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†502 Bad Gateway
 不正なゲートウェイ。 ゲートウェイ・プロキシサーバは不正な要求を受け取り、これを拒否した。 つまり“502 Bad Gateway”とは、サーバーにアクセスしようとした際に発生するサーバー側のエラーと考えられます。 そのため、基本はサイト管理者の対応を待つことになります。
 https://keywordfinder.jp/blog/seo/502-bad-gateway/

 映像◆挑発に乗り 教諭が生徒殴る  http://youtu.be/pFAkwlgvChw
‡2014(平成26)年05月02日(金) 公開日
 生徒の挑発に乗り、腹部を殴ってけがをさせたとして、大阪府教育委員会は
 2014(平成26)年05月01日(木)、府-立高校の男性教諭(50)を戒告の懲戒処分とした。2013年7月、教諭は涼みを求め-て冷房のきいた職員室に入ってきた生徒に対し「用事がなければ出て行け。出て行かなけ-れば殴るぞ」と注意。すると、生徒は「殴ってみいや」と言ったため、服部を殴ったとい-う。しかし、生徒は「効けへんわ」と更に挑発してきたため、強い力でもう1度殴り、全-治10日間の打撲を負わせた。教諭は「遊びを通じて出ていかせようと思った」と、体罰-を否定しているという。
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 バフェット氏、航空株すべて売却「世界は変わる」1~3月期、5兆円の最終赤字 北米 
 2020(令和二)年05月03日(日) 8:40 (2020/5/3 12:50更新)
 写真◆バークシャーの年次株主総会はオンラインで中継した=ロイター
【ニューヨーク=宮本岳則、伴百江】著名投資家ウォーレン・バフェット氏率いる米バークシャー・ハザウェイは
‡2020(令和二)年05月02日(土)、年次株主総会を開いた。バフェット氏は新型コロナウイルスの感染拡大によって「世界が変わる」として、保有していた米航空株を全て売却したと明かした。数々の危機を乗り越えてきた「投資の神様」は米国の明るい将来を信じつつも、コロナ後の世界を見据えて動き始めている。
■「コロナでも米国の成長を止められない」バークシャーは米中西部ネブラスカ州オマハに本社を置く。年次株主総会はバフェット氏に直接、質問できる機会とあって、毎年4万人の株主が米国のみならず、世界各地から集まっていた。盛り上がりぶりから「資本家のためのウッドストック」といわれる。2020年は例年と同じアリーナ会場を「無観客」にした上で、会長のバフェット氏と副会長のグレッグ・アベル氏が出席。質疑をオンラインで中継する異例の形となった。総会当日に発表したバークシャーの20年1~3月期決算はコロナの影響が大きく表れた。アップルなど保有する上場株(総額1807億ドル)の評価損が膨らみ、最終損益は497億ドル(約5兆円)の赤字と、過去最大の損失となった。バフェット氏はそれでも米国株に強気の姿勢を変えなかった。01年9月の米同時多発テロ、08年の金融危機など数々の困難を克服した歴史を「米国の奇跡」と紹介し、中長期的には米国が成長し続けると述べた。米国株投資についても「決して米国の成長に逆らうような賭けをしてはいけない」と指摘した。
■航空株すべて売却「乗客戻らない」バフェット氏は米国経済の明るい将来を信じる一方、冷徹な投資家の顔もみせた。株主総会ではデルタ航空など保有していた米大手エアライン4社の株式をすべて売却したと明かした。エアライン株はバフェット氏の「お気に入り銘柄」として知られていただけに驚きが広がり、株主からの質問も集中した。このほど売却したのはデルタのほか、アメリカン航空、ユナイテッド航空、サウスウエスト航空の4社。バフェット氏は2月にデルタ株をいったん買い増したことについて「間違いだった」と認めた。「外出制限が人々の行動に与える影響は分からない。3~4年後に、昨年までのように飛行機に乗るようになるのか見通せない」と悲観的な見方を示した。
■原油急落「掘っても採算が合わない」バフェット氏の誤算は他にもあった。バークシャーは19年4月、米石油開発会社オキシデンタル・ペトロリアムの優先株を100億ドルで引き受けると発表した。ところがコロナと産油国の対立で供給過剰に陥り、原油価格が急落。オキシデンタルは業績悪化で現金で配当を払えなくなり、代わりに株式を割り当てる事態になった。バフェット氏は当時は魅力的な投資先だったと釈明した。バフェット氏は原油価格の先行きについても弱気だった。石油開発会社は「(今の原油価格で)掘っても採算が合わない」と述べ、業績回復の遅れを覚悟しているようだった。原油価格の低迷が続き、エネルギー会社の債務不履行が相次げば、株主が損失を被るのは避けられないとの見方も示した。
■たまる現金「魅力的な投資先なし」課題となっていた手元資金の使い道も解がみえない。20年3月末の現金・同等物の総額は1370億ドルとなり、過去最高となった。常に大型のM&A(合併・買収)を模索していたバフェット氏。今回の総会でも意欲を見せたものの、「魅力的な投資先がない」と嘆いてみせた。バフェット氏がこれまで大型買収に慎重だったのは、投資ファンドの攻勢で買収価格が高騰していたからだ。新型コロナの感染拡大で株価は急落したが、バフェット氏は動かなかった。「感染第2波が来たときに米国社会がどう反応するのか分からない」。中長期では米国株に「強気」を維持しつつも、当面は慎重な投資スタンスをとる――。そんな考え方を発言の随所ににじませた。
■後継者候補、将来の「バークシャー解体」に否定的
 写真◆バークシャーのグレッグ・アベル副会長はバフェット氏の有力後継者の1人=AP
