過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)

 

 「鎌倉幕府」は存在しなかった! 変わる日本史の常識
 2013(平成25)年10月21日(月)
 「イイクニつくろう」で鎌倉幕府の成立は
‡1192年、という定説が揺らいでいる、と最近よく話題になっています。読売新聞が夕刊トップで掲載した「変わる日本史教科書」というタイトルの記事では、改訂された高校生用の日本史教科書が、鎌倉幕府の成立の時期について「1180年」から「1192年」まで6つの説を載せていることを紹介していました(平成25年3月27日付)。なぜそんなことになるのでしょうか。その答えが『歴史をつかむ技法』(山本博文・著 新潮新書)に書いてあります。もともと「幕府」という言葉は、中国が起源。出征中の将軍が幔幕を張って宿営しているところを指したのですが、これが日本では武家政権のことを指すようにもなりました。ただし、一般に広く武家政権のことが「幕府」と呼ばれるようになったのは、なんと江戸時代の末期からだそうです。つまり、源頼朝が鎌倉に政府を開いた際には、「幕府」なんて言葉は使っていなかったわけです。当然、頼朝はもちろんのこと、周囲の誰も「鎌倉幕府が出来た!」なんて盛り上がりは見せていません。したがって、正確に言えば、当時は「鎌倉幕府」など存在していなかったことになります。結局、いつ「鎌倉幕府」が出来たのかという答えは、後世の歴史学者の定義や解釈で異なってくるわけです。「安倍政権」「オバマ政権」といった現代の区分とは別のものなのです。こうした事情から、今の歴史教科書では「イイクニつくろう鎌倉幕府」というシンプルな教え方が消えていきました。同書によれば、鎌倉時代や室町時代に、征夷大将軍が実際に「将軍」と呼ばれることも少なかったし、江戸時代には「藩」という言葉もほとんど使われていなかったそうです。こういう事実を知ると、歴史小説やドラマの見方までがまた変わってくるのではないでしょうか。
 http://www.gruri.jp/topics/13/10211630/

 米国は第3の原爆投下を計画していた
 1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた
 2020(令和二)年08月09日(日) 文=ALEX WELLERSTEIN/訳=ルーバー荒井ハンナ
■終戦■だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で
 1945(昭和20)年08月15日(水)、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。日本がなぜ考えを変えたのか。原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。(参考記事:「核の亡霊――世界の核実験の4分の1が行われた土地は今 写真24点」)
‡1945(昭和20)年09月02日(日)◆写真◆日本の降伏後、連合国は天皇を戦犯として裁判にかけることを検討していたが、ダグラス・マッカーサー元帥はこれから日本を占領するにあたって天皇が存在していたほうが日本人には受け入れられやすいと訴え、その意見が聞き入れられた。1945年9月2日、日本と連合国軍の代表は戦艦ミズーリ号で日本の降伏文書に署名した。こうして天皇制は象徴として維持され、日本の統治権はマッカーサーの手にゆだねられた。写真は
 1945(昭和20)年09月27日(木)に撮影されたもの。(UNIVERSAL IMAGES GROUP/UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/ALBUM)
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=4

「明日の学校はムリかも」と迷っている人へ 中学3年生を丸ごと休んで得られた6つの結論
 石井志昂  『不登校新聞』編集長、不登校経験者 
‡2018(平成30)年09月02日(日) 16:00 
 学校の教室(イメージ)(写真:アフロ)
 夏休み明けの前後は子どもの自殺が増える傾向があります(下図参照)。すでに多くの記事で警鐘が鳴らされていますが、今年の夏休み中にも5件の子ども自殺がありました。うち1件は始業式前日の中学生自殺です。 

