過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 1969(昭和44)年07月01日、『アビイ・ロード』の録音初日。ジョンは、まだ録音に参加せず、ヨーコ、キョーコ、ジュリアンの4人でスコットランドに出掛けていました。この日、ジョンは、運転中にハンドル操作を誤り、ハイウェイをはみ出す大事故を起こしてしまいます。ジョンは顔を17針、ヨーコは14針、キョーコも4針縫う大怪我をし、
‡1969(昭和44)年07月05日、5日間も入院しました。更に悪いことに、後日、この事故により、ヨーコは、キョーコの親権を無くしてしまいます。画像③④⑤は、退院後、事故車の前で(やけくそで)記念撮影したジョン&ヨーコ
《教訓》『車の運転は、慎重に』
 https://www.facebook.com/groups/720792321370235/posts/4113781648737935/
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 ┃♪HOW DO YOU DO IT? 恋のテクニック♪┃
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 1963(昭和38)年01月22日(火) Recorded GERRY and THE PACEMAKERS
 1963(昭和38)年03月14日(木) UK Released B-side♪Away from You♪
‡1964(昭和39)年07月05日(日) US Released B-side♪You'll Never Walk Alone♪
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 https://en.wikipedia.org/wiki/How_Do_You_Do_It%3F
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 音源◆Paul McCartney & George Harrison - The Little Girl Tape, Summer 1967 https://youtu.be/gspLDo-_Atw
 7 Cavendish Avenue & Kinfauns, 
‡June - July 1967
 01. Paul McCartney Interview [0:00]
 02. George Harrison Interview with Klaus Voormann [33:38]
 Here's how the story goes for these recordings: 
 "In the summer of 1967, two young girls from New York - Leslie Samuels and her friend, Donna Stark - visited London and set out to meet the Beatles. One afternoon they lucked out: both Paul McCartney and George Harrison were not only at home and open to a visit, but allowed the girls to run a tape. The result is unusual in that it shows McCartney & Harrison (who was also entertaining Klaus Voormann at his home) in a more casual mood that is not typically heard on press conferences and formal Interviews".
 If you want to read the whole story about this encounter, here's the blog posts made by the amazing Sara Schmidt:
①写真◆http://www.meetthebeatlesforreal.com/2009/06/little-girl-tapespart1.html
②写真◆http://www.meetthebeatlesforreal.com/2010/11/little-girl-tapes-part-2.html
③写真◆http://www.meetthebeatlesforreal.com/2013/01/little-girl-tapes-continue.html
 

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 ┃ビートルズ初の契約書落札 デビュー前、3700万円┃
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 2019(令和元)年07月10日(水) 9:47【ロンドン=共同】競売大手サザビーズは
 2019(令和元)年07月09日(火)、ビートルズのメンバーらが1962年のデビュー前に、後のマネジャーと交わした初の契約書が競売に掛けられ、27万5千ポンド(約3700万円)で落札されたと発表した。同社は「ビートルズが世界中を熱狂させるバンドへと変貌を遂げるきっかけになった文書」であり、歴史的な価値があると強調した。落札者は明らかにされていない。契約書は、
 1962(昭和37)年10月05日(金)に♪ラヴ・ミー・ドゥ♪でレコードデビューする前の
 1962(昭和37)年01月24日(水)付。マネジャーとなる故ブライアン・エプスタインがバンドのスケジュール管理から宣伝、衣装、メーキャップなどに至るまで広範な内容を担当することが定められている。書面にはポール・マッカートニーさんと既に亡くなったジョージ・ハリスン、ジョン・レノンの2人に加え、デビュー前に解雇されたドラム担当のピート・ベストさんの署名が残る。一方、エプスタインは「(メンバーを)縛りたくない」として署名せず、空欄のままになっている。サザビーズによると、ドラム担当がリンゴ・スターさんに代わり、ビートルズとエプスタインが
