音の葉に埋もれて。

不定期。
最近音楽更新ばっかりなので、「言の葉」から「音の葉」への昇格(?)。
ずっとこのままかどうかは、気分次第。

無理無茶無謀無限無駄無題

2012-02-02 12:07:11 | weblog
僕だってたまには文書でブログを更新したいと思っているんだけども、読む人おらずなんてことになってちゃ虚しさこの上ないので書くに書けないという事情があったりなかったりしつつも、ぶっちゃけてしまえば書くことがないんですよ。
今日はいい天気ですね。
という一文を水増しに水増しを重ねて作文用紙一枚は軽く埋められると僕は自負しているものの、流石にそのきっかけとなる一文すらも不在の状況では難しい訳ですよ。
一粒の金を取り出して「これを10倍にしてみせよー!」とか言われたならば、一休さんもFXなり何なりで増やせるかもしれないですけども、何もないところから金塊取り出せるのは錬金術師ぐらいのもんですよ。
生憎僕はそんなマジカルパワーは持ち合わせていないので、錬金もホムンクルス生成も無茶な訳で、それぐらい今大変なことをしようとしているわけです。
分かりますか、分かりませんか、どっちでもいいです。
誰か適当に話題を下さい。適当にこねて伸ばして熟成させてふっくらさせてみますから。
ああ、降りてきた降りてきた。
 
最近地震が多いですね。
まるで地震速報が日刊になりつつある今日この頃ですよ。
お陰で今この瞬間に本当に揺れているのか、それとも自分が揺れているのか、あるいは心が揺らいでいるのか分からなくなる始末。
1,2週間おきにネットでは「○日に大地震が来るぞー」なんて地震少年が駆け回りますからね。
でも騒がれた末に来ないのは良いんですよ。
不安になれば人はそれに備えようとしますし、備えあればどれほどの憂いを防げるかは去年日本中の皆様方が痛感したことと思いますから、いつ来ても良い状況が保たれるというのは好ましいことです。
でも『狼少年』の話で我々が学ぶべきことが一つ。それは、現状に慣れてしまうことです。
いつ来るか分かんないもんが今日来るわけねーべーなんて油断が身を滅ぼすのです。
30年以内に来るかもしれない、なんて言われたら、30年×365日を分母に、今日起こる可能性を分子として見てしまいがちですよね。
でも、何十年以内とかぶっちゃけ関係ないのですよ。信頼できる情報筋だからなんだって話ですよ。公的な研究機関とか名前がついたって、ただ国から認可されてるとか、税金で食ってるってだけの話で。
だから偉い、だから凄いって証拠にはならんのです。
問題なのは、今日それが起こるか否か。
そう考えると、常に確率は五分五分な訳ですよ。
ああ、今日は来なかった。でも明日は分からない。
また今日も来なかった。でも、明日はどうだろう。
それの連続であってしかるべきなのです。
流石にそればかりだと安息がなさすぎて辛いですけどね。
「かもしれない」「だろう」は、いつだってネガティブな方面に使うべきなのではないかと僕としては思うのですよ。
油断は大きな敵と言うじゃないですか。やばいんですよ、あいつら。
常に自体は最悪を考え、それに備えた上で安心を感じればいいのです。
「これじゃ足りないかもしれない」「こんな備えじゃ危険だろう」
そんな想定で備えて備えて備えまくって。
「これで大丈夫だ!」「きっと乗り越えられる!」
という断定で安堵する。
それが一番なんじゃないですかね。

ああ、久々になんとかそれっぽく文章が書けた。
ちと短いけど、高望はしないのさ。
また暫く文章とか書かないブログが続く『だろう』けど、気長に待ってくれれば、『きっと』、また、『多分』、こういう更新を、する、『かもしれない』よ!
なんちゃって。
では、縁があれば、また。