内閣府『自殺対策白書』(2015年発表)より作者作図
 「自殺の危険性」とまではいかなくても、「子どもが『行かない』と言いだしたらどうしよう」と不安を感じている親や、「あしたの学校はムリかも」と迷っている学生は多いと思います。 
 私は中学校2年生の冬から学校へ行っていません。中学3年生は丸ごと学校を休み、その後も高校や大学などには通わず36歳になりました。現在は、不登校当事者や識者に取材をして『不登校新聞』を発行する仕事をして暮らしています。 
 私も「学校へは行かなくてはいけない、行かないでどうする」と思っていましたが、今振り返ってみれば学校へ行かなかったからこそ得られたものがありました。今日はその得られた結論をお伝えしたいと思っています。 
 前半の3つは学校へ通う人自身に知ってほしいこと、後半の3つは親や祖父母など周囲の人に知ってほしいことです。 
不登校から得られた私の結論1
「1日も通わずに卒業ができる」
 不登校後に一番驚いた事実は小・中学校は一日も通わずに卒業できるという事実です。卒業は校長が判断するもので「不登校の人を卒業させたがらない校長のほうが問題になる」という事実には驚きました。 
 実際に私が取材したなかには「小学校の入学式だけ行ったが、小中ともに問題なく卒業できた」という人もいます。 
 さらに高校からは通信制高校というものがあり、月に1度から2度の登校で卒業できる学校もあります。試験だけを受けて「高校卒業」と同程度の資格が得られる制度もあります。大学も通信制大学が全国で43校もあり、いわゆるテスト競争をする「大学受験」はナシで入学できます。 
 私としては「じゃあ苦労して登校した日々はなんだったんだ」という思いしかありません。 
不登校から得られた私の結論2
「不登校をする前が一番ヤバかった」
 学校へ行けなくなったとき「これで人生が終わった」と私は思いました。しかし、最大のピンチは不登校をした時点で乗り越えていました。私の最大のピンチは学校へ通っていたときです。 
 不登校になるまで私は「学校への不満は人並みだ」と思っていました。クラスのなかには、いじめもあったし、理不尽な先生にも苦しめられました。勉強にも強い重圧を感じていました。しかし、そんなことは「あたり前のこと」だと思っていました。 
 ところが、その「あたり前」に苦しんでいました。 

不登校中の筆者・16歳(筆者の親が撮影)
 中学2年生の秋ごろから、学校へ行こうとすると、どうしようもなくムカつく、視界がグラグラと揺れるなど、自分では制御できない異変が起きていました。もちろん、ストレスによるものです。 
 不登校になる直前の冬はハッキリと「死にたくなる気持ち」が出てきました。電車の踏切を見ていると、なんだか踏切に吸い込まれそうな感覚が湧いてくる。踏切に近づくと、毎回のように「電車に跳ねられちゃったら人生が楽になるな」と思うようになっていました。 
 学校と距離をとってから異変や死にたい気持ちは薄れていきました。当然ですが、苦しみの根拠から離れたから苦しくなくなっていったのです。 
 不登校自体を懸念される人も多いですが「不登校をする前が一番ヤバい」というのが私の結論です。 
不登校から得られた私の結論3
「ふつうの未来が待っている」
 不登校をしたとき教頭先生から「大人になれないぞ」と言われました。その一言に震えましたが、あれから22年、私を待っていたのは「ふつうの未来」でした。 
 「ふつうの未来」とは、苦労もするし楽しいこともある大人になったという未来です。 
 中学生の当時は想像ができなかった「仕事」もしています。仕事はミスをして叱られながら覚えました。つまり「ふつうの覚え方」です。私の職場には大学を出た同僚もいますが、ちがいは感じません。 
 日常もふつうです。大好きな人と結婚をしたり、ケンカをしたり、2000円もするパフェが食べられたり、メタボと医者から言われたりしています。最近の日常の悩みはソシャゲの課金が止められないことです。 

現在の筆者(全国不登校新聞社・撮影)
 「学校へ行けない自分はもう終わりだ」と中学生の私は固く信じていました。しかし、終わったことはなにひとつありませんでした。なんでもない日常をボチボチと続くだけです。それは私だけでなく、多くの不登校の人の未来だったと取材を通して確信しています。 
