入道雲の彼方へ(^.^)

本当にあった事 僕が覚えている事、思う事。

そもそもが、磯子プリンスホテルから始まった

トップガンな教官

2019-07-22 00:31:22 | 日記

僕が中学に入った頃には 藤沢飛行場は閉鎖になり、調布飛行場迄 訓練飛行の為に通う様になっていました。

僕が中学2年生の時、1学年上にO君という私立中学校に通う いかにも生意気なお坊っちゃま君に 僕は操縦を習う事になりました。

何故そうなったかの経緯については全く分かりませんが、兎に角 彼は中学校3年生ながら操縦資格を持っていたのです。僕の教官でした。

乗っていた軽飛行機は当時新型のエアロスバルで、彼の父親所有と聞いていました。

漫画で言うなら、ちびまる子ちゃんに登場する花輪君を危なくした感じでした。

彼との初飛行は、非常に重苦しい嫌〜な感じで始まりました。

何せお互い生意気盛り
最初、儀礼的な挨拶はしたと思いますが、後はお互いの技量が判る迄会話は一切ありませんでした。

まるで特攻隊の訓練飛行にでも行く様でした。
僕は、シートベルトを何時もより強めに締めました。

その日のフライトプランは、上越線に沿って高崎迄行き、榛名山から旋回し赤城山,磐梯山を経由し、桶川飛行場に寄り調布飛行場に戻る 約1時間半から2時間のコースでした。

O君は、レイバンのサングラスがよく似合うキザなガキで、英語も達者でした。

最初から気になっていたのですが、O君は全てが速く、行動も飛行機の速さも かなりのパワーで飛んでいました。

また、旋回,上昇,下降等の角度もまるで◯◯◯世界◯戦の戦闘機を操縦するが如くであり、僕は、しばしばそのGに快感さえ覚えていました。
いわゆる怖いもの見たさの様な肉体的な反応を感じていました。

60度の右旋回に入った時には、プ〜ンとエンジンが泣き出し、半分ストール状態になりながら、まるで◯◯に突っ込む戦闘機の様な気分にさせて戴きました。

僕は彼の横顔をチラと見ました。すると彼も僕の横顔をチラと見ていて目と目が合いました。
その時何も言わなくても、僕はO君の操縦技術に憧れを持ってしまいました。
O君もまた僕になら自分の技術を披露してもいい、と思ったのでしょう。

その日は僕にとって生涯忘れる事が出来ない 民間機と戦闘機の狭間を感じた1日でした。

今であれば、エアーレース,アクロバット等の目的を持てますが、
当時、民間機の飛行管制は非常に煩く、訓練と言っても遊覧飛行の域を出ないものでした。

僕とO君は、予定時間を30分程オーバーして調布飛行場に戻りました。が、
案の定、警察,自衛隊の警告で大目玉をくらいました。
O君は、始末書まで提出させられました。

