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┃ 浜田省吾 #32 『FATHER'S SON』 ┃
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2017(平成29)年01月14日(土) 今回は
1988(昭和63)年03月16日(水)に発売された浜田省吾さんのアルバム『FATHER'S SON』の話です。
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‡1988(昭和63)年2月13日(土)、信濃町ソニースタジオで、浜田省吾のニューアルバム完成を祝うささやかパーティが催された。その二日後の
1988(昭和63)年2月15日(月)から約一ヶ月の間「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」のためのリハーサルが始まった。ぼくは浜田さんのツアーのリハーサルの間に、佐野元春さんのレコーディングにも参加した。佐野さんがDJ を務めていたFM番組の中で企画・制作されたコンピレーション・アルバムに、石渡長門くんが参加することになり、ぼくも久しぶりに佐野さんのレコーディングに呼ばれることとなった。ぼくが参加したのは石渡長門くんの「Rumblin'Around」と藤森かつおさんの「漂流者へ」の2曲。佐野さんとのレコーディングはとてもエキサイティングで面白かった。佐野さんのレコーディングは、浜田さんのレコーディングとはやり方が全く違って、まず譜面というものが存在しなかった。佐野さんが傍らに置いたリズムマシンのビートに合わせてギターを弾きながら、曲のコードを言って行く。そしてバンドのメンバー各自それをメモしながら進めて行くというやりかただった。ぼくは普段やったことのないそのレコーディングの進め方に面食らって、最初はみんなについて行くのが精一杯だったが、他のバンドのメンバー(佐野さんのバンド、ザ・ハーランドのメンバー達)は、涼しい顔をして佐野さんの指示通りに演奏していた。でも次第にぼくもそのやり方に慣れて来て、最後の方はだんだんと楽しくなって来た。浜田さんとは対照的なレコーディングのやり方だったが、後日完成した曲を聴かせてもらったら、非常にカッコいい仕上がりになっていて驚いた。 色々なサウンドプロデュースの方法があることをぼくはまた一つ学んだ。浜田省吾のツアーのリハーサルは、
1988(昭和63)年3月09日(水)
1988(昭和63)年3月10日(木)の二日間、市川市文化会館での公開リハーサルを挟み、
1988(昭和63)年3月13日(日)まで続いた。そして
1988(昭和63)年3月17日(木)から
1989(平成元)年2月07日(火)までの、約100本に渡るコンサートツアー「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」の幕は切って落とされた。
写真◆『FATHER'S SON』のレコーディングが行われた信濃町ソニースタジオの壁に書かれたマイケル・ジャクソン直筆のサインの前で。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/01/32-fathers-son.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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松山千春 『厚生団スペシャル・コンサート』
‡1990(平成二)年02月13日(火) 東京厚生年金会館 3000円
01. SWAY(オリジナル・アレンジ)
02. 抱きしめたい
03. 愛ははかなく
04. 感じたくて
05. 愛しているから
--衣装替え--
06. 愛は物語
07. クレイジー・ラブ(弾き語り)
08-1. 夏の陽(弾き語り)
08-2. Lullaby(ララバイ)・(弾き語り)
09. 虹のかなた(弾き語り)
10. 幸せ
11. STANCE
12. ISHI
13. Message
14. 旅路
---encore01---
15. 見つめていたい
16. 愛は・・・
17. 愛を奏で
---encore02---
18. 麗 -Rei-
19. SWAY(オリジナル・アレンジ)
~はまなす~
20. ひとりじめ(V86)
■この公演の一般発売日が
1989(平成元)年12月23日の土曜日。
チケットぴあの会員先行予約は前日の
1989(平成元)年12月22日の金曜日14:00から。
その時間帯は都合をつけることができなかった。
