富士山が世界遺産に登録されたようだ。これはうれしい。
私は静岡の田舎で育ったので、毎日のように富士山が視界に入った。家族のようにずっと身近にいる存在で、嫌なことがあっても嫌なことをしてしまっても、富士山はあのやたらとかっこいい姿でいつもいてくれて、私はふとした瞬間にその姿を見上げることができた。
毎日見ていたものが世界的な評価を受けるというのは、気分がいいものだ。
富士山は日本人の心とよく言われる。日本国内で世界遺産に登録されている自然や建築物や環境はたくさんあるが、富士山ほど一般の人々に身近に感じられているものはないかもしれない。関西の人でも富士山が好きな人はいるだろうし、多くの人が見たことがあり、私も何千回と見ているが、いまだに見入ってしまう時がある。身近であるのにその威厳は薄れることがない。
心とはわかりにくいが、富士山を見て感じる感情のようなものが、自分の人格形成に関わっているのか、それとも自分の心に似たものを富士山に見るのかもしれない。よくわからないけれど、富士山は日本人の心という言葉には、つい納得できるものがある。
どうも私は最近、自分が見えなくなって困っている。よく言われるように、自分を探すこと自体が間違っているのかもしれない。本当の自分なんて無いというのは、認めたくないが、本当のことなのかもしれない。
どうしても失敗できないと思うと、正しいことをしようとしてしまう。正しい行動を取りたい。
正しい選択をした時と間違った選択をしたときでは、何が違うのだろうか。正しい選択をすれば、いい思いができるのかもしれない。いい思いとは? 自分が楽しいと感じること。自分とは?
馬鹿らしいのは、後から自分の本当の気持ちに気付くことだ。済んでしまった事に後から未練を出すのは見苦しい。わかっていても、これをやってしまうのが怖い。もう二度と戻れない。それが続いていく、できるだけ正しい選択をしたいと考える。
正しいとはもちろん自分にとってのことで、だから、色々な経験をしたいと思うし、自分探しの旅に出かけたい気持ちはわかる。堂々巡りになる。正しいもくそも無いのだろうけど、きっととりあえず、何もしないというのは正しい行動ではないのだ。しかし、行動がとりにくい。
ありのままで尊敬されるほど、何でも来いみたいな富士山のようなスケールのでかい人間はそうそういない。皆自分が大事だ。個人主義が進んでリスク排除になり、基本的には依存恐怖。二極化が進んでしまう。個人主義者は他者をうまく切り離せて、自分だけが輝こうと出来る。得を自分ばかりに集めようと出来る。これが進めばブラック企業のようなものが増える。
他人を思いやって、組織全体を輝かせようとする人は、他人をうまく切り離して考えることが出来ない。自分が甘えたいから他人を甘えさせるとか、心理はわからないが、近しい存在をうまく切り離せない。
やる気が出なくなる。個人主義者と一緒で、依存されるのは嫌だ。奉仕しても得は強奪されてしまうのなら、全体主義者は鬱になるだけだ。
なんにせよ、依存とか甘えとかが一方ばかりに都合よく流用されていて、バランスが悪い状態だ。ある程度は持ちつ持たれつで、適度の相互依存があってもいいのではないかと私は考えている。
勘違いしてはいけないのは、全体主義者が個人を強くすることを望んでいないわけではなくて、全体主義者も個人主義者もお互いにお互いを「独立しろ!」といって自分のルールを押し付けあおうとしているようにみえる。これが日本で接近していけば良い。
考えていたってしょうがない、少しでも社会に報いるには、出来ることをやっていくしかない。個人的には問題が山済みで、勇気が極小になってるし、金がないし、自分のやり残したことがたくさんあるし、煮詰まったときは体を動かすに限る。
静岡に住んでいる頃に、眠れないからといった理由で、なんとなく深夜に車を出して1時間ぐらいかけて5合目まで行って、一人でスニーカーと部屋着姿で、そのまま7,8合目あたりまで富士登山をしたことがあった。
たぶんそのときの私には何か困っていることとか、やりきれない思いがあったのだろうけれど、やりきれない思いも思い出せないし、どうして富士山に登ろうと思ったのかも、まったく思い出せない。私が覚えているのは、5合目の駐車場で落石があったことと、その駐車場で「これ本当に登るの?」と自問している自分。急に思い立ったことだし、疲れたし、さていつ帰ろうかなぁ、と悩みながらもゆっくりと足を運んでいる記憶や、すれ違いざまの外人が自分以上に軽装だったことなどだ。
登頂したこともある。友人となんとなくした話が発展して、全然登る気もないやつらも巻き込んで4,5人と頂上まで登った。目的を口に出し合ってはっきりとした後の行動だったので、頂上まで登ることができた。
山に登って何の意味があるの? 疲れるだけじゃん。景色見るなら写真でみれば良いし、実際に自分の目で見るならヘリコプターで行けばいいんじゃない。みたいな事を、お金持ちの社長とかは言いそうだ。
確かにそうなのかもしれない。違いを説明するのは難しい。でも、富士登山の記憶は嫌な記憶ではない。そこに富士山があったからそういった経験が出来た。