 明日の学校を迷う人には、どうかそういう「先行事例」を信じて、いまの自分の気持ちに率直になってもらえればありがたいと思っています。 
不登校から得られた私の結論4
「当事者はSOSは言葉にしません」
 ここから先は、私が専門家や親に取材をしてきたなかで得られた「親や周囲の大人に知ってほしい結論」をお伝えします。 
 まず、「学校へ行きたくない」という一言こそ、当事者が口にしたくない言葉だということです。「不登校は悪」だと思っているからです。 
 不登校に関しては第三者が言動を見てSOSを判断するものだと思ってください。 
 子どもの言動を以前と比べて「できない」ことが増えてきたらSOSの兆しです。具体的には「宿題ができない」「あまり食べられない」「朝、起きられない」「支度ができない」「笑わない」などです。 
 周囲は「死にたい」や「行きたくない」という言葉が出るぐらいなら考えようと思いがちですが、いったん子どもの言動を思い出してみてください。 
不登校から得られた私の結論5
「SOSは自分だけで受けとめない」
 言動を見て「もしかして」と思ったら、子どものSOSは絶対に自分だけで受けとめないでください。 
 親ならばわが子の不登校に対して冷静になることはできません。親だからこそ、子どもの将来を案じるがあまりに「子どもの現在」を無視して「ちょっとがんばろう」と追い詰めてしまうからです。 

全国の親の会情報が掲載されている「登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク」のHP
 親や周囲は子どものSOSを「第三者に繋げていく存在だ」といったん割り切って相談や情報収集を始めてください。全国のフリースクールや不登校の親たちによる「親の会」があります。『不登校新聞』などでも、たくさんの当事者の経験談が得られます。 
不登校から得られた私の結論6
「危ないと思った安全確保を第一に」
 学校は命がけで通う場ではありません。命が脅かされるのならば「安全第一」が鉄則です。本当に危険な場合は、子どもから嫌われても「学校を休ませる」「近い距離で見守る」など周囲による「ドクターストップ」もあり得ます。 
 大きな決断だと感じるかもしれません。しかし、「学校は命がけで通う場ではない」という周囲の思いがあれば「本当に危険な状態にはなりづらい」というのも事実です。 
 というも、学校へ行くか行かないかで悩んでいる子は人並みに常識がある子です。学校が苦しくてもがんばっている子は、ほかのこともがんばれる子です。怠けている子でも、弱い子でもありません。 
 本人のことを周囲が信じて「学校よりもあなたが大事だ」という思いが伝われば危険が回避できるからです。 
 以上が私の結論です。「明日の登校はムリかも」と迷い始めたら、ぜひここに書いた6つの結論を思い出してもらいたいと思います。 
 以下は不登校にくわしい団体の連絡先、そして学校へ苦しいと思った人などが相談できる連絡先です。 
■保護者や子どもの相談窓口 
「子どもの人権110番」(電話0120-007-110) 
■不登校の相談窓口 
「登校拒否・不登校を考える会全国ネットワーク」(電話03-3906-5614) 
■学校へ行っているなど子どもの相談窓口 
「チャイルドライン」0120-99-7777
石井志昂 
『不登校新聞』編集長、不登校経験者
1982年東京都生まれ。中学校受験を機に学校生活が徐々にあわなくなり、教員、校則、いじめなどにより、中学2年生から不登校。同年、フリースクール「東京シューレ」へ入会。19歳からは創刊号から関わってきた『不登校新聞』のスタッフ。2006年から『不登校新聞』編集長。これまで、不登校の子どもや若者、親など300名以上に取材を行なってきた。また、女優・樹木希林氏や社会学者・小熊英二氏など幅広いジャンルの識者に不登校をテーマに取材を重ねてきた。


【資料】■池田大作スピーチ『聖教新聞』
‡1994(平成六)年09月02日(金)付
 「広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい」http://www.correct-religion.com/pages/souka01-04.html

 

 

 瀬戸内マリンビュー ラストラン
 広島の観光列車「瀬戸内マリンビュー」が尾道まで延長 新列車の導入前にラストラン