 1962(昭和37)年10月01日(月)に改めて交わした2通目の契約書は既に2015(平成27)年に競売に掛けられ、36万5千ポンドで落札された。
‡2019(令和元)年07月05日(金) 写真◆ビートルズのメンバーらがマネジャーと交わした契約書(5日、ロンドン)=AP
 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47169830Q9A710C1CR0000/

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 ┃ 『imagine john lennon』 ┃
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 1971(昭和46)年02月11日(thu) Start 1st recording
 1971(昭和46)年02月12日(fri)  End 2nd recording
 1971(昭和46)年06月23日(wed) Start 1st recorded
‡1971(昭和46)年07月05日(mon)  End 2nd recorded
 1971(昭和46)年09月09日(thu) US Released
 1971(昭和46)年10月08日(fri) UK Released
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 ┃ 『imagine:The Ultimate Collection』 ┃
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 2018(平成20)年10月05日(fri) released
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 https://en.wikipedia.org/wiki/Imagine_(John_Lennon_album)
 https://www.universal-music.co.jp/john-lennon/news/2018-08-23-release/
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 ┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 3』 ┃
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 1996(平成八)年10月28日(mon) JP Released
 1996(平成八)年10月28日(mon) UK Released
 1996(平成八)年10月29日(tue) US Released
◇Disc one (CD1)
◎LP A-side (Record Disc 1)
 11."Ob-La-Di, Ob-La-Da" (Take 5)
 1968(昭和43)年07月03日(wed) EMI Studios 2:56
 1968(昭和43)年07月04日(thu) EMI Studios 2:56
‡1968(昭和43)年07月05日(fri) EMI Studios 2:56
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 https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHDWNM
 https://music.amazon.co.jp/albums/B07FT36GH9
 https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_3
 https://music.amazon.co.jp/albums/B00H77Z0I6
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 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1962(昭和37)年07月05日(木) ライヴ演奏:マジェスティック・ボールルーム/バーケンヘッド
 ビートルズは17回マジェスティック・ボールルームに出演しているヨ(=^◇^=)
 1962(昭和37)年06月28日
‡1962(昭和37)年07月05日 12日 19日 28日
 1962(昭和37)年08月17日 24日
 1962(昭和37)年09月08日 22日
 1962(昭和37)年10月15日
 1962(昭和37)年11月22日 29日
 1962(昭和37)年12月15日
 1963(昭和38)年01月17日 31日
 1963(昭和38)年02月21日
 1963(昭和38)年04月10日
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②1963(昭和38)年01月11日(金) ライヴ演奏2:プラザ・ボールルーム/オールド・ヒル
 ビートルズは1963年1月11日に出演した2つのショーの2つ目は、スタッフォードシャー (Staffordshire) のダドリー (Dudley) に近いオールド・ヒル (Old Hill) にあるプラザ・ボールルーム (Plaza Ballroom) で開催された。実は彼らはダドリーのショーの後、バーミンガムのキングズ・ヘルス (King's Health) にあるリッツ・ボールルーム (Ritz Ballroom) にも出演する予定であった。しかしながらこの日のブリザードもようの天候は、彼らをたった11マイルを移動させることさえ不可能にした。結果、そのバーミンガムでの公演は
