9/13さて、このメールで議論の叩き台となる「景観活動の今後」について私論の骨子を述べていきたいと存じます
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「景観」については、様ざまな視点から語ることができます。
「まち」を中心に歴史から見る視点、建物の色・形・配置などから見る視点、自然物(植物も含む)との調和から見る視点等など。
ここでは「生産と消費」という視点から 葉山の景観について論じてみたいと思います。
この視点から見たケースが、もっとも実現の可能性があると考えるからです。
またこの視点は、わが会の創立者故杉浦敬彦さんの最後の小論文にも表されています。
私は、その延長上で論を進めたいと思います。
9/17
前回は、景観について「生産と消費」という視点から述べる旨書きました。
今回は、その論旨の一回目で主に消費について述べます。
かつて葉山は小さいながらも林業、農業、漁業の三者が互いにからみ合った生産現場でした。
今から七十年ぐらい前までの話です。
しかし、その後、『太陽の季節』あたりから行楽客がおしよせ、海は生産の現場から行楽の現場へとうつっていきました。
その頃、多くの別荘が手放され、大会社の保養所となり、それも一時期で土地は切り売りされ、宅地へと換わっていきました。
また、周囲の畑地も急速に宅地へと換わっていきました。
一方、海では遊漁船が増え、またたく間に海は「生産現場」としての姿をかえました。
更に、東京オリンピックが拍車をかけて葉山の海は日本有数の遊びのための海になっていきました。
畑地は奥へ奥へと封じこまれ、木古庭、上山口、長柄への一部に追いやられてしまいました。
山は大規模な団地造成で切り崩され林業も衰退していきました。
こうして、葉山の海、畑、山は生産現場から消費の現場へと変わっていったのです。
私の下山口の家も七十年くらい前に畑地から宅地へと変わっていったものです。
段々畑時代の石垣が今も残っています。
当時 近所では朝 漁を終えた漁船が帰ってきたことを記憶しています。朝早く浜へ出てみると そうした漁師から何かしらおこぼれを頂戴したものです。
こうした動きに併行して大きく変わっていったものがあります。
それは住民の意識です。これが大事です。
次回はその事についで書きます。
9/20
前回は、「海、山、畑」のトライアングルが畑の宅地造成によってバラバラにされ、それぞれが生産現場としての機能を失っていった事を書きました。そして 住民の意識が変わっていった事を。
今回は、最も大事な住民の意識の話です。
宅地造成によって大量におし寄せた新しい住民が葉山に求めたものは海の見える美しい風景であり、遊ぶ場であり、疲れた心を癒す山の緑です。
少々汚かったり、におったり、危険だったりする生産現場ではありません。
こうして海は海水浴場、沖にはヨットと釣り船という構図ができ上がりました。
一方、宅地はどんどん整備されスーパーやコンビニやファミレスが出来、それなりに便利になっていきました。ベッドタウンの完成です。
おまけに御用邸まであってちょっとしたプライドをくすぐります。
山はとりあえず緑の借景の場であり、畑地は宅地となるまでのただの地面です。海は眺めがよくて遊べればよい。
これが今の住民のほとんどの意識です。しかし、もし、そこに産業と呼べるような生産現場が誕生したら、住民の意識はどう変わるのでしょう。
次回は生産現場からのまきかえしについて書くつもりです。
9/23
前回は、宅地としての葉山がいかに完成していったかを述べました。
今回は、生産地からの巻き返しです。
一.絵屏風活動
山の地主のダイワハウスの後押しもあり、十年近く前に葉山町上山口・木古庭地区の町内会を中心に絵屏風活動が起きました。
これは昭和三十年代の地区の風景や人びとの暮らしの様子を一枚の絵屏風にまとめてみようというものです。
まだ昔からの生活習慣が残っていて、高度経済成長が始まる直前の時期です。
この時代を掘り起こすために、村の長老ともいうべき人々に聞き取り調査を行ったり、写真や実物など古い資料を集めたり、集会を重ねて皆で思い出を掘り起こしたり。作業は約3年に渡りました。
その作業は、未来への継承という意味も含まれていますから、上山口小学校の生徒たちにも手伝ってもらいました。
長老が子どもたちに昔の農作業の話を聞かせた事もあります。
こうして、絵屏風の完成までの間、人々は改めて昭和三十年代の地区の様子を追体験していきます。
そして現在の地区と比較し、その違いを実感することになります。