‡2019(令和元)年09月02日(月)
 2019(令和元)年12月22日(日)で運行終了予定の観光列車「瀬戸内マリンビュー」◆写真
 広島の瀬戸内エリアを運行する観光列車「瀬戸内マリンビュー」が10月1日から、尾道まで延長運転を行う。
 通常、広島から三原まで呉線を経由して土曜・日曜・祝日に1日1便運行するが、2020年10月から12月まで、広島や山口県岩国市、愛媛県今治市、上島町、松山市、岡山県倉敷市で展開する「せとうち広島デスティネーションキャンペーン」(以下、せとうち広島DC)のプレキャンペーンの一環として今年12月31日まで、サイクリストの聖地「しまなみ海道」の入り口である尾道駅までの延長を決めた。
 運航時刻は広島~尾道(上り)=広島駅10時3分発、呉駅10時53分発、竹原駅11時53分発、三原駅12時28分発、尾道駅12時42分着。尾道~広島(下り)=尾道駅14時2分発、三原駅14時26分発、竹原駅15時6分発、呉駅16時40分発、広島駅17時22分着。
 瀬戸内マリンビューは、客船のキャビンをイメージしたデザインが特徴の観光列車。忠海駅~安芸幸崎駅では、海岸のそばを走るため車窓から瀬戸内海が楽しめる。車両は2両編成で自由席(2号車)とソファ席も用意する全席指定席(1号車)で構成する。1号車は、乗車券のほかに座席指定券が必要。
 JR西日本では、来年の「せとうち広島DC」に向けて新たな観光列車の導入を予定しているため、「瀬戸内マリンビュー」は今年12月末で運行終了する方針という。
 https://hiroshima.keizai.biz/headline/3112/
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 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1945(昭和20)年09月02日(日) 米戦艦ミズーリで日本が第2次大戦の降伏文書に調印 ⇒ 東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で、第2次世界大戦の降伏文書の調印式が行われた。日本側の全権団は重光葵外相、梅津美治郎参謀総長ら。これにより、第2次大戦は公式に終了した。写真は降伏文書に調印する全権重光葵外相(中央手前後ろ姿)と、それを見守るマッカーサー最高司令官ら【時事通信社】
 1902(明治35)年09月02日(火) 東京専門学校が大学への昇格を機に「早稲田大学」と改称
 1954(昭和29)年09月02日(木) 数学者・小平邦彦氏が日本人で初めてフィールズ賞を受賞 ※2021(令和三)年記事削除
 1982(昭和57)年09月02日(木) 国鉄が開発中のリニアモーターカー、世界初の有人走行に成功 ※2021(令和三)年記事追加
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ 王貞治756号本塁打40周年記念企画 ┃写真=BBM
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【王貞治756号本塁打(15)】新記録前夜祭? 四球の安田猛は試合後「すいません」(9月2日)
‡1977(昭和52)年09月02日(金) XXX号 vsヤクルト
‡2017(平成29)年09月02日(土) 17:05 1977年、今から40年前、大げさではなく、日本中がプロ野球に熱狂した時期がある。王貞治のハンク・アーロンが持つ当時のメジャー最多記録通算755号本塁打への挑戦だ。アーロンはブレーブス、ブリュワーズで76年まで現役を続けたホームランバッターだが、その引退翌年に王が世界記録を狙うのも、面白いめぐり合わせではある。週刊ベースボールONLINEでは、9月3日、756号の世界新記録達成までのカウントダウンを振り返っていく。 
◎2日連続の“未遂”
 写真◆第2打席の二塁打でセカンドに滑り込む王。ヤクルトの右翼手・マニエルの好返球もあって“ギリギリセーフ”だった
 8月31日に755号本塁打を放ち、世界記録に並んだ王だったが、月が変わり9月1日の試合は不発に終わった。 
 翌2日、10時過ぎに、王家のインターフォンが王番記者たちの手で押される。恒例だが、王の様子をお手伝いさんに確認するためだ。 