 バフェット氏の盟友で副会長のチャーリー・マンガー氏は会場に姿を見せなかった。二人のユーモアを交えたやりとりが、バークシャー株主総会の名物だった。マンガー氏の健康状態は良好なものの、飛行機による移動を避けるためと説明した。代役を務めたアベル氏はエネルギー事業を統括する実力者で、今年90歳となるバフェット氏の有力後継者候補の一人。本格的な「総会デビュー」となった。バークシャーは投資会社のイメージが強いが、傘下にエネルギーや鉄道、保険など複数の事業会社を抱える。バフェット氏が経営を退いても、年間売上高で2500億ドルの巨大コングロマリットを経営できる人物はいるのか。バークシャー解体論は常に話題になっている。アベル氏は「バークシャーのユニークな事業構造は価値を生んでいる」と述べ、解体に否定的な考えを述べた。「株式は永久保有」「買収してもリストラしない」――。こうした独自の経営哲学がバークシャーのブランド力を高めてきた。ところがコロナ危機で保有株の見直しを進め、傘下企業ではリストラも実施した。アベル氏は総会の質疑で「将来にわたってバークシャーの文化は変わらない」と明言し、長年のファン株主を安心させようとしていたが、バークシャーも想定外の事態に直面し、変化を求められている。
【関連記事】 
 バフェット氏率いる米バークシャー、最終赤字5兆円
 米航空大手3社、1~3月は9年ぶり赤字 新型コロナで旅客減
 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58768990T00C20A5I00000/

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 2019(令和元)年05月01日 水曜日 プレオープン
‡2019(令和元)年05月02日 木曜日 プレオープン
 2019(令和元)年05月03日 金曜日 プレオープン
 2019(令和元)年05月04日 土曜日
 2019(令和元)年05月05日 日曜日
 10:00~16:00 営業時間
 10:00~16:00 内覧会
 10:00~16:00 プール無料開放
 10:00~16:00 安売りイベント
 フィットネス無料体験 なし
 2日 来場特典 先着300名にオリジナルボールペンプレゼント
 http://kuresportsplaza.com/ksp/poen.htm

 米国の遺伝子組み換え市場に異変
 2016(平成28)年05月31日(火) 0:05 猪瀬聖 ジャーナリスト
 写真◆キャンベルスープは大手でいち早く、遺伝子組み換えの自主表示に踏み切った。(写真:ロイター/アフロ)
 遺伝子組み換え大国・米国に異変が起きている。遺伝子組み換え食品の開発や販売を積極的に進めてきた大手食品メーカーが、相次いで「脱・遺伝子組み換え」を表明。7月には、全米初となる遺伝子組み換え食品の義務表示が、バーモント州で始まる。背景にあるのは、食に対する消費者の安全・安心志向の高まりだ。米国から多くの遺伝子組み換え食品を輸入している日本にも影響しそうだ。 
 ■ハーシー、ネスレ、ダノン… ⇒ 米国最大のチョコレートメーカー、ハーシーは
‡5月2日(月)、チョコシロップの新製品「Hershey’s Simply 5 Syrup」の発売を発表した。アイスクリームやデザートなどにかけるチョコシロップは、甘い物好きの米国では人気商品。ハーシーが同社の従来のチョコシロップと違う点として強調したのは、非遺伝子組み換え原料のみを使用していることだ。 具体的には、主要原料の砂糖を、サトウキビ由来の砂糖に全面的に切り替える。砂糖には、主にサトウキビ由来の砂糖とビート(甜菜)由来の砂糖の2種類があるが、米国で栽培されているビートは、大半が遺伝子組み換え品種。サトウキビ由来の砂糖だけを使うことで、遺伝子組み換え原料を使っていないことをアピールする。 食品世界大手ネスレも、
 4月20日(水)、ハーゲンダッツなど同グループが米国内で販売するアイスクリームの原料を大幅に見直すと発表。人工着色料や人工香料などの不使用に加え、遺伝子組み換え原料を今後使わない方針を明らかにした。 同じく食品世界大手ダノンの米国法人も、
 4月27日(水)、ヨーグルトなど同社の主要乳製品に関し、非遺伝子組み換え飼料で育てた牛の乳のみを原料にすると発表した。 
 米国は世界最大の遺伝子組み換え大国。家畜飼料や様々な食品の原料となるトウモロコシや大豆は、生産量の90%以上が遺伝子組み換え品種に切り替わっている。食品業界の推定では、流通している食品の約80%には、何らかの形で遺伝子組み換え原料が使われている。 
 米国は同時に、遺伝子組み換え業界にとって天国でもある。日本やEU(欧州連合)などと違い、遺伝子組み換え原料を使っていても、メーカーはそうであることを消費者に知らせる法的義務がないためだ。表示義務化を求める消費者の声は根強いものの、義務化に反対する食品業界のロビー活動で、法制化の動きはこれまで、ことごとく葬り去られてきた。 
 ■バーモント州が全米初の表示規制 ⇒ ところが、この遺伝子組み換え大国・天国に今、大きな地殻変動が起きている。ハーシーやネスレなど大手食品メーカーの脱・遺伝子組み換えの動きに加え、
 7月1日(金)には、米国では初めてとなる遺伝子組み換え食品の表示を義務付ける法律が、東部バーモント州で施行になる。 同法は、州内で販売されるすべての食品に適用。加工食品は原則、全重量に占める遺伝子組み換え原料の割合が0.9%を上回る場合、「遺伝子組み換え技術を使って製造されています」「一部、遺伝子組み換え技術を使って製造されています」などとパッケージに表示しなければならない。どちらの表示にするかは、遺伝子組み換え原料の含有比率による。違反業者には、1ブランドにつき1日当たり最高1000ドルの罰金が科せられる。 バーモント州の新法施行が迫る中、これまで表示に消極的だった大手食品メーカーは、手のひらを返すように表示に積極姿勢に転じている。 ゼネラル・ミルズは、施行日を待たずに、同社が米国内で販売するすべての商品に遺伝子組み換え原料使用の有無を明記し始めた。同社のホームページ上でもすでに同様の情報を掲載。キャンベルスープやケロッグ、マーズなど他の大手食品メーカーも、遺伝子組み換え原料使用の有無を表示する方針を相次いで明らかにしている。 大手メーカーには、いずれ同様の法律が他州でも施行になるから、早めに手を打っておいた方が他社との競争上も有利との読みがある。実際、報道によると、全米50州中、30以上の州が現在、同様の法律の制定を検討。11月の大統領選挙と同時に行われる住民投票で、遺伝子組み換え表示の可否を問う州もある。 遺伝子組み換えをめぐる地殻変動の原因は、「安全な食べ物を食べたい」「自分が口にする食品が、どこでどうやって作られているのか知りたい」と願う消費者が、かつてなく増えていることだ。 
