中国生活の日記 Ⅱ

yahooからきました。
http://blogs.yahoo.co.jp/jiitanio/4283030.html

中国史年表18 西周前期

2011-10-30 15:48:50 | 中国史年表
今回から周王朝です。
周は鎬京を首都としていた前半と、洛陽を首都にしていた後半とで分けられます。
前半を西周、後半を東周といいます。
東周は春秋・戦国時代ともいい、分裂の時代です。

まずは西周です。

『中国歴代戦争年表』で、西周各王の在位年数を説明しています。

「夏商周断代工程」三代年表は西周各王の在位年数を定めた。
武王4年、成王22年、康王25年、昭王19年、穆王55年、共王23年、懿王8年、孝王6年、夷王8年、王37年、共和14年、宣王46年、幽王11年である。


但し、今までと同じく「定説」ではないので台湾の作家・柏楊の『中国歴史年表』とは各王の在位時代に違いがあります。


『中国歴史年表』から成王の時代です。

前十二世紀
前1122年(己卯)~前1116年(乙酉)
周初代王(武)姫発
前1122年、周武王姫発が各地に諸侯を封じた。姫姓の多数の子孫が爵位を賜り、土地を分けて統治するようになった。
斉太公姜尚が隠士・狂矞、華士を誣告して殺した。
前1120年、周は豊邑から鎬京(西安)に遷都した。
前1116年、姫発が卒し、子・成王姫誦が即位した。


周は王族や功臣に爵位と土地を与えました。
これを「分封」といいます。
爵位とは公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵のことで、彼らをまとめて諸侯と呼びます。
諸侯は、周王に対して定期的な朝貢が必要でしたが、自分の領土では大きな権力を持ち、諸侯国はほぼ独立国家に近い状態になりました。
このような周の分割統治を「分封制」または「封建制」といいます。

『中国歴史年表』に出てくる「隠士狂矞、華士」というのは『韓非子・外儲説』に登場する賢人で、周の統治に逆らったため殺されました。


武王が死ぬと成王が即位しました。
『中国歴史年表』からです。


前十二世紀~前十一世紀
前1116年(乙酉)~前1079年(壬戍)
周二代王(成)姫誦
前1116年、周成王姫誦がまだ幼かったため、周公姫旦が王を補佐した。
前1115年、姫誦の叔父・管侯姫鮮と蔡侯姫度、霍侯姫處および殷の遺民の首領・子武庚等が叛乱を起こしたため、姫旦が東征を開始した。
前1114年、姫旦は子武庚と姫鮮を殺し、姫度を放逐し、姫處を平民に貶した。
前1113年、姫旦が鎬京に凱旋した。


成王が即位したばかりの頃、周公の摂政を反対した勢力が現れました。
そして起こったのが管叔・蔡叔の乱です。
『中国歴代戦争年表』を見てみます。

周公の東征
前1041年 周成王二年
武王は商を滅ぼしてからも、商紂王の子・武庚を殷に封じ、殷の遺民を統治させた。同時に、弟の管叔、蔡叔に重兵を率いて殷の遺民を監視させた。
二年後、武王が死に子の成王誦が即位したが、成王はまだ幼かったため、武王の弟・周公旦が執政した。
これに対し、管叔と蔡叔は不満を持ち、東方の商と親しかった旧勢力・徐(江蘇泗陽南)、奄(山東曲阜)、蒲姑(山東博興)等十七国と連合し、「周公はやがて孺子の不利になる(周公が成王の位を狙っている)」という理由を掲げ、反周の兵を挙げた。
周公は内部を安定させてから、東征の軍を起こした。
まず武庚等の殷の貴族を攻め滅ぼし、次いで管叔を殺し、蔡叔を流刑にした。更に、辛公甲の「大きな勢力は攻めにくく、小さな勢力は服しやすい。まず多数の小勢力を味方にし、大勢力の力を削ぐべきだ」という建策を容れ、伯禽に東方の諸方国を攻めるように命じた。
その結果、東方で、先に淮泗間の小国を服従させ、次に薄姑、奄といった大国を攻めた。
三年の戦争の末、諸国の叛乱を平定し、周は統治勢力を海岸にまで広げた。
こうして、周による商勢力の征服が完成した。


