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12月15日力道山命日に『力道山対木村政彦戦“伝説試合”の謎』発売

有名人衝撃死の真相「力道山」“最古参プロレス記者が語る力道山の死”
Posted on 2015年8月9日(日) 9:56 AM 
戦後最大の英雄だった力道山は
1963(昭和38)年12月15日(日) ヤクザに刺された傷がもとで、39年の生涯を終える。現役最古参のプロレス記者・門馬忠雄氏が、当時の緊迫した様子を再現告白する。当時、「東京スポーツ」のボクシング担当だった私は社で原稿を書いていると、「力道山、急死」のニュースに原稿を放り投げて現場に向かった。プロレス担当になるのは1年後だったが、これだけ大きな事件だから担当も何もない。すでに赤坂の山王病院から自宅のリキアパートに遺体が運び込まれ、周辺を取り囲んだ日本プロレスの所属レスラーたちは、一様にピリピリした空気を出していた。先輩記者に聞いた話では、力道山の病室では、刺した組員への「仕返し」を考えているレスラーもいたというから。力道山は
1963(昭和38)年12月 7日(土) 静岡・浜松で試合をし、夜行列車で帰京。翌
1963(昭和38)年12月 8日(日) 赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で飲んでいたところ、口論となった若い組員に腹部を刺される。そして
1963(昭和38)年12月15日(日) 腸閉塞から容体が悪化し、午後9時20分に亡くなった──これが当時の私の取材メモです。日本にプロレスを根づかせ、熱狂を生んだカリスマだけに、翌日のスポーツ紙には「プロレスの灯が消えた」と書いているところがあった。力道山の死はイコール、プロレスの死だと報じられたのです。そして
1963(昭和38)年12月20日(金) 池上本門寺で行われた葬儀は、これほどの人がどこから集まってくるのかと思うくらい、とぐろを巻くほどの列だった。葬儀を終えた日本プロレスは、未亡人の名を借りた4人の合議制(豊登、遠藤幸吉、芳の里、吉村道明)に移行。そこから豊登が次の社長になったが、競輪や競馬に会社の金をつぎ込むなど経営者の器ではなかった。そんな混乱を救ったのが、アメリカから凱旋帰国したジャイアント馬場だ。馬場はアメリカでもスーパースター級の活躍をしていたが、日本に帰ってきたことで一躍、救世主となった。これにアントニオ猪木も続いた。力道山の死がプロレス界にもたらしたのは、インパクトを与えながらの「世代交代」という概念。日本の戦後と同じで、何もないところから復興を果たすという歴史の繰り返しだ。とりわけ、馬場と猪木の2大スターを育てたことが、力道山の最大の功績だったと思うね。
http://www.asagei.com/excerpt/40693

ブログ「昭和の全日本プロレス」文字通り、昭和時代の全日本プロレス・ジャパンプロレスの熱戦譜、コツコツながらアップして下さってます。
ブログ「昭和プロレス懐古L」何か、凄いんですよ、ここ。何とも言えない、説明しにくい凄さがあります。
ブログ「プロレス爆裂地帯」すでにブログを超えております。「プロレス民俗誌」です。
サイト「プロレスタイトルの歴史」十数年の蓄積が、このサイト自体を歴史にしています。
http://roseckie.net/cms/?p=4792

プロレス桃源郷へのいざない「プロレス考古学」という名の蟻地獄の番人、小泉悦次の公式ホームページです。① コメント、ご質問も大歓迎です。といいつつ、僭越ながらコメントは表示前に管理者が「承認」させていただきます。「礼儀」に関するお考えが私と合わないと判断させていただいた場合には、承認しない場合がございます。また、承認しても、お返事しない場合がございます。ご了承下さい。② 各ブログからコメント欄をご覧になるには「フィードバック」をクリックして下さい。③ 試しに検索窓に適当な用語、人名、日付(数字は半角)をご入力してみて下さい。④ 重要な記事は「書庫」に格納してございます。
http://roseckie.net/cms/

