『トップ・オブ・ジャパン』16:00~16:55 FM東京(TOKYO-FM)
‡1984(昭和59)年03月18日(日) 第3回「浜田省吾ハワイアン・ホリデイ」
O.A内容: 4週にわたっての浜田省吾の特集
ラジオ欄の曲目
1. アンダーカバー・オブ・ザ・ナイト(Undercover of the Night/ローリング・ストーンズ)
2. ドント・ウォーリー・ベイビー(DON'T・WORRY・BABY/ビーチ・ボーイズ)ほか
パーソナリティー:野口絵美
http://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600767625.html
参考URL■https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11596940023.html
89.1.28♪ON THE ROAD♪映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm13810282#
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┃ ON THE ROAD '88 FATHER'S SON ┃前半戦 日程
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‡002.1988(昭和63)年03月18日(金) 宮崎市民会館 二日目
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http://www.flashandshadow.com/shogo/live/on/on1988.html
https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600186984.html
http://ameblo.jp/futabayama69/entry-10819384548.html
http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
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┃ 浜田省吾 #33 「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」 ┃
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2017(平成29)年02月24日(金)
今回は、1988(昭和63)年03月17日(木)からスタートした浜田省吾さんのコンサートツアー「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」と食べ物の話など。
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1988(昭和63)年03月17日(木)、「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」と銘打った約100本に渡る浜田省吾の大規模なツアーがスタートした。バンドはメンバーにキーボードの梁邦彦くんと、トランペットの小林正弘くんが加わってThe Fuseは7人編成になった。ぼく達は前の日の
1988(昭和63)年03月16日(水)に初日の公演地である宮崎入りした。最初のツアーは、宮崎~大分~小倉と廻る全6公演10日間の旅だった。宮崎での宿泊はリバーサイドホテルという、その名のとおり大淀川沿いに立つホテルだった。ホテルの裏手には有名な釜揚げうどんの店があった。コンサート初日の会場入りする前に、ぼくは早速ベースの江澤くんとその釜揚げうどんの店で昼食を食べた。噂に違わずとても美味しいうどんを堪能した。宮崎公演は17,18日の二日間公演だった。
1988(昭和63)年03月17日(木) 初日のコンサートこそ緊張したが、
‡1988(昭和63)年03月18日(金) 二日目からは段々とペースが掴めて来た。九州ツアーは
1988(昭和63)年03月20日(日) 21日(月)の大分公演、
1988(昭和63)年03月23日(水) 24日(木)の小倉公演と続き、
1988(昭和63)年03月25日(金)に10日ぶりに帰京した。その後もコンサートは北陸~四国~中国~東京~北関東~東北~近畿~山陰と、途切れること無く続いて行った。まさにツアーという言葉がぴったりだった。コンサートツアーと言えば、ほぼ毎日のように次の公演地への移動と違うホテルでの宿泊が繰り返される。ぼくは移動の乗り物は飛行機以外はそんなに苦手ではなかったが、連日寝床が変わるのがあまり得意ではなかった。毎日違うホテルで固さの異なるベットと枕に順応するのが苦手だった。時には一晩中眠れないこともあった。元々枕が変わると眠れないほうなので、自分の枕を持って行くことを真剣に考えたこともあったが、さすがにそれはしなかった。ツアーでの楽しみの一つは訪れる街の美味しいものを食べることや、街を散策することだった。でもぼくは豪華な食事よりも、その土地の庶民的なものを食べるほうが好きだった。コンサートが終わった後に毎回打ち上げが行われるというわけではなく、時には三々五々自由に食事に出ることも度々あった。旅も長くなると、一緒に行動する面子というのが決まって来て、ぼくはベースの江澤くんと一緒にいることが多かった。ぼくも江澤くんもあまりお酒が得意ではなく、旧知の間柄だったこともあってか良く行動を共にした。お酒が好きな古村くんは、同じく酒好きの梁くんや高橋くんと一緒に行動することが多かった。時には、コンサートを観に来ていたお客さんと食事先の店でばったり遭遇し、意気投合して一緒に飲み食いしたりしたこともあった。
写真◆1988(昭和63)年09月20日(火)<?>、沖縄のホテルで江澤くんと。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/02/33on-road-88-fathers-son.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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89.1.28♪ON THE ROAD♪映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm13810282#
紙テープ乱れる「キャンディーズ ファイナル・カーニバル in 赤坂BLITZ!」上映会へ行ってきた!