この時を境に 僕とO君の操縦するエアロスバルは、青い空に 高く 大きく広がって伸びている
入道雲に吸い込まれて行きました。

その先の事も考えずに・・・

この続きはまた🐇🐬🐈
おやすみなさい☆


磯子プリンスホテル

2017-06-16 20:21:24 | 日記
僕は小学校2年生の時、生まれて初めて、温厚な父に殴られました。父に怒られたのは、生涯

その1回だけでした。

その時父に言われた事、「2度とお母さんを怒らせるんじゃない!可哀想だろ・・お母さんい

くつになったか知っているだろ!」

僕の母はその時52歳で更年期真っ盛り、45歳で僕を産んで、僕はまだ小学校2年生。

小学校のPTAとかで授業参観等、僕の母が和服で来ると、クラスの友達は「お前ん家はお

婆ちゃんが来たの?」とか言われ、その時は少し恥ずかしかった。

他のお母さん達は皆30才前後の若さでしたから。その頃はそれが普通でした。

僕は、物心ついた時からお母さんに怒られひっぱたかれていた毎日でした。それ位僕はいたず

らっ子だったのです。

でも、父に怒られたその日から、父も母も僕の事を全く怒らなくなりました。

僕も、優しい父や考えてみれば優しいお母さんを2度と怒らせない様にしようと、心に決めま

した。

その日を境に、僕の人生はとてつもなく忙しくなりました。

僕は自分の事は自分でする様にしました。また、お母さんが困っている時には、出来るだけお

母さんが楽を出来る様に、買い物,掃除等は、僕が出来るだけ手伝う事にしました。

この様な事があり、1ヵ月位経った時、飛行機好きの兄が、僕に「夜、美味しいカレーライス

を食べに連れて行くぞ」

兄はもうその頃は実家では暮らしておらず、僕が3歳位の時から近くですが、1軒屋を借りて

大手自動車会社に勤めていました。

僕は兄の事が余り好きではありませんでした。年が20歳も離れているので、気も話も合うわ

けありません。

ところが、美味しいカレーライスの話で、たまには一緒に行ってもいいかな?と思い、僕は兄

について行く事にしました。

多分、伊勢佐木町辺りだと思い、少し僕も自分なりに身綺麗にして、兄の運転するイスズヒル

マンに乗り出掛けました。

海岸辺り16号線を少し走ると、急な坂道に入って行きました。

僕は、あ・・これはプリンスホテルの道だな、と思いました。

僕にとって、プリンスホテルはその当時、一生縁の無い、外人さんや軍人の将校さんとか

特別な人が行く場所だと思っていました。

はなたれ小僧だった僕は、結構緊張して来ました。

ホテルのエントランス前で、ボーイさんにドアを開けられ、「どうぞ。お食事ですか?お泊ま

りですか?」僕の頭の中には未だ無い言葉をかけられました。

すかさず兄は、「食事です。」と言って車から降り、僕にこっちだよ と手招きしました。

車は、すかした蝶ネクタイのボーイさんが、「駐車場にお預かり致します。」と言い、乗って

行きました。

僕は、カレーライスを食べるのがとても大変だな!と内心思い始めていました。

兄はボーイさんに「弟、未だこういう所来た事無いから、すみませんね。」と、気軽に声

をかけていました。

ボーイさんは「レストランのご予約はなさっていますか?」

兄は「午後4時頃、2名で予約してあります。一応7時半頃と伝えてあります○○です。」

ボーイさんは「少しお待ち下さい、只今確認して参ります。そちらのソファーでお掛けにな

ってお待ち下さい。」

僕はというと、金髪の外人さん 皆背が高く、とにかく皆大きくて、英語がロビーで飛び交っ

ているので、兄を見失わない様にする事で精一杯でした。

時折、金髪の女性が僕の頭をポンポンと叩き、笑顔で手を振って行くのですが、僕は本能的

にお辞儀をする事しか出来ませんでした。

内心、とんでもない場所に来ちゃったな・・と思っていました。

5分程で、蝶ネクタイをしたレストランの案内係の人に「只今お席をご用意致しておりますの

で、もう少々お待ち下さい。」と言われましたが、

「僕に言わないで下さい、兄に言って下さい。」と言ったところ、

「あ、お父さんですか?」となり、

それを聞いていた兄は、「よく言われるんですが、弟ですから。」と言い返していました。

僕は、ロビー天井のシャンデリアに、目が点になってしまいました。

程なく「お待たせ致しました。こちらへどうぞ。」と、案内された席は、水銀灯に照らされた

青いプールと緑の芝生が広がって見えるとても夜景の綺麗な席でした。

おまけに、座る時に椅子を引き押ししてくれるサービスにも驚きました。

テーブルの上にはナイフ,フォーク,スプーンがぞろっと並んでいる事にも驚きました。

僕の頭の中は、これでカレーライスかよ・・恥ずかしい・・よく兄貴平気だな・・

僕の心の中に見えない変な見栄が、生まれて初めて芽吹いたのを感じました。

ボーイさんは、分厚いメニューを持って来ましたが・・

心の叫び「僕はカレーライスしか食べる事が出来ないのに」

少しメニューを見ましたが、ビーフカレーが1500円!

