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「東北地方太平洋沖地震」経験記録

2011年03月14日 00時55分37秒 | だらだら日記
「東北地方太平洋沖地震」に実際に被災した記録を残したいと思います。
三陸沖を震源とする東北地方太平洋沖地震により、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そのご家族の方々に対しまして、心よりお見舞い申し上げます。一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。

地震発生時(2011年3月11日午後2時46分頃)
盛岡市内の客先にて商談中に発生。
まず、会社携帯電話の「緊急地震速報」が鳴りました。
その携帯電話画面を開くと同時にくらいに地震発生。
ちなみに会社携帯は最近、新しい機種に変わったばかりで「緊急地震速報」の音を聞くのが初めてだった為、最初は何の音かわかりませんでした。
さらに、実は「緊急地震速報」の機能をONにしたのは、偶然にも前日の夜でした。
地震は、揺れの大きさもさることながら、揺れている時間も長く感じました。
そして停電。
その時点で商談を終了。
7階にいたのですが、階段を利用して1階に下りて、道路上に避難。
建物によっては緊急電源用の自家発電が動き出したようで煙と匂いが発生していました。
道路上に避難し、情報交換を行っている際も余震が発生。
そこで、商談メンバーはそれぞれ解散。

移動開始(2011年3月11日午後3時25分頃)
私は徒歩でJR盛岡駅へ向かいました。
その途中も停電の為、信号が消えていることから渋滞が発生。
停電・余震の為、ほとんどの人が建物から出ている状況。
何でJR盛岡駅に向かったかと言いますと、その時点ではそれほどの影響が出ていると思っていなかったことと、帰りの切符を買っていたからです。

JR盛岡駅(西口)に到着(2011年3月11日午後3時45分頃)
徒歩でJR盛岡駅に到着しましたが、既にJR盛岡駅は閉鎖されていました。
駅前には多くの人がいて、対応を決めかねている状況。
私も情報を得る為にその場に待機することにしました。
この段階では「大規模災害」という情報もなく、いずれ停電も復旧し、新幹線もやがては動き出すのではないかと思っておりました。
徒歩でJR盛岡駅に着いた頃には天気は曇りでしたが、やがて雪が舞う状態に。
その頃になって警察車両がJR盛岡駅に来て、「大規模災害」が発生していることをアナウンスしていました。
とは言え、ほとんどの人がそれ以上の情報がなく、対応しかねる状態。
雪が降っていることもあり、気温は相当低い感じ。
駅近くの昨晩止まったビジネスホテルに行ってみましたが、停電で営業休止状態で、とても泊まれる状態でないことを確認。
翌日以降に受験を控えている学生っぽい人も多く見られました。
で、再びJR盛岡駅に戻りました。
その間も余震が発生し続け、その度にJR盛岡駅からは避難指示が出て、駅前の駐車場へ避難を繰り返していました。
ちなみにJR盛岡駅西口のトイレは利用可能だった。

JR盛岡駅(西口)から動けない(2011年3月11日午後6時30分頃)
情報があまり無いため、JR盛岡駅から動けない。
毛布が配布された。
でも、とても寒い。
ワタクシ、北陸の人なので、そこそこ寒さには慣れてると思いましたが、北陸と比べると湿度は低いのですが、気温は低い。
とても寒く感じました。
またJR盛岡駅から「乾パン」が配給されました。
寒いが、今晩はここで夜が明けるのを待つことを覚悟しました。

避難所へ移動(2011年3月11日午後8時頃)
しかしながら、余震での危険性が高いことから、JR盛岡駅から避難所への誘導が始まる。
最初に誘導されたのは「マリオス」というホール。
JR盛岡駅とは違い、暖房はないが、比較的暖かい場所。
トイレは隣の「いわて県民情報交流センター(アイーナ)」が利用可能とのこと。
大ホールに避難しましたが、自家発電の燃料が無くなるということで、隣の「いわて県民情報交流センター(アイーナ)」への移動指示。