 1963(昭和38)年02月15日(金)に振替えられることになった。プラザ・ボールルームはウェスト・ミッドランド (West Midlands) の有力な会場であった。かつては映画館だったが1950年代にダンスホールに転身した。ビートルズは
‡1963(昭和38)年07月05日(金)にもう一度この会場に出演する。その会場のプロモーターのマ・リーガン (Ma Regan) は、彼女がこの日に先進のグループをブッキングした明敏さによって、1960年代に地元で有名な人物となった。彼女はまたバーミンガムの多くのグループをマネージメントし、ハンズワース・プラザ (Handsworth Plaza)、キングズ・ヘルスのリッツ (Ritz)、バーミンガムのブルム・カヴァーン (Brum Kavern) でプロモーターとして働いた。
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 ①http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621215_live_Majestic_Ballroom.html
  https://en.wikipedia.org/wiki/Give_My_Regards_to_Broad_Street
 ②https://gejirin.com/beatles/history/1963/19630111-3_live_Plaza_OldHill.html
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 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃|  July 05|186
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃|7月05日|
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 1961(昭和36)年07月05日(水) オフ日。
 1962(昭和37)年07月05日(木) 当時イギリスで最も勢いのあったエンターテイメント企業グループ「トップランク社」との出演契約を結んでいたビートルズは、バーケンヘッドにあるトップランク社主催のライヴのためマジェスティック・ボールルームで演奏。
 1963(昭和38)年07月05日(金) オールド・ヒルのプラザ・ボールルームでコンサート。共演はデニー・レイン率いるデニー・アンド・ディプロマッツ。このコンサートはかなり以前に出演が決まっていて、今やイギリスナンバー・ワン・ヒット曲を持つビートルズなので、ふつうならキャンセルするところだが、ブライアン・エプスタインは契約を守った。
 1964(昭和38)年07月05日(日) オフ日。
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17054
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/007/0705.html
 https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15751136.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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 |1966(昭和41)年 7月 5日(火)|「恐怖と混乱 マニラ脱出劇」
 |2009(平成21)年 7月 3日(金)|甲虫日記更新日 No.052
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「人生であれほど恐怖を覚えたことはなかった。もう二度と行かない」(ジョージ)
「今はあそこの上空を飛ぶことすら嫌だ」(ジョン)
「あそこにもう一度行くかって? 冗談じゃない!」(リンゴ)
「絶対にあそこには行きたくない」(ポール)
ビートルズが恐怖におののく「あそこ」とは、1966年7月5日、這々の体で空港を飛び立ったフィリピンの首都マニラのことだ。
7月3日、日本公演を終えたビートルズは香港を経由してマニラに上陸する。翌4日、リサール・メモリアル・フットボール・スタジアムで2回の公演を予定していた。
ジョージは、誰かがホテルの部屋のドアを叩く音で起こされた。
「何している。君たちは宮殿に行くはずじゃないか。テレビをつけてみろ」
マラカニアン宮殿からの生中継だった。長い大理石の廊下の両脇に、ずらっと人が並び、大勢の子どもたちが待っている。テレビのコメンテーターが説明する。「まだ現れません。ビートルズはもう到着するはずですが」
ジョージは呆然とテレビ画面をみつめるしかなかった。
宮殿の主は、前年の大統領選挙で当選したフェルディナンド・マルコス。86年の人民革命で打倒されるまで、事実上の独裁者として君臨した。
朝食が部屋に運ばれるのを待っていたジョンとリンゴも、その恐ろしい番組をみることになる。
「マダム・マルコスが叫んでいるんだ、『私は侮辱された』って。カメラマンは空っぽの皿とか、ちっちゃい子の顔とかアップにして映していた。子どもはみんな泣いているんだ、ビートルズが来てくれなかったって」
ロード・マネジャーのニール・アスピノールと街を見学してホテルに戻ってきたポールは、「大統領官邸に行く約束を忘れたのか」と周囲の男たちに責められた。
ビートルズは金持ちや有名人からの招待を断るのが常だった。
「どういうことなんだ」。ニールはマネジャーのブライアン・エプスタインに訊(たず)ねた。「僕がキャンセルした。出席する予定などなかった」
マニラ公演の興行主ラモン・ラモスがエプスタインに示した日程表には、午後4時にスタジアムに到着する以前の「午後3時に宮殿に赴き、大統領夫人を訪問し、その後スタジアムに向かう」と書かれていた。宮殿訪問は「ビートルズとその一行の了解」に基づくものと強調されていた。
ブライアンは招待を断った。開演2時間前にスタジアムに到着したいと考えていたため、実際は無理な話だった。
