過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


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 ┃ 栗林公園動物園 ┃
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‡1930(昭和五)年01月01日(水) 開園
 1952(昭和27)年XX月XX日(X) 博物館登録
 2002(平成14)年09月30日(月) 休園
 2004(平成16)年03月31日(水) 完全閉鎖、74年の歴史終了。跡地は再整備
 2006(平成18)年10月01日(日) 駐車場開業
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/栗林公園#動物園
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 2000(平成12)年01月01日(土) 2000年問題で30万人が徹夜で年越し ⇒ 2000年01月01日もうひとつの(土)曜日にコンピューターが誤作動を起こすと懸念された「2000年問題」。全国で30万人が職場に泊まり込んで異常事態に備えたが、大きな混乱はなかった。写真はカウントダウンセレモニーに集まった人々=東京・銀座【時事通信社】
 1946(昭和21)年01月01日(火) 昭和天皇が「人間宣言」
 1979(昭和54)年01月01日(月) 米国が中国と国交樹立、台湾と断交
 https://www.jiji.com/jc/daily
 ┏━━━━━━━┓‡1912(明治45)年01月01日(月)
 ┃ 1912年 ┃ 1912(明治45)年07月30日(火)
 ┗━━━━━━━┛ 1912(大正元)年07月30日(火)
           1912(大正元)年12月31日(火)
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/1912%E5%B9%B4
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 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2016(平成28)年01月01日(金) 広島・前田健太がドジャースと契約合意 
‡2018(平成30)年01月01日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は1月1日だ。 
 写真◆15年15勝で最多勝を獲得しての移籍だった
 アメリカのニューイヤー・イブ(大晦日)、現時間2015(平成27)年12月31日、日本時間の、複数の米メディアが広島からポスティングシステムでメジャー移籍を目指す前田健太投手とドジャースの契約合意を伝えた。メジャー30球団に前田が獲得可能選手として公示されたのが12月09日(以下すべて米国時間)。交渉期限は同東部時間1月8日午後5時までとなっていたが、今回は同システムで移籍した過去の事例と違い情報量の少なさは際立っていた。具体的交渉が行われた事実が伝えられたのはドジャース1球団のみ。当初、獲得を目指す可能性があるとされてきたエンゼルス、カージナルス、ジャイアンツなどは前田のポスティングが公示された数日後に「我々の先発投手の補強は完了した」と、次々と撤退を表明した。メジャー30球団のほとんどが日本へスカウトを派遣し、前田へのラブコールを送り続けていた事実を考えれば信じられない動きとなったが、それには理由もあった。ここ数年、先発投手市場の動きは遅く、1月下旬まで交渉が続くのが通例だったが、その年は目玉であったデービッド・プライスがレッドソックスと契約したのが12月1日、ザック・グリンキが12月7日にダイヤモンドバックスと契約。先発投手の移籍市場が例年より早く動いた。超大物の2人が早々に市場から消え、2番手グループに位置するジョニー・クエトがジャイアンツへ、マイク・リークがカージナルスヘと決まるなど、先発投手の補強が急務とされる各球団の予算は次々と底をついていった。前田の名が移籍市場に載ったときには、多くの球団が次のステップへと移行。投手補強が課題でありながらグリンキ残留交渉に失敗したドジャースが“先行逃げ切り”の形で前田と契約合意に達したわけだ。前田が家族を伴いロサンゼルスに降り立ったのは12月14日。大きなスーツケース6個持参しての滞在は住環境を含め現地視察を行いながら、代理人とともに腰を据えて契約交渉に当たるが狙いがあったはずだ。その前田がドジャー・スタジアムに現れたのがクリスマスイブの12月24日。ドジャース側は球場内の大型スクリーンに「Welcome Kenta Maeda」の文字に加え、ドジャースの背番号15のユニフォームを着た前田の合成写真を表示し歓迎した。代理人のアダム・カッツ氏を伴った視察と直接交渉は2時間半。その際、カッツ代理人は待ち受けた報道陣にVサインを見せる余裕の笑顔。前田はその夜、帰国の途へ就いた。その7日後、12月31日に契約合意の報。発表が12月24日直後でなく日本時間の年明けになったのは、「広島が譲渡金2000万ドル(約24億円)の収入を16年度の予算に組み込みたい意向を持っていたから」と言われた。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180101-12
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.196 ┃  30円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1962(昭和37)年1月01日(月)号 監督反抗罪を問われた選手