昭和プロレス今昔
昭和プロレスの「その時」と「今」をweb採録していきます
http://昭和プロレス.blog.so-net.ne.jp/2014-05-30

 映像◆Rikidozan Sumo clips JWA Japan wrestling
 ●
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1954(昭和29)年8月15日(日) 第1刷印刷発行
 ┃ 『プロ・レスラー 力道山物語』 ┃1954(昭和29)年9月 1日(水) 第2刷印刷発行
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛1954(昭和29)年9月10日(金) 第3刷印刷発行
  三橋一夫:著 室町書房 定価 \150
 ┏━━━━━━━━━━━┓1964(昭和39)年3月 1日(日) 初版
 ┃ 『力道山 花の生涯』 ┃1964(昭和39)年4月15日(水) 11版発行
 ┗━━━━━━━━━━━┛三百円
   発行所:スポーツニッポン新聞社 編集:スポーツニッポン新聞東京本社
  2013/11/29(金) 午前 0:00  http://blogs.yahoo.co.jp/jaws112492/32944617.html
 ┏━━━━━┓1924(大正13)年11月14日(金) 生誕
 ┃ 力道山 ┃1963(昭和38)年12月 8日(日) 力道山、暴力団に刺される
 ┗━━━━━┛1963(昭和38)年12月15日(日) 39歳 暴力団員に刺された傷がもとで死去
「人間窮すれば通ずるものだ。手が使えなければ足を使う。足が使えなければ、かみついてでも試合はできる」書籍『ビジネスに活かす一流選手の言葉』より。
 http://showa-g.org/men/view/50 http://showa-g.org/wremarks/view/492
 衝撃トレ!力道山の宝刀・空手チョップの秘密
 2014(平成26)年7月20日(日) 16時00分  力道山はおそろしく原始的な方法で手刀を鍛錬【お宝写真館】撮影年月日は不明。写真は力道山が自宅で日曜大工にいそしむほほ笑ましい光景…などではない。なんと伝家の宝刀・空手チョップに不可欠である手の甲、指を木製のハンマーで叩きつけて鍛えている恐怖場面なのだ。空手家は拳で巻きワラなどを突くことで拳と拳を支える手首を鍛える。キックボクサーは足のスネをビール瓶で叩きスネの骨を硬くする。また、ぶちかましが得意な力士や頭突きを得意とするプロレスラーが硬い壁などに頭突きを繰り返すことで、頭の骨とそれを支える首を鍛える。一見、非科学的で野蛮そのものな鍛錬だが、痛みに慣れる(ある種のマヒ)ことで、それらのパーツで攻撃することにちゅうちょがなくなる上、それらの骨を覆う皮膚を酷使することで、ちょうど「タコができる」状態で皮が厚くなり、強度が増すという利点がある。だが力道山ときたら、大昔の拷問やSMに使用する三角木馬の小型版のような鋭角的な木材に手を置き、その手をワラ打ち用の器具(これは丸形)を四角形にした木製ハンマーで打ちつけて手刀を鍛えていたのである。撮影用のサービスショットであっても不思議ではないが、力道山の次男・百田光雄は父が自宅でこの器具を使い、手刀を鍛えている場面を目撃したことがあると証言。「手の全体を木製のハンマーみたいなので打ちつけているんだけど、だんだんと肉が割れて血が噴き出し、木製の器具が赤く染まってくるんだ。子供心にも怖かったね」写真からも力道山の尋常ではない指の太さ、手の甲の分厚さが分かる。大相撲時代に得意とした突っ張りを原型とする空手チョップだが、力道山は指や手の甲自体を硬くするという恐ろしい方法で手刀鍛錬を怠らなかったのである。空手チョップのフォーム自体は子供でもまねすることは容易。現在も見よう見まねで空手チョップを使用する選手は数多いが、この力道山の恐怖写真を目にしたら、安易に空手チョップを使用することなどできない。付け人だったアントニオ猪木をして「あの空手チョップ一撃に、あらゆる怒り、怨念が込められていた。すごい迫力だった」と語る力道山の空手チョップには、こんな鍛錬が隠されていたのだ。
 http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/288630/
「テレビでプロレスを見た。力道山の空手チョップを見て、自尊を満たした。僕ら文化人が何をすべきかというのが大事」
 http://matome.naver.jp/odai/2143728463268180201/2143728541269160403
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1
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 1963(昭和38)年12月 9日(月) 1日目は応急手当を受け帰宅。その後、村田の所属団体の長小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を謝罪に訪問。「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「うん、うん、わかったよ」と声をしぼり出すようにいったという。[12]
 1963(昭和38)年12月10日(火) 2日目に症状が悪化したため入院、外科医に山王病院へ来てもらい十数針縫う手術を受け成功[13] 。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、話が表に出ないように親しい医者のいる病院にしたためという。側近たちは、赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、力道山は嫌がったとのこと。[14]
 1963(昭和38)年12月15日(日) 7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。これも成功したと報告されるが、その約6時間後の午後の9時50分ごろに力道山は死亡した。死因は正式には穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎とされている。[15]
力道山は何故「クズ」と称されるのでしょうか?
力道山の武勇伝の裏側で色々なことをやらかしたという事実があります。そんなクズと言われてしまう事情を色々と調べてみました。
2015.07.01
■URL挿入不能■
力道山 【悪行】の数々 【エピソード】紹介
日本プロレス界の父と呼ばれ、栄光や悪行の数々が尽きない彼のエピソードを一挙紹介!
2014.10.24
■URL挿入不能■