避難所に落ち着く(2011年3月11日午後9時頃)
「いわて県民情報交流センター(アイーナ)」には相当数の避難者がいました。
トイレは数箇所開放している模様(確認は2箇所)。
「小」の水は流れていないが、「大」は流れている模様。
非常用電源が活きているので薄暗いけど何とかなる感じ。
薄手の毛布だけで、カバンを枕に寝ることにする。
下はブルーシートのみ。
寒さを余震で熟睡なんぞ出来るワケも無く…。
また、タクシー相乗りで移動を試みるグループが続出。
多くは東北各地(仙台・秋田・青森等)でしたが、中には一気に大宮までタクシー相乗りというツワモノもいました。
しかし、タクシーはそれぞれのグループが自分で交渉するもので、燃料補給の不安もありつつなので、微妙?
また、金額的にも不安。相乗りとは言え、数万円レベル。
大宮までだと…十万円クラスか?
途中の仙台市の情報が不安だったし、まだまだ渋滞も激しいとの情報だったので、私は待つことを選択しました。
一度は「秋田行き」のグループと話をしましたが、秋田から先の情報が無く、秋田に着いたはいいが、その先に移動できないと孤立する危険性があり断念。

被災2日目の朝(2011年3月12日午前6時頃)
朝食が配布される(非常用ゴハン(五目ごはん)と缶詰(シーチキン))。
非常用ゴハンは水を入れて1時間経つと食べられる非常食ですが、ちゃんと美味しい。
飲み物は非常用電源で稼動している自動販売機でお茶を購入しました。

被災2日目
まず携帯電話のバッテリー残量が厳しくなってくる。
会社の盛岡営業所での情報収集を検討。
天気は晴れ。
JR盛岡駅からは徒歩1時間ほどの距離と判明したので、歩いて行ってみる事に。
途中、スーパーには長蛇の列。
未だに盛岡市内は停電中なので、水や食料を買いに来た人の列です。
ガソリンスタンドは閉鎖中。
約6キロちょいの会社の盛岡営業所に到着。
昨日、商談で一緒だった所長が出社していたので、情報交換。
しかしながら、この営業所も閉鎖するとのことで、一緒に出て、車で盛岡駅付近まで送って頂きました。
レンタカー屋とかも除いて見るも、休業中。
仕方なく、「いわて県民情報交流センター(アイーナ)」の避難所に戻りました。
昨晩は4階で寝ていましたが、5階が開放されたので、より住み良い場所を確保し5階に移動しました。
しかしながら、「いわて県民情報交流センター(アイーナ)」でも非常用電源の燃料が尽き、午後0時30分頃に電源が全て止まり完全に停電状態になりました。
まだ日差しがある為、大丈夫だが、夜は真っ暗になるとのことでした。
昼食におにぎり2個配布。
携帯電話は完全に電池切れ。
日没と共に寝ることを覚悟しました。

停電復旧(2011年3月12日午後5時過ぎ)
突然、館内の電気が復旧。
とっても明るい。
一斉に近くのコンセント目がけて携帯電話の充電が始まるも、防災センターから勝手にコンセントを使うことを制限される(当たり前)。
館内2箇所に携帯電話充電場所が設置され、一人10分制限での充電が始まる。
当然ながら長蛇の列となるも、蛸足しまくりで1回に十数人が充電できるようになり、だいたいの要求に応えられる状況になった。
10分制限の充電で、3つの電池目盛りのうち、2つまで復活しました。
夕食配布はお馴染みになった非常用ゴハン。
また、夜食としてお餅(おかし)とみかん、バナナ、魚肉ソーセージが配布されました。
この時点で3月13日も新幹線は復旧せず運休の見込みとのアナウンスが入る。
電気は復旧しているので、近場のビジネスホテルにいくつか電話して、翌日の宿泊予約を入れることができました。
この時点ではしばらくは盛岡から出ることは出来ないと覚悟していました。
携帯電話が復活したこともあり、会社からも連絡が入るようになり、福島原発事故により福島県通過不可で待機命令が出ました。
また、電気が復旧したことで、「いわて県民情報交流センター(アイーナ)」は快適な避難場所とも言える状態になりました。
トイレはウォッシュレットだし。