大事な事は「違いを実感した」事です。
当たり前のように見ていた今の地区の風景や今の暮らしぶりに、長老たちは違和感を持つようになります。
この違和感が原動力となって里山復元運動へと繋がっていきます。
次回は、イノシシ騒動について述べます。
9/27
前回は「生産地からの巻き返し」一回目として絵屏風について述べました。
今回は、今も続くイノシシ騒動です。
東日本大震災以降 百数十年ぶりに葉山にもイノシシが現れました。
ここは気候温暖で山の木も大きく餌となるドングリなど木の実が多く瞬く間にイノシシは数を増やしていきました。
多い時には二百頭近くまでふくれ上がったといいます。
増えたイノシシは里へ下りてきて悪さをします。
そこで、主に上山口・木古庭の人々が立ち上がりました。
ここで問題になるのが山の木が育ち過ぎイノシシに充分な餌が与えられている事です。
荒れた山はイノシシの格好の棲みかなのです。
そこで一部の農家は山の木を伐り昔の里山に還すことによってイノシシとの緩衝地帯を設ける事にしました。
忘れられた葉山の山は期せずしてイノシシの出現によってクローズアップされました。
イノシシとの闘いは今も一進一退です。
町行政がイノシシ問題に本格的に取り組み、多くの住民が山の問題に関心を寄せない限りイノシシとの闘いは続きます。
町行政のあと押しは、住民自身が行動する場合に大きなチカラになります。
上山口・木古庭中心とした一部の町民は荒れた山を何とかしようと今日も山を駆けまわっています。
さて、次回は「上山口・木古庭の未来図」です。
10/1
前回は、生産現場からの巻き返しの二回目、イノシシ出現で山の問題がクローズアップされた話を書きました。
今回は「外部からの視点」についてです。
研究会のメンバー、渡邊もえさん(ルーヴィス勤務)は、数年前工学院大学の大学院修士課程の学生でした。
イタリア留学中、「イタリアの地方を回って 葉山もイタリアのスローシティと言われる街と似た香りがする」という内容のメールを私に送ってくれました。
帰国後、卒業制作に「上山口・木古庭の近未来」を取り上げました。
渡邊さんは、絵屏風活動の皆さんと親交を結び、改めて上山口・木古庭を回って聞き取り調査を行います。
その結果、仕上げた修士課程の卒業制作の内容は、私の記憶にある限り、次のようなものでした。
・できるだけ自然に、人々の集まる場所を地区に数か所設ける。
・その周囲にいくつかの施設を設ける。
例えば、
杉山神社、上山口会館の辺り、上山口小学校の近く(昔文房具店のあった所)、新しく外部からの会社(例えばソフト制作会社)が宿舎として使えるような施設を作り、その前には、菜の花の咲く畑などを配置する。
そして、次に書く石井裕一さんのお店…。こんな感じでした。
全てが歩いて行ける距離にあり、誰もが自由に散策できるという訳です。
このデザインプランは、イタリアのスローシティと絵屏風に描かれた世界を下敷きにしているように感じます。できればここにドイツのクラインガルテンと言われている貸農園などがあれば、この地区は農業地区として輝きを増すでしょう。
これは外部の者だからこそ描ける世界であり、彼女のイタリア体験が生きたプランだと思います。外部からの客観的な視点は重要です。
ここに農業生産地としての上山口・木古庭の萌芽を感じています。
次回は、「内側からの変革のエネルギー」について書いてみたいと思います。
10/4 前回は「外部からの視点」ということでメンバーの渡邊もえさんの私案についてでした。
今回は「内部からの変革のエネルギー」と題して、メンバーの石井裕一さんがつくった牛肉販売を中心にしたお店について書きます。
正直、現在進行形の件については、事実関係を書くことも、それを評価することも大変難しい。また、これは事業であってうっかりしたことを書けない側面もあります。
その上で 敢えて 私の視点からこのことを取り上げることにしました。上山口にとっても大きい出来事だからです。
石井さんは 一家をあげてこの事業に取り組んでいます。「一家」と書いたのは、石井裕一さんを中心に奥さんの智子さんや子供達が それぞれの役目を担って農業から販売まで一つの事業体として動いているからです。
これは 古い家族労働の姿ともいえるし、最も新しい家族という共同体のあり方ともいえます。おそらくこの家族は、地区へ一石も二石も投じて、それが消費社会であった葉山のあり方を変えていくことになるでしょう。それは将来の話です。
石井さん一家の仕事はまさしく「地産地消」です。