というのを見て、もう何も考えるの止めよう。この景色とサービス込みで1500円なのだな

と、自分に言い聞かせました。

兄を見ると、頻りにメニューを見ているではありませんか・・

「お前はここのカレーライス、1回食べてみな。」僕はただただ頷くだけでした。それが精一

杯。周りはアメリカの将校さんばかり。そして金髪の女性ばかり。

その様な中で僕が何を言えましょうか・・
 
兄は、チーンと鳴る呼び鈴でボーイさんを呼び、「お願いします。」

ボーイさん「こんばんは、いつもご利用ありがとうございます。今日はビーフハンバーグがお

すすめです。」

兄「じゃ、ビールとそれで。弟はカレーライスお願いします。」

僕、心の叫び「ウソだろ!兄の給料は7000円のはずだろ!ボーナスだって3万あるかどう

かでしょ!」

僕はもっとも 兄がイスズヒルマンで来た時に、もう全てが計算出来なくなっていました。

ヒルマンは、当時クラウンに匹敵する車だと僕は認識していましたから。

因みに、ラーメン30円の時代、横浜駅で食べても50円の時代でした。

食事を待っている間、ジャズの生演奏が始まりました。

錯覚かもしれませんが、もしかしたら、クラリネットは北村英治さんだったかもしれません。

生演奏,ジャズは生まれて初めて聴きました。とにかく最高でした。

そうこうしているうちに、僕のカレーライスがきました。

ボーイさん、「お好みでどうぞ。」 福神漬け,らっきょう,ピクルスの刻んだもの

カレーライスを見ると生クリームが綺麗に飾り付けられていました。

兄「美味しいから食べてごらん。」

僕は一口食べて・・これがカレーライス!美味しい!びっくり!

いつものお母さんのカレーライスとは違う(ハウスカレー)・・色が違う・・黄色くない・・

焦げ茶色・・とろけそうな牛肉

この夜景,このジャズ,このサービス・・

日本がアメリカに戦争で勝てる訳が無い・・

僕はこの時嫌いな兄を、大人になる迄に追い越さなきゃ、と 心の中で思いました。

勿論、僕は兄を好きではなかったですが、兄への見方,考え方が変わりました。

もっと驚いた事は、兄「父は10年間進駐軍にただ居た訳じゃないよ。父は何でも知ってい

るから。よーく覚えておきな。」

僕「覚える事一杯、やる事一杯」と思いました。

この夜僕は感激で、なかなか眠る事が出来ませんでした。

磯子プリンスホテル これが僕の第一歩になった事は間違いありません。

その後、磯子プリンスホテルでの想い出、沢山あります。

おやすみなさい☆




僕の初飛行

2017-06-14 22:27:27 | 日記
それは僕が小学校3年生の夏の出来事です。

僕の兄(20歳年上)と藤沢飛行場(現在はありません)に行った時の事です。

僕は民間機を見たのは、その日が初めてでした。

飛行場に着き、兄の後をついて行くと、兄は振り返り、僕に向かって言いました。

「今日はお前を飛行機に乗せてあげるからな。お父さんお母さんに絶対に言うなよ。」

と念をおされました。

兄は、掘っ建て小屋の様な事務所に入って行きました。

それは、今思うとフライトプランを出し、セスナのキーの受け取りに行ったのだと思います。

僕は15分位の間、停まっている6機位のセスナを見て触っていました。

飛行機の機体には日本飛行機連盟と書いてありました。

僕は機体に触ってみて、びっくりしました。

なんと、翼,エンジンを除いて、防水ビニールの機体でした。

コックピットを見ると、余りにもボロくて汚く、これ本当に飛行機?これ本当に飛ぶの?

