TVを見ながら。世界が幼児化しているとの論を取り上げて話を作っている。評論家と称するA氏は、いつものように、現在の政治に当てはめてしたり顔で話を作っている。彼を信頼する人がこの世にどの程度いるのかというか不安もあるし、信頼する人は大丈夫なのか?と疑問に思うくらい、薄っぺらい議論というか論理の構築方法であると思う。そもそも、彼自体が幼児化しているという自覚が無いので、改善するという事は無いだろうなと思う。
ただ、世界全体が幼児化しているという主張は、そうなんだなぁと思う。何故、今のようなわがままな自分の事だけが大切というような世界になったのかと言えば、それは権利の問題である。人類が遍く権利を保有する事が普遍の真理であるという誤解を信じたからであろうと思う。例えば、香港問題である。世界は香港における破壊活動を民主化への抗議として主張して心象的に支持しているように見える。しかし、彼らの行為は香港においては違法行為であもある。違法行為ですら、人権の行使という詭弁によって正当化される世の中になったという事でもある。
権利には必ず義務が裏返しにある。と、学校では教わった。しかし、人類はその義務を完全に忘れてしまっている。民主化を求める権利の行使についても、法令の遵守という義務があるはずなのだが、それは完全に無視されてしまっているという訳である。つまり、幼児化というものは、人類が義務を忘れた事から発生しているのだろうと思ったりする。例えば、日本人においても、国民の権利は誰でも、知っているが国民の義務は多くの人が知らないか、忘れているんだろうなと思う。例えば、国民の3大義務において、就労の義務というものがある。しかし、ニートとか仕事をしない人がかなり存在する。しかし、彼らが義務違反であるという事で、裁かれる事は無い。しかし、当然彼らも、基本的人権を有する訳で、それを侵害されたとすれば、憲法違反となり、糾弾されるであろう。つまり、義務には甘く、権利には厳しい社会であるという事なのである。本来は、義務と権利は裏返しであるはずであるが、そうはなっていない事に、大きな問題があるという事なのだろうと思う。
懐古主義者では無いが、戦前は権利が制限された社会であったとは思うが、義務もかなり強制された社会でもあったと思う。それにより、戦争が可能になったのだろうと思う。しかし、それによって悪い事ばかりでは無く、日本人としてのアイデンティティが明確化されていたのだろうと思ったりする。愛する日本を愛する家族をも守るために、自らの命を捨てるという究極の義務を実行するという心があったのだろうと思ったりする。戦争というものは悪である。しかし、そこに命を投じた人の心意気には感動する。そこまでして、守った日本人の今がこういった社会なのかと思うと、完全に彼らは犬死にだったんだろうなと惨憺たる気持ちになる。
そういった意味において、イラン人は、宗教による義務の行使が求められているだろうと思うし、それはアルカイダやヒズボラ、あるいはISといったテロ組織においてすら、そこにいる末端の兵士は、本来的な人間としての尊厳を有しているのかもしれないと思う。少なくとも、欧米や日本のように、権利主張のみを行い自らの価値観を押し付ける人達よりは。勿論、そういった純真な心を政治的な野心、経済的な野心に結びつけるTOP層を許容する事は出来ないが。
私が左翼を嫌うのは、左翼の自分勝手な権利主張に嫌悪を感じるからである。勿論、右翼も好きでは無いが。典型的な例として、愛知トリエンナーレという問題で、表現の自由というキャンペーンを左翼勢力は張ったのだが、そもそも、表現の自由というのは、国家予算が付くのか付かないのかという問題なのか?という問題である。表現の自由と予算の問題は別途である。もし、予算が付くのか付かないのかという点で表現の自由を語るのであれば、芸術が国家の承認事項になってしまう。とすれば、完全に表現の自由の侵害である。こういった訳のわからない権利主張が、自らの首を絞めている事に全く理解出来ないというアホが左翼であるという事である。彼にとっては全く矛盾では無いのだろうと思う。つまり、彼らは、自分勝手に権利を捻じ曲げる事が出来るからである。つまり、拡大解釈すれば、香港の民主化活動と同様、彼らにとって都合の悪い、法律は守らなくても良いのである。それよりも権利の行使が重要であるという事なのだ。そうやって自分勝手に解釈し、自分の主張で遵守しなくても良い法律を選別している彼らが、憲法を護と称しているのである。あれ?憲法には国民の3大義務も書かれていなかったのかな?護憲と称しながら、自分達の都合で憲法解釈を変えるのが彼らのやり方である。吉本新喜劇を見るより左翼の人の言論は面白いと思う。