私が気になっているのは「地産地消」というあり方に一石を投じたことです。「地産地消」とは、生産者と消費者が地域の中で直接向き合うことです。一つの理想的なあり方として美しく語られていることが多いように思います。
しかし、生産者にしてみれば 命の問題がある。そのことに智子さんの次の一言で鋭く気づかされました。
「牛が出荷されて、お肉として帰ってくる」
そこには「命」の問題があります。
普通、スーパーなどで買い物をしていると肉にしろ野菜や果物にしろ 単なる品物のひとつに過ぎない。しかし、牛を育て、その牛の肉を直接販売している農家にとっては肉は肉ではなく、命の一部ということになるのではないか。そのように思えるのです。
野菜や果物でさえ、我々は命をいただいている。「地産地消」はそのような生々しいことを思い起させてくれます。
消費社会にドップリ浸っている私達にはこれはショックです。
生産とは 一次産業にあっては命の問題を抜きにしては語れないはずです。
これは全て、遠くの地方や外国で行われていることではなくて、私の隣りで行われていることです。
地産地消とは、そのような現場を沢山かかえるということです。
石井家は、これから多方面に生産現場を拡げていき、消費者との接点も拡がっていく事でしょう。
農地や山地を生産の現場として より多く活用していく事でしょう。この動きはあまりに速く、予測することはできません。
しかし、地元の人間として 絵屏風活動や渡邊さんのスローシティの思想と、深いところで結び付きながら進んでいく事になると私には思えます。
次回は 今まで書いた事をすこしまとめ、交流について触れていきたいと思います。
10/8
今まで 絵屏風のこと、イノシシ騒動のこと、渡邊もえさんの未来図のこと、そして石井家の地産地消の話など 今、上山口・木古庭地区で起こっていることを挙げてきました。
これ以外にも、田んぼ復元の動きなど、地区全体で様々なことが行われています。
それぞれは 未だ小さくお互いの結びつきはありませんが、確実に生産地復活の方向へ向かっています。
これらの動きは、いずれは葉山のまちを取り囲む海や山へと何らかの影響を及ぼしていくことになるはずです。
とはいえ、現状はいいことばかりではありません。
一部の農家を除いて規模は小さく、農業で暮らしていけるところは殆どありません。
また、活動している人の平均年齢は概して高く、例えばイノシシを追いまわして野山を駆け巡っている人達の多くは七十才台です。なかなか足並みを揃えてという訳にはいきません。
おそらくは 数人の先駆者がリードしていくことになるはずです。
上山口・木古庭以外の人間の視点も大事です。地元の人々が価値を認めていなかったものに光を当てるのは外部の人達です。
しかし、よそ者に対する目は厳しい。よそ者がリーダーとなった場合、話は殆ど壊れます。
時間をかけ、情報を取り、慎重の上にも慎重に。そして行動を起こす場合も 地元のサポート役に回るといった配慮が必要です。
葉山には、葉山と東京など外部を結ぶ いわば定住型の行楽客ともいえる人間がいます。東京などから移住してきた人々です。
海岸などにいると、どれが行楽客でどれが定住型行楽客か分からない。
彼らはよく遊ぶし かなりエネルギッシュで、例えば、新しいお店ができるとたちまち飛びつく。彼らの間で流行れば、そのお店には数か月後、女性誌やテレビがやってくる。しかし、そのお店が期待に反して内容的に大したものでなければ 潮を引いたように居なくなる。お店はたちまち潰れてしまう。そんな場面を幾度となく見てきました。
中には畑の作業にも興味を持ち、熱心にハーブなどを植えたりする人もいる。何でも興味のあること、それが最先端の事であると感じられることであれば飛びついていく。
彼らの嗅覚やエネルギーを無視はできません。
どう取り込むか考えた方がよいように思います。
まとめてしまえば 上山口・木古庭地区では色々な活動が行われている。それは皆バラバラだがひとつの方向に向かっている、長い間無視されてきた生産地の方向へ。ひとつひとつの活動は今は小さくとも、やがて大きな流れにしていかなければならない。そのためには 外部の人間の介在が必要かもしれない。ひとつの方策は葉山への移住者の心を捕らえること。これが新しい時代の先端だと思わせることです。
住宅地、つまり消費地の終焉はみじめです。やがて高齢化し過疎地になり、荒れた野山や空き家や淋しい海だけが残る。
そうした葉山にしないためにも 畑や山や海の生産力をあげ、生産者と消費者が共存できるまちにつくり変えなければならない。
また 町財政的にも産業と呼べる安定したものを作り出さなければならない。そう確信します。