 ■消費者の4人に3人が支持 ⇒ 米世論調査会社ハリスポールが
 5月25日(水)に発表した最新の世論調査によると、米国の成人の75%が、遺伝子組み換え食品の表示義務化を支持。また、調査会社ニールセンによると、「遺伝子組み換え原料不使用」と自主表示した食品の売上高は、
 4月30日(土)までの1年間で212億ドルに達し、この4年間で64%も増えた。遺伝子組み換え原料の使用が認められていない有機食品の売上高も、2015年は前年比で11%伸び、過去最高の397億ドルに達した。 遺伝子組み換え食品の安全性に対する消費者の懸念を払しょくするかのように、権威ある米国科学アカデミーは
 5月17日(火)、遺伝子組み換え作物は人や動物が食べても安全だとする内容の報告書を発表した。政府の食品医薬品局(FDA)も、遺伝子組み換え食品の安全性に問題はないと言い続けている。 しかし、米国では、専門家や政府の見解を鵜のみにする消費者は多くない。ハリスポールの調査で、消費者の58%が「遺伝子組み換え食品は、長期にわたる研究がないため、人体への影響は未知数」と考えるなど、消費者の間では専門家も予想できない“想定外”の影響に対する懸念が根強い。 遺伝子組み換え食品がかりに安全だとしても、「自分が食べる食品がどんな原料でどうやって作られているのか知りたいから、表示義務は必要」と考える消費者も多い。バーモント州の法律制定を後押しした市民運動が「Right to Know」(知る権利)を合言葉にしたのは、象徴的だ。 非遺伝子組み換え食品に対する需要があまりにも急速に伸びているため、原料が不足する事態も起きている。菓子メーカーは遺伝子組み換え原料を使わない製品を作ろうにも、サトウキビ由来の砂糖が不足しているため、政府に対し砂糖の輸入量拡大を要請しているという。 
 ■日本の表示「ガラパゴス化」へ ⇒ 遺伝子組み換え大国・米国の異変は、多くの遺伝子組み換え穀物や食品を米国から輸入している日本にも影響を及ぼしそうだ。 現在、日本で表示義務の対象となっているのは、原則、遺伝子組み換え原料の含有比率が5%以上の場合に限られている。しかも抜け穴が多い。これに対しバーモント州のルールは、0.9%以上と、日本と大きな開きがある。バーモント州のルールは他州のモデルになるとみられており、表示を義務付ける法律が各州で施行になった場合、「0.9%以上」が基準になる可能性が高い。EUも「0.9%以上」だ。このままだと、「5%以上」という日本の表示ルールは、世界の中で「ガラパゴス化」する恐れがある。 今後は、これまでパッケージに遺伝子組み換えの情報が何も記載されていなかった米国からの輸入食品が、いきなり「遺伝子組み換え食品」に変わる可能性もある。輸入業者はどう対応するのだろうか。また、消費者は何を感じ、どう行動するだろうか。
 猪瀬聖 ジャーナリスト 慶應義塾大学卒。米コロンビア大学大学院(ジャーナリズムスクール)修士課程修了。日本経済新聞生活情報部記者、同ロサンゼルス支局長などを経て、独立。日経では、食の安全、暮らし、働き方、ライフスタイル、米国の社会問題を中心に幅広く取材。現在は、主に食の安全やライフスタイル、米国の社会問題などを取材し、雑誌などに連載。また、日本人の働き方の再構築をテーマに若手経営者への取材を続け、日経新聞電子版などに連載している。著書に『アメリカ人はなぜ肥るのか』(日経プレミアシリーズ、韓国語版も出版)、『仕事ができる人はなぜワインにはまるのか』(幻冬舎新書)。日本ソムリエ協会認定シニアワインエキスパート。
 https://news.yahoo.co.jp/byline/inosehijiri/20160531-00058290/

 ごみためと化したエベレスト、清掃チームがごみ3トン回収 ネパール
‡2019(令和元)年05月02日(木) 23:20 発信地:カトマンズ/ネパール [ ネパール アジア・オセアニア ] 
 2018(平成30)年05月21日(月) 撮影 登山用具やごみが散乱したエベレストのキャンプ地。(c)DOMA SHERPA / AFP 
【5月2日 AFP】標高8848メートルを誇る世界最高峰エベレスト(Mount Everest)で、世界一標高の高いごみためと化した山を清掃するという野心的なプランの下、専門チームが2週間で3トンのごみを収集した。当局が1日、明らかにした。
【編集部おすすめ】Wifiに焼きたてパンも!ベースキャンプで快適生活 エベレスト
 数十年前から商業登山が盛んになったエベレストは、高額費用を支払いながら、ごみを残していくことに無頓着な登山者が増加。蛍光色のテント、捨てられた登山用具、使い切ったガス缶、時には排せつ物が山頂へと続く登山ルート上に散乱している。
 先月から春の登山シーズンに入る中、ネパール政府は、1か月半以内でごみ10トンの回収を目標に、14人のメンバーからなるチームをエベレストへ派遣。清掃チームは、エベレスト登頂に向けて準備と順応にいそしむ登山家らが集まるベースキャンプとその周辺地域から、廃棄された登山道具、空き缶、ボトル、プラスチックごみなど3トンを回収した。