「王さんは起きてますか? 何をしていますか?」 
 お手伝いさんも手慣れたもので、「はい、おかげさまで無事に生きておられます」。 
 これで記者たちがどっと沸く。 
 この日、集まったファンは200人以上。いつものようにパトカーがやってきて“会場警備”をする。これもいつものことだが、サインを求める長い列ができ、この日も王は全員にサインした。 
 新聞記者たちは当時、「知らないのは彼が寝ていて見た夢くらい」と細かく取材したというが(なお、勝手に夢の内容を想像して書いた記者もいたらしいが)、それを許した王がすごいというべきだろう。前年700号本塁打やベーブ・ルースの714号を抜くかどうかの時期は、やや神経質になったようだが、そのときの経験もあって、今回は、まったくの平常心に見えた。 
 しかし、世界新挑戦は2日連続、“未遂”に終わった。 
 後楽園でのヤクルト戦。相手の先発は、754号を打った松岡弘だったが、第1打席は投ゴロ、第2打席はライト線への二塁打、第3打席は四球とホームランなし。続く第4打席は、またも“王キラー”、安田猛が登場したが、「心臓に毛が生えている」とウワサされた男もさすがに意識したか、今回は四球。安田は試合後、記者団に「ファンに申し訳なかった」と頭をかいた。 
 とにかく球場の沸き方は半端ではない。王が打席に入ると、1球1球に歓声やため息。第4打席では「かっとばせ!」コールも起こっていた。 
 試合は3対1でヤクルトの勝利。ただ、この日はいわば“前夜祭”だ。いよいよ運命の日、「9.3」が訪れる……。<次回に続く>
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170902-10
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1990(平成二)年09月08日(土) 怒りも原動力に巨人が史上最速優勝
 2017(平成29)年09月08日(金) 7:05 写真◆吉村(背中)をホームベースで出迎える藤田監督(右側でバンザイをしている)
 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月8日だ。 
 いま広島、ソフトバンクが優勝へ向けて急加速しているが、今年もやっぱり抜けなかったのが、リーグ優勝の最速記録である。 
 1990(平成二)年9月8日(土)、2期目2年目を迎えていた藤田元司監督率いる独走巨人の優勝は、劇的に決まった。 
 舞台は本拠地・東京ドーム。巨人・宮本和知、ヤクルト・川崎憲次郎の両先発が一歩も引かぬ投手戦を演じ、2対2のまま延長戦に突入する。 
 10回裏一死で打席に向かったのが、前年、
‡1989(平成元)年の9月2日(土)、右ヒザじん帯断裂の大ケガから奇跡の復活を遂げていた巨人・吉村禎章だ。 
 実は、あのときの投手も川崎。すでに2位・広島が敗れた知らせは入っていた。勝てば、優勝。ただ、吉村の中に特別な気負いはなかったという。 
 2ストライク0ボールからの3球目だった。川崎の甘いストレートに自然にバットが出る。打球はライトスタンドに一直線。サヨナラ本塁打だ。満員の東京ドームが一瞬にして沸騰した。 
 小さなガッツポーズを何回もしながらホームを踏もうとした吉村を先頭で待っていたのが藤田監督だった。 
「これ以上の勝ち方はありません。吉村の底力、技術の高さを示したホームランでした」 
 球界の紳士が珍しく興奮していた。前年の1989(平成元)年に続き、2年連続の優勝。「去年より今年のほうがうれしい。勝った実感があります」と満面の笑顔で声を弾ませた。 
 この時点で2位・広島には19.5ゲーム差、最終的には22ゲーム差をつける大独走だったが、藤田監督は「数字ほどは楽じゃなかった。一番苦しかったのは、開幕のとき、怒りをグラウンドにぶつけてやろうと必死にやった」と言って、少し言葉を詰まらせた。 
 開幕前、登板日漏えい疑惑で桑田真澄が1カ月の謹慎処分。その際、巨人への過剰なバッシングや桑田の人格を否定するような悪意にあふれた報道に藤田監督はキレ、一時は報道陣と冷戦状態になった。ただ、それが最後まで手綱を緩めることなく、優勝ロードを駆け抜ける原動力になったのかもしれない。 
 なお、宮本の胴上げ投手は前年の優勝、日本一に続き、3回連続。不思議と優勝シーンに縁のある左腕だった。 