2016(平成28)年03月19日(土) 執筆者:馬飼野元宏
1978(昭和52)年04月04日(火) 後楽園球場でのキャンディーズ・ファイナル・カーニバルから38年。この
‡2016(平成28)年03月18日(金)に、東京・赤坂BLITZにて、昨年11月に発売された同公演の完全収録DVD「キャンディーズ・メモリーズ」をスクリーンで鑑賞するイベント『ファイナル・カーニバル in 赤坂BLITZ!』が開催された。DVDを購入した人だけが応募できるというこのイベント、わずか90分弱でチケットが完売したという。それだけ熱狂的なキャンディーズ・フリークたちの集いなのだが、今回、このイベントに潜入取材させていただいた。開場前から運よくチケットを手にされた皆さんがずらりと並び、中には揃いのハッピに鉢巻をした人も。ステージ上にはファイナル・カーニバルの際に着用した衣装や、「その気にさせないで」のパンタロン衣装、「やさしい悪魔」のアン・ルイスデザイン衣装などが並び、撮影会が行われていた。冒頭のMCにはTBSの長峰由紀アナウンサーと、クリス松村さんが登場。ひとしきり盛り上げたあと、「哀愁のシンフォニー」での紙テープ投げリハーサル開始。紙テープの芯を抜いた後、テープの外側を持って投げるのか、内側を持って投げるのかで観客とクリスさんの薀蓄トークもあり、皆さん気分は既に38年前にタイム・スリップしている模様。そういえば70年代はアイドルの公演で紙テープは必須だった、などと思い返し、観ているこちらも盛り上がってくる。実は筆者も38年前の
1978(昭和52)年04月04日(火)、あの会場にいた。2階スタンド席の、ステージ側ギリギリの位置だったため、キャンディーズの3人は豆粒しか見えず、アリーナ手前にせり出したステージに出てこないと、その姿がはっきり見えなかった。巨大モニターもなかったあの時代、ステージの模様は通路脇に設置されていたブラウン管を眺めながらの鑑賞だったのだ。衣装や曲順も記憶が曖昧だったが、今回、300インチのスクリーンで観るとあらゆるディテールがはっきりとわかる。当時と同じ熱狂を持ってキャンディーズを迎え入れるファンの熱量に、最初から圧倒されることしきり。手拍子やコールも当時のまま。いの一番に思い出したのが「恋のあやつり人形」や「あなたに夢中」「暑中お見舞い申し上げます」などの曲で何度も出てくる“チャッ、チャチャッ”という手拍子。あの頃はCメロでテンポが変わると必ずこのノリだった。あらためて思ったのは、キャンディーズはライヴ・アーティストだということ。「内気なあいつ」や「ハート泥棒」など、地味目のナンバーもMMPの演奏で分厚く派手に変貌している。休憩を挟んでの後半戦は特にテンションが高く、ことに「わな」「その気にさせないで」「悲しきためいき」「危い土曜日」のステージ・パフォーマンスは圧巻の出来で、大画面で観ると目の前で3人が歌っているかのような迫力だ。3人のヴォーカルが後半になってもまったくブレないのが凄い。そして「哀愁のシンフォニー」ではおなじみの紙テープ乱舞。BLITZの客席からも、赤・青・黄の3色が乱れ飛び、まさにファイナル・カーニバルの再現。間奏で3人がファンに向かって深々とお辞義をする姿は感動的で、キャンディーズがファンに支えられてこの日を迎えたことが良くわかるシーンだ。BLITZの客席からも熱い拍手が響く。そして何よりも4時間強のステージを支えたMMPの演奏力。随所で奏でるホーンの迫力は言わずもがな、筆者に当時の記憶を大きく蘇えらせてくれたのは、リーダー・チャッピー(渡辺茂樹)のクラビネットの音色だ。キャンディーズのライブはあの煌びやかな響きにある。ことに「春一番」のイントロで奏でられるその音色は、ステージがいよいよ終盤にさしかかったことを嫌でも感じさせる。「ダンシング・ジャンピング・ラブ」も後楽園球場とBLITZがシンクロしてのコール&レスポンス大会。そして「あこがれ」を歌い終えたあとの3人の思い詰めた表情。38年が経過しても未だ感動的な3人の挨拶。ラストの「つばさ」を歌う3人の頬に流れる涙。すべてを歌い終わり、セリに乗ってステージから去ってゆく3人が、最後まで手を振り続ける様子。伝説のステージが38年の時を経ても、未だ色褪せず人々に訴えかけてくる。大人になったあの頃の若者たちは、今も変わらずキャンディーズを支えているのだ。これだけ熱いアーティストとファンの幸福な関係を目の当たりにして、彼女たちが音楽シーンの中でも特別な存在であることを思い知らされたイベントであった。
ソニーミュージックOTONANO『キャンディーズ メモリーズ FOR FREEDOM』スペシャルページはこちら>
http://music-calendar.jp/2016031902
〝今〟という現実にむきあいながら〝明日〟の見えない若者の心情をそのままに反映したアルバムだった・・・はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』制作秘話