 同国観光局のダンドゥ・ラジ・ギミレ(Dandu Raj Ghimire)局長は「清掃活動に携わるチームは始動したばかりで、メンバーはさらに多くのごみを収集するため、より高度にあるキャンプ地へと向かっている」と話した。
 収集したごみの3分の1はリサイクルのため、軍用ヘリコプターによって首都カトマンズに運ばれた一方、自然に分解可能な残りのごみは、適切に処分するために近隣のオカルドゥンガ(Okhaldhunga)郡に移送された。
 現在、高度6400メートルに位置するキャンプ2でメンバー8人が清掃に当たる一方、3人から成るチームが交代で7950メートルのキャンプ4へ登り、雪に覆われた斜面で15日間ごみ収集を行うという。(c)AFP
 https://www.afpbb.com/articles/-/3223428?act=all
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 頂上にこの行列… エベレストでさらに4人死亡、混み合う「死のゾーン」
 2019(令和元)年05月24日(金) 22:41 AFP=時事 配信 発信地:カトマンズ/ネパール [ネパール アジア・オセアニア]
 2019(令和元)年05月22日(水) 撮影 登山者が列を成すエベレスト山頂。登山家ニルマル・プルジャ氏の登山チーム「Project Possible」提供。【翻訳編集】AFPBB News
【AFP=時事】世界最高峰エベレスト(Mount Everest)で24日、新たに4人の死亡が報告された。このうち2人は、標高8000メートル以上の通称「死のゾーン」が登山者で混雑していることが原因で命を落としたとされ、安全より利益が優先されているとの懸念が強まっている。
【写真】ごみためと化したエベレスト、清掃チームがごみ3トン回収 ネパール
 2019(令和元)年05月23日(木)、前日23日午後に亡くなったのは、登頂を果たしたものの下山途中に死亡したインド人のカルパナ・ダス(Kalpana Das)さん(52)。当時、エベレストの山頂付近には大勢の登山者らが列を成していた。同じくインド人の別の登山者(27)も、山頂からの下山中に命を落とした。登山会社の話では、この男性は「12時間以上混雑に巻き込まれ、極度に疲労していた」という。
 2019(令和元)年05月24日(金)に報告された4人の死亡により、混雑する頂上付近でこの1週間に亡くなった人は計8人となった。1953(昭和28)年にエドモンド・ヒラリー(Edmund Hillary)とテンジン・ノルゲイ(Tenzing Norgay)がエベレスト初登頂に成功して以来、ネパールでは登山が収益性の高いビジネスとなっている。ネパール政府は今春の登山期間に、過去最多となる381人に登山許可証を発給。発給手数料は1人当たり約120万円で、貧しい同国にとっては大きな収入源となっている。登山が認められている期間はもともと短い上、悪天候で登山可能日が減り、山頂までのルートで混雑が発生した。頂上を目指す人の大半にネパール人ガイドが同行するため、今季だけで750人以上が山頂まで同じルートを通行することが予想されている。登山会社によると、チベット側からも140人以上に対して登山許可証が発給されており、今年の総登頂者数は過去最多だった昨年の計807人を上回る可能性もある。【翻訳編集】 AFPBB News
【関連記事】
 世界最高峰エベレストに垂れ込める暗雲…登頂捏造問題 
 エベレストで横行する「不必要な救助」、ヘリ利用で保険金搾取 
 インド陸軍が「イエティの足跡」投稿 ツイッター利用者は辛口の反応 
〔写真特集〕世界の名山・高峰 
〔写真特集〕偉大なる冒険家
 https://www.afpbb.com/articles/-/3226667?cx_part=top_topstory&cx_position=1

 こだわりパン屋が手抜きを始めた深い理由 
‡2019(令和元)年05/02(木) 11:15 仲村 和代,藤田 さつき
 写真◆PRESIDENT Online ※写真はイメージです(写真=iStock.com/orendls) 
 日本のパン屋は長時間労働だ。焼きたてを提供するため、深夜から仕込みをする。そして大量のパンを焼き、大量に捨てる。それが常識とされてきた。だが、そんな常識を破ったパン屋が広島にある。労働時間は短く、パンは捨てず、わりと儲かる。店主が「手抜き」という、その働き方とは――。
 ※本稿は、仲村和代・藤田さつき『大量廃棄社会』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
 ■実家のパン屋が厳しい経営状態に ⇒ 田村陽至さんは広島市にある創業約70年のパン屋「ドリアン」の3代目だ。父は、典型的な街のパン屋だった。店には、食パンやフランスパン、菓子パン、総菜パン、サンドイッチなどたくさんの種類のパンが所狭しと並んでいたという。でも田村さんはそんなパン屋を継ぐのが嫌だった。売れるために焼きそばもたこ焼きも入れ、その流行が去れば次の流行に飛び移る。そんな「なんでもあり」の日本のパンが軽薄に見えて、好きではなかったのだ。田村さんは東京の大学で環境学を学んだ後、沖縄の環境NPOやモンゴルのエコツアーの仕事をするようになった。だがバブル崩壊で、実家のパン屋は厳しい経営状況に陥ってしまう。一時帰国した田村さんに、両親は「従業員には全員やめてもらい、2人だけで店を続けて借金を返していこうと思うんじゃ」と告げた。いくらなんでも、それは現実的じゃないだろう……。そう思った田村さんは、パン屋を手伝うことを決めた。2004年のことだ。