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1997(平成九)年09月02日(火) 横浜旋風を止めたツバメの左腕
‡2017(平成29)年09月02日(土) 08:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月2日だ。
 写真◆石井一はレフトを守っていたホージーに担ぎ上げられ、かなり手荒な祝福を受けた
 1998年に38年ぶりの優勝、日本一を飾った横浜ベイスターズだが、それは“突然変異”の優勝ではなかった。前年の97年も快進撃を見せ、2位。しかも7月13勝5敗、8月20勝6敗の驚異的な追い上げで、首位・ヤクルトと最大14ゲーム差を一時は2.5ゲームまで縮め、そのまま奇跡の逆転優勝かとも思われた。
 そこに立ちはだかったのが、ヤクルトの23歳の快速球左腕・石井一久である。
 1997年9月2日、ヤクルトは横浜と3.5ゲーム差で敵地・横浜での3連戦を迎え、先発マウンドに石井を送った。
 立ち上がり、一番・石井琢朗にいきなり四球を与えたが、ストレートが走り、しかも指にしっかりかかっている実感があった。2回が終わった際には、ベンチに戻ると、近くにいた伊藤智仁に「もしかしたらできるかもしれない。狙ってみたいんです」と言った。ノーヒットノーランである。
 4回まではノーヒットも4四球とやや制球にばらつきがあったが、5回以降は完ぺきに横浜強打線を抑え込む。ただ、8回を終わったとき、石井は突然、野村克也監督に降板を申し出たという。そこまで107球、前年の12月に左肩の手術をしたため1試合100球をメドにしていたからだ。要は2回終了時には、100球で記録達成の自信があったということだろうか……。
 しかし、野村監督は、一瞬あ然とした表情を浮かべた後、「アホ、メッタにできることやないだろ。やれるときにやっとけ」。石井は、そのまま9回のマウンドに上がると3人でピシャリ。最後、121球目は、この日最速の151キロを掲示。記録達成後、ナインに囲まれ、胴上げされた。
 さすがの野村監督も「負けられない展開の中で、こんなことが起こるとはな」とぼやきなしの称賛を送った。
 ヤクルトは翌日も横浜に勝ってマジック21を点灯。そのまま優勝まで走った。まさにペナトレースの行方を決した大記録と言えるだろう。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2007(平成17)年09月02日 ローズが外国人選手史上初の400号
‡2019(令和元)年09月02日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2007年9月2日だ。 
 写真◆外国人としては初の通算400本塁打を記録したローズ
 この日、千葉マリンで行われたロッテ戦の9回表二死、オリックスのローズは薮田安彦からバックスクリーンに豪快にダメ押しソロを叩き込んで5対3の勝利に貢献した。自身6度目のシーズン40発であり、これでローズの本塁打は史上14人目の通算400本目となった。1435試合での達成は史上2番目のスピードだ。 
 もちろん、外国人初の快挙。先の8月26日の楽天戦(京セラドーム)で8回裏に四球を出され(この時点でオリックスが10対0とリード)、「野村(克也)監督、バカ、バカ、バカ」と八つ当たりしたローズだったが、この日は「この記録を誇りに思う。来年は清原(和博)さんと2人で1000ホームラン!」と大喜びした。
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 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170908-12
 ②https://news.goo.ne.jp/article/baseballonline/sports/baseballonline-097-20170902-11.html
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190902-11
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.073 ┃30円
