なぜ瞑想をするのか
もっとお金があったら、もっと美しかったら、あの人と結婚できたら、もっと大会社になったら・・等々欲求はつきません、では何故こんな欲求を思うのでしょうか、実現したら幸せになるのでしょうか。
少し考えてみて下さい、実はものを欲しているわけではないのです、それを手に入れることで得ることが出来るであろう幸福感を手に入れようとしていることに気づいて下さい。
ではそれが手に入ったら、幸福に成り続けることが出来るのでしょうか?
経営が成功し世界一になった、Bゲイツ氏は今幸福でしょうか、実は彼は2番に成るのが怖くビクビクした生活をしていたのだそうです。
同様に、手に入れた地位名誉を美しさを失いたくない、この状態でいたい、もっとほしい等々きりがなく、結局幸せを続けることは出来ません。
これはいま生活していると思っている世界が+-のエネルギーバランスで成り立っているために、良くなれば次に悪くなると言うサイクルに成っているのです。
ですから「問題を乗り越え続ける」ことが大事だという成功哲学が出てくるのです。
私も、成○哲学、地○の訓練、日○研・・・、等々あらゆることを学びました、全て全力でやり中途半端なものではありません。(こういうものを否定はいたしません、言葉や文字を覚える必要があるように、ある時期までは必要だと思います)
不遜な言い方かも知れませんが、経営者が経営に命を懸けることなど容易いことです。
命を懸けても旨く行かないからもがき苦しむのです。私がそうです。
そこで最後に残ったのが瞑想でした、興味どうのこうのと言うのではなく、これしか残っていない状態だったのです
ぼろぼろの状態の中で、もう死んだ方が楽だと言うところまで追い込まれていました。
瞑想をしても1分も出来ず「ああ駄目だ・・・」となってしまうことも度々有りましたが、1日に10回20回・・・解らないくらい瞑想をしていました、と言うよりせずにはおられませんでした。
当時たまに水晶浴をしていました、水晶を持って風呂に入った、途端に水晶がビリビリし出しました、「ああみんながんばってくれてるんだなあ」と思っていたのですが、途端に静かになり、全てが宇宙とつながっている、私は宇宙だ・・・等々一瞬に気づくことが出来たのです。
後で知ったのですが、これが覚醒と言うものだったのです。
それから不思議なことに恐怖が沸かないのです、覚醒するとしばらくの間は、すごい幸福感が続きます、私の場合は恐怖心と幸福感が相殺し全く恐怖心が沸かない状態が3ヶ月ほど続きました。
覚醒は真我の入り口に到着したようなもの、これから大悟への道が始まります、淡々と瞑想し続ける、恐怖心はありません、静かな幸福感に包まれています。