「テレビでプロレスを見た。力道山の空手チョップを見て、自尊を満たした。僕ら文化人が何をすべきかというのが大事」
http://matome.naver.jp/odai/2143728463268180201/2143728541269160403

力道山-人生は体当たり、ぶつかるだけだ [著]岡村正史
[評者]唐沢俊一(作家)  [掲載]2008年11月30日   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 
著者:岡村正史  出版社:ミネルヴァ書房 価格:¥ 2,700
 ■プロレスそのものの魅力に迫る
 高校時代、友人たちとプロレス会場に足を運ぶのが、ひそかな楽しみだった。なぜかというと、親も教師たちも、それを禁じていたからである。「見るならまっとうなスポーツを見ろ。プロレスなどというのは野蛮な見せ物だ」と、大人たちはわれわれを諭したが、しかしあの会場にただよう異様な高揚感は、「まっとうな」他のスポーツにはちょっとないものだった。それはまさに「野蛮な見せ物」を見に来ているのだという罪悪感が増幅させていた快感だったのかもしれない。
 本書の著者岡村正史氏は現役の高校教諭である。三十数年前、私にプロレス観戦を禁じたのと同じ職業の人が、「この本は力道山の評伝であると同時に、ひとつのプロレス論なのである。これから、私なりの視点で、力道山とプロレスについて語っていくことにする」と前書きで宣言しているような本を書く。読んでいて、感無量なところがあった。
 著者がわざわざ、「力道山とプロレス」について語る、と強調しているのは、これまで力道山について書かれた本の多くが、戦後日本の混乱とパワーの代名詞として“社会的に”力道山をとらえ、肝心のプロレスの魅力を語っていないことを指してのことだ。
 力道山がシャープ兄弟を空手チョップで打ち負かすことに国民が熱狂したことを、敗戦国の戦勝国へのコンプレックスからきた現象、と分析するのは簡単だが、しかしその分析にあまりに偏ると、プロレスそのものの持つ魅力を軽視することになる。
 力道山がヒーローたり得たのは、何より彼のプロレスが見ていて面白く、魅力があったからに他ならない。現在残る試合のビデオを見て、格闘家として、ショーマンとして力道山が放つオーラに舌を巻いた身として、著者のスタンスに、読んでいて何度も大きくうなずいた。
 それだけに、著者の目配りの広さが、逆にプロレスラー力道山を語るという視点への絞り込みを邪魔しているのが残念でもある。徹底して試合内容だけで力道山のすごさを語るような評伝を、著者の筆で読んでみたい。
 評・唐沢俊一(作家)
 ミネルヴァ書房・2625円/おかむら・まさし 54年生まれ。高校教諭。『知的プロレス論のすすめ』など。 
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071703594.html