ところが、ラモスは、ビートルズが訪問できないことを宮殿側に連絡しなかった。しかも宮殿側が設定した訪問時間は午前11時だった。
 ◎窮地に追い込まれる4人… 次のページへ
午後6時半すぎ、ビートルズは、5万人の観衆を前に1回目の公演を終えてホテルに戻ってきた。
夕方のテレビ・ニュースは、ビートルズがマルコス大統領夫妻と、集まった子どもたちを冷たくあしらった、と伝えていた。その放送を広報担当のトニー・バーロウはぞっとする思いでみた。テレビ局にかけあい、ブライアンにテレビで事情説明する機会を与えるように手配した。
「午後、最初の公演を行う前に宮殿を訪問することを私たちが了解したかに関する問い合わせは、私もビートルズに同行した部下も聞いていません。200人の子どもたちが待っていたことも、今夜のテレビで初めて知りました」
ブライアンによる声明はテレビで読み上げられたが、なぜかブライアンの声は波長が変えられ、聞き取れないほど音質が悪かった。
すでに、ある意図が働き始めていた。
公演は2回とも大成功だった。しかし、翌朝、部屋に届けられた新聞の一面には、「ビートルズ、大統領にひじ鉄」とデカデカと書いてあった。
ブライアンの部下、ヴィック・ルイスの部屋をある男がノックした。税務当局者だった。昨晩の公演にかかる所得税8万ドルの支払いを求めてきた。ルイスは契約書を示し、支払いの義務は興行主にあると説明したが、男はなかなか引き下がらなかった。
英国大使館やホテルには殺害予告の脅迫電話もかかっていた。ホテルから荷物を運ぼうとしても誰も手伝ってくれなかった。ようやく車を見つけ、空港に着くとアロハ・シャツを着た一団がいて、一行を殴ろうと怒鳴りながら拳を振りかざしていた。一方、その向こうでファンの若い子たちが騒いでいた。
「突如として国中が僕らを攻撃してきた」(ジョージ)
警護にあたっていた警官は任務を解かれていた。空港へ入ると、エスカレーターが止まっていた。ポーターらしき人もいなかった。全員が手分けしてアンプやスーツ・ケースを運んだ。そこへブーイングしたり叫んだりする一団が追いかけてきた。ビートルズはとっさに聖職者の集団の後ろに隠れた。
「ここはカトリックの国だ。尼さんを殴ることはしないだろう」(リンゴ)
側近たちはビートルズを守った。ブライアンは蹴られたり顔を殴られたりした。マル・エバンズは数回殴られ、床に倒された。2人とも出血した。お抱え運転手のアルフ・ビックネルは、突き飛ばされて階段から転げ落ち、あばら骨を折った。ルイスは、もし銃撃されたとしても軽傷で済むかも知れないと思い、手を頭の後ろに回して滑走路を走った。
機内に乗り込むと、全員が座席にキスをした。
ところが、離陸直前になってアナウンスが流れた。マル、トニーの2人がターミナルに戻るよう命令された。
「マルは僕の横を抜けていく時に泣き出して、通路で僕の方を向くと『(妻の)リルに愛していると言ってくれ』と言った」(ジョージ)
トニーとマルの入国記録がないから、不法移民と見なされ、出国は許可できないと通告された。結局、ツアーで稼いだ額と同じ金額を「マニラ式出国税」として支払うことで出国が許可された。
「あれでみんな、ツアーに嫌気がさしたんだよ。あれが棺に打ち込まれた最後の釘の1本だったかも知れないね」(ニール)
ビートルズは次の米国公演終了後、公演は一切しないという結論に達した。
 ◎『この日のビートルズ』の次回は7月17日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
 ◎お知らせ ⇒ 66年、ビートルズのワールドツアーはやっかいなことが続いた。6月の日本公演は日本武道館の使用をめぐって右翼の猛烈な抗議、マニラ空港での脱出劇、最後の米国公演は「キリスト発言」の謝罪会見。8月に発売されたアルバム・タイトルが「リボルバー=回転式連発銃」なのは、ビートルズが警備にあたった警官の拳銃を目の当たりにしたからだ、という説も流布された。
リボルバー
1998年03月11日 EMIミュージック・ジャパン
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
 https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
 http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/090703.html
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 1969/12/17 オンタリオ州ニューサイエンスセンターでは、ジョンとヨーコが
 1970年7月3日~5日にトロントで開催される「平和と詩祭」を発表する記者会見を開催します。
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17219
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 ┃ THE BEATLES  Live at the Majestic Ballroom ┃
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‡No.02 1962(昭和37)年 7月 5日(thu) Majestic Ballroom
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 http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621215_live_Majestic_Ballroom.html
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 ┃ Summer 1963 UK Tour“THE BEATLES SHOW” ┃
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‡No.14 (fri)05 July 1963 Old Hill, England, Plaza Ballroom 
