過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)

 

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 ┃ 浜田省吾チャリティLIVE黎明期 ┃
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 1984(昭和59)年08月04日(土) THE ATOMIC CAFE MUSIC FES'84【反核コンサート】  日比谷の野音で行われたコンサートでした、興奮した尾崎豊が、PAから飛び下りて骨折したアレですね(苦笑) 
‡1985(昭和60)年07月18日(木) アフリカセッション【飢餓救援コンサート】 渋谷のNHKホールで行われたコンサートでARB、竜童組らと出演しました
 1988(昭和63)年11月18日(金) 単独LIVE ON THE ROAD '88“FATHER'S SON”ツアーのなかの一日、MZA有明で“留学生支援コンサート”を開催
 1990(平成二)年11月17日(土) 単独LIVE ON THE ROAD '90ツアーのなかの一日、駒沢大学記念講堂での“留学生支援コンサート”、ハイビジョンのクローズド・サーキットで全国中継しました
 1990(平成二)年12月23日(日) 単独LIVE ON THE ROAD '90ツアーのなかの一日、呉市文化ホールでのコンサート“チベット難民の子供達救済コンサート”でした、呼びかけた人は、高校時代にバンド仲間だったダライ・ラマ14世のもとで働く建築家で収益金428万2770円がチベットに送られました 
 1994(平成六)年03月13日(日) 長崎普賢岳災害救済コンサート【メッセージソングの日、島原・福江町を救え】 長崎市公会堂でのコンサート、泉谷しげる(Vo&G)忌野清志郎(Vo)吉田拓郎(B)小田和正(key)他という"スーパー・バンド"で大友康平とともにドラムを叩いていました(まあシンバルばっかりでしたが;汗)
 1995(平成七)年08月06日(日) HIROSHIMA PEACE CONCERT【広島平和記念コンサート】 広島平和祈念コンサート"HIROSHIMA1995"に、古村敏比古とともに参加しました、ハウンド・ドッグをバックバンドに「八月の歌」などを歌いました 
 1996(平成八)年09月15日(日) 阪神淡路大震災支援コンサート【日本をすくえ'96 in 神戸】ワールド記念ホールでの、コンサートで、吉田拓郎の「イメージの詩」を歌いました
 2000(平成12)年12月01日(金) Act Against AIDS【AIDSデー・イベント】  日本武道館で行われました、歌有りバラエティありのイベントでした
 Message from 浜田省吾 ⇒ J.S.Foundationを設立する以前は、Road&Skyを通じてコンサートの収益やレコードの印税を単独で単発的に寄付していたのですが、いつか基金を設立して継続的な活動にしたいと思っていました。1995年、ある出来事をきっかけに佐藤佐江子さんに出会い、 彼女の経験と情熱と行動力を知り、基金に対する想いを相談しました。そして、彼女を中心に同志が集まり、1999年2月にJ.S.Foundationが発足しました。「社会のために何か出来ないだろうか?でも、個人で一体何が出来るのだろう?」そう思っているのは私だけではないと感じます。個々に存在している小さな善意がひとつになり、少しでも大きな力となって社会に貢献できればと思います。 
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 http://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/16898071.html
 http://www.js-foundation.com/message.html
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 ┃ アフリカセッション ┃
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アフリカセッションという飢餓救済コンサートは7/10~7/25の間に数会場で13日間行われ、
 省吾は7/18(木)NHKホールに出演した。
 竜童組・ARB・今は亡き中川勝彦らとジョイントだった。
それぞれがバンドを持っているので入れ替わりに時間がかかる。
 省吾のステージが始まる前にトイレに行くと省吾ファンらしき人が
「省吾がトリだね!良かった~」などと会話をしていた。
ジョイントというのはお目当てのミュージシャンじゃない時ははっきり言って苦痛である。
だからといって拍手もせず知らん振りというわけにはいかない。
 最低限のマナーは守るべきだろう。
 流石に省吾は最後だけあって他のバンドよりも出演時間が長かった。
 立ち上がって拳を突き上げる人が会場の半分以上を占めていたような気がする。
  http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