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‡1959(昭和34)年09月02日(水)号 特集 波乱呼ぶ大毎攻勢の内幕
 2018(平成30)年01月08日(月) 11:08 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎『タイガース魔の1カ月~毎シーズン苦しめられる長期遠征』
 写真◆表紙は右から大毎・山内和弘、大洋・桑田武
 今回は『1959年9月2日号』。定価は30円だ。この号は全体に首位南海を猛追する大毎の記事が多く、センターグラビアが『笑う大毎オリオンズ』。さらに本文巻頭も『特集 波乱呼ぶ大毎攻勢の内幕』である。前号『特集 巨人の混乱狙う大毎のゲリラ戦法』の続編ともいえる内容だ。前号は、かなりのスクープ記事だったようで、それを読んだチーム内でも混乱が生じ、別当薫監督は「平地に波乱を起こすようなことはしないでもらいたい」と抗議したようだ。 
 阪神・小山正明、三宅秀史、また、国鉄・金田正一とのトレード話が挙がっていた山内和弘が、この件について取材を受けている個所がある。当時は主力同士の交換トレードは皆無に近かった。 
──トレードに出されるといううわさを知っていますか。 
「だいぶ前から知っている」 
──その話を聞いた心境は。 
「別にこれといってない。アメリカでは毎年毎年ざらにあることだし、そのことで気分を害したりするのは間違っている。会社同士の取り決めで、ぼくらは将棋の駒のようなものだから、それに対して、なんと言ってもしかたのないことだろう」 
──もし、ほかのチームにトレードが決まったら。 
「ぼくらは将棋の駒だから、それに従うほかないでしょう。ただ、ぼくはまだまだ、もう二、三年の間は、オリオンズとぼくは離れてはまずいんじゃないかと思うんです。オリオンズで生まれ、オリオンズで育ったぼくであり、このところ体は絶好調。バットを振るのが楽しくてしようがないときです。はっきりいって、ぼくを放すのは、オリオンズの損じゃないかというのは、そのことなんです」 
『世紀の大トレード』は63年オフ、妙に予言的ではある。 
 のち「死のロード」と言われる夏の甲子園時の長期遠征に触れた記事もある。 
『タイガース魔の1カ月~毎シーズン苦しめられる長期遠征』だ。これによると3、4年前から、この長期遠征で調子を落とすケースが始まったらしい。 
 この年は約20日間だった。エースの小山正明はこう憤る。 
「在京チームは変則ダブルのおかげで旅行日はうんと少なくなり、随分楽をしているのに、なぜわれわれだけ、こんなひどい目にあわねばならないんだろう。不公平もはなはだしい」 
 こういう言葉が球団フロントに嫌われ、移籍要員に名前が挙がっていたのかもしれない。 
 では、またあした。<次回に続く> 
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.276 ┃  40円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1963(昭和38)年09月02日(月)号 吉沢勝の二重契約問題
 2018(平成30)年08月17日(金) 9:10 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎ペナントレースは風雲急
 写真◆表紙は左から南海・野村克也、西鉄・稲尾和久
 今回は『1963年9月2日号』。定価は40円だ。 
 ドラフト前夜、自由競争の時代の話だ。かなり込み入っているので、うまく説明できるか自信がない。興味を持たれた方は当時の新聞などで調べてみていただきたい。 
 長野県佐久市出身で、高校は北海道の北海高に進んだ左腕・吉沢勝の二重契約問題である。 
 長野には母親が農業を営み(父は死去)、吉沢は北海道に住む母の兄の家に下宿し、学校に通っていた。 
 吉沢は3年センバツの準優勝投手としてプロのスカウトの注目を集めたが、3年夏は南北海道大会で敗れ、甲子園には届かなかった。 
 もともと巨人入りを熱望していた吉沢。巨人サイドも興味を示し、いわば相思相愛だったのだが、ここに割って入ったのが、阪急の丸尾千年次スカウトだった。 
 名スカウトであり、同時にかなりのくせ者スカウトでもあったと聞く。 