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 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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  ┛THE BEATLES 1969 Recording Sessions ┛Studio 2
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①┃ ♪Ob-La-Di, Ob-La-Da♪  ┃overdub onto take 5
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛No.3 3台のサックス、そしてボンゴをオーバーダブ。その後にピッコロもオーバーダブされたが、聞き直したポールはこれを不要と判断。そのピッコロの上から新たにポールによるギターを上書き録音する
  Note・・・この曲のタイトルは、7月5日に参加していたナイジェリア人のセッションミュージシャン、ジミー・スコットの口癖だったらしく、彼のバンド仲間は「ジミーはあのフレーズをよく口にしてたよ。ナイジェリアのヨルバ族に聞けば『Ob-La-Di, Ob-La-Da』は『life goes on(人生は続く)』という意味だって教えてくれるはずだ」と発言している。ポールはこれを聞いてこの曲を書いたそうだが、ヨルバ族によると「そんな言葉はない」との事らしいww
  Producer: George Martin
  Engineer: Geoff Emerick
  2nd Engineer: Richard Lush
  Recording of saxophones and piccolo for ♪Ob-La-Di, Ob-La-Da♪
 ‡1968(昭和43)年7月5日(fri)
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1996/10/28(mon) JP、UK
②┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 3』 ┃1996/10/29(tue) US
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 〇Disc one〇
 11.♪Ob-La-Di, Ob-La-Da♪ (Take 5) 3-5 July 1968 EMI Studios 2:56
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 ①https://beatlesdata.info/10/04_obladioblada.html
 ①https://en.wikipedia.org/wiki/Ob-La-Di,_Ob-La-Da
 ②https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_3 https://www.amazon.co.jp/dp/B0000070GX
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 音源◆Real Love (Take 1) https://youtu.be/B3BHReB8Xtg
‡July 5-9 1980  
 
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 ┃ ザ・ビートルズ オリジナルアルバム作品 ┃
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 1967年 6月 1日 英『SGT PEPPERS LONELY HEARTS CLUB BAND』
 1967年 6月 2日 米『SGT PEPPERS LONELY HEARTS CLUB BAND』
 1967年 7月 5日 日『SGT PEPPERS LONELY HEARTS CLUB BAND』
 http://yokono.co.uk/collection/beatles/beatles.html
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 ┃ ザ・ビートルズ 日本 シングル リリース ┃
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①45.1976(昭和51)年07月05日(月) 1 \600 ♪イエスタデイ♪/♪恋する二人♪  ※\600最初のレコード
②46.1976(昭和51)年07月05日(月) 2 \600 ♪ヘルター・スケルター♪/♪ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ♪
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 ①http://yokono.co.uk/collection/beatles/japanese/single/single_1976_today.html##45
 ②http://yokono.co.uk/collection/beatles/japanese/single/single_1976_today.html##46-1
 シングル写真一蘭◆http://d.hatena.ne.jp/hideaway_juju/20120717/1342515521
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81
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  ┛<結成15周年記念> 時代をこえ、国をこえ、世代をこえて、ビートルズ・パワーはいま生き続けている。┛