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‡1985(昭和60)年7月18日(木) 浜田省吾他 『アフリカセッション(飢餓救援コンサート)』 NHKホール
■『アフリカセッション(飢餓救援コンサート)』 
日時:1985年7月17日~7月25日
開演:18:00
01. 7月17日 NHKホール(上田正樹 、葛城ユキ他)
02. 7月18日 NHKホール(該当公演)
03. 7月20日 日本青年館(エコーズ、白竜他)
04. 7月22日 日本青年館(,加藤登紀子 、姫神他)
05. 7月24日 普門館(オーティス・クレイ 、難破弘之他)
06. 7月24日 普門館(カシオペア)
◆出演者
01. ARB
02. 中川勝彦
03. 竜童組
04. 浜田省吾
◆チャリティーイベントには慎重な感がある浜田省吾。
前年、反核コンサート「アトミックカフェ」 に参加し、この公演が彼にとって初めてのチャリティーコンサート。
1985年7月13日。海外の名高いミュージシャンが結集して世界中継された「ライブエイド」 から4日後。日本で行われた飢餓救援コンサート「アフリカセッション」は全6公演。浜田省吾は二日目のNHKホールに出演している。
1996年2月号の音楽雑誌「ロッキングオン」。浜田省吾のインタビュー記事の見出しは「僕はアフリカ・セッションに出て負い目を感じました」。出演の経緯やチャリティーについてを以下このように語っている(要約)。
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・音楽を通じて多くの人とか関わっていきたいと思った。アフリカセクションはいい音で演奏できなければ嫌だと初めから言っていました。
<経緯>・1985年初めに主催者の岡本おさみ氏に会った。夏にアフリカ難民救済コンサートを開催する旨、出演を依頼された。難民ならカンボジアたって日本にも貧しい国がある。僕は、なぜアフリカなんですかと訊いた。岡本はディランの「モザンビーク」を聴き強く心を打たれ数年後、モザンビークを訪れたら、その廃墟した様子がすごかった。 だから僕(岡本)にとってアフリカが一番身近に感じる。
それを聞いて、僕は(浜田)は、「それはとてもいいことではないですか」と言ってその場は終わった。しばらくして、浜田省吾がボブ・ゲルドフになって難民救済コンサートを企画していると噂が流れ始めた。海外のミュージシャンの出演も決まりNHKホールもおさえられた。
僕もどうしょうかと自宅で新聞を見ると、「日本のミュージシャン アフリカのために立つ」という記事がある。 誰だろう、そう思いながら読むと、なんと自分の名前があり、インタビューシ記事まである。
その時は感情的になり「こんなんだったらやらない」とマネェージャーに告げた。だけど、少しして、「それはとてもいいことではないですか」と言った最初の気持ちを大事にしょうと思い・・・出演した。
 <チャリティーについて>僕らがコンサートをやったらといって問題の本質が変わらないことは分る。でもやるにしろ、やらないにしろ、後ろめたさは残るでしょう? やれば偽善的というか、自分のささやかなエゴを満たしているだけんもしれないと思うし、やらなければ結局傍観しているだけだと思う。僕の場合、じゃやろうと。新譜ジャーナルの記事に、「今、日本のミュージシャンで反核やチャリティーのコンサートをやるミュージシャンはいろいろなことに目を向けるいいミュージャン、やらないミュージャンは悪いミュージシャンという風潮があるけれど、やらないミュージャンだっていろいろ考えている」という記事があったが、
僕はむしろ、やる人は何も考えていない楽観的な人間で、やらない人のほうが考えが深いというとらえ方が、今の日本の風潮のような気がします。でも僕は出ました。 出て負い目を感じました。それでいいと僕は思います。スティングがプレイボーイのインタビューで「バンドエイド」にでて、ほかのミュージシャンに対する偏見がなくなって快く一緒に出来たって言っていたけど、そういう雰囲気はアフリカ・セッションにもありました。
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久しぶりに読んだけれど、当時も漠然と抱いていたが、いい音で演奏できなくたってギターー一本でもやれるのに。デビュー当時、歌えるとこなら何処でも歌ってきたじゃん。何よりそんなに難しく考えなくてもいいのに・・・。勿論、分らなくもないが、今でもそう思います。
 この日からは浜田省吾が単独(留学生支援コンサート)以外でのチャリティーコンサートに出演するのは、
 1994年3月13日 長崎公会堂 に行われた雲仙普賢岳救済チャリティーコンサートまで遠のく。
 ◆セットリスト ・浜田省吾
 01. DADDY'S TOWN
 02. 土曜の夜と夜と日曜の朝 
 03. MONEY 
 04. DANCE 
 05. 僕と彼女と週末に 
 06. 愛の世代の前に 
 07. 明日なき世代 
 ---encore---
 08. SILENCE 
 09. 終りなき疾走 
 https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-12145486725.html