力道山 直筆「闘鬼」
価格(税込):2,100,000円

プロレス(国内団体) > グッズ > その他 > 日本プロレス 
状態:
【並上】 ヒビ&右上角に若干の欠けあり   
「闘鬼 力道山 昭和三十五年十二月吉日」神代杉に書かれた直筆の書 サイズ:横約67㎝×縦約27㎝ 力強く見事な筆づかいで書かれた「闘鬼」。力士として、プロレスラーとして、事業家として、人生を闘い続けた力道山らしい入魂の一筆。サイン以外で力道山の文字が残っていること自体が珍しい。※リキアパート建設時、力道山自室の茶室・床の間などに使用された高級材木・神代杉。当時の現場監督がその余った床板に記念として書いてもらい、半世紀以上大切に保管してきたもの。開運!なんでも鑑定団2001年1月9日放送回に出品され計100 
https://www.toudoukan.com/shop/goods/$/id/1075125/

力道山
価格(税込):5,250,000円
プロレス(国内団体) > コスチューム > レトロ > 日本プロレス 
状態:
【並上】    
化粧まわし 関脇時代に使用されたもの 大関目前までいった力士時代の゛栄達の証゜。表に日本刀と桜、裏面も龍と白木屋調製の刺繍が入った大変贅沢なつくりになっている。物資不足だった終戦直後の時代、横綱級といわれるこれだけ豪華なまわしをしめていたということに、当時の力道山本人の力士としての自負とタニマチの期待の大きさが想像できる。(化粧まわしは、大相撲の関取のみがまける儀式用の廻し。土俵入り等で使用される。長さ8m、幅68cmの絹織の布の先端に豪華な刺繍と馬簾の付いた大きな前垂れを持つ) ※リキアパートの現場監督 
https://www.toudoukan.com/shop/goods/$/id/930857/

1993年12月15日放送時は1、2問目のみ逸見の代理司会を務めたことがある。この日の本来の代理司会は島田紳助。山城は逸見の追悼スペシャルにて、逸見が胃癌の闘病生活に入ることを告白してから、逸見の早期回復を祈って願を懸けるために、馬場は大好きな葉巻を断ったエピソードも紹介し、馬場の人柄を讃えた。逸見が亡くなってから、自らのトレードマークだった葉巻を口にすることは生涯無かった。
野沢直子からはこの番組限定で「ジャイヤント」と呼ばれていた。最終回スペシャルも自身の試合が終わってから、その足でスタジオへ駆け付け、馬場の名場面特集も組まれた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E9%A6%AC%E5%A0%B4#SHOW_by_.E3.82.B7.E3.83.A7.E3.83.BC.E3.83.90.E3.82.A4.21.21.E3.81.A7.E3.81.AE.E3.82.AD.E3.83.A3.E3.83.A9.E3.82.AF.E3.82.BF.E3.83.BC

12月15日力道山命日に『力道山対木村政彦戦“伝説試合”の謎』発売http://miruhon.net/news/2009/12/1215.html

力道山は稀代の名プロデューサーhttp://www.asahi-net.or.jp/~uy7k-ymst/tv6/min48.htm
テレビ観戦中に、興奮のあまり6名の老人がショック死し、社会問題化するほどの騒ぎを引き起こしたのが“吸血鬼”フレッド・ブラッシーだった。
  62年4月22日に行われた、ブラッシー対力道山のWWA認定世界ヘビー級選手権試合でのことである。
  ブラッシーの噛みつき攻撃に、力道山のヒタイからドクドクと真っ赤な血が噴出したのだ。
  なにしろブラッシーの歯は入れ歯で、毎日ヤスリで研いで鋭くしていたので、力道山のヒタイはひとたまりもなかった。これに対し、力道山の空手チョップは冴えに冴え、悪は正義には絶対勝てないという、勧善懲悪の演出を見せてくれたんだよ。

鳥山明の天然伝説
2008年12月15日 | 雑学・うんちく
ドラゴンボールマニアなら誰でも知っている逸話。ドラゴンボール単行本の背表紙には、キャラクタが描かれており、絵が続いているのはご承知のとおりです。その単行本の背表紙にヤジロベーを2回出してしまったのです。当の作者・鳥山先生は、読者等からヤジロベーについての多数の手紙を受け「んな アホな」と、単行本を 見直して初めて、気付いたそうです。まさに天才の天然ボケです。さらには、天津飯は描き忘れています。ヤジロベーを2回描いたり、カリン様や亀などというさして重要でもないキャラを描いてるのに、なぜ鳥山先生は天津飯を描かなかったのでしょうか?単純に書き忘れたんだとは思うんですが、こんな天然ボケも鳥山先生の魅力なのかもしれません。ちなみにトランクスもいないみたい。http://blog.goo.ne.jp/naosuke26_1978/e/e10aca1fff1a8fb66e7ea8de913b0a05
http://matome.naver.jp/odai/2134192750304310201