2015(平成27)年08月05日(水) 執筆者:小倉エージ
1970(昭和45)年08月05日(水)、はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』が発表された。林静一が手がけたアルバム・カバーに描かれた製麺所の看板にちなんで後に「ゆでめん」と称されることになる。70年の4月以来、岡林信康の『見る前に跳べ』への参加をきっかけに岡林のライブでバックを務める一方、独自の活動を始めていたはっぴいえんどは、アルバム発表直後の
1970(昭和45)年08月09日(日)、岐阜県の糀の湖で開催された第2回全日本フォーク・ジャンボリーに出演し、岡林信康のバックを務めると同時に彼ら自身の演奏を披露した。「朝」を幕開けに♪12月の雨の日♪、「春よ来い」など「ゆでめん」からの主要曲に加え、遠藤賢司の「雨上がりの街」を演奏したが、
♪12月の雨の日♪の冒頭で大滝詠一が「暑くてやりにくいんですけど」と触れているように、収録された作品の大半が〝冬〟を背景にした作品が収録された「ゆでめん」の記念すべきお披露目のステージにしてはいささか不似合なものだった。前後して「ゆでめん」からの作品はラジオで放送されはじめたが、やはり暑い夏の真っ盛りだっただけにそれもまたいささか不似合なものだった。おまけに〝(音が)ひきずるように重い音!〟、〝歌詞が聞き取りにくい〟といった声も耳にするなど、当初「ゆでめん」の評判は芳しくはなかった。音楽誌での評価も様々だったが、岡林信康との共演や独自のライヴ活動、加えてURC初期の作品がそうだったように東京の最新情報を伝える各地の放送局の番組などを通じてはっぴいえんどと「ゆでめん」の評価は高まり、翌年のニューミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン)の4月号で日本のロック部門の1位に選出された。〝日本語のロック論争〟の発端のひとつになったものだが、それでもはっぴいえんどの存在は日本のフォーク、ロックを知るファン層に限られていた。日本のロック史、日本のポピューラ・ミュージック史における重要な存在としてその業績、影響などが一般に知られるようになったのは、「ゆでめん」の発表から10年以上を経てのことだった。私が細野晴臣に出会ったのは新宿の花園神社近くにあった「パニック」にエイプリル・フールの一員として出演していた時のことだった。初めての出会いにも関わらず、好んだ音楽が似通っていたことを知り、話が弾んだ。その際、エイプリル・フールの解散と新しいバンドの結成の話を教えられた。それは「バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレイプみたいなバンド!」というものだった。アート音楽出版に勤務しURCの制作を担当し、どうしてもロック・バンドのアルバムを制作したかった私にとってはそれこそ望んでいたものだった。細野晴臣のその言葉、好きなグループやアルバム、作品についての会話から得た細野晴臣への信頼こそが、すべてのはじまりだった。そして無謀にも細野晴臣が結成するバンドの作品や演奏を聞かないまま、レコーディングの話を進めた。そのメンバーは細野晴臣と同じくエイプリル・フールの一員だった松本隆。当初、ヴォーカルでの参加を予定されながらロック・ミュージカル『ヘアー』への出演が決まった小坂忠にとって代わって参加することになった大滝詠一。「ゆでめん」の録音が終了するまで進学かそれともプロのミュージシャンになるか決めかねていた鈴木茂。URCの制作を担当していた私は、当然、4人の経歴、音楽的な背景や結成の経緯を知っておくべきだったはずだが、それを怠っていた。それを知ったのは「ゆでめん」を制作して後、音楽誌に掲載された彼らのインタビューでのことだ。それよりも彼らが目指す音作りや音楽性について確認し、具現化することにしか関心がなかった。細野晴臣だけでなく松本隆、大滝詠一と拠り所にしたグループのアルバム、作品についての入念な会話を交わすことが重要であり、それ以外は必要もなかったからだ。はじめて彼らの作品、演奏を耳にしたのはレコーディングの実現の為に必要なデモ・テープを制作した時のことだ。大滝詠一によれば彼らの演奏を耳にしながら私は終始うつむいたままで、バッファロー・スプリングフィールドの「ブルバード」のコピー演奏を耳にして初めて反応したということだが、「ブルーバード」の演奏を耳にして演奏の技量を確認し、録音が可能なことを確信した。録音にあたって日本語のオリジナルであることを必須の条件とした私にとって、彼らの作品はそれを満たすものだったが、明らかに習作の段階であり、実際、「春よ来い」がほぼ完成していた以外、