 ■夜10時から翌日夕方までパン作りに追われていた ⇒ 田村さんはドリアンを、当時流行り始めていた「こだわり」のパン屋へリニューアルすることにした。パンの具はすべて手作り。保存料なども使わないようにした。石窯を作って、天然酵母のパンも焼き始めた。店にはいつも40種類ほどのパンがずらりと並んだ。製造スタッフ、店舗スタッフ、パート従業員あわせて10人ほどがフル稼働して2店舗を回し、レストランへの配達もこなした。豊富な品揃えのこだわりのパンが並ぶ店は、すぐに人気になった。田村さんは夜10時から翌日の夕方まで寝ずにパン作りに追われた。「客入りは最多になり、売り上げも最高になった。でかいエンジンでとにかくがむしゃらに働く、という感じでしたね。でも、パンを売っても売っても、お金が残らなかったんです。外からの評判はいいのに、中は潤っていない。この矛盾はちょっとおかしい、と感じるようになりました。スタッフも自分も安い給料で働き続けていた。当時、僕には若いスタッフにパン作りを教える余裕もありませんでした。彼らが店を気に入ってくれているのに甘えて、このまま1年、2年ずるずると貯金もできないのに、時間を奪い続けていていいのかと悩みました」「なんでパン捨てるんですか」ある時、アルバイトで働いていたモンゴル出身の女の子が、売れ残ったパンを「前の日のパンでもおいしいね」と食べていた。後日、彼女から言われた。
 ■「なんでパン捨てるんですか。誰かにあげたらいいのに」店では閉店後、毎日のように売れ残ったパンを捨てていた。25キロ入りの小麦の袋が満杯になるぐらいのパンを捨てることはざらだった。焼きたてのパンが人気だったため、田村さんは夕方まで窯入れを繰り返し、作りたてが店頭に並ぶ機会を増やすようにしていた。だがそうすると、午後に急な雨で客足が止まれば、バットに満載のパンを丸ごとゴミ袋へ入れなくてはならなくなることもあった。保存料無添加のクリームパンや生の果物のデニッシュは、翌日にはとても出せない。1回でも食中毒を起こせば店は終わりだろう。そのリスクを冒すなら捨てた方がいい。パンを誰かにあげる暇だってない。「パンをあげるなんて、日本ではできないんだよ」田村さんは彼女に答えた。こうした経験が積み重なる中、田村さんは自問自答するようになった。「これは、このまま10年、20年、次の世代まで続けられる職業なんだろうか」
 ■ウィーンの名店「勤務時間は4、5時間」2012年春、田村さんは店を休業した。店のスタッフだった妻の芙美さんとともに田村さんが向かったのは、ヨーロッパだ。1年半かけて、フランスとオーストリアのパン屋3軒に受け入れてもらって修業をした。最後に働いたウィーンの名店「グラッガー」での日々は、田村さんのパン職人としての認識を根底から揺るがす経験になった。「朝8時に来て」店からは事前にそう言われていた。パン屋の仕事は早朝から始まるのが常識だ。帰る時間が夜遅いのかな……といぶかりながら行くと、昼には仕事が終わった。勤務時間は4、5時間。自分だけでなく、他の職人も全員だ。拍子抜けした。グラッガーのやり方は、日本のパン屋の常識と違うことばかりだった。日本では、パンの生地をこねたら数時間発酵させ、分割・成形をしてから再び発酵時間を取るのが一般的だ。だがグラッガーではそれも適当で、職人たちはこねた生地をすぐに分割・成形して、冷蔵庫に入れて帰宅していた。材料を混ぜたり、生地を切ったりするのも機械で、田村さんには「手抜き」に見えることが多かった。パンの具もほとんど入っておらず、ゴマを振りかけた程度だ。
 ■「仕事が楽しいと初めて思った」でもそのパンは段違いにおいしかった。違いは素材だった。店の代表のグラッガー氏は「使う材料には、入手できるベストのものを使っている」と語った。小麦に、ルヴァン種の天然酵母、薪の石窯も「素材の一つ」と教えられた。「こねて焼いただけでおいしいんですよ。職人たちが働く時間は短くて、客にはいい材料のものを安い価格で提供できる。だから店も流行る。グラッガーのパンでは、みんなが得をしているんです。僕も仕事が楽しいと初めて思った」1日4、5時間の仕事が終わると、妻と街に繰り出し、食事へ行った。日本でパン屋をしていたころは1日15時間以上必死に働いて、インプットをする余裕もなかった。それなのに、パンはグラッガーの方がずっとおいしい。「日本のパン職人たちは100点満点のパンを目指すのに7、8時間を費やすんです。僕自身もそうやって血眼になって働いていた。でもグラッガーでは、パンが70、80点でも4、5時間でできるならいいや、というマインドなんですよ。それでも、いい素材を使って、そんな風に力を抜いて投げた球は、案外伸びる。それで日本のパンよりおいしくなる」熱心な広島カープファンでもある田村さんは、野球にたとえながらそう振り返った。一体僕はなにをしてきたんだろう。田村さんは少し考え込んだ後、帰国したらこのやり方を自分も実践してみるほかない、と決心した。
 ■「無駄にできない」小麦で作ったパン ⇒ 2013年10月、店を再開した田村さんは、「実験」を始めた。グラッガーで学んだことの実践として、まず材料にこだわることにした。選んだのは、国産の有機栽培の小麦だ。それが、日本の気候や風土に合うパンを作る最高の材料だと思ったからだ。ただ、パンに使われる小麦のうち国産は3パーセントだけと言われ、有機栽培となるとさらに希少だ。当時、国産の有機小麦の価格は外国産小麦に比べて約4倍。普通の国産小麦に比べても約2倍だった。材料がこの値段だと、イチジクやクルミを入れたカンパーニュを日常的に店で作って売ることは不可能だ。しかし具材を入れないシンプルなカンパーニュなら、有機国産小麦を使って、さらに同じ価格のままでも大丈夫だと分かった。田村さんは、具材を入れないカンパーニュなど2種類のみに絞って売ることを決めた。こうすればなんとか採算を合わせることができる。理想とする有機小麦を求めて、北海道・十勝の生産農家、中川泰一さんへ会いに行った。中川さんは人工肥料を使わず、草を育てて小麦の肥料としている。有機栽培に転換した当時の苦労話や、「目が覚めると麦がすべて枯れていた」夢にうなされた話を聞いた。「海外産の小麦を使っていると、誰が栽培したのかも分からないし、どんな苦労があるのか想像力が働かない。でも中川さんに会って話を聞き、小麦の作り手の思いを知ることができました。この小麦で作ったパンは絶対に無駄にできない、どうにかして売り切らないとだめだ、と思いましたね」そうして実現した具材をなくしたカンパーニュには、2週間ほど日持ちするという予期せぬメリットもあった
