2022年、年末。
「寝たきりになってしまったよ」と連絡を受けた。
焦った。どんな状況なのかわからないけど、咄嗟に会いに行っていいか尋ねた。
「来てくれるの嬉しいよ〜」と返ってきたときに、これまで遠慮していたことをひどく後悔した。
その日が来た。
クリスマスが近づいていたので、雪だるまのプレゼントを持って行った。
ベッドの上の彼女は、弱々しくも、やっぱり可愛い笑顔。ほっとした。
クリスマスの装飾をしていた旦那様が、雪だるまに電池を入れてくれた。
それを見て、無邪気に喜んでくれた。
この日、内心「泣くもんか」と気を引き締めて会いに行った。こどものクリスマスプレゼントの話になった時は、ついに涙を堪えられなかった。
彼女の小学生の息子は「ママの病気を治す薬が欲しい」と言ったという。
手を取り合って、ただただ一緒に泣くしかなかった。
クリスマスを迎えられることを喜びつつ、別れ際の言葉が見つからない私は
「年明けの誕生日には、お祝いに来るよ」と手を握るのが精一杯だった。
目を合わせての最後の会話がそれだった。
実は話すこともできないほど辛い日々の中で、この日はたまたま体調がよく、話せたようだった。今思うと、奇跡の日だった。
それから10日ほど経ち、年明けに来た連絡は、旦那様からだった。
また、慌ててかけつけた。
すっかり痩せてしまい、びっくりした。
うとうとしていて、目はしっかり開かない。
耳栓をしていた。
音が脳に響いて苦しいらしく、迂闊に声をかけられない。そんな中で、目を閉じながら必死に書いてくれた筆談メッセージ。
私の宝物。
帰り際にかけた言葉は「また来るね」。
その翌日、ついに迎えた彼女の誕生日。
花束を持って、会いに行った。
お誕生日の装飾が素敵で、旦那様の深い愛に胸がいっぱいになった。
ベッドの上に横たわる彼女はというと、たった1日経っただけなのに、まるで様子が違った。
息は絶え絶えに、がんばっていた。
もう、目が合うことはない。
耳はもしかしたら聞こえているかもしれない。
静かに、おもいきり泣いた。
手を握って、私たちの“浅い”友情の歴史を語り、この不思議な縁を懐古して辿った。
そして、こんな病気をしてもなんて美人なのかと...お母様と旦那様とたくさん話した。
ひとしきり話し、泣き、、帰る時間に。
もしかすると...もうこれで会えるのは最後かもしれないと感じた。
最後の声かけは、やはり「また来るね」。
そのとき。心なしか...
全く力が入ってなかった彼女の手が、弱々しくも明らかに私の手を握り返してくれたような気がした。
その翌日、彼女は旅立った。
友達2人、そして、うちの母が、一緒にお通夜にかけつけてくれた。
棺におさまる彼女のお顔は本当にキレイだった。まるでフランス人形のよう。
友達2人は涙をたくさん流していたけれど、前日に辛そうな顔を見ていた私は、可愛くお化粧を施してもらっている姿に安堵し、心の底から嬉しさがこみあげた。
またいつか、天国で会おうね。
またみんなでランチしようね。
あっ。その時、私たちは年老いてシワシワ!?
もう〜!勝ち逃げしてずるいな〜!
もともと美人なのに、いつまでも1人だけ若くてキレイなままなんて!と、泣き笑いした。
翌日は仕事で告別式には行けなかったが、母が参列してくれたことが本当に嬉しく、救われた気持ちだった。
闘病5年。
これまで、彼女は何度も辛い手術や治療をしてきた。そのたびに、どんなに怖い思いをしてきただろう。
髪がなくなったとき、好きだった運転ができなくなったとき、食べたいのに食べられなくなったとき、そして我が子のことを想ったとき...
そのたびにどれほど泣いただろう。
絶望の中で希望を探し続け、辛い選択を迫られるたびにまた絶望したのだと思う...
想像を絶する。
でも、棺の中の美しい彼女の顔を思い浮かべ、今はこう思う。
彼女の人生が「辛かった」だけではなく、ただ少し他の人より短かったけれど素晴らしい人生だったねと見送ってあげたい。
お利口さんで素晴らしい息子さんをこの世にのこした。
お母さんの頑張りぬいた姿を見てきた彼は、必ず優しく強い子に育つ。
お母さんの分もしっかり生きていくだろう。
そして、残された私たちもまた、彼女が生きたかった未来を...どんなに辛いことがあってもしっかり前を見て歩んでいこうと思った。
命をもって確認させてくれた。
ありがとう。
心からご冥福をお祈りします。