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 ┃ 浜田省吾 #26 『CLUB SNOWBOUND』 ┃
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 2016(平成28)年07月01日(金)
 1985(昭和60)年11月15日(金)、浜田省吾のクリスマスミニアルバム『CLUB SNOWBOUND』が発売になりました。今回はそのレコーディング話と、ツアーの話も少しだけ。
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 「次のアルバムはクリスマスをテーマにしたミニアルバムを、オレと町支と板倉の三人で作ろうと思っているんだ。アレンジは全曲板倉でコーラスアレンジは町支。」1985(昭和60)年の夏が始まろうとしていた頃、浜田さんからそう告げられた。1985(昭和60)年のツアーは
 1985(昭和60)年7月15日(月)の沖縄県那覇市民会館でひとまず一段落し、
 1985(昭和60)年9月17日(火)の旭川市民文化会館から始まる北海道ツアーまで約二ヶ月間のインターバルがあった。1984(昭和59)年のツアーからバンドメンバーが代わり、On The Road 84'と題された80数本のツアーが
 1985(昭和60)年2月08日(金)、
 1985(昭和60)年2月09日(土)の京都会館2daysで終了した。新たに加入したメンバーはそれぞれが確かな技術を持っていて、人間的にもミュージシャンとしても特に問題があったわけでは無かったのだが、バンドとしてはどこか歯車が噛み合っていなかった。そこでサウンド面を統括する人間が必要だということで、85年のツアーからぼくがバンドのサウンド面でのリーダーシップを担うことになった。バンド内の雰囲気は最悪というわけでもなかったが、最高というわけでもなかった。それぞれの音楽的趣向もバラバラで、あくまでも浜田省吾という名のもとに集まったプロフェッショナルの集団だった。ぼくなりにバンドのサウンドをまとめようと、色々と試してはみたものの空回りすることのほうが多く、段々とプレッシャーとストレスを抱えるようになっていった。そんな状態でのツアーは正直しんどかった。そのせいかどうか定かではないが、ぼくは1984(昭和59)年~1985(昭和60)年のツアーの記憶が殆ど無い。思い出そうとしてもあまり思い出せない。勿論コンサートは毎回ベストを尽くしたし、それなりに楽しい事もたくさんあったはずなのだが。沖縄から戻ると東京もうだるような暑さだった。
‡1985(昭和60)年7月18日(木) 次の日、渋谷のNHKホールでアフリカ難民救済のチャリティコンサート「アフリカ・セッション」が開催された。浜田さんは勿論のこと、ぼく達バンドも出演することに何ら異存は無かった。ぼくはそれまでチャリティイベントへの出演者は、名目上はノーギャラと謳われてても、裏で某かのギャラをもらっているのだと思っていた。しかし今回のチャリティイベントへの出演は、アーティストもバンドメンバーも本当に全くノーギャラだった。でもそのことに異論や不満を唱えるものは誰一人としていなかった。「アフリカ・セッション」を終えると、ぼくは浜田さんから一本のカセットテープを受け取った。クリスマスアルバムに収録予定の曲のデモが入っているカセットだった。冒頭に触れたようにアレンジはアカペラの曲を除き、全曲ぼくが任されることになった。ぼくは浜田さんの期待を裏切らないよう、良いアレンジにすることを肝に命じた。真夏の暑い最中、ぼくは大量の汗を拭いながら、半分ヤケクソ気味で無理矢理クリスマス気分になり、仕舞いには寒いぐらいにガンガンに冷房を効かせて冬の気分に浸りながらアレンジをした。
 1985(昭和60)年9月10日(火)、昼間のリハーサルを終えたぼく達は、夜の7時に市ヶ谷の一口坂スタジオに集合した。クリスマスミニアルバム『CLUB SNOWBOUND』のリズム録りだった。スケジュールの都合上、この日一日で収録曲のすべてのリズムを録り終えなくてはならなかった。『CLUB SNOWBOUND』のレコーディングは夜の9時頃から始まった。この日のレコーディングメンバーは以下の通り。
 ドラムス:滝本 季延
  ベース:江澤 宏明
  ギター:町支 寛二
  ピアノ:板倉 雅一
「LONELY-愛という約束事/もうひとつの土曜日」のレコーディングの時と同じメンバーが集結した。
 一曲目にレコーディングしたのは「思い出のX'mas Night」という仮タイトルが付いた曲。後に「Snow On The Roof」というタイトルになる曲だった。ミディアムテンポの軽快な曲で、この曲は町支さんがリードボーカルをとる予定になっていた。
 二曲目は「X'mas Baby」という仮タイトルの曲。後に「Snowbound Party」と題される曲だった。
 三曲目は「センチメンタル・クリスマス」。アルバム「愛の世代の前に」にも収録されていた曲のリメイクだった。
 最後にレコーディングした曲は仮タイトル「ひとりぼっちのクリスマス・イブ」と題された曲。後の「Midnight Flight」である。四曲のリズムを録り終えた頃にはもう朝になっていた。スタジオの外に出るとすっかり明るくなっていて、急ぎ足で会社に出勤する人々とすれ違いながらぼくは家路に着いた。後日、諸々の楽器のダビング作業が行われた。