 2018(平成30)年5月11日(金) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎「自分の寿命を短くするなんて、いやです」
 写真◆表紙は西鉄・稲尾和久
 今回は『1962年1月1日号』。定価は30円だ。ついに5年目突入だが、まだまだ先は長い。今後ともよろしくお願います。 
 本文巻頭特集は『監督反逆罪を問われた選手の感情』ときな臭い。 
 最初はシーズン絶不調ながら日本シリーズMVPの巨人・宮本敏雄。現状維持を提示した球団とアップを要求する宮本でもめているらしいが、その中に巨人球団代表の「百万円近くかかるハワイ往復のジェット代も球団で持っている」という発言があった。当時の飛行機代は高い。 
 ほか国鉄の村田元一が砂押邦信監督への反発から移籍を志願。 
「監督は僕の特異性にも気を掛けず、スパルタ式練習方針を強いる。これではとうてい僕の肩はもたない。監督の言うとおりにして肩が壊れたら、誰が責任を取ってくれるんですか。自分の寿命を短くするなんて、いやです」 
 と強烈だ。しかし、結局残留。62年は12勝16敗だった。 
 濃人貴実監督へ猛反発していた中日・井上登は南海へ。「飛ぶ鳥あとをにごさずというからな。俺は中日をきれいにやめようと決心したのだ」とすっきりした表情を浮かべていた。 
 同様に大もめの末、大洋移籍が決まった中日・森徹は、佐々木信也の連載対談に登場。中日を出ることは、かなりショックだったようだ。 
「本当に火をつけたら爆発しそうなくらいカンカンになっていた時期もあったんですが、いまはそんな恨みも怒りも何にもなくなったし、自分で相当反省する時期は必要だったですね。やっぱり身から出たサビですよ、これは」 
 また金田正一の実弟で同じ国鉄入りの星雄が一軍登板のないまま引退し、歌手への転身。早くもキングレコードで「俺ら陽気な渡り鳥」「初恋峠」の2曲を吹き込んだという。 
 以下、宣伝。週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』『阪神編』が好評発売中です。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.502 ┃  60円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1968(昭和43)年01月01日(月)号 すべて大下君に任す、は嘘だった?
 2019(令和元)年07月11日(木) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎がんばれ、パリス一家!
 写真◆表紙は巨人・柴田勲
 今回は『1968年1月1日号』。定価は60円。 
 監督就任会見で、ネクタイもしめずラフな格好で登場した東映・大下弘新監督。らしくない、という声もあったが、それもそのはず、実はその日、大下は、まだ監督就任要請は受けておらず、ヘッドコーチへの就任交渉と思って会社に行ったら、電撃的に監督就任要請、さらに決定会見となったからしい。 
 条件も向こうの言うがままだったようだ。人のよい大下らしい話だ。 
 会見で「すべてを大下君に任すよ」と大川博オーナーは言ったが、大下が伊東キャンプを「中国か四国へ」と要望すると、 
「冗談じゃないよ、君。伊東は変えん。だいたい監督がそんなことまで口を出すもんじゃない」 
 と一蹴。大下が旧知の苅田久徳をヘッドコーチにと相談しても簡単に否決された。 
 大下もさすがに「任すって言われても、これじゃあね」と苦笑していたという。 
 大川が水原茂監督を切った最大の理由は経費削減と言われる。高給取りで、補強だ、海外視察だと、やたらとカネを使いたがる水原を大川親子が嫌ったのだ。 
 伊東キャンプの宿舎も東映の直営ホテル。わざわざおカネのかかる四国や九州に行けるわけがない、ということだろう。 
 それでも救いは大下監督の明るさ。 
「遊ぶときはとことん遊び、やるときはやる。そんな選手にしていきたい。もちろん優勝を狙ってやります」 
 と元気いっぱいだ。 
 閑古鳥が鳴く東京スタジアムの隠れた名物と言われたのが、パリス一家の応援だった。ガラガラのスタンドで、パリスの美人妻スージーさんと5人の息子が、いつもパパに熱い声援を送った。 
 しかし、このオフ、パリスがついに解雇となってしまった。 
 ふつうであれば、一家そろって帰国するところだが、この夫婦、なんとか日本に残りたいと奮闘中だった。 
 スージー夫人いわく。 
「日本人って、とても親切だし、心の優しい人が多い。特に子供たちにはよくしてくれます。日本を離れるなんて嫌。そんなことを考えるだけで悲しくなっちゃいます」 
 パリスも、 
「日本でプレーするつもりだ。いまは誘いがないが、年が明けたら売り込みにいく。日本で野球をやる以外のことは考えていない」 
 ときっぱり。 
 東京は代わりにジョージ・アルトマンの入団が決めた。年齢的には34歳と峠を過ぎているが、メジャー101本塁打の実績を持つ大物だ。 
 熱海であった巨人OB会に川上哲治監督が6年ぶりに参加。昨年は「参禅のため」欠席し、くせ者ぞろいのOBから批判されていた。川上とサンケイ監督となった別所毅彦は目も合わさなかったらしい。 
 では、またあした。きょうももう1本書いて午後にアップしておきます。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.503 ┃  60円
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‡1968(昭和43)年01月01日(月)号 泣くなカープ! 怒れカープ!
