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┃ 浜田省吾 #18 1982年12月18日倉敷市民会館 ┃
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2016(平成28)年05月03日(火)
‡1982(昭和57)年12月18日(土)、倉敷市民会館に一人のサキソホン奏者がやって来ました。今回のお話は古村敏比古くんがやって来た日のことを。
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1982(昭和57)年12月04日(土)の熊本市民会館から始まった九州~山陰~中国地方を廻るツアーは、
1982(昭和57)年12月26日(日)の広島郵便貯金会館まで続く23泊の長旅だった。どのような経緯でそうなったのかはよく分からないが、この旅の途中から急遽サックス奏者が加わることになった。浜田省吾の舞台監督を担当していたH氏からの紹介の人物ということだった。そのサックス奏者は
‡1982(昭和57)年12月18日(土)の倉敷公演から合流するとの事。しかしぼく達はツアー中なので、サックス奏者とスタジオでリハーサルをやっている時間はない。そこで事前に譜面を書いて送り、サックス奏者に覚えて来てもらうことになった。そしてそのサックス奏者用の譜面書き係に任命されたのがぼくだった。ぼくは打ち合わせのため、何度かそのサックス奏者と旅先から電話でやりとりをした。古村と名乗るその人物は、ちょっとぶっきらぼうに喋る口数の少ない男だった。初めて電話で喋った時の印象はなんかコワそう、、、。まだ一度も会ったことが無く、当然顔も知らないわけで、声から受ける印象はちょっとコワい感じがした。なんか取っつきにくそうな奴だなぁ~、と言うのが電話で話した時の正直な感想だった。ツアー途中からの参加、しかもリハーサル無しということで、いきなり全曲に参加してもらうのは無理だとの判断から、古村くんに参加してもらう曲はひとまず下記の8曲になった。
・バックシートラブ
・独立記念日
・ハイスクール・ロックンロール
・壁に向かって
・明日なき世代
・モダンガール
・愛しい人へ
・僕と彼女と週末に ぼくはツアーの移動日に、ホテルの部屋でひたすらサックスのパート譜を書いた。この旅の間、ぼく達は福岡の西鉄グランドホテルに何泊か滞在していた。ぼくは博多の街に繰り出すメンバー達を尻目に、部屋にカンヅメ状態になって譜面を書いた。完成した譜面を福岡から郵送で東京の古村くんに送った。後は彼が譜面と音資料を聴いてくれて、曲をマスターしてくれることを願った。そして
‡1982(昭和57)年12月18日(土)、倉敷市民会館でのコンサートの日がやってきた。この日ぼく達は少し早めに会館入りした。何せ古村くんと音を合わせる時間は本番前の僅かな時間しか無い。しばらくすると、楽屋の廊下を重そうなケースを抱えた一人の男が小走りでやってきた。どうやら彼が古村くんのようだ。早速ぼく達は古村くんと挨拶を交わした。初めて会った時の印象はやっぱりちょっとコワそう、、、。簡単な挨拶を済ますとすぐにリハーサルが始まった。うれしいことに彼はほぼ完璧に曲をマスターして来てくれていた。どの曲も初めて合わせたとは思えないほど、メンバー全員がグッドバイブレーションを感じていた。昨日まで演奏していた曲にサックスが加わったことで格段に勢いと迫力が増した。ぼくはまるでブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドのようだ、と心の中でほくそ笑んでいた。パワフルなサックスが入ったことで、浜田さんもバンドメンバーも一気にテンションが上がり、今夜のショーが始まるのが楽しみでならなかった。その日のステージはとてもエキサイティングで歴史的な一夜となった。古村くんが加わっての初のコンサートが終わり、ぼく達は車で宿泊先の岡山に移動した。市内の中華料理店で、古村くんを囲んでのささやかな歓迎会が行われた。リハーサル~本番と息つく間も無かったので、ようやくみんな彼とゆっくり話をすることが出来た。いろいろと音楽の話などをしていると、古村くんはサックス奏者にしては珍しくロックやプログレが好きだということだった。サックスやトランペット奏者等、いわゆるホーンセクションの方々はジャズやフュージョンが好きな方が多いので、古村くんの音楽の好みを聞いて意外な感じがした。そして古村くんはベースの江澤くんと同じ年の同じ6月生まれだったが、ほんのちょっとの違いでバンドメンバーの中では最年少だった。ぼくとは一つ違いだがほぼ同年代、ちょっと無愛想だけれど、とても気の良さそうなサキソホン奏者とは、きっとこの先長い付き合いになる、ぼくは何故かこの時そんな予感がしていた。
写真◆ぼくが古村くんに送った実際の譜面。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/05/18-19821218.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓1972(昭和47)年12月18日(月) 休戦開始
┃ Christmas Day Bombing ┃1972(昭和47)年12月29日(金) 休戦終了
┗━━━━━━━━━━━━━━┛12/18 北爆・ラインバッカーII作戦開始。ハノイで最も空爆が激しかったクリスマス爆撃はB52戦闘爆撃機150機で12日間以上続き2万トンの爆弾投下、ハノイの繁華街カムティエン通り、アンズオン住宅区、バクマイ病院が全壊、死者1318名ハノイは焼け野原となる。しかし当時米軍が誇ったB52機はベトナム軍の反撃で34機、撃墜された。
映像◆ハノイの戦争遺跡事情 http://youtu.be/oERkje2Rfoo
************ http://www.uta-net.com/song/14681/
http://en.wikipedia.org/wiki/Christmas_Bombing