 1985(昭和60)年9月14日(土)は「ひとりぼっちのクリスマス・イブ」のシンセサイザーのダビング。シンセサイザーのオペレーターは迫田 到さん。気鋭のシンセオペレーターだ。スタジオのコントロールルームには所狭しとシンセサイザーが並べられていた。その数ざっと見渡しても十台以上。音源モジュールやエフェクターが収納されたラックも含めると一体何台あるのかよく分からない。ぼくと浜田さんが「キラキラした音!とか、ちょっとこもった音!」とか迫田さんにリクエストを出すと、迫田さんが即座に音色を作ってくれる。ぼくは迫田さんが作ってくれた音を演奏するだけ。時には「うーん、ちょっとイメージとちがうんだけど。もっと他の音ないすかぁ?」とかエラそーなことを言っているだけ。何とも王様気分のレコーディングである。「ひとりぼっちのクリスマス・イブ」はフィル・スペクター・サウンドを模倣したもので、アメリカの有名なプロデューサーであるフィル・スペクターが作り出す壁のような音、「ウォール・オブ・サウンド」を総称してスペクター・サウンドと言っていた。フィル・スペクターが作るサウンドは一度に多くの楽器を同時に録音して、それに深いリバーブをかけるのが特徴で、時にはピアノを何台も同時に鳴らしたり、ベースが二人いたりすることもあるらしい。「ひとりぼっちのクリスマス・イブ」でもスペクターと同じ手法を用いて、アコースティック・ギターを何本も重ねて録音したり、町支さんに「ウー」とか「アー」とかロングトーンで実際に歌ってもらった声を、当時の最先端サンプリングマシンだった「イミュレータ?2」にサンプリングして、ぼくが鍵盤でイミュレータ?2を弾くと、町支さんの声が再生されるという手法を用いてコーラスパートを録音したりもした。とにかくシンセサイザーだけでもの凄く多くのチャンネルを使った。24チャンネルレコーダーだけではチャンネルが足りなくなって、もう一台24チャンネルレコーダーを用意して二台をリンクして(スレーヴするという)合計48チャンネルでの録音となった。フィル・スペクターと言えばロネッツをプロデュースしたことで有名だが、ぼくがリアルタイムで聴いていたのはビートルズのアルバム「Let It Be」や、ジョージ・ハリスンの「オール・シングス・マスト・パス」、ジョン・レノンの「イマジン」等、ビートルス関連の作品が多かった。「ひとりぼっちのクリスマス・イブ」はエンジニアの助川さんの素晴らしいミックスのおかげもあって、見事なウォール・オブ・サウンドになった。この曲のアレンジは自分でもとても気に入っている。
「センチメンタル・クリスマス」はぼくと浜田さんの共同アレンジ名義。リメイクということで、結構アレンジに苦戦した。浜田さんが考えたイントロのフレーズを生かすことと、ちょっとロマンティックなサウンドにする方向でいろいろと試行錯誤した。アレンジ的には間奏で転調する箇所が気に入っている。法田さんのラリー・カールトンばりのギターもカッコいい。そういえば法田さんのギター・ソロの最後の部分の着地の音階をめぐって、法田さんとエンジニアとの間で一悶着あった。法田さんはスケールから外れていない音だと主張し、エンジニアの助川さんはスケールから外れた音、すなわちミストーンに聴こえると主張した。両者の言い分は平行線のまま、結局ミックスの段階でそこの部分の音は少し小さくなった。シンセサイザーは福田裕彦さん、フクちゃんに弾いてもらった。 「Snow On The Roof」は何と言っても町支さんがリードボーカルで、浜田さんがコーラスを担当したということが最大のポイントだった。でもアルバムを通して聴くと、一瞬浜田さんが歌っているかのように聴こえるところが面白い。「X'mas Baby」はとにかくいろんな音を詰め込んだ。浜田さんとの合い言葉は「音の玉手箱」。シャッフルという跳ねたリズムの曲のため、演奏するのは少し難しかった。三連譜が連続で続くところなど、演奏していて思わず手がつりそうになった。町支さんの一人アカペラが美しい「Champagne Night」は、町支さんがコーラスのパートをツアー先で考えていて、ある日の移動のバスの中で、書いた譜面の音の確認をしたいからぼくにポータブルキーボードで、譜面の音を弾いて欲しいと言って来た。ぼくは町支さんが書いた譜面をバスの中で読みながらキーボードを弾いたのだが、ものの五分もしないうちに気持ち悪くなってしまった。「町支くんゴメン、酔ったみたい。」揺れるバスの中でオタマジャクシがいっぱいの譜面を読むことは止めた方がいい(笑)アルバムが完成すると、ぼく達三人は音楽雑誌でのインタビューやラジオへの出演等、積極的にプロモーション活動にも参加した。真夏の最中から秋にかけてレコーディングしたクリスマスミニアルバム『CLUB SNOWBOUND』は、発売されるとチャートの4位を記録した。
 写真◆アナログ盤のジャケット。 
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/07/26-club-snowbound.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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