力道山がのこした大相撲 カラー映像  http://youtu.be/OsBj42NDyqo
2014/06/25 に公開 
伝説的プロレスラーにして元力士である力道山が、自身で昭和20年代後半から30年代-前半にかけて撮影した本場所のカラー映像です。
以下の映像などが含まれています。
昭和28春鏡里横綱土俵入り(後姿)
昭和28春東富士横綱土俵入り(後姿)
昭和32初千秋楽○三根山(寄り倒し)信夫山●
昭和32初千秋楽●朝汐(巻き落とし)玉乃海○
昭和32初千秋楽○若ノ花(外掛け)鶴ヶ嶺●
昭和32初千秋楽●松登(突き落とし)千代の山○※裁く行司はヒゲの伊之助こと19代-式守伊之助
昭和28春十四日目○栃錦(肩透かし)鏡里●
昭和28春大岩山弓取式
放送時の正面解説北の富士勝昭氏・向正面解説元黒姫山の武隈親方(当時)による思い出-話なども非常に興味深いです。

1963年12月15日、日本マット界の元祖でもある力道山が、赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」でやくざに刺された傷がもとであっけなく他界した。そに命日に向けて、ミルホンネットが創業以来アプローチしてきた石川県金沢市在住の力道山史研究家・石田順一さんがついに参戦! 書き下ろしの新作論文を発表してくれた!
これはすべての力道山に関心があるファンにとっての必読書であろう。
石田順一 「日本選手権大試合」力道山対木村政彦戦“伝説試合”の謎
★合わせて読めばさらに楽しめる
タダシ☆タナカ+シュ-ト活字委員会 54年力道山~沢村忠キックの誕生『マット界の黙示録☆真正文化史』①
TOSHI 倉森 これがプロレスのルーツだ!カリフラワー・レスラーの誇り
山口敏太郎 格闘技・スポーツ都市伝説~力道山の死因
週刊ファイト元編集長 週刊マット界舞台裏'07年8月07日号~カール・ゴッチ追悼号
日時: 2009年12月14日 21:35 | パーマリンク 
http://miruhon.net/news/2009/12/1215.html
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『力道山史 否!  1938-1963』 ┃2017(平成29)年11月25日(土)
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 価格(税込)18,000円
 在庫:15点 9:07 2018/02/06(mon)現在
 https://www.toudoukan.com/page/$/page_id/3475
 https://www.toudoukan.com/shop/goods/$/id/2215577
 http://kumax15.hamazo.tv/e7744040.html

プロレスは死んだ 
2015-08-01 18:31:54 テーマ:プライベート 
7月31日(金) 金沢
馳代議士と入れ替わるように、力道山研究家として知られる石田順一さん(金沢市在住)が来訪
プロレスに関する著書を何冊も執筆されており、私も高校生の頃からお世話になっている方
ここ数年はお会いしていないのだが、足を運んでくださる義理堅さに感謝
お参りの後、プロレスについて語り合う
石田「最近のプロレスはどうなっとるんや?」
とりわけ、2001年に暴露本(通称:高橋本)を出版したミスター高橋を糾弾怒る
石田「『すべてのプロレスはショー』って書いとる。高橋は、新日本(プロレス)のレフェリーしかしてなかったやろ?新日本以外のことも書いとる。こりゃ、許せん!」
石田節は止まらない
石田「かつてアントニオ猪木が
  『こんな試合をしていたら、10年もつ選手生命が3年で終わってしまうかもしれない』って言ったけど、
   最近、60(歳)過ぎても、(現役)やっとる。プロレスってのは、楽なんか?苦しいんか?」
川村「ある意味、〝苦しい〟んじゃないですか、現役を続けなきゃならない、という(苦笑)」
石田「(苦笑)俺の中のプロレスは死んだ」
祭壇の前で、衝撃的な発言カオ+汗
さすがは、昭和の〝プロレス者〟だ
川村「近々、本、出されるんですよね?」
石田「俺の〝卒業論文〟や」
http://ameblo.jp/69showtime/entry-12062048734.html