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 ┃ The Toshiba EMI Recordings "15th. Anniversary of their debut" series ┃
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‡01.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20221 \600 初写01 ♪ラヴ・ミー・ドゥ♪ / ♪P.S.アイ・ラヴ・ユー♪
‡02.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20222 \600 初写02 ♪プリーズ・プリーズ・ミー♪ / ♪アスク・ミー・ホワイ♪
 03.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20223 \600 初写03 ♪フロム・ミー・トゥ・ユー♪ / ♪サンキュー・ガール♪
 04.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20224 \600 初写04 ♪シー・ラヴズ・ユー♪ / ♪アイル・ゲット・ユー♪
 05.1977(昭和52)年5月5日(木) EAR-20225 \600 初写05 ♪抱きしめたい♪ / ♪こいつ♪
 06.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20226 \600 初写06 ♪キャント・バイ・ミー・ラヴ♪ / ♪ユー・キャント・ドゥ・ザット♪
‡07.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20227 \600 初写07 ♪ア・ハード・デイズ・ナイト♪ / ♪今日の誓い♪
 08.1977(昭和52)年5月5日(木) EAR-20228 \600 中写1 ♪アイ・フィール・ファイン♪ / ♪シーズ・ア・ウーマン♪
 09.1977(昭和52)年5月5日(木) EAR-20229 \600 中写2 ♪涙の乗車券♪ / ♪イエス・イット・イズ♪
 10.1977(昭和52)年5月5日(木) EAR-20230 \600 中写3 ♪ヘルプ!♪ / ♪アイム・ダウン♪
 11.1977(昭和52)年5月5日(木) EAR-20231 \600 中写4 ♪恋を抱きしめよう♪ / ♪デイ・トリッパー♪
‡12.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20232 \600 中写5 ♪ペイパーバック・ライター♪ / ♪レイン♪
 13.1977(昭和52)年5月5日(木) EAR-20233 \600 中写6 ♪イエロー・サブマリン♪ / ♪エリナー・リグビー♪
 14.1977(昭和52)年5月5日(木) EAR-20234 \600 苺写1 ♪ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー♪ / ペ♪ニー・レイン♪
‡15.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20235 \600 苺写2 ♪愛こそはすべて♪ / ♪ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン♪
 16.1977(昭和52)年5月5日(木) EAR-20236 \600 苺写3 ♪ハロー・グッドバイ♪ / ♪アイ・アム・ザ・ウォルラス♪
 17.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20237 \600 苺写4 ♪レディ・マドンナ♪ / ♪ジ・インナー・ライト♪
 18.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20238 \600 苺写5 ♪ヘイ・ジュード♪ / ♪レボリューション♪
‡19.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20239 \600 後写1 ♪ゲット・バック♪ / ♪ドント・レット・ミー・ダウン♪
‡20.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20240 \600 後写2 ♪ジョンとヨーコのバラード♪ / ♪オールド・ブラウン・シュー♪
 21.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20241 \600 後写3 ♪サムシング♪ / ♪カム・トゥゲザー♪
 22.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20242 \600 後写4 ♪レット・イット・ビー♪ / ♪ユー・ノウ・マイ・ネーム♪
 23.1977(昭和52)年5月5日(木) EAR-20243 \600 初写08 ♪ツイスト・アンド・シャウト♪ / ♪ロール・オーバー・ベートーヴェン♪
‡24.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20244 \600 初写09 ♪オール・マイ・ラヴィング♪ / ♪ラヴ・ミー・ドゥー♪
 25.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20245 \600 初写10 ♪プリーズ・ミスター・ポストマン♪ / ♪マネー♪
‡26.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20246 \600 初写11 ♪恋する二人♪ / ♪ぼくが泣く♪
 27.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20247 \600 初写12 ♪アンド・アイ・ラヴ・ハー♪ / ♪恋におちたら♪