 丸尾は、甲子園に出場できず、「こんな自分に巨人が契約してくれるわけがない」と不安になっていた吉沢と北海道の母の兄に接触し、仮契約書を交わしてしまった(吉沢側の話だが)。 
 驚いたのが巨人と母親だ。 
 実は、巨人は母親と交渉を進め、もはや吉沢獲得が決まったくらいに思っていたという。 
 母親が吉沢に尋ねると「やはり本当は巨人に行きたい」。その後、北海道の母の兄も別にそれほど大事な契約書と思わず、軽い気持ちで押印してしまったと話した。 
 ただ、その後、巨人は吉沢と契約を交わし、コミッショナーに提出するも、すでに阪急からも正式な形で提出されており、二重問題として世を騒がすことになった……。 
 この号は、そこまでで終わっていた。 
 ペナントレースも風雲急。序盤不振だった西鉄が首位南海には9ゲーム差ながら、ついに2位に躍り出て、セもいまだ6ゲームではあるが、首位巨人の迫った中日が直接対決4連戦を控え、ともに燃えに燃えていた。 
 いずれも助っ人3人を打線に並べるチームだった。 
 ちなみに表紙はかなり稲尾の身長が高いように見えるが、南海・野村克也、身長175センチ、西鉄・稲尾和久、身長180センチ。合成なのか、角度の問題か。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.538 ┃  60円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1968(昭和43)年09月02日(月)号 東映・飯島滋弥のユニーク指導
 2019(令和元)年09月02日(月) 17:55 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎おヒップがちょっと落ちてますね
 写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄
 今回は『1968年9月2日号』。定価は60円。 
 大下弘監督の休養の後、東映の指揮を執っていた飯島滋弥監督代理。 
 打席に向かう大杉勝男に向かい、 
「大杉さん、月がレフトスタンドの上空に見えるでしょ。あれに向かって打ちなさい」 
 と言って話題になったことがあるように、独特の言語感覚の持ち主だったらしい。 
 飯島は慶大から46年、東映の前身セネタース入りし、大映、南海と転じ、55年限りで引退した。 
 その後、野球評論家になったが、ラジオ中継で、 
「長嶋さんが打てなかったのは、おヒップがちょっと落ちていましたからね。それに打った瞬間、おアゴがあがりました」 
 という少々奇妙な口調が特徴だった。 
 ただ、これがなぜかウケて、歌謡番組やクイズ番組のゲストで呼ばれることが増え、司会をすることもあったという。 
 しかし一度、したたかに酔っぱらってクイズ番組の司会をし、番組をメチャクチャにしたことでテレビ局が激怒。 
 各局からほされ、再び野球解説に専念することになった。 
 その後、67年東映のコーチとして現場復帰したが、なかなかユニークな指導をする人だったようだ。 
 2つ例を紹介する。 
 1つは「張本ゴーゴーダンス」。 
 不振が続いた張本勲に、 
「おヒップが回り切れないので、インパクトしてもボールが伸びないんだよ。ゴーゴーの要領でバットスイングしてごらん、いいヒットが打てますよ」 
 白仁天には、打席向かう前、ネクストで「東京音頭」のアドバイス。 
「東京音頭のお囃子の要領だよ。ヨーイ、ヨイでバットを振ってごらん。うまくタイミングが合い、いいミートができますよ」 
 張本がこれでスランプを抜け出したかは定かではないが、白は逆転ホームランを放ったらしい。 
 では、またあした。 
 すいません、週の頭からアップ遅れてしまいました。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180108-12
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180816-02
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190902-01
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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