぁ、また、あした、逢えたら、いいね。


秋の風落ちた胡瓜が曲がってる

2022年09月20日 | 日記

 20日のさぬき市は湿った空気の影響で概ね曇っていた。気温は23度から26度。明日の21日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みとか。大型台風だという割に、奥方の野菜畑の水やりにはならなかったみたい。雨も風も近寄らなかった。大山鳴動して鼠一匹と猪が一頭。

 

 先日の腹水穿刺以降、尿の量が減ってきている。オシッコの量が半分ほどになってきて自分だけでは立ち上がれなくなった。バイタルサインに変化はない。

 

 さて、昨日は日本全国共通で敬老の日らしい。国民の祝日に関する法律(以後、祝日法)では「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日と定められていて、祖父母や両親、恩師など人生の大先輩を敬い、感謝の気持ちとともに長寿のお祝いをする日なのだという。敬老の日が国民の祝日として制定されたのは、1966年のこと。2002年までは9月15日の固定日だったことを覚えている方もいると思う。9月の第3月曜日に変更されたのは、2000年からハッピーマンデー制度が適用されたためだという。

 

 ハッピーマンデー制度とは、祝日の一部を月曜に移動させ、土日を含め3連休とし、余暇活動を拡大促進させようとするもの。祝日法の改正がおこなわれ、成人の日、体育の日、海の日、敬老の日が、固定日から月曜へと変更になり、2003年以降、敬老の日は9月の第3月曜日と定められたのだが、ただし、敬老の日の日付が変更となることへの反対も根強く、2001年、老人福祉法を改正。9月15日は「老人の日」として残ることとなったのだという。へぇ~「老人の日」なのかと考えていたら、孫の「なぎちゃん」が花束を持ってきてくれて、簡単な昼食会になった。

 

 「ひまな時には本を読めば~」と言われたのだが、「いまさら読書なんて・・・」と相手にしなかったのだが、プラモデルは肩が凝るし、ドライブに出かけようとして玄関でよろけてしまって身動きできずにやまったし・・・。

 

 で、仕方なく本を読むことになった。孫の「はやて君」が読んだ本らしい。奥方がよろこんで読み終えたらしく、「時間泥棒には最適よ」と、嫌なことを言われたので読んでみた。まだ、半分しか読んでいないが、「確かに仲間かも・・・」と思って読んでいる最中。でも、現役時代には「時間泥棒」のように他人さんの時間を奪い続けてきた。その貯蓄した時間を、今になって返済しているのかな・・と、思ったところ。

 

 

 今日の掲示板はこれ。「人がどう思うかより 自分がどう生きたいか 自分らしさが生き易い」というもの。自分は何をしたいのか、自分はどうしたいのかよりも、他人にどう思われるか、他人にどう評価されるかということを優先して生きているうちに、自分の本当の気持ちが分からなくなってしまっているもの。自己肯定感がとても希薄になって、自分に自信が持てない状態になっているのである。苦しいけど、相手の事を思ってしまったり、もめ事は怖い、人にどう思われるかも怖いし結果の自分の損も考えてしまう。そう思ってると、何も言えなくなり、何も行動が起こせなくなる。「何をやりたいか」「何を大切にしたいか」「どんな自分になりたいか」「どんな生き方がしたいか」のような自分の望みを知ること。「何をすべきか」だけでなく、その人らしさ(=「どうありたいか」)に焦点を当てることが大切である。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


これほどの朱染めの絨毯誰が踏む

2022年09月19日 | 日記

 19日のさぬき市は台風第14号の影響で雨が降り、雷を伴って非常に激しく降る所がある見込み。気温は27度から32度。明日の20日は、台風第14号や湿った空気の影響で朝にかけて曇り、未明は雨の降る所があるらしいし、昼前からは高気圧に覆われて晴れる見込みだそうだ。

 

 昨日は久々に熱を出してうんうん・・とうなったり、緊急薬をのんだり、訪看の金井さんに電話したりとバタバタしてしまって、更新の時間がとれなかったのである。そんな余裕もなかったりして。バイタル的には昨日も今日も変わりはない。それでも奥方は畑の野菜やバラの様子を見に行って全身ずぶぶれで戻ってきて、「水中ポンプが流される・・」と真剣な顔をしている。「二万や三万くらいがどうした。あんたが流されたら私は餓死してしまうことになる。老人が田んぼを見に行って流されとるやろ・・」というと、未練そうに「そうしよか」で一応納得したみたい。

 

 まぁ、この時期だから台風がやってくるのは珍しくない。それにさぬき市地方には大きな被害は出ない様子。ま、わからんけれど。気温は27度から32度。風も穏やかだし、風雨もない。それに最近は電線がよくなったものか停電も少なくなった。

 

 「停電になったら即座にガスボンベに切り替えるのを忘れないように」と訪看の金井さんに言われて、「あ・・・、そうか・・」と納得した。在宅透析や電気式の電動心肺装置などの医療装置を使っている人は大変やなぁと思った。それに、こうした設備をどこへどうやって避難させるのかも大変だなぁと思った。この圧縮機だけでも重いのだ。

 

 最初は、こうした普通の「カニューレ」を使っていたのだが、最近は「口蓋酸素マスク」というものを使わされている。これには大きな穴が開いている。それでも酸素が漏れないという。

 

 それでも夜も蒸し暑いし、それに顔をしばるというのも変な感覚である。

 

 今日の掲示板はこれ。「人のことばは善意にとれ そのほうが五倍は賢い」というシェイクスピアのことばから。つい最近にあったことなのだが、「なぜこいつは無駄に乱暴で否定的な口調でコメントを返すんだろう」と思って、その人間に敵意を抱いてしまった。私は理不尽がとても嫌いで、いや、もう嫌いというレベルではなく、トラウマに近いと言ってみいいくらいだ。もし私が相手に対して敵意を覚えてしまい、それを相手にぶつけ、あるいは仕返しをしてしまったら、『負の連鎖』は続いていくだろう。 それは時間にして、体力にして、どれぐらいの浪費になるだろうか。それは本当に建設的なのか。『無駄』ではないのか。この限り有る人生の中で、そんなことをしている時間は、どれだけあるのだろうか。それを考えていたら面倒くさくなるのも私なのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。