 2019(令和元)年07月11日(木) 16:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎元祖カープ女子? ほえる
 写真◆表紙は巨人・柴田勲
 今回は『1968年1月1日号』。定価は60円。 
 きょうは、この号に関し、午前中に1本アップしたが、ついでにもう1本。 
 1967年、最下位に沈んだ広島カープに対し、雑誌「酒」編集長・佐々木久子女史が寄稿した「泣くなカープ! 怒れカープ」の一部を抜粋する。 
 以前、古葉竹識との対談でも登場したが、佐々木女史は、カープが万年Bクラスの時代、必死に応援し続けた方だ。“広島カープを優勝させる会”の中心的メンバーとしても知られる。 
 原稿を流れに従い、つまんでいく。 
 まず、こう始まる。 
 ここ二月ばかり、会う人ごとに言われる挨拶は、佐々木さん、広島カープはどうなるんですか? 
 ということばかりである。 
 前年最下位になり、監督問題でもめていただけではない。 
 球団創設当時から続く、財界、後援会など、いわゆる市民球団としてやっていくスタイルから、筆頭株主だった東洋工業一社が親会社になるスタイルに変わるかどうかで騒がれていた。 
 この人、誰に対しても容赦ない。 
 まず、広島ファンに対して 
 俗にいうヒイキのヒイキ倒しというやつである。 
 可愛くてしようがないのだが、自分の感情を抑えることができなくて、負けても勝ってもその渦の中に自己投影をしなければ気がすまない。 
 広島─巨人戦のテレビ中継を見ていると、恥ずかしくてスイッチを切りたくなるような、口汚いヤジを飛ばす。それもNHKのときは、わざとのように輪をかけてひどいのである。 
 さらに、カープの選手に対して、 
 今年のカープはあまりにだらしなさすぎた。弱いというより、やる気があるのかないのか、それすらもわからないほど無気力に見えた。男としての意地も執念も、肝心なプロ野球選手としてのプライドも、感じることができないほどだった。 
 と斬りまくる。 
 この一文の後、いきなり巨人ファンへの怒りの攻撃へ入り、筆がさらに過激に踊る。 
 後楽園球場へ行っていると、巨人ファンが、 
「広島のいなかっぺ、草野球の最下位チーム、お前たちはプロじゃないよ」 
 とわめき続ける。 
 大の巨人嫌いで、カープファンである私の顔はよく知られているので、巨人ファンは私の背中に、 
「ざまあみろ、広島カープ、もうカープは解散だな」 
 と罵声をあびせかける。 
 もっとひどいのになると、一緒につれていったうちの社の女の子のお尻を蹴っ飛ばしたりする卑劣な男もいるのである。 
 東京というマンモス都市は、地方から喰うや喰わずで上京し、一旗あげようと志してきた人間どものはきだめみたいなところである。 
 自分たちが田舎ものであることも忘れて、さも、自分たちが巨人のように強いのだという、しばしの虚構の中に、己をおいて虚勢を張ってみせるのだ。 
 従って、これは根なし草のようなもので、巨人が弱くなったら、あるいは負けていたら、ウンともスンとも言わなくなるのである。 
 弱いカープを応援することは、ただもう忍の一字、どんなに口惜しくてもじっと歯を喰いしばって応援するだけである。 
 以下は最後の結びに至る部分だ。 
 カープの選手よ、心あるファンは、あなたたちのより一層の奮起を期待している。 
 最下位であったことを恥じてほしい。田舎の草野球だときめつけられたことを口惜しがってほしい。マスコミにノンプロ以下だと書かれたことに対しても、大いに怒ってほしい。 
 負けることが当然のような顔をしないでほしい。男なら、怒りを爆発させ、火の玉となって優勝へ向かって突進してほしい。 
 球団経営がどうであれ、首脳人事がどうであれ、あなた方選手には関係ないことである。 
 あなたたちは、プロ野球選手としての技術を磨き、より高いものに向かって精神を培い、きたるべきシーズンに備えて、がっちりと鍛錬すべきです。 
 もし、これは、たとえのはなしだが、来季、広島球場に一人もお客が来なくても、あなたたちは泣くことはない。勝つことによって、背信していったファンをひざまずかせればいいのである。泣くときは“優勝”のペナントを手にしたとき、そのときは、みんなで泣いて泣いて泣き明かそうではありませんか。 
 その日までは、愛するカープよ、怒って怒って、怒り狂え。 
 頑張れ、新生カープ!! 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180511-13
 ②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190710-02