やむを得ず、駄目もとで母に電話予約を頼んだ。そのころは、まだチケットぴあの会員先行予約のシステムについて広く知られていなかった。週刊誌ぴあのチケット発売詳細ページに、会員予約がある公演は、「会員受付あり」と記載される。ただ締め切りの都合などで載されないこともあった。記載されなくとも、問い合わせると大概の公演は会員受付があった。この公演も先行予約があった。だが誌面には受付ありの記載がなかった。直接、ぴあに問い合わせる人も少なかったのだろう。よって、この公演の会員先行予約を利用した人は少なかったと思う。ただ松山千春の公演だけとは限らないので、電話自体は繋がりにくい。受付時間内に繋がらなくては、予定枚数を終了しなくとも取れないわけです。帰宅後、あまり期待せずに、母に訊いた。すると「すぐ繋がったよ」との返事。何分でつながったと尋ねたら、受付開始後、15分前後だった。状況を鑑みて10列目前後と思った。店頭に引き換えにいった。すると最前列。うちの母は運を持っていると感謝したものです。1990年初頭は、HOUND DOGの日本武道館15days。さらに松山千春の厚生年金ツアー。この東京公演の翌日2月14日からは、東京ドームでローリング・ストーンズの初来日公演。一段落したらポールマッカートニーほか外タレ来日ラッシュ。甲斐よしひろの週替わりの日清パワーステーション公演とうれしい悲鳴だった。仕事も立て込み、数か月ほとんど家に帰った記憶がない。明け方まで仕事して仮眠。ライブがある日は定時に抜け出して、終演後、社に戻る。毎月残業だけで100時間を超えていた。 経済的には潤ったし、何より楽しかった。若さくて、お馬鹿だったからできたんだと思うけど。前置きが長くなりましたが、コンサートは「虹のかなた」や、レコーディング前の新曲を弾き語りで披露。「STANCE」「ISHI」「Message」とアルバムタイトル曲も並び「ひとりじめ」で〆るフリークには堪らないう内容。通常のチケット代と比べ格安の3,000円。とってもお得な満足感でありました。あとは、「愛を奏で」は、まだ80年代の質感を残していました。この後の春のツアーの一曲目にもなるのですが、若干、質感に変化を感じました。90年中盤の「愛を奏で」に比べたら大差はないのですが。このツアーは7公演のみ。大都市のみのライブでは勿体無いくらい。この内容で通常のツアーでも構わないと思ったぐらいよかったです
https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11723218822.html
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ぼくは89年の春に浜田省吾さんのバンドを脱退し、松山千春さんのバンドに加入してから約80本のコンサートを行った。浜田さんのコンサートと合わせると89年は約100本のコンサートを行ったことになる。浜田さんのバンドを脱退した時、身も心も疲れ果てていたぼくだったが、結局あまり休む間もなく、また例年と同じような生活に戻っていた。それでも違った環境に身を投じたことに、ぼくは疲れよりも充実感を感じていた。
年が明けて1990年の1月に、全国の厚生年金会館で行われた「松山千春スペシャル・コンサート」が開催(全国7力所7公演)された。
この東京公演が行われた新宿厚生年金会館でのコンサートの楽屋に、浜田省吾さんが訪ねて来てくれた。
約一年ぶりの浜田さんとの再会だった。結果的にあまり後味の良くない去り方をした(と当時自分ではそう思っていた)ぼくに、浜田さんが会いに来てくれたことがぼくは無性に嬉しかった。いや、ひょっとしたらそうではなくて、浜田さんは松山千春さんに会いに来たのかもしれなかったが、それでもぼくは嬉しかった。
浜田さんは最後までコンサートを観て行ってくれた。千春さんも浜田さんが来てくれたことが嬉しかったようで、コンサート中のMCでも浜田さんが来ていることを告げていた。
終演後、再び楽屋に来た浜田さんは、ぼくに良い演奏だったと声をかけてくれた。その後浜田さんと千春さんが談笑している姿を見ていたぼくは、何とも言い表しようのない複雑な気持ちになった。
松山千春の90年春のツアーは、4月19日から32本のスケジュールが組まれていた。
ツアーが始まって中盤を過ぎた初夏のある日、ぼくは浜田さんと二人で逢う機会があった。
浜田さんとしばらくいろんな話をした後、ニューアルバム『誰がために鐘は鳴る』の話題になった。
浜田さんはぼくに尋ねた。
「板さん、出来たばかりの今度のニューアルバム、聴いてくれた?」
「はい、聴かせてもらいました。とても素晴らしい作品だと思いました。ただ聴いている内に胸が痛んで苦しかったです」ぼくは正直な感想を述べた。
ぼくは今回のアルバムの内容と自分を投影して聴いていた。当時のぼくにはどうしてもそういう風に聴こえてしまうような作品だった「そうか。」そのことに関して浜田さんは多くを語らなかったが、ちょっと寂しそうな表情で笑ったのがとても印象に残った。千春さんのツアーに帯同するようになって1年が過ぎ、多忙で充実した日々を送りながらも、どこか心にぽっかりと空いてしまった穴が埋まるための時間が、まだまだぼくには必要だった。
1990(平成二)年頃、本番前の楽屋にて。何故か虚ろな表情(笑)
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/05/1.html