♪12月の雨の日♪は「雨上がり」の段階であり、「足跡」が「田舎のコーヒー屋にて」を経て録音時に「かくれんぼ」となったように、リハーサルを重ねるうちに作品の歌詞、メロディーは修正が施され、タイトルが改められていった。
‡1970(昭和45)年03月18日(水)、麻布のアオイ・スタジオで初めてのレコーディングが実施された。URCは制作予算の関係から録音は使用料の安価な夜半を中心とし、ハウス・エンジニアの起用が基本方針だったが、はっぴいえんどの初回の録音ではメンバーの要望から吉田美奈子の兄で、当時は東芝EMIで様々な録音を担当していて吉田保があたった。もっとも、その日の録音は芳しくなく、キャンセルせざるを得なかった。最初の録音がキャンセルとなって後、
1970(昭和45)年04月09日(木)から新たに録音にとりかかった。その様子については「定本はっぴいえんど」を始め、メンバーが様々に語ってきているが、いくらか誤認もあり、それを訂正すべくレコード・コレクターズ誌2015年1月号の「特集はっぴいえんど」での拙稿「「ゆでめん」が出来るまで」で記してきた。彼らが目指した音作り、録音への取り組みについて触れたものだ。音作りもさることながら、作品そのもの、歌唱や演奏を見逃すことが出来ない。〝お正月〟〝こたつ〟〝お雑煮〟〝歌留多〟といった日本の正月の光景を描いた意表をついた歌詞が衝撃的だった「春よ来い」。家を飛び出てひとり暮らす若者の姿は、即座に永島慎二の「漫画家残酷物語」を思い浮かべずにはいられない。それが掲載された劇画誌の「ガロ」こそは60年代末期、何かを求める若者にとって欠かせないもののひとつだった。さらに「12月の雨の日」は、そこに描かれた雨の日の情景が所在のない若者の心情が浮かび上がる。松本隆は「はっぴいえんどにはほとんどラヴ・ソングが無い。でも、ラヴ・ソングの少なさにもかかわらず、はっぴいえんどが普遍的に皆に支持されてるって言うのは、画期的だと思う。あれだけラヴ・ソングが少ないバンドって、かつてなかったと思うし、これからも出てこないと思う」と語る。その例外としてあげられる「かくれんぼ」は男女間の心情の隔たりを描いたもので、当時、ほとんどないシチュエーションだった。そればかりか、その背景に垣間見られる雪景色から、つげ義春的な世界が思い浮かぶ。例外的なもうひとつのラヴ・ソング「朝」では男女間の在り様、恋人の存在を観察する男の心情の描写が興味深い。いずれも大滝詠一が曲を書き、ヴォーカルを担当した。ロック・ヴォーカルにとって不可欠とされたシャウトにとって代わる〝唸り〟の表現、一方で滑らかなクルーナー・スタイルでの取り組みなど、大滝の歌唱はすでに独自性を明らかにしている。自身が作詞、作曲を手がけた「いらいら」でもパワフルな唸りを聞かせている。作曲に対する姿勢、考えはまだ曖昧ななままで、それ以上に〝自分の声〟を見つけ出せなかったという細野晴臣だが、松本隆による都会の冬の雪の情景を描いた「しんしんしん」、〝音〟と意味の重なる語呂合わせに凝った「あやかしのどうぶつえん」や前衛詩的な「敵 タナトスを想起せよ」など、松本隆の歌詞に即したメロディーを手がけ、自身が作詞、作曲を手がけた「飛べない空」では批評性をのぞかせている。さらに〝しあわせなんて どう終わるかじゃない、どう始めるかだぜ、しあわせなんて何を持ってるかじゃない、何を欲しがるかだぜ〟という松本隆が手がけた歌詞が印象深い「はっぴいえんど」の作品としての説得力と重厚さは白眉というにふさわしい。鈴木茂はまだ作詞、作曲を手掛けるにいたらなかったが、
♪12月の雨の日♪の鮮烈なリード・ギターを始め、歌を生かし、反映したギター演奏で大きな役割を担っていた。さらに細野晴臣のベースやキーボード、松本隆のキック・ドラム、また16ビートのニュアンスを生かしたトップ・キット・ワークなど、演奏面での充実も見逃せない。2トラックからはじまり、楽器、歌、コーラスのダビング作業の多さから4トラックに移行し、それも4トラックの録音機は一台しかなく2、4トラックの録音機材を駆使しながら録音作業を進めたが、その手法は手探りだった。楽器の分離などの明瞭さにはかける音の塊、ひきずるような重さのものになったが、それが結果として重厚さ、ガッツのある〝音〟を生み出すことになった。「ゆでめん」は、〝今〟という現実にむきあいながら〝明日〟の見えない若者の心情をそのままに反映したアルバムだった。自分探しのアルバムでもあった。さらにその背景には60年代末と言う時代の空気が見え隠れする。他に比較できるものがない画期的なアルバムだった。発表から45年を経た今、懐かしさを覚える人は少なくないはずだ。発表当時もさることながら後年になったその真価が問われ、評価が一層高まることになったのは、作品自体が持つ普遍性によるのは明らかだ。今なお魅力のつきないアルバムである。
http://music-calendar.jp/2015080501