斧節【onobusi】様から記事転載
【『PHP』昭和60年10月号】
厳しく叱らなければならないときに優しく包み、大きく包容しなければならないときに叱責する。
どうも人間というものは、そんな間違いを犯しやすい。
スポーツでも似たところがあり、勝って勝って勝ちつづけることによってさらに強くなる時期もあれば、負けを繰り返すことで強くなる時期もある。
勝たなければならないときに負け、負けなければならないときに勝つと、大成しない。
おそらく、私のそんな考えは誤っていないと思う。
私は37歳で、自分の人生体験を人さまに教訓めいて語る資格はまだないが、37年という短い歳月の中で味わった最大のやさしさとは何であったかを思い浮かべてみたい。
私は昭和47年の10月、25歳のときに、日蓮正宗創価学会に入信した。
自分が、得体の知れない奇妙な病気にかかったことが一番の動機であるが、これほどまでに世間やマスコミに攻撃されつづける宗教は、あるいは途轍もない哲理を掲げているのかもしれないと感じたからであった。
私が小説家になろうと決意したのは、それから3年後であり、『螢川』で芥川賞を頂戴したのは、さらに3年後であった。
芥川賞を受賞して半年ほどたった頃、私は創価大学で池田大作先生とお逢いした。
池田大作氏は、私にとって師であるから、ここでは先生と書かせていただくことにする。
よく晴れた日で、大学の構内には、私と同年齢の友人たちが集まって日なたぼっこをしたり、とりとめのない話に興じたりしていた。
すると、遠くから池田先生の近づいてくる姿が見えた。
先生は私たちの前で立ち停まり、ひとりひとりに近況を訊き、激励し握手を交わした。
だんだん私の方に近づいてくる。
ところが、先生は私には目もくれず、私をとぱして、隣の青年と話をし、これから大学生たちの催すフェスティバルを一緒に見ようと誘った。
私だけを外してである。
私は先生と一瞬目が合うたぴに何か喋ろうとするのだが、ロを開きかけると、先生はじつにあざやかに視線をそらしてしまう。
とりつく島もない。
みんなは先生とともに去ってしまい、私ひとりが残された。私は腹が立った。
先生が、わざとそうしたのであることは判った。
判っただけに、よけい腹が立ち、「なにが池田大作だ。えらそうにしやがって」と思ったのである。
私は電東に乗ってホテルヘ帰る道すがらも、ホテルに帰り着いてからも、腹が立って腹が立って仕方なかった。
しかし、時間がたつにつれ、なぜ池田先生が、私にそうしたのかを考え始めた。
私は、自分が少し恥ずかしくなってきた。
「俺は芥川賞作家なんだぞ」という言葉が、私の中から聞こえてきたのである。
自分は、なんといやらしい顔をして、先生の前に立っていたことだろう。
先生は、そんな私のすべてを、瞬時に見抜いたのだ。
ああ、俺はなんというちっぽけな恥ずかしい人間だろう。
俺は自分の頭のうしろに、「芥川賞作家でござい」という看板を立て、弟子の分際で師を待ったのだ。
それに気づくと、私は転げ廻りたいほど、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなくなったのである。
あした、たとえ池田先生に「宮本輝なんか知らないよ」と門前払いされようとも、自分は自分の非を遠くからお詫びし、ご挨拶をして大阪へ帰ろうと思った。
翌日、私は再び創価大学へ行った。
ちょうど大学祭の日で、先生には来客が多かった。
しかし、校舎の廊下で私は先生とお逢いすることが出来た。
先生は私を見るなり、自分の方から歩み寄ってこられ、
「きのうは、ごめんね」
と小声で言われたのである。
私はまだ何も言っていない。
自分の驕りや非礼を反省しお詫びする言葉をひとこともロにしていないのである。
「私ときみとのあいだには、世間の肩書きなんか、何の関係もないんだ」
そう言われたのであった。
私はこの7年前の出来事を生涯忘れないだろう。
あのとき、池田先生に叱られていなかったら、私は青二才の分際で、芥川賞の看板を楯に一人前の作家づらをして闊歩し、天下を取った気分で驕りたかぶるつまらない作家のままで終わったに違いない。
あのときの、先生の無言の叱責は、おそらく、私のこれまでの人生で受けた最も大きなやさしさである。
――世間の肩書きなんか、何の関係もない――。
これは人生を考えるうえでも、深い意味を持つ言葉だと思う。
この小さな地球の、あまつさえ、たかが小島でしかない日本で、一時的にもてはやされ、肩書きを冠せられたとて、それがいったい何だろう。
そして、その肩書きの上にふんぞりかえり、えらそうな口をきく連中が、この日本という小島の中にも、うようよしている。
人間は、どうしようもなく、そのように出来ているのだ。
叱られたことのない人は不幸である。しかも、叱るということは難しい。
本当の愛情がなければ、本当の叱責など出来はしない。
真のやさしさとは何かを考えるなら、そこには、真の叱責とは何かについて思いを至さなければならない筈なのである。
最近、私の義姉が離婚した。
4人の子供は義姉が育てることになった。
上は中学1年生の男の子、下はまだ2歳にもならない女の子である。
私はその子供たちの父親の役を果たさねばならなくなった。
近くに住んでいるので、ひんぱんに遊びにくる。
私の息子とケンカもする。
だいたい私の息子の方が悪い場合が多いけれど、あきらかに、義姉の子が悪いときもある。
だが、私は自分の息子は叱れても、義姉の子を上手に叱れない。
とりわけ、上の子はこれから難しい年代に入るので、気を遣ってしまう。
私は父のいなくなった甥や姪たちの、父親代わりになるつもりだが、どうしても本気で叱るのが恐いのである。
だから、ついお小遣いを与えたり、やさしく笑って誤魔化してしまう。
けれども、そのやさしさが、真のやさしさではないことを知っている。
当然、子供たちも感じるであろう。
叱ることよりも、やさしく接する方が簡単なのである。
いま、人々は叱ることが下手になった。
裏返せば、真実のやさしさをも忘れたと言えるかもしれない。
校内暴力の問題は、その象徴のような気がする。
人に物をほどこすことでその善行に酔うのと同じ次元のやさしさが、あちこちに見受けられる。
しかし、人間を育て、蘇生させ、勇気づけるやさしさは、そんなうわっつらなものでは決してないのだ。
強力なエネルギーを必要とし、深い懐を必要とし、まず先に相手を理解することが必要になってくると私は思っている。
ところが人間は、烈しい自己との闘いなどまったく放棄し、やさしくしよう、やさしくされようと願っている。
そんなやさしさにすら、人はあざむかれる時代になったのではあるまいか。