ただ、世界全体が幼児化しているという主張は、そうなんだなぁと思う。何故、今のようなわがままな自分の事だけが大切というような世界になったのかと言えば、それは権利の問題である。人類が遍く権利を保有する事が普遍の真理であるという誤解を信じたからであろうと思う。例えば、香港問題である。世界は香港における破壊活動を民主化への抗議として主張して心象的に支持しているように見える。しかし、彼らの行為は香港においては違法行為であもある。違法行為ですら、人権の行使という詭弁によって正当化される世の中になったという事でもある。
権利には必ず義務が裏返しにある。と、学校では教わった。しかし、人類はその義務を完全に忘れてしまっている。民主化を求める権利の行使についても、法令の遵守という義務があるはずなのだが、それは完全に無視されてしまっているという訳である。つまり、幼児化というものは、人類が義務を忘れた事から発生しているのだろうと思ったりする。例えば、日本人においても、国民の権利は誰でも、知っているが国民の義務は多くの人が知らないか、忘れているんだろうなと思う。例えば、国民の3大義務において、就労の義務というものがある。しかし、ニートとか仕事をしない人がかなり存在する。しかし、彼らが義務違反であるという事で、裁かれる事は無い。しかし、当然彼らも、基本的人権を有する訳で、それを侵害されたとすれば、憲法違反となり、糾弾されるであろう。つまり、義務には甘く、権利には厳しい社会であるという事なのである。本来は、義務と権利は裏返しであるはずであるが、そうはなっていない事に、大きな問題があるという事なのだろうと思う。
懐古主義者では無いが、戦前は権利が制限された社会であったとは思うが、義務もかなり強制された社会でもあったと思う。それにより、戦争が可能になったのだろうと思う。しかし、それによって悪い事ばかりでは無く、日本人としてのアイデンティティが明確化されていたのだろうと思ったりする。愛する日本を愛する家族をも守るために、自らの命を捨てるという究極の義務を実行するという心があったのだろうと思ったりする。戦争というものは悪である。しかし、そこに命を投じた人の心意気には感動する。そこまでして、守った日本人の今がこういった社会なのかと思うと、完全に彼らは犬死にだったんだろうなと惨憺たる気持ちになる。
そういった意味において、イラン人は、宗教による義務の行使が求められているだろうと思うし、それはアルカイダやヒズボラ、あるいはISといったテロ組織においてすら、そこにいる末端の兵士は、本来的な人間としての尊厳を有しているのかもしれないと思う。少なくとも、欧米や日本のように、権利主張のみを行い自らの価値観を押し付ける人達よりは。勿論、そういった純真な心を政治的な野心、経済的な野心に結びつけるTOP層を許容する事は出来ないが。
私が左翼を嫌うのは、左翼の自分勝手な権利主張に嫌悪を感じるからである。勿論、右翼も好きでは無いが。典型的な例として、愛知トリエンナーレという問題で、表現の自由というキャンペーンを左翼勢力は張ったのだが、そもそも、表現の自由というのは、国家予算が付くのか付かないのかという問題なのか?という問題である。表現の自由と予算の問題は別途である。もし、予算が付くのか付かないのかという点で表現の自由を語るのであれば、芸術が国家の承認事項になってしまう。とすれば、完全に表現の自由の侵害である。こういった訳のわからない権利主張が、自らの首を絞めている事に全く理解出来ないというアホが左翼であるという事である。彼にとっては全く矛盾では無いのだろうと思う。つまり、彼らは、自分勝手に権利を捻じ曲げる事が出来るからである。つまり、拡大解釈すれば、香港の民主化活動と同様、彼らにとって都合の悪い、法律は守らなくても良いのである。それよりも権利の行使が重要であるという事なのだ。そうやって自分勝手に解釈し、自分の主張で遵守しなくても良い法律を選別している彼らが、憲法を護と称しているのである。あれ?憲法には国民の3大義務も書かれていなかったのかな?護憲と称しながら、自分達の都合で憲法解釈を変えるのが彼らのやり方である。吉本新喜劇を見るより左翼の人の言論は面白いと思う。