SUNDAY LIBRARY 
小林 照幸・評『力道山対木村政彦戦は…』石田順一・著
2015年12月8日
戦後屈指のヒーローを研究しつくした集大成 
◆『力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか』石田順一・著(北國新聞社/税抜き2000円) 
 1980年代初めより、プロレス誌に力道山の新知見を発表してきた本書の著者の石田氏は「力道山史研究家」としてプロレスファンに広く知られている。52年、石川県金沢市生まれ。81年に自費出版した『わがふるさとの金沢プロレス史』はプロレスと郷土史という視座を提示し、専門誌紙の記者、読者のみならず、当時現役のA(アントニオ)猪木や坂口征二らも評価し、県紙・北國新聞社は「プロレス史研究家」として注目した。 
力道山が日本でプロレス興行を開始したのは54年だ。石川県下初のプロレス興行は同年9月23日、金沢市… 
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http://mainichi.jp/articles/20151208/org/00m/040/044000c

 力道山の足跡を一冊に 金沢のプロレス史研究家  
 2015/12/01 03:19『北國新聞 HOKKOKUSHINBUN』石川 地域スポーツ
 写真◆コレクションの資料を並べ、新著を手にする石田さん=金沢市内 
 プロレス史研究家の石田順一さん(63)=金沢市=は、力道山の名勝負やエピソードを集めた「力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩(けんか)試合になったのか」を北國新聞社から発刊した。
巻頭では1954(昭和29)年に行われた表題の試合、力道山―木村政彦戦について当時の記録を幅広く検証しており、力道山の勝利が日本のプロレス興行の方向を決定づけ、ファンを重視する力道山のスタイルの原点になったと述べる。
チャンピオンベルトをめぐる秘話、米国で行われた世界王座戦にまつわる謎の解明など、力道山研究の第一人者としての視点が楽しく盛り込まれている。巻末の「力道山国内試合記録」は貴重なデータとなっている。
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/LS20151201601.htm

 

 映像◆木曜スペシャル 力道山 1/3 http://www.nicovideo.jp/watch/sm21015132
 映像◆木曜スペシャル 力道山 2/3 http://www.nicovideo.jp/watch/sm21015250
 映像◆木曜スペシャル 力道山 3/3 http://www.nicovideo.jp/watch/sm21015393
 映像◆懐かしいプロレス 力道山特集3/3http://www.nicovideo.jp/watch/sm9885691

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─――――――――――――┐http://www.thedestroyer.com/photos/japan/
 ┃ 力道山vsザ・デストロイヤー ┃|1963(昭和38)年 5月24日(金)|WWA世界ヘビー級選手権 東京体育館
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛└─――――――――――――┘平均視聴率で実に64.0%を記録。これは今日においても歴代視聴率第④位にランクされている。現代に例えると2002年の日韓サッカーW杯の日本―ロシア戦の66.1%に匹敵するものであり、いかに力道山の人気が絶大であったかがうかがえる。なお、この試合では、「四の字固めを完璧に決められた力道山が」ギブアップすることなく戦い続けたものの決着がつかず、「両者試合続行不可能と判断したレフリーによって、引き分け」とされた。そして、「試合後、自らの力ではからみあった足を解けぬ両者のリング・シューズのヒモ」を若手レスラーがハサミで切って引き離したという[10]。
  1963年5月、日本プロレスに初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC
 ┏━━━━━━━━━━┓┌─――――――――――――┐価格(税込)1,575,000円 状態【良】
 ┃ 力道山パスポート ┃|1963(昭和38)年 5月24日(金)|発行
 ┗━━━━━━━━━━┛└─――――――――――――┘【百田家特別委託品】48年間門外不出だった力道山最後の証明書。昭和38年5月24日発行(この日はWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦が東京体育館で行われ平均視聴率64.0%を記録した日)非常に貴重な「百田光浩」の漢字とローマ字、ダブル直筆サイン入り。田中敬子さんとの世界一周ハネムーンからこの年12月15日(日)に亡くなるまでの海外渡航の全記録がわかる歴史的一次資料。生年月日、職業、身長なども記載 亡くなるまで使用した本人の遺品 
  https://www.toudoukan.com/shop/goods/$/id/850921/