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190710-03
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 ┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.043 ┃  30円
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 1959(昭和34)年2月04日(水)号 特集 二年目の長嶋茂雄 ストーブ・リーグその後の主人公
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
 2017(平成29)年12月9日(土) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
 長嶋茂雄のオフの多忙な取材日程
 表紙は南海・野村克也
 今回は『1959年2月4日号』。創刊43号で定価30円だ。表紙は南海・野村克也のキャッチャーシーン。なかなか斬新だ。センターグラビアでは里帰りの密着もあった。センターカラーは青空バックで巨人・広岡達朗のゴルフ場での1シーンだ。 
 巻頭グラビアは残り少ない学生生活を楽しむ王貞治(早実─巨人)。そして本文巻頭が『2年目の長嶋茂雄』。オフの多忙な取材日程があったので抜粋する。 
‡1959(昭和34)年01月01日(木) 浅草国際劇場に出演 1回目
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 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171209-10
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
 ┃ プロ野球仰天伝説 No.009 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
 相手から延々と打ち続けた千葉茂のファウル打ち
‡2018(平成30)年01月01日(月) 11:06 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
“ストリップ打法”とも呼ばれ
右打ち、犠牲フライなども名人芸と言われた千葉
 セカンド守備と右打ちの名人(右打者)と言われた巨人・千葉茂。ここでは、数ある名人芸の中から、ファウル打ちについて紹介する。 
「もともとワシは右打ちのために、球を引き付けるだけ引き付け、バットのヘッドを遅らせるタイプ。ファウル打ちもそこは同じ。最後は左手で細工をするのがコツやな。左手がもともと強いからできるんだ」 
 最高では13球続けたこともあり、「変化球投手なら1日中でも打っていられるよ」とも。後輩・長嶋茂雄から自分もやってみたいとコツを聞かれたこともある。 
 この技術を磨いたのは
 1949(昭和24)年、飛ぶボールの導入でホームランブームになった際だった。 
「ホームランなんて出会いがしらで面白くない。それより投手と駆け引きし、ファウルで甘い球を待ったり、四球を選んだりしたときのほうがずっとうれしかった」という、千葉らしい天邪鬼な心もあった。投手がさまざまな球種を投げ、“丸裸”になることから、“ストリップ打法”とも言われる。 
 1950(昭和25)年には当時の史上最多105四球、同年から3年連続リーグ最多四球だった。とにかく器用なタイプで、ほかにもバント、犠牲フライが名人芸と言われている。 
●千葉茂(ちば・しげる) 
 1919(大正八)年5月10日(土)生まれ。愛媛県出身。松山商から
 1938(昭和13)年巨人入団。
 1939(昭和14)年に正二塁手に定着した。
 1941(昭和16)年限りで応召。戦後は
 1947(昭和22)年から7年連続でベストナインに選ばれるも、ついに打撃タイトル獲得はならず。
 1956(昭和31)年限りで現役引退。二塁手としてのベストナイン7回は日本タイ記録。“猛牛”の愛称で呼ばれ、近鉄監督就任時には球団の愛称が「バファロー」に変更された。
 1980(昭和55)年野球殿堂入り。
 2002(平成14)年12月9日(月)死去。通算成績1512試合、1605安打、96本塁打、691打点、155盗塁、打率.284
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180101-13
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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