 ■働く時間を7時間程度に短縮した ⇒ 次に着手した実験は「働き方」だった ⇒ パンの種類を絞って具材を入れないことにしたことで、手間をすでにだいぶカットできていた。さらに働く時間を短縮するため、グラッガーのように冷蔵庫を活用することにした。なぜ冷蔵庫を使うと、働く時間を短くできるのか。冷蔵庫を使わなければ、パン生地を仕込んだ後に発酵が進むため、遅くとも4、5時間後には焼かなくてはならない。日本の多くの「こだわり」パン屋でやっているようにその日のうちに焼こうとすれば、仕込み始めから窯入れ、焼き上がりまでに7時間ほどかかる。つまり午前8時にパンを焼き上げるためには、午前1時に作業を始めなくてはならないのだ。1回の窯入れで焼けるパンの量には限界があるため、2、3回窯入れしようとすると……寝られなくなる。しかし冷蔵庫を使えば、途中で発酵をある程度止めておける。さらに冷蔵庫から出してすぐに焼けるため、何時に起きても、窯の着火から2時間ぐらいでパンを焼くことができるのだ。「グラッガーでは、大して味が変わらない作業にはこうやって手抜きをしていたんです。パンは単純なもの。だから素材さえしっかりしていればおいしくなる」こうして、働く時間を朝4時から11時までの7時間程度に短縮した。以前の半分だ。スタッフ10人程度で回していた店の規模も、ぐっと小さくした。店は1店舗に減らし、店を開くのは木、金、土の週3日の午後だけ。スタッフも基本的には自分と芙美さんの2人だけにした。
 ■「ネット販売」と「リレー販売」で売れ残りをなくす ⇒ 最後に田村さんが取り組んだのが、「パンを捨てないようにする売り方」だった。パンの種類を少なくして具材も入れないようにしたことで、パンは日持ちするようになった。問題は、どうやって商売として成り立たせるか、だ。「パンを捨てたくないから焼かないようにする、というのは違うと思ったんです。そうすると商売にならないし、心をこめて作ったパンだから可能な範囲で多くの人に食べてもらいたい。作ったパンは捨てないし、仕事は楽で、わりと儲かる。そこを目指さないと、そもそもこんなパン屋稼業、やる人がいなくなっちゃうと思ったんです」そこで考えたのが、予約を取って定期購入してもらうネット販売だ。店を閉める平日の2日間に定期購入分のパンを焼き、予約してくれた客へパンを発送する。「パンって、暑い夏は売れなかったりして季節で売れ行きが変わるし、天気の影響も大きい。でも定期購入ならぶれが出ないので、収入の土台になります。僕が焼くカンパーニュみたいなパン、みんなが好きなわけじゃないです。100人のうち1人ぐらいでしょうか。だから販売する先を全国に広げた方がいいんです。形崩れしなくて日持ちするこんな堅いパンだから、発送もしやすいんですよ」定期購入を始めると、ドリアンのパンは少しずつ評判を呼び、その送り先は北海道から沖縄まで約160に広がった。店で販売するパンも売れ残らないように、「リレー販売方式」を編み出した。焼きたてはまず、厨房の横のテーブルに置く。パンの隣には、代金を入れる箱。無人のセルフ販売だ。そして広島市中心部にある店でパンが売れ残った時には、地元野菜の移動販売業者やハム店に託す。「いろんなところで、ちょっとずつちょっとずつ売っていって、なんとか売り切れる感じですね」と田村さんは笑う。
 仲村和代(なかむら・かずよ)朝日新聞 社会部記者 1979年、広島市生まれ。沖縄ルーツの転勤族で、これまで暮らした都市は10以上。2002年、朝日新聞社入社。長崎総局、西部報道センターなどを経て2010年から東京本社社会部。著書に『ルポ コールセンター』、取材班の出版物に『孤族の国』(ともに朝日新聞出版)がある。 
 藤田さつき(ふじた・さつき)朝日新聞 オピニオン編集部記者 1976年、東京都生まれ。2000年、朝日新聞社入社。奈良総局、大阪社会部、東京本社文化くらし報道部などを経て、2018年からオピニオン編集部。近年は、消費社会や家族のあり方などを取材。取材班の出版物に『平成家族』(朝日新聞出版)など。(写真=iStock.com)
 https://www.msn.com/ja-jp/news/money/こだわりパン屋が手抜きを始めた深い理由/ar-AAAMKoK?ocid=spartandhp#page=2

 怖い話・・・・警備員あるある 
‡2018(平成30)年05月02日 更新日
 https://matome.naver.jp/odai/2147104577409534301
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1995(平成七)年05月02日(火) 野茂英雄投手が米大リーグで初登板 ⇒ 近鉄を退団して米大リーグのドジャース入りした野茂英雄投手がジャイアンツ戦に先発で初登板。5回を投げ、1安打無失点、7奪三振の好投を演じた。野茂投手は1年目から13勝、奪三振1位など活躍。結局、メジャー通算123勝(日米通算201勝)を挙げた【AFP時事】
 1875(明治八)年05月02日(日) 郵便貯金事業が東京、横浜の計19郵便局で開始
 2008(平成20)年05月02日(金) ミャンマーにサイクロン上陸、死者・行方不明者約14万人
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ 秋元康 ┃‡1958(昭和33)年05月02日(金) 生誕
 ┗━━━━━┛ https://ja.wikipedia.org/wiki/秋元康
 音源◆伊集院光と長渕剛のラジオ対談https://youtu.be/oH2kpL2v8ko
 売れていない若き頃の2人とお互い一流になってからの秋元の失礼な発言とは!?