周内部の反対勢力と、前王朝である商の残存戦力を鎮圧し、周は統治権を確固たるものにしました。

成王の時代は周公旦の時代ともいえるほど、周公が活躍します。
周公とは後に孔子が聖人の代表とした人物です。
しかし、成王が成長して自分で政治を始めると、周公との対立が生まれます。
『中国歴史年表』にもどります。

前1112年、姫誦が叔父・姫封を康侯に、弟の姫虞を唐侯に封じる。
前1110年、姫旦が明堂で諸侯に接見する。
前1109年、姫旦が郟鄏(洛陽西金谷園)に城を築く。これを「王城」という。
また、洛水の北(洛陽東白馬寺)に城を築く。これを「成周」という。二城間の距離は約20Kmである。
この年、姫旦は政治を姫誦に返還した。
前1108年、姫旦の子・姫伯禽を魯公に封じる。
前1107年、姫誦は姫旦を捉えようとし、姫旦は魯国に奔った。
前1105年、姫旦が卒す。


成王と周公の対立がどのようなものであったかは、はっきりしていません。

周公死後、成王は更に周の勢力を拡大します。
『中国歴代戦争年表』です。

周成王が淮夷を攻める
前1032年 周成王十一年
周公が死ぬと、成王が親政を始めたが(実際は周公時代に親政を開始しています)、東方の奄国や淮夷が反周の兵を挙げた。
成王は東征の軍を組織した。毛公を統帥とした、王師(軍)と「殷八師」が主力の中軍で、左軍は呉伯、右軍は呂伯である。
成王の子・●(「遣」の「しんにょうへん」が「走」)が甲士を衛兵とし、成王を護った。
三年の戦争の末、叛乱を平定した。


注釈で淮夷の説明をしています。
淮夷は現在の安徽東部や江蘇北部の淮河流域に生活していた。春秋時代以降、華夏族と融合していく。

周の軍隊の説明です。
周王朝建国時の軍隊は六師で、周の故郷である鎬京付近を駐守していた。これを「西六師」、または「宗周六師」という。
管叔・蔡叔の乱を平定してからは、殷人の故地・洛邑に東都成周を建てて、八師を設けた。これが周王朝が東方を鎮護するための主力部隊で、「殷八師」という。
尚、古い文献や周器銘文に「成周八師」も記載されているものがあるが、これが「殷八師」と同じかどうかは諸説が有る。


こうして、成王は周辺諸族を支配下に置くことに成功しました。
『中国歴史年表』です。

前1089年、姫誦は王城に諸侯を招き、会を開いた。四方の蛮族も来朝した。
前1079年、姫誦が卒し、子・康王姫が継いだ。



成王の次は康王の時代です。
続けて『中国歴史年表』をみてみます。

前十一世紀
前1079年(壬戍)~1053年(戊子)
周三代王(康)姫
前1079年、諸侯が王城に集まり朝覲した。
前1077年、斉太公姜尚が卒す。
前1067年、唐侯姫虞が国名を晋に改める。
前1063年、魯侯姫伯禽が卒し、子・考公姫酋が継ぐ。
前1059年、魯考公姫酋が卒し、子・煬公熙が継ぐ。
前1053年、召公姫奭が卒す。
この年、周康王姫が卒し、子・昭王姫瑕が継ぐ。


『中国歴代戦争年表』では康王の戦争を一つ紹介しています。

周康王、鬼方を攻める
前996年 周康王二十五年
周康王が鬼方(内蒙古中部一帯)を攻めた。
周は鬼方の四千八百余人を殺し、首領以下一万三千八十一人を捕虜とし、車十輌、馬、牛、羊等数百等を得る大勝利だった。


注釈にはこの戦争の出典が書かれています。
呉式芬『捃古録全文』巻三十三、四十二の『小孟鼎銘文』。郭沫若『両周全文釈大系図録考釈録編19』に収録されている。


康王の時代は大きな事件もなく、平穏に過ぎて行ったようです。
『史記・周本紀』には「成康之際、天下安寧、刑措四十余年不用」と書かれています。
成王と康王の時代は、非常に平和で犯罪も少なく、四十余年にわたって刑罰が用いられなかったそうです。

この平和な時代も、やがて衰えを見せます。
次回は昭王以降の歴代王の時代、即ち西周が衰えていく時代です。


今回の画像は成王です。



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