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─――――――――――――┐
 ┃ 『毎日新聞』写真特集:力道山の軌跡  ┃|2013(平成25)年 4月12日(金)|配信
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛└─――――――――――――┘
 01枚目/20枚中 1957(昭和32)年10月 7日● プロレス力道山対ルーテーズのタイトルマッチ
 http://mainichi.jp/graph/2013/04/12/20130412org00m040013000c/001.html
 02枚目/20枚中 1954(昭和29)年 8月 4日● 力道山とシュナーベル・ニューマン組の対戦
 http://mainichi.jp/graph/2013/04/12/20130412org00m040013000c/002.html
 03枚目/20枚中  力道山・吉村対シャープ・オースチン。怒った力道山はリング外でシャープに空手を連発、手前はオースチン(右)を痛めつける吉村、リングでカウントをとるのは沖レフェリー
 http://mainichi.jp/graph/2013/04/12/20130412org00m040013000c/003.html
 04枚目/20枚中 1958(昭和33)年10月4日 プロレス選手権で力道山がドン・レオ・ジョナサンを降す
 http://mainichi.jp/graph/2013/04/12/20130412org00m040013000c/004.html
 05枚目/20枚中 1954(昭和29)年2月 シャープ兄弟を迎えて、プロレスリング初興行。力道山は木村政彦とタッグを組み各地を転戦。プロレスブームを巻き起こした
 http://mainichi.jp/graph/2013/04/12/20130412org00m040013000c/005.html
 06枚目/20枚中 1954(昭和29)年8月 国際試合第2弾シリーズ。シューベルとニューマン組の反則タッグに対し、力道山組の怒りの報復
 http://mainichi.jp/graph/2013/04/12/20130412org00m040013000c/006.html
 07枚目/20枚中 1955(昭和30)年7月2日 力道山が米国遠征から帰国。40歳横綱東富士は引退後プロレスに転向、力道山と“タッグ”
 http://mainichi.jp/graph/2013/04/12/20130412org00m040013000c/007.html
 08枚目/20枚中 1959(昭和34)年6月17日 力道山対アトミック
 http://mainichi.jp/graph/2013/04/12/20130412org00m040013000c/008.html
 09枚目/20枚中 1953(昭和28)年 7月13日● プロレス道場を開き遠藤と練習する力道山
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 10枚目/20枚中 1957(昭和32)年9月30日 バーベルトレーニングする力道山
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 11枚目/20枚中 1957(昭和32)年9月30日 芦ノ湖の湖畔でロードワークの力道山
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 12枚目/20枚中 1957(昭和32)年9月 ホテルで名コックぶりを見せる力道山
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 13枚目/20枚中 1957(昭和32)年8月9日 プロレス対放送スターチームの親善野球大会。子供たちにサインを求められる力道山
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 14枚目/20枚中 1957(昭和32)年8月9日 プロレス対放送スターチームの親善野球大会。力道山のピッチング
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 15枚目/20枚中 1960(昭和35)年 2月 1日 力道山対ライト。頭突きに空手チョップを叩きこむ
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 16枚目/20枚中 1960(昭和35)年 2月 1日 プロレス世界選手権を6回防衛した力道山
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 17枚目/20枚中 1959(昭和34)年10月2日 プロレスセンター総合道場開き、力道山に賛辞をおくる浅沼稲次郎
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 18枚目/20枚中 1955(昭和30)年11月22日 プロレス・アジア選手権でキング・コングをたおして、タイトルを握った力道山
 http://mainichi.jp/graph/2013/04/12/20130412org00m040013000c/018.html
 19枚目/20枚中 1957(昭和32)年10月13日 プロレス選手権。ルー・テーズ(下)、脳天逆落としで力道山から一本とる一瞬
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 20枚目/20枚中 1963(昭和38)年12月16日 力道山の死亡で混雑する山王病院
 http://mainichi.jp/graph/2013/04/12/20130412org00m040013000c/020.html
************************ http://www.uta-net.com/song/38832/
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1
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 力道山先生のキャデラックは今いずこ・・・
 先月としか思えない2001年1月4日の当ブログにてお伝えした昭和の自動車塗装名人、故中沖満先生の名著「力道山のロールスロイス」が今年になって復刊されました。
 http://www.mooneyes.co.jp/wildman/2012/0616/2721

