何も言ってくれない
トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」を読んでいるとなんだか怒られているような気分になるのだが、神様に怒られていると思うとなんだか有難くもある。年をとると、いろいろと言ってくれる人がいなくなる。若いころは、いろいろ言われて腹を立てていたが、全く若気の至りで、今思えば素直に聞いていればよかったし、そうしていればもう少しましな人生になっていただろう。後悔先に立たずである。いろいろと言ってくれる人のいる間が花である。子供の頃の両親もそんなものだろう。子供の頃は反発していても、大人になって有難さが身に染みる。全て子を思っての言動であった。しかし、本当に今は、私に対して遠慮なく何でも言ってくれる人はいなくなった。年よりの私にみんな遠慮がちだ。そう言う意味でも「キリストにならいて」は貴重な本だ。今の私にも反発もせずに素直に受け入れられる本だ。私も少しは素直になったのだろうか。教会にいて最近亡くなった坂本兄弟は、私のことを神に守られていると言っていた。不満だらけの私であるが、端から見ればそう見えるのかもしれない。坂本兄弟も私にいろいろ言ってくれる有難い人だった。そういう人を失ったのは悲しい。これからも「キリストにならいて」は何度も読んでいこうと思う。そして自分への戒めにしていこうと思う。
荒井公康
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