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=高塩 隆
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‡2010(平成22)年05月02日(日) 日本で16年ぶりの2勝目!横浜・大家友和がNPB復帰後初登板勝利
‡2017(平成29)年05月02日(火) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は5月2日だ。
 写真◆ツーシーム系を巧み操った大家。2010年は7勝も11年は1勝もできず解雇となった
 ソフトンバンク・川崎宗則の日本復帰が話題となっているが、2010年のこの日、異色の右腕が日本球界復帰後、初の公式戦一軍マウンドを踏んだ。日米球界、さらには韓国で投げ続けた鉄腕・大家友和。NPB通算8勝ながらMLB通算51勝を挙げている男である。 
 大家は1994年横浜(現DeNA)入団。98年オフに自ら希望して自由契約となり、レッドソックスとマイナー契約。以後、MLB複数球団を主に先発投手として渡り歩いたが、2010年、12年ぶりに日本球界に復帰し、横浜のユニフォームを着た。 
 5月2日の対ヤクルト戦(神宮)は、その大家が復帰後、初登板初先発。アメリカで覚えた動くボールでヤクルト打者の芯を外し、連打されても冷静に後続を絶ち、6回途中まで本塁打による1失点にまとめ、実に16年ぶりの日本球界での勝ち星をマークした(最初の横浜時代の94年4月29日のヤクルト戦での1勝が、その時点では唯一の日本での勝ち星だった)。 
 MAX144キロだったが、この動く速球を軸にスライダー、110キロ台のタイミングを外すカーブを有効に使って投球を組み立てた大家。「初回は緊張したけど、とにかく勝ててうれしい。メジャーは別物だし、自分は(日本では)新人だと思っている」と試合後は、あくまでも謙虚に語っていた。一軍勝利の16年のブランクは史上最長記録でもある。 
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1987(昭和62)年12月09日(水) カモも祝福? 永射保500試合登板記念パーティー
 2017(平成29)年12月09日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月9日だ。 
 写真◆西武時代の永射。とにかく度胸のいいピッチャーだった
 地味ながら盛大で、なにより“あったかいパーティー”だった。 
 1987(昭和62)年、プロ15年目のこの年、西武から大洋に移籍し、あと7に迫っていた通算500試合登板を
‡1987(昭和62)年05月02日(土)の阪神戦(甲子園)で達成した(史上59人目)左腕・永射保。その大記録を祝う会が
 1987(昭和62)年12月09日(水)、池袋サンシャインシティプリンスホテルで行われた。 
 永射は1972(昭和47)年、広島に入団も伸び悩み、オーバースローからサイドスローに。1974(昭和49)年、太平洋クラブ(のちクラウン─西武)に移籍し開花する。左打者の背中に当たりそうな角度からストライクゾーンに食い込むカーブを武器に1977(昭和52)年には先発、中継ぎでフル回転し、規定投球回到達。1979(昭和54)年からは主に中継ぎで3年連続、1984(昭和59)年を加え、4度リーグ最多登板を果たしている。 
 パーティーの発起人は、悪友たちだ。大田卓司(解説者。元西武ほか。当時以下同)、基満男(日本ハムコーチ)、東尾修(西武)、加藤博一(大洋)、若菜嘉晴(大洋)らが企画。豊田泰光(解説者。元西鉄ほか)、田淵幸一(解説者。元西武ほか)ら親交の深い先輩たちも訪れ、永射を祝福した。 
 一番沸いたのが、愛娘とともに元ロッテのレロン・リーが登壇した際だ。永射が「リーさんのおかげで選手寿命が延びた」と言って会場が爆笑となったが、左打者・リーにとって永射はまさに天敵。まったくタイミングが取れず、右打席に入ったこともあったという。 
 地味な仕事人のまさに晴れ舞台だった。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1993(平成五)年05月02日 野村監督に試された!? 松井秀喜のプロ初本塁打
‡2019(令和元)年05月02日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は1993年5月2日だ。
 写真◆高津からプロ初本塁打を打った瞬間、東京ドームが歓声で大きく揺れた
 まさに、空気を切り裂くようなすさまじい打球だった。 
 東京ドームでのヤクルト戦。9回裏二死一塁、カウント2ボール1ストライクから高津臣吾が投じた内角低めのストレートだった。「七番・レフト」でスタメン出場した巨人のルーキー、18歳の松井秀喜のバットがとらえると、弾丸ライナーでライトスタンド中段に飛び込む。一軍7打席目にして初本塁打だった。 
 この2ランで巨人は1点差まで詰め寄ったが結局、3対4で敗れた。試合後、ヤクルト・野村克也監督は「まさにゴジラ打法やな。ただ、あれは内角の球をどう打つか見てみたかったから投げさせたんや。リードしてなきゃ投げさせんよ」と語っていた。 
 マスクをかぶっていた古田敦也も「すごくベースに近く立つから内角を攻めてみたんです」と証言。続けて「ファウルになるかと思ったけどね。かなり打ちますよ。これから穴を探さなきゃいけませんね」と脱帽していた。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170502-01
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171209-11
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190502-10
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 ┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.415 ┃  60円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1966(昭和41)年05月02日(月)号 サンケイに鉄腕アトムの応援
 2019(平成31)年03月07日(木) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎王貞治が打てない日の見分け方