 

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【調査】空手チョップ! 空手チョップ!! 前編
JUGEMテーマ:格闘技全般
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 「空手打ち」(Karate Chop)
 その名の通り空手で用いられる技術で、手の側面を縦に使って(これを手刀という)相手の頭部を烈しく打つ。 拳を用いて打つのに次ぎ、手刀を用いることは最も効果がある。 相撲の『素首落し』に良く似ている。 実技は遠藤五段と駿河海
(「スポーツニッポン」 2/15/1954)
 手刀打ち――空手チョップとは現在では広く知られた言葉であり、既に日本語として定着しています。 別段格闘技やプロレスに興味が無くとも説明無しでチョップという技がどういうものか何となく分かる人の方が多いのでは無いでしょうか。 ただし、本来の意味では理解されていない人も多いでしょう。
 ところで、「goo辞書」でこの"Chop"を引いてみると…。
 1 [III[名]([副])]…を(おの・なたなどで)たたき切る, ぶった切る((down, off));〈枝などを〉(木などから)切り落とす((off ...)). ⇒CUT[類語]
 大体これで間違いありませんが、付け加えるなら「上からの打ち下ろし」を指す動作として使われています。 
 そもそも手刀とは、西洋ではあまり見られない用法で、かの大山倍達総裁も「西洋の闘技では、ほとんどみかけない」と自著に書いています。
 今回は、この「空手チョップ」について発祥から色々と探ってみようと思います。
 それではどうぞ。
***
 相撲からプロレスラーへと転向した力道山が同じく柔道から転向した木村政彦と共にアメリカからプロレスラーを迎え撃ち、1954年2月19日、まだ誕生間もないテレビ放送で手刀打ちを乱打してアメリカ人レスラーを圧倒、「空手打ち」とも称される「空手チョップ」はこの瞬間、日本中を狂喜させた。
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 当の力道山にとっても、こんなに熱狂すると思っていなかったであろうが、アメリカ人レスラーをなぎ倒した技は、やがて力道山の代名詞となっていく。
 例えば当時の街頭テレビをドラマや漫画などで表現するなら、「力道、空手打ち!!」もしくは「力道山、空手チョップの猛攻!!」といった類の言葉が差し込まれるのでは無いだろうか。 「空手チョップ」とは、時代を表わすキーワードとなったのである。
 空手は戦後GHQの武道禁止令を尻目に各地の大学に大きく勢力を伸ばし、力道山の「空手打ち」の後押しを受け、1955年頃には「空手ブーム」が訪れる。 
 戦後の勢力拡大を背景に空手は、1953年5月の空手映画「残波岬の決闘」を皮切りに54年以降はメディアでも題材になる事が増えていた。
 例えば本格的な空手映画にと請われ、54年1月には当時空手六段の大山倍達主演で「猛牛と闘う空手」という記録映画が公開、力道山旋風後の55年2月には「銀座令嬢」で主演の月丘夢路が空手の名手を演じたり、「飛燕空手打ち」(55年5月)では表題にまで進出、翌年には高倉健のデビュー作として知られる「電光空手打ち」が上映されたりと、全国的に知名度を挙げた。
チョップ22.jpg
 しかしこの「力道山の空手チョップ」に反発する空手家も少なからず居た様で、当時日本空手協会理事であった髙木正朝は商工会議所の演武会で会頭が祝辞に立ち、
 『今や力道山の空手チョツプによつて空手の威力は日本の隅々まで遺憾なく発揮された』
 と空手を賞讃したところ、これが心外であるとして、次の挨拶だった髙木が『空手とはそんなものではない』と批判する一幕もあったという。 しかし、一説には1956年頃に50万人を超える空手愛好家がいたというから力道山の功績は否定出来まい。
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