と思いました。

遊園地のボロい回転式の飛行機と変わらない!とあれこれと考えていると、兄が大きな浮き袋

を持って、「さあ、行くぞ」と、僕に浮き袋を背負わせ、

前後1人づつ乗るタイプの、今で言えば訓練機だったのでしょうが、そのボロい機体がビニー

ル(テントの様な素材)のドアを開け、僕は後ろの席に浮き袋を持って乗りました。

一応シートベルトらしき物をした様な気がします。

兄は前の操縦席に乗り、サングラスをかけ、早速、計器チェック等をして、離陸の許可を無線

でとっていました。

兄は気取って得意そうな顔をしていました。

僕に振り返り、「辻堂海岸と鵠沼海岸の間でアベックが沖合いに流されているので、お前、近

くに行ったら低空飛行するから、フード(今のキャノピーもどき)を開けて、持って来た浮き

袋をアベック2人の近く、当たらない様に落とすんだぞ。」と、兄は言いました。

その時、急いでいる様子で、離陸許可も直ぐに下り、直ぐに滑走路に出ました。

僕は、兄が飛行機の操縦が出来るとは知らず、大丈夫かな?と、不安になりました。

まして、機体のビニールは2~3箇所穴が空いていましたから。

これは・・・ジェットコースターより恐いな、と思いましたが、兄には僕が弱虫だと思われる

のが嫌で、兄が振り返り僕に親指をたてたので、つられて僕も兄に親指をたてました。

機内は、エンジンが煩くて話が出来る様な状態ではありませんでした。

発進前に、メーターのチェック,エルロン(後部の翼)及びフラップ,ラダーのチェックも終わ

りました。

僕の小学校3年生の夏、初飛行でした。

兄はエンジンのパワーを上げ、一路滑走路を全速で進み、途中、何かフワッとしたなと思った

ら、見事に離陸していました。

当時の藤沢飛行場は山の頂上にあったので、回りをを見ると、もう、100メートル以上は上

がっていたと思います。

2分も経たない内に、目標の海が見えて来ました。

兄は、慣れている様で、なかなかスムーズな飛行をしていました。

離陸後、10分も経たない内に現場海域に到着。

直ぐに辻堂海岸から鵠沼海岸に向かって岸から2~300メートルの所を低空で飛行して行く

と、それらしいアベックが直ぐに見つかりました。

兄は僕に、人差し指でその2人の方を教えました。

その後、僕にフード(キャノピー)を開けろというジェスチャーをしました。

ところが僕は、どうしたら後ろのキャノピーが開くのか分からずもたもたしていると、

兄は、その2人の上空を、多分20度以上の角度で旋回を始めました。

僕は、キャノピーの開け方も知らない・・おまけに20度以上での旋回は、シートベルトを調

節していなかった僕は、浮き袋を体から外そうとした時、僕が海に落ちてしまうと思いまし

た。

焦ってシートベルトをきつくして、浮き袋は僕の体から抜け、キャノピーの開け方も咄嗟に分

かりました。

兄が左手でしきりに僕に浮き袋を落とせというサインをしていましたが、僕はその2人を良く

見るととても溺れている様には見えませんでした。

何故かと言うと、その2人は、セスナに向かって助けてくれという手の振り方ではなく、あっ

ちへ行けという手のアクションでした。

それに良く見ると、2人は大きな大きな浮き袋の中に抱き合って入っていました。

おまけに2人は素っ裸でした。

僕は兄に、下を見る様に肩をたたきました。

兄は知らん顔をして、僕に浮き袋を落とせという合図をさかんにしていました。

僕は何故か、子供ながら段々頭に来て、海のアベックに浮き袋を投げ付けました。

が、速度と旋回角度の勘が無かったので、近くには落とせましたが、ぶつける事は出来ません

でした。

海のアベックは、案の定、僕の投げた浮き袋を無視しました。

兄は、頼まれた事、遂行完了の旨を無線で話していました。

それから海岸沖を1時間程飛行しました。

その間、緊急無線等は入りませんでした。

海岸は、7月末の日曜日でどこも蟻の巣の様でした。

兄と僕は、それから飛行場に戻りましたが、藤沢飛行場は滑走路がガタガタで、着陸に兄は苦

労している様でした。

これが僕の初フライトになりました。

その後僕は18歳迄、時々(土曜日,日曜日)早朝、フライトする様になりました。

勿論、兄とも乗りましたが、危険な教官とも乗りました。

危険な教官との想い出は沢山あります。

因みに僕は、パイパーチェロキーが好きでした。

おやすみなさい☆