加治屋 伍郎 鹿児島の・・・

あちこち訪問したなかで、気になったものを紹介致します。

市成の仁王像

2009-11-01 10:59:54 | 日記
鹿屋に行く途中に結構気になる案内板がある。

市成の仁王像・・・

なんなんだろうと、何時も思っていたが、ちょうど止まり辛いところでもあり、

今まで寄ろうと思った事はなかった。

今回も案内板が目に入った。時間に余裕があったので、Uターンして見に行った

入り口も狭い。 入って行くと対向車が来た 避けられんと思ったら 向こうが一般の家に入って譲ってくれた。

ありがとうと思ったら、直ぐそこに仁王像があった。

近くに車を止めようと思ったが、そんなスペースはなかった

なかなかの迫力と親しみ易さどちらも兼ね備えている。



説明文

輝北町指定文化財(有民第1号)

仁王像 指定日昭和56年12月16日

管理者 吉永 滋

所在地 市成1441

昔から風邪、オネツと神さあ(百日ゼキ)をなおす仁王さまとして住民に親しまれてきました。

この仁王像は市成が島津支流 敷根氏の所領であったころの遺物で菩提寺として建立された両足寺の山門にあったもので室町時代の作と思われます。

この仁王の顔をよくみると、一体は口を開け、他の一体は口を結んでいます。

くちを開けてる像を「阿」(ア)像、口を結んでいる像を「吽」(ウン)像といってます。

五十音でも梵字でも「あ」はことばのはじまりであり「ん」は最後のことばになっています。

この二体は本来一体におさまるべきであるのですが、「阿吽」の呼吸ですべてを守っているのです。

輝北町教育委員会




なんと室町時代の作とある。びっくりしたよ

説明文を読んでからだと仁王像の顔が優しい顔に見えてくる


島津忠隣(ただちか)の墓

2009-10-25 23:23:11 | 日記
赤山靭負の墓から100Mくらいの場所にまた、なにやら気になるものを発見

行ってみると桂山寺跡となっている。


仁王像が2体入るのを拒んでいるのか?さて歓迎しているのか?

写真に井戸が写っているのが判ると思うが、人間の性で出るのか確認して見た

ちゃんと普通に水がでた。小学生の時 武町の西郷屋敷で同じように井戸のポンプを動かした思い出が蘇ってきた。あのとき水が出たかどうかは覚えていない


ふむふむと上がって行ってみた。





こちらも幻想的な雰囲気が漂っている。

島津忠隣の墓となっている







桂山寺跡

文禄4年(1575年)日置三代領主島津常久は、ここ霊徳寺を桂山寺と改め亡父忠隣の菩提寺とした。

忠隣は出水領主島津義虎の子で初代歳久の養子となったが日向の根白坂で羽柴秀吉の軍と戦い戦死している。

正面小高い所に忠隣の墓があり、すぐ西隣に殉死した家臣3名の墓がある。

ここから約100M離れた西の山影に島津家の墓があり、そこに「お由羅騒動」で切腹を命ぜられた赤山靭負の墓もある


なんと今見てきた赤山靭負の紹介文まで書いてある。

あっちには書いてなかったな~

順番から行くと向こうが先だから・・・まあいいか

しかし日吉町にはまだまだいろんな史跡があるのかもしれないな~

赤山靭負(あかやま・ゆきえ)

2009-10-16 23:39:48 | 日記
本日 日吉に行った。時間が余ったので途中の店にあった観光マップを覗いて見た

あまり興味をそそられなかったが、今居る場所のすぐ近くに赤山靭負(あかやま・ゆきえ)の墓が小さく書いてあった。

あれっ この人は西郷さんの先生やらせんけと思い行ってみた。


すぐ見つかったが、これはマジやちゅうくらい荒れ道 墓だから誰かれと通るはずなんだけど



行ってみたら 昼なのにびっくりするくらい 雰囲気がある。って言うか暗い







なんにも知らずに行ったのだが、赤山靭負は島津家の由緒ある人物で、墓は島津家の墓であった。

しかし 荒れている。小松家とは大違い しかたないか



赤山靭負(あかやま・ゆきえ)の墓

赤山靭負(あかやま・ゆきえ)は、日置島津家12代久風公の次男で兄は家督を、

継いだ13代久徴(ひさなが)公、弟は家老職を務めて明治維新に活躍した桂久武

である。

江戸末期、島付けの家督をめぐって嫡子斉彬公を望む人達(正義党)と側室お由羅

の方の久光を推す人達が対立抗争した。これがお由羅騒動である。

この事件で正義党の中心人物の一人であった靭負は切腹を命じられ嘉永3年

(1850年)3月4日自決した。

彼の志を継いだのが西郷隆盛である

昭和60年3月  日吉町教育委員会


島津家の墓


赤山靭負(あかやま・ゆきえ)の墓
真ん中下に札が立っているので、真ん中か判らなかった。ごめんなさい


正直言って、もう少しなんとかならかな~と思いながら仕事にもどろうとしたら

すぐ近くにまたまた興味をそそられるものが目に入った。

また次回


田代 安定 (たしろ あんてい)誕生の碑

2009-10-12 22:26:36 | 日記
私の会社の一番近くにある石碑がこの田代安定誕生の碑である。

八百屋の裏のアパートの入り口にひっそりとある。

もちろん近所の人も気にしていなそうな感じ

この碑の前で強盗事件があったが、まだ解決していない。

それは関係ないが、一方通行でもあるし、ファッションホテル?の前でもあるので

注目されることもなさそうだ。

私も何をした偉人なのか?まったく知らない。



そのまま書き写します

東京に遊学し内務省に勤務しましたが、都合あって一時帰郷し県庁に

入りました。ついで農商務省に移り、南方諸島の熱帯植物研究に没頭しました。

特に沖縄の八重山諸島調査に力を入れ、政府に八重山開発の建白書を

しましたが、入れられず辞任しました。のちに東大調査員として、石垣・西表の

植物を調べ上げ、南方諸島の調査研究に不滅の足跡を残すと共に、八重山諸島

開発の先駆者となりました。





いろんな偉人の説明を読んだが、不滅の足跡を残したって言うくだりはなかったと思う

この人物 とてつもない人かもしれない。



村田新八修養の碑

2009-10-08 22:27:05 | 日記
村田新八が流された喜界島の碑である。

特別な場所にあるわけではない

一般人の家の片隅にヒョイとある

読んでみる




村田新八修養の碑

村田新八は1862年 文久2年 

島津久光候の激怒を被り西郷は徳之島へ村田新八は喜界島に島流しとなり

当喜島家(現 中沢家)に預けられ約2年の歳月をすごし1864年赦免され

上京し倒幕に活躍しました

喜界町


ちなみに喜界空港の写真もありますので紹介します