http://blogs.yahoo.co.jp/michaeleiji/6760531.html
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┃ 1992年 下半期の出来事 ┃
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2017(平成29)年08月11日(金)
今回は1992(平成四)年下半期の出来事です。
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久宝さんのコンサートのスケジュールが一段落した頃、町支さんのツアーのリハーサルが始まった。一緒にツアーを回る町支寛二バンドのメンバーは、
ドラムス:高橋伸之、
ベース:関雅夫、
ギター:水谷公生、
キーボード:板倉雅一、
キーボード:福田裕彦、
サックス:古村敏比古 この6人に町支寛二を加えた計7人。新旧入り交じった浜田省吾バンドのメンバーが集まった。ぼくはベースの関さんと一緒にやるのは初めてだったが、昔から面識はあったので不安は無かった。キーボードの福ちゃんは、浜田さんのレコーディングで一緒だったので以前からよく知っていた。他は長年一緒にツアーを回ったメンバー達だった。サックスの古村くんとは久宝さんのツアーでも一緒だったので、町支さんのバンドでも再び一緒にやることとなって嬉しかった。町支さんのツアーの曲目は、初のソロアルバムからの曲を中心に構成されていたが、他にも何曲かの洋楽のカバーもあった。約二週間程のリハーサル期間を経て、いよいよ町支さんのソロツアーが始まった。
「僕を呼ぶ声」というタイトルの付いたツアーは、
1992(平成四)年10月22日(木)名古屋 愛知勤労会館を皮切りに、
1992(平成四)年11月11日の東京渋谷公会堂までの計7カ所での公演だった。日程は以下の通り。
町支寛二「僕を呼ぶ声」ツアー
1992(平成四)年10月22日(木) 名古屋 愛知勤労会館
1992(平成四)年10月24日(土) 宮城県民会館
1992(平成四)年10月29日(水) 札幌サンプラザホール
1992(平成四)年11月02日(月) 広島アステールプラザ
1992(平成四)年11月03日(火) 大阪厚生年金会館
1992(平成四)年11月05日(木) 福岡電気ホール
1992(平成四)年11月11日(水) 渋谷公会堂 初日の愛知勤労会館のコンサートに浜田省吾さんが来ていた。ぼくは楽屋で約一年半ぶりに浜田さんと再会をした。昨年
1991(平成三)年の2月12日(火)、ぼくは千葉で行われた浜田さんのコンサートを観た。The Fuseを脱退してから初めて観た浜田さんのコンサートだった。自分がステージにいない浜田省吾のコンサート観るのは、
1979(昭和54)年07月01日(日)の新宿ロフト以来だった。ぼくは客席のほぼ真ん中の席で観戦した。浜田さんのコンサートは素晴らしかった。しかしぼくはコンサートを観戦しながら、何とも言えない感情がこみ上げて来た。当たり前のことだが、自分がいた場所に違う人がいて演奏している。自分がいない浜田さんのステージを客観的に観られるようになるまでには、ぼくにまだ時間が必要だった。町支さんのコンサートは中盤にアコースティックコーナーが設けられていて、たしか二曲程洋楽のカバーをやった。一曲はビートルズの「I've Just Seen A Face(邦題:夢の人)」と、もう一曲はCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)の「Find The Cost Of Freedom(邦題:自由の値)」だった。 この二曲の時(ひょっとしたら一曲だけだったかもしれない)、ぼくは自分のキーボードの位置からステージ中央に出て行き、町支さんを真ん中にぼくと水谷さんの三人が高さのあるスツールに座って、横一列に並ぶ編成で演奏した。演奏というかこの二曲に関してはぼくはボーカルだけだった。町支さんと水谷さんがアコースティックギターを弾き、ぼくは楽器を持たず手ぶらで歌った。長いミュージシャン活動の中で楽器を持たないで歌ったのは、この時と後は数える程しか無かった。町支さん、水谷さん、ぼくの三人でのハーモニーは、自分でいうのも何だがなかなか格好良かった。ぼくは歌いながら「CSN&YというよりもまるでGAROみたいだな。」と思っていた。特に「Find The Cost Of Freedom」は、コーラスのみのほぼアカペラで、コーラスワークはとても難しかった。今回の町支さんのコンサートでは、ぼくは浜田さんのコンサートの時よりもコーラスの比重が大きかった。コンサートの後半はフルバンドでの演奏に戻り、アップテンポの曲が中心になって畳み掛けるような構成になっていた。町支さんのボーカルとギターは、浜田さんの時とはまた違った感じでとても素晴らしかった。今回のソロツアーでぼくは改めて、町支さんのボーカリスト&ギタリストとしての素晴らしさを再認識した。
1992(平成四)年11月05日(木)の福岡公演に再び浜田さんが遊びに来た。この日は元チューリップのメンバーで、ぼくの後任のような形で浜田さんのツアーに参加していた姫野達也さんも来ていた。楽屋はとても賑やかになった。92年のコンサートの締めくくりは、
‡1992(平成四)年12月18日(金)に日本青年感で行われた久宝留理子さんのクリスマスライブと、
1992(平成四)年12月24日(木)のクリスマスイブに新宿で行われた山本英美くんのコンサートだった。二つともとても楽しくて素敵なコンサートだった。目の回るような忙しさだった1992年もようやく終わろうとしていた。
写真◆町支寛二1992年のツアーパンフより。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/08/1992.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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