盛岡脱出アナウンス(2011年3月12日午後11時過ぎ)
JR盛岡駅からアナウンス有り。
「大宮以南」のお客に対し、翌朝からバスにて秋田・山形経由で新潟へ行く予定の確保が出来たとの事。
翌朝6時に1階ロビーに集合するようアナウンスされました。
既に帰りの切符を持っていたので、JR駅員に確認すると、私も救済対象になるとのことで、その救済案に乗ることにし、就寝。

被災3日目・盛岡脱出実行(2011年3月13日午前5時過ぎ)
早めに起きて身支度し、1階ロビーに行ってみると、既に40人程が列になっていたので私も並びました。

盛岡脱出バス出発(2011年3月13日午前6時)
バス1台に約45人を乗せて、「いわて県民情報交流センター(アイーナ)」前を出発しました。
(もちろん、バスは無料です)
ちなみに私は44人目だったので、1号車に乗車できました。
まずはJRバス(JR東北バス)で、山形県酒田市のJR酒田駅に向かいました。
バスは7台程は出ていたでしょうか(300人以上の大移動)。
約1時間30分程走り、「道の駅なかせん(秋田県大仙市)」で小休憩。
ここで、昨晩予約したビジネスホテルをキャンセル。
さらに2時間程走り、「道の駅象潟(秋田県にかほ市)」で小休憩。
さらに1時間程走り、「道の駅鳥海(山形県飽海郡遊佐町)」で時間調整休憩。
ここでJR側は午後2時過ぎのJR酒田駅からの電車まで時間調整をする予定でしたが、何人かの乗客から12時過ぎの電車に間に合うじゃん!と苦情が殺到。
急遽、JR側が協議の結果、すぐに出発してJR酒田駅に向かうことになりました。

JR酒田駅に到着(2011年3月13日午後0時過ぎ)
観光バスが大挙してJR酒田駅に到着。
大量の避難民が「特急いなほ84号」に殺到しました。
午後0時27分に2両しかない自由席に大量の避難民を乗せて出発しました。
私は何とか座ることができましたが、立っている人も当然ながら大量。
イメージとしては…帰省ラッシュみたいな感じです。
新潟までは2時間10分。
寝るしかない。
もちろん、この「特急いなほ84号」も新たに切符は要りません。
JR東日本から被災対応を証明する紙を渡されており、盛岡から酒田経由で最終目的地までの切符が有効であることが記されていました。

JR新潟駅に到着(2011年3月13日午後2時37分頃)
大量の避難民を乗せた「特急いなほ84号」がJR新潟駅に到着。
ほとんどの人が新幹線ホームに流れて行きます。
ここから上越新幹線で首都圏に帰るのですね。
さよーならー…。
私は金沢に向かうので駅員に確認してから別のホームに。
JR新潟駅からJR金沢駅には直通の「北越号」があります。
手持ちの切符とJRからの案内書を提示することで「北越号」に乗れる確認は取れています。
午後3時19分、「特急北越8号」にてJR新潟駅を出発しました。

JR金沢駅に到着(2011年3月13日午後7時頃)
ちょっと遅れて「特急北越8号」は金沢に到着。
午前6時に盛岡をバスで出発して、約13時間。
何とか、地元金沢に帰ってくることが出来ました。

被災地からの脱出ということで、自分達だけ逃げるイメージもありますが、そこが居住地ではない「外来者」は被災地から離れることも大切だと思いました。
被災地にいると食料や毛布などの物資を消費するからです。
それらの物資はそこから出ることの出来ない人達に供給することも重要と考えます。

実に、地震発生から2日ちょっとの経験でした。
被災している最中は、ほとんど他の地域の情報が入ってこなくて、何が起きているのかが断片的にしかわからない状態でした。

また、現地で献身的に対応してくれたスタッフにも感謝したいです。
まだまだ復旧には時間がかかると思いますが、実際に現地で被災した者として思うところがあります。

全く他人事では済まされない災害です。
地震大国・日本ではいつ、どこでも同じ状況になる危険性があることを改めて認識しました。

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