 写真◆表紙は巨人・王貞治、長嶋茂雄
 今回は『1966年5月2日号』。定価は60円だ。   
 4月12日、オープン戦の大不振で株を落としていた南海・村上雅則が東映戦(後楽園)で二番手として登場。プロ初勝利を挙げた。 
 村上は前年メジャーで大活躍。南海復帰後は先発と期待され、フォームもサイドからスリークオーターにしたが、これが災いしたか、球のキレをなくし、不振が続いていた。 
 その後、以前のように腕を下げ、かつリリーフ中心の起用としたことが復調のきっかけとなったようだ。 
 さらに翌4月13日には東映の新人・森安敏明が南海戦で初登板完封勝利。新人の初登板完封勝利は59年、村山実(阪神)以来となる。 
「いろいろ考えてマウンドに上がったが、あそこに立った瞬間、そのすべてを忘れてしまった。自分では65点くらいです」 
 謙虚な言葉とは裏腹に、大勢に報道陣に囲まれながらも平然。強心臓ルーキーの登場だ。 
 デマだったようだが、松下電器への身売りのニュースも出た西鉄が開幕前に選手に配った印刷物が話題というか、いくらなんでもと批判されていた。 
 それは、この年、優勝できなかった場合、選手は一律参加報酬を10パーセントカットする、コーチはその担当にしたがって責任をとってもらう、2年計画でチーム改革を行い、2年後に不必要と思われる選手はベテランも新人もやめてもらうという厳しいもの。 
 累積する球団の赤字が親会社の経営を圧迫していた。 
 これまでも応援団はあったが、日本プロ球界初の組織的応援と言われたのがサンケイ・アトムズ。若い3人のバトンガールが待機し、イニングの合い間、『鉄腕アトム』の音楽に合わせて踊り、あちこちで鉄腕アトムなど、さまざまな着ぐるみで仮装したリーダーたちがサンケイの旗を振る、というものだった。 
 4月16、17日と甲子園での巨人戦に連勝した阪神。杉下茂監督の「王貞治が打てない日の見分け方」が面白い。 
「荒川(博)コーチがフリー打撃で手取り足取りフォームを教えているときだよ。満座の中で荒川コーチに一本足の真似をして教えられたら王だって面白くないさ。プライドがあるからね。そういうときは、試合でも打てない」 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190306-01
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.130 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
 ゲン担ぎと反抗心から髪を伸ばしていた水上善雄
‡2018(平成30)年5月2日(水) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 いつも行っていた美容室に行けず
 ロッテ・水上善雄
 おそらくであるが、1970年代後半から80年代にかけてロッテで活躍した遊撃手・水上善雄は、日本球界でもっとも髪が長かった選手ではないだろうか。 
 88年のオフ、ゴルフにはまり、いつも行っていた美容室に行けず、散髪できないままキャンプイン。その後、ずっと調子が良く、ゲンを担ぐタイプでもあったので、そのまま伸ばし、さらにオープン戦で側頭部に死球。入院生活でまた伸びた。 
 シーズンに入ると球団から「見苦しいから切ってこい」と言われたが、上から言われると反発するのが水上の性格。マスコミでも切る、切らないで話題になったことで、さらに意地になった。結局、2年間、長髪のままにし、89年オフに広島に移籍している。 
 なお、中学時代の1級下にはあの永遠のアイドル、山口百恵さんがいた。引退後は一時期、築地の市場で働いていたなど、ネタが豊富な人物でもある。
 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
②┃ プロ野球仰天伝説 No.199 ┃ ONLINE
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
 史上唯一3度のサイクルを達成したのは引退表明していたローズ
 2018(平成30)年7月10日(火) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 20対4と大勝した試合で達成
 写真◆横浜・ローズ
 史上唯一、3度のサイクル安打を達成しているのが横浜のロバート・ローズだ。 
 1999(平成11)年6月30日(水)の広島戦(富山)。横浜が25安打を放ち、20対4で大勝した試合だが、四番のローズはまず2回に左中間へ二塁打。3回は四球だったが、5回に中前打と右越え三塁打、6回に左中間へ本塁打を放って、
‡1995(平成七)年5月02日(火)の中日戦、
 1997(平成九)年4月29日(火)のヤクルト戦に次ぐ3度目のサイクル安打を達成した。 
 実はこの年、ローズは引退宣言をしていた。 
 「もうやるだけのことはやった。今年で野球をやめる。メジャーで野球をやることも、他の球団に行くこともない。その意思は変わらない。今後は家族と一緒に楽しく過ごすよ」 
 来日6年目を迎えていたローズ。シーズンが終わると真っ先に帰国し、家族と過ごす時間を大切にしてきたが、前年の日本一が大きな区切りとなっていたようだ。常に個人成績よりもチームの勝利を願ってきた助っ人にとって、チームの日本一で、自分の使命は終えたという思いもあったのだろう。 
 しかし、このサイクルヒットによって、引退の2文字を残留に変える可能性をもたらした。 
 記録達成から数日後、ローズがこう漏らした。 
 「ワイフに言われたよ。『野球場で笑っているあなたを初めて見たわ。だから、まだ野球をやっていなさいよ』って」。 
 ミッシェル夫人が引退撤回を勧めたという。ローズ自身も「サイクルを打ったとき、本当に楽しいと思えたよ。最近、そういうことがないなと思っていたからね」 
 周囲からもやめないでコールが沸き起こっていた。 
 「決意はそう簡単に変わらない」と言い続けたが……最終的に翌年も現役を続行した。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180502-12
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180710-12
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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