綴ってきた事は「景観」と関わりがない問題のように見えるかもしれません。
景観は あらゆる問題の入口であり、出口です。
景観上、不自然なことがあれば そこには何か大きな問題が潜んでいます。その問題を取り除かない限り、不自然な景観は残ります。このことを、例の南郷上ノ山公園の斜面で学びました。次回は その事について。
10/11
南郷公園の斜面を開墾しようと手をつけた理由は、始めは単純なものでした。
葉山の玄関口があまりにも汚れている。玄関の掃除をしよう。これは何回かに渡ってメンバーの石井裕一さんから提案のあったことです。また かつて故杉浦敬彦さんも葉山の玄関である長柄地区全体の景観を気にかけていましたし、できる事から手をつけようということになりました。
開墾当時の南郷公園北斜面は、前面ツルに覆われて、大きな桜の樹でさえもツルに絡まれて枯死している。そして、周囲の杉の木にまでツルが触手を延ばし、次々と枯死しかかっているという有り様です。
ひと夏かけて苦労してツル類やら笹類を取り除いてみると、そこは大きな斜面崩壊の地であったことが分かりました。
葉山の地質上 地盤がもろく、その上、戦後の植林政策で、無理をして根の弱い杉を植えそのまま放棄してしまった結果、大規模な崩壊が起きてしまいました。
ここは、実は、葉山の山の問題、国の政策上や経済上の問題を典型的に表現している所でした。たまたま下に人家がなかったので人災は起きていません。
似たような所は 葉山の山のあちこちに見られます。今年夏、南郷中学校付近の崖崩れも同じような理由です。
ともあれ、私たちは、この斜面に根のしっかり張る桜類などを植え、地面を固めていこうと数年間挑み続けています。
これがメンバーの皆さんには実に評判が悪い。場所は 崩落地ですから急斜面、その上夏草が刈っても刈っても生えてきて せっかく植えた桜の樹を殺そうとします。成果が現れるのは、植樹した苗木が育つ数十年先です。体力は要ります。殆ど徒労に近い。
愚痴をこぼしているのではありません。景観上問題のある所をよく探ってみると根の深い問題が必ず現れてくるということです。マンション建設問題などの場合も同じです。個人の財産の問題が絡まるからなおややこしい。
景観にようやく現れてきた時には、問題はこじれにこじれて どうにもならないところまで来ていると見た方がよいように思います。
私達は「景観まちづくり研究会」です。
表面上現れてきた問題から その根本を探って、どうすれば生き生きしたまちがつくれるのか考えなくてはなりません。
南郷上ノ山公園南斜面の問題は区域を限定して多少の汗をかいても整備できるところまでもっていきたいと思います。
南郷公園南斜面の整備によって得たものは、周囲の人からの信頼です。例えばイノシシの会の人々、絵屏風の会の人、また行政当局のそれぞれの窓口などなど……。
この数年で築いた信頼は今後何をするにも役に立ちます。
上山口、木古庭の一連の動きは、バブル時代には起きなかった動きです。時代の大きな流れをよく見て前へ進め、葉山でなければできない農業を根幹に新しい産業を打ち立ててほしい。消費のみの時代は終わりました。チャンスもある。
都市近郊地域だからこそできる何かが必ずあるはずです。
ポイントは、海を見たり、山を見たり、畑地を見たりする時の住民の目です。
山を見て、大木が生い茂り それを美しいと見るか、それとも崩壊寸前の危険な山と見るか。
あるいは、海を見て サーフライダーやボートで遊べる場と見るか それとも磯焼けが進行し、痩せたウニだらけの枯渇寸前の磯と見るか……。
住民の見る目によって同じ姿でも随分変わります。
生産という視点から見ると、特に一次産業から見ると葉山はギリギリのところまで追い詰められています。
極端な話、住民の山や畑や海を見る目が変わるだけでも、半分は成功です。
私は,畑地からの「生産」の声があがるのが最も速いと思っています。
葉山の七割を占める山林は もはや殆どが大会社に占められ林業組6合すらありません。
海の磯焼けの問題は 個々に危機感を抱いていてもまとまりのある行動はとれていません。
畑地には あげてきたように、今 農業のパワーがある。繰り返しますが 今がチャンスです。
「葉山」を名ばかりのブランドにしないために 大地から声を聞き、生産と消費のバランスのとれたまちにしたいものです。
できるはずです。
10/15皆さま
九月十三日から九回にわたって 拙文をお読みいただきありがとうございました。
これは 議論のための叩き台です。
十分に叩いていただいて結構です。その上で 研究会の活動内容を決定したいと存じます。どうかよろしく。
伊瀬知