 28.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20248 \600 初写13 ♪ロング・トール・サリー♪ / ♪アイ・コール・ユア・ネーム♪
‡29.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20249 \600 中写7 ♪ロック・アンド・ロール・ミュージック♪ / ♪エヴリー・リトル・シング♪
‡30.1977(昭和52)年7月5日(火) EAR-20250 \600 中写8 ♪イエスタディ♪ / ♪アクト・ナチュラリー♪
 31.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20251 \600 苺写6 ♪オブ・ラ・デイ・オブ・ラ・ダ♪ / ♪マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス♪
 32.1977(昭和52)年6月5日(日) EAR-20252 \600 後写5 ♪オー・ダーリン♪ / ♪ヒア・カムズ・ザ・サン♪
 33.1977(昭和52)年5月5日(木) EAR-20253 \600 後写6 ♪ロング・アンド・ワインディング・ロード♪ / ♪フォー・ユー・ブルー♪
************* http://blogs.yahoo.co.jp/hishid_2/4748228.html
 http://yokono.co.uk/collection/beatles/japanese/single/ear_series.html
 シングル写真一蘭◆https://www.discogs.com/label/702667
 シングル写真一蘭◆http://d.hatena.ne.jp/hideaway_juju/20120717/1342515521
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 皆さん BEATLESのシングル盤が突如ジャケットを統一してリリースされたの覚えてますか?1977年 結成15周年記念ってことで東芝EMIが凄い勢いでBEATLESをプッシュ! 突然ハリウッド・ボウルでのライブをリリースしたり『ロックン・ロール』なる編集LPを出したり…LPも英国盤・米国盤・日本盤の帯を統一して全28枚のLPをリリース そんな中 シングル盤も前・中・後期のフォトを使った 共通ジャケットでいきなり レコード屋にズラリと並んだから 当時は驚きでした ご紹介の画像は中期バージョンのジャケット(映画『マジカル・ミステリー・ツアー』撮影時のショットですね) 「HELLO GOODBYE/I AM THE WALRUS」この2曲はBEATLESナンバーの中でお気に入りの曲ですわ上部に【時代をこえ、国をこえ、世代をこえて ビートルズ・パワーはいま生き続けている】って粋なキャッチまで載せちゃって…正直当時はこの共通ジャケットには不満でした だってやっぱ個々のジャケットの方が味があるというか趣きがあって絶対オリジナルがいい! ファン誰しもがそう思ってたんじゃないかな でも時は流れてレコードってものが闇の世界へ そしてCD 今じゃ音楽配信…そんな時代になってあらためて当時嫌いだったジャケットを今回久々に見たら結構当時の思い出とリンクしちゃって なかなか可愛く思えてきたりするんですよね 年食ったせいかなぁ~ やたらと過去を懐かしんじゃうんです オリジナル・ジャケットを買いそびれて仕方なく買ったこのシングル いつの間にか思い出の一枚にしっかりなっちゃってるね
 http://blogs.yahoo.co.jp/k1f2a3185914/53478298.html?__ysp=44K2772l44OT44O844OI44Or44K6IDzntZDmiJAxNeWRqOW5tOiomOW%2FtT4%3D

50年前の7月5日、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』日本盤がリリース
2017年07月05日 執筆者:サエキけんぞう
本日7月5日は『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の日本発売の日である。いわずとしれたビートルズの最高傑作盤と知られている。しかし60年代当時この盤を買った若者の間での評判はどうだったのだろうか? 僕の周りの68年当時のロック好きなお兄さん方の共通見解は「ビートルズはハードな『リボルバー』が一番イカす」というものだった。ヴァニラ・ファッジ、クリーム、ジミヘンが人気で、翌年レッド・ツェッペリンがデビューする。ようするに若者の好みは、よりヘヴィーな音を求めて急旋回していたのだ。
僕は71年頃に赤いヴィニール盤で買ったが、そんな時代の中で「大人しいな」と思ったことをまざまざと思い出す。
問題は日本人が、めざせ新三種の神器=ステレオでステレオバージョンを聴いていたことだ。
『ザ・ビートルズ・サウンド最後の真実』でジェフ・エメリックはこう言う。「真のビートルズ・ファンならばモノ・バージョンを入手すべき。ステレオとは比較にならないほどの時間と労力がモノには投入されている」と。しかし日本人は60年代当時、すでに、三種の神器に追いつけ!とステレオを応接間に置き出していた。モノラルプレーヤーは普及していなかった。
だから、日本人はステレオの『サージェント~』しか知らない。僕が真のモノ・バージョンを聴いたのは14年のモノ・アナログ・ボックスだった。(2009年のモノCDボックスは何故かレベルが低く、本物の迫力を出していない)それは『リボルバー』に感じたゴリゴリとした手ごたえだった。
今回のリミックスステレオ版は、そんなパワフルなモノ盤の手ざわりをステレオミックスで実現するために行われたプロジェクトだ。今までヘナヘナとしたステレオバージョンしか聴いたことのないほとんどのビートルズ・ファンのために為された作業だ。だから作為的にリミックスでサウンドを誇張したりしているわけではない。
さらに従来の盤では到底知りようのない、ラジカルなビートルズが、今回の「セッション・トラックス」のバージョンで現れた。タイトル曲や「ゲッティング・ベター」「ラブリー・リタ」等、のヘヴィーなサウンドはどうだろう? 管、弦、装飾的な上物を取り去り、下から出てきたのは、驚くべきヘヴィーネスであった。分離されて低音要素を増し暴れるベースとギター。そして、どっしりと重いドラム。リンゴの好きな低いチューニングや録音の創意工夫で得られた音像だ。
それはずばり90年代のグランジ・ロックの祖先なのだ。ビートルズは「ヘルター・スケルター」の前に、すでに1967年にグランジを発明していた。
「セッション・トラックス」を聴いて今どきのエンジニアが、大げさなエフェクトをかけたんじゃないかと勘違いする人もいるかもしれない。しかし、ナチュラル音でレコーディングされたサウンドだ。ベースやドラムの低音成分をガシっと捉えること。それが現在までのロックのハード化への道だったのだ。「低音がリードするロック・サウンド」の発明だった。
ポール・マッカートニーは自らがグランジの元祖であることを示すように、2013年映画『サウンド・シティ』サウンドトラック盤「Cut Me Some Slack」という曲で、ニルヴァーナのデイヴ・グロールと共演を果たしている。それはやはり「ヘルター・スケルター」に似た曲だった。
70年代以降、マルチトラックに録音した個々の音色を機械内で徹底的にいじくりまくるという時代が来る直前に、ビートルズはすべてのロックに先がけて、そんなサウンドを得たが、そのため、その時代でなくしては得られない、ナチュラルだがトリップ性も高い音響感があることもその魅力である。
『サージェント~』のみが持つ、気品あふれるエコー感だ。当時のアナログ・エコー・チェンバーが大きな役割を果たした。ほとんどの曲でボーカルと楽器にリヴァーヴが聞かれる。「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ~」「フィクシング・ア・ホール」では特に顕著だ。
この時期、EMIでは社を挙げて「響き」に取り組んでおり、「アンビオフォオニック・システム(Ambiophony)」という技術も「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のオーケストラの録音で使用された。アビイロードスタジオ1の壁は洞穴のようになっており、そこに100個のスピーカーを均等に配置、送り込む信号のディレイ(遅延)を少しづつ変えることで部屋の音響特性をコントロールするという、とんでもなく凝った音響設計である。
サイケだが気品があり、何よりも音色の粒が揃っている。そして今回のリミックス盤でわかる通り、グランジに負けないロック魂がベースとなっている。
だから『サージェント~』はビートルズで最大の成功を収めた。
『サージェント~』が発売された時、米ライター、ラングドン・ウィナーによれば「ララミー、オーガララ、モーリン、サウス・ベンド~(どの街からも)トランジスタ・ラジオ、ポータブルのハイファイからメロディーが聴こえてきた」という。「修復できないほどばらばらになっていた西欧という意識がほんの一瞬、ひとつになった」(『メイキング・オブ・サージェント・ペパー』より)というほど文化的衝撃力をこの盤は持っていたのだ。
この盤の地味なイメージを刷新するため、ぜひ、今回のリミックス盤を聴いてみていただきたい。
≪著者略歴≫サエキけんぞう(さえき・けんぞう):大学在学中に『ハルメンズの近代体操』(1980年)でミュージシャンとしてデビュー。1983年「パール兄弟」を結成し、『未来はパール』で再デビュー。「未来はパール」など約10枚のアルバムを発表。1990年代は作詞家、プロデューサーとして活動の場を広げる。2003年にフランスで「スシ頭の男」でCDデビューし、仏ツアーを開催。2009年、フレンチ・ユニット「サエキけんぞう&クラブ・ジュテーム」を結成しオリジナルアルバム「パリを撃て!」を発表。2010年、デビューバンドであるハルメンズの30周年を記念して、オリジナルアルバム2枚のリマスター復刻に加え、幻の3枚目をイメージした「21世紀さんsingsハルメンズ」(サエキけんぞう&Boogie the マッハモータース)、ボーカロイドにハルメンズを歌わせる「初音ミクsingsハルメンズ」ほか計5作品を同時発表。  
http://music-calendar.jp/2017070501


 白黒映像◆The Beatles Live At Circus Krone 1966  https://youtu.be/bXiKbll-32Y
 The shows took place at 5.15pm and 9pm. The second show was filmed by German television network Zweites Deutsches Fernsehen (ZDF), and followed a brief afternoon rehearsal set for the cameras. The footage was shown as Die Beatles on channel two on 
 Tuesday 5 July, from 8-8.45pm.
 

 ┏━━━━━━━━┓
 ┃ 『朝日新聞』 ┃1966(昭和41)年■3月16日付朝刊、第12版、14面
 ┗━━━━━━━━┛公演活動の終了・・・翌朝の新聞にはビートルズが「ファーストレディに肘鉄を食らわした」と報じられた。腹を立てた民衆は暴動を引き起こし、バンドはフィリピンを脱出しようとした。リンゴ・スターは飛行機に乗ろうとした際に肋骨に怪我を負い、多くのツアーメンバーも負傷した。彼らの機材は失われ、コンサートの収益はすべて課税され、何名かのツアーメンバーは空港での乱闘後にそのまま取り残された
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E8%A7%A3%E6%95%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C

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