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過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる捕る打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


 広島サンプラザの大規模接種 今週末の接種を中止 予約わずか3人
 2021(令和三)年06月17日(木) 木曜 午後0:06 テレビ新広島
 新型コロナワクチンの大規模接種会場である広島市西区の広島サンプラザで今月19日と20日に行う予定だった接種が中止されることになりました。運営する広島大学病院によりますと、広島市西区の広島サンプラザでは、今月
‡2021(令和三)年06月19日土曜日と
 2021(令和三)年06月20日の日曜日にそれぞれ1日1570人の接種を予定していましたが、予約が2日間合わせてわずか3人にとどまったことから接種を中止するということです。一方、広島市中区の県立総合体育館については予定通り実施されます。この他、この他、接種券を持つ70歳以上の高齢者を対象とした集団接種は、7日午前11時現在、ご覧の会場でまだ空きあるということです。050-3644-7513で電話予約を受け付けているほか、ネットでも予約が可能です。https://www.fnn.jp/articles/-/197489
 https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000010277.html

 コロナ禍の中迎えた「カープ開幕」あの手この手で「盛りあがる!?」
†2020(令和二)年06月19日(金) 20:10 掲載 TSSテレビ新広島 地域 生活 政治・経済 スポーツ カープ 
 (3カ月ぶりに)待ちに待ったプロ野球がついに開幕しました。マツダスタジアム周辺などでも、この日に向けて、様々な準備が進められています。
【加藤アナ】「いよいよ開幕するプロ野球。広島でも鯉戦士たちの活躍する姿がようやくみられます。今年はどんな熱戦が繰り広げられるのでしょうか」新型コロナウイルスの影響でおよそ3か月遅れて開幕するプロ野球…しかし…
【加藤アナ】「マツダスタジアムからほど近いコインパーキングなのですが、あちら、通常であればシーズン中特別料金が設定されるんですが、無観客試合ということもあり、通常料金となっています」感染拡大を防ぐため開幕しても史上初の無観客試合…それでも球場周辺では開幕を盛り上げようとさまざまな準備が進んでいました。おととし、カープが3連覇を果たした際にファンが喜びを分かち合ったこちらの飲食店。当時はキャパシティをはるかに超える人々が詰めかけていましたが、「新たな生活様式」が求められた今年のシーズンはどのように営業していくのか…店を訪ねると…。
【岡村社長】「顔と顔があまり向き合わないような形をとろうと思っている」およそ150人入れる店内を3分の1の50人に減らす新たなレイアウトに変更。さらにプレーボール前には、「感染リスク」の少ないある盛り上げ方法を計画しているといいます。
【岡村社長】「ここだけで盛り上げる予定で、楽団をいれようとしている吹奏楽。それゆけカープとか、プレーボール前にファンファーレとか」しかし、開幕を目前に控えた今、手放しで喜べない複雑な心境です。店では、営業できない期間が続いただけでなく、本来の開幕に合わせて準備していた食材もすべて廃棄となったことから大きな赤字を抱えているといいます。さらにこれまで、目の前の道には「真っ赤な川」のように何万人ものファンが通っていましたが今年は無観客…そのため社長は、営業の仕方を変える決断をしました。
【岡村社長】「料理を少なめにしてドリンクを主体にしようかなと思っている。ズムスタにファンが入るまでは持ち込みOKで料理を持ってきていただいてドリンクを頼んでいただくと。自分たちがやるのはロスにならない食事を用意する。怖いんですよね。仕入れて仕込むのが怖いんですよ」選手の勇姿がやっとみられる喜びの一方で「怖さ」も感じる今回の開幕…去年のシーズン中、野球ファンで賑わっていたこちらのバーでも新たな対策が考えられていました。
【加藤アナ】「こちらのお店はドアノブに触れる前に手の消毒ということで、こちらに消毒液が置かれています、お店に入る前から消毒するんですね」コロナの影響で自主休業を続け、プロ野球の開幕と同時に再開する店内。カウンターやソファーの15席が設けられていますが半数ほどに減らして営業するといいます。
【お店の人は】「やっとみんなで野球が見れるというのにどうしてもその制限事があるのが本当につらいです」1席ずつ間隔をあけて座り客席の消毒や換気を行うほか、客が使ったコップは、1時間ほど消毒液につけ、感染を予防する考えです。
【お店の人は】「大声とか出すのダメなので、もうしぐさでイエーイというか、グータッチとかもできないが、みんなで静かにピョンピョン跳ねていただいて…」誰も経験したことのない「無観客」での開幕…いかに選手とファンが一つになって戦うか新たな時代が幕を開けます。
 https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000006371.html

 尾道ラーメンの老舗「朱さんの店」休業発表で長い行列
 2019(令和元)年06月08日(土) 11時28分 北村哲朗
 写真◆休業を知った客が駆けつけて長い行列ができた老舗ラーメン店「朱華園」=広島県尾道市十四日元町
 広島県尾道市十四日元町の老舗ラーメン店「朱華園(しゅうかえん)」本店が、19日から休業することを決めた。ご当地ラーメンとして尾道のラーメンが広く知られるようになる火付け役となった店で、週末を中心に観光客らの長い行列ができる店として知られていた。「本店は
†2019(令和元)年06月19日(水)よりしばらくの間休業……(福山市の)松永店は
 2019(令和元)年06月18日(火)をもって閉店」。
 2019(令和元)年06月07日(金)朝に店頭に貼り紙が出されると、ツイッターなどSNSで知ったなじみ客らが午前11時の開店前から長い行列をつくった。列の先頭に並んだ三原市の男性(42)は「店の近くで生まれ育ったので、慣れ親しんだ味。いつも2杯食べます。食い納めのつもりで来ました」。対岸の向島に住む40代女性は「見た目は豚の背脂で脂っぽいが、食べると意外とあっさり味なんです」。母親と並んで開店を待ちながら「さみしい」と何度も漏らした。観光客が多い週末になると行列が長くなるので急いで駆けつけたという。同店の「中華そば」は豚の背脂を浮かせたスープと自家製の麺が人気。先代が戦後に屋台で売り始めたのが最初で、創業から70年以上になる。「朱さんの店」として地元で親しまれ、尾道のラーメンが全国的に知られるようになって観光客らが列をなすようになった。(北村哲朗)
 https://www.asahi.com/articles/ASM674HCKM67PITB012.html
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 尾道、最後のラーメンに長蛇の列
‡2019(令和元)年06月19日(水) 初掲載
 2019(令和元)年11月23日(土) 再掲載
 写真◆休業前最後の営業を終え、のれんを下ろす檀上社長
 尾道のラーメン人気の礎を築き、休業を発表していた「朱華園(しゅうかえん)」本店(尾道市十四日元町=とよひもとまち)が18日、営業を終えた。最後の日まで名店の味を惜しむ長い行列ができた。檀上俊博社長(68)は、再開について「体調が戻ることが条件だが、前向きに考える」と述べた。午前10時には100人を超す行列ができ、約30分繰り上げ10時半に開店した。行列の先頭だった川崎市高津区の会社員佐藤淳一さん(53)は、午前6時から並んだ。「この店を訪れるために尾道に来ていた。寂しい思いしかない」と「最後の一杯」をかみしめていた。客だけでなく地元住民も店舗を写真に収める姿が目立った。午後5時すぎに完売。檀上社長はのれんを下ろした後、「たくさんの人に愛されている店だということを再認識した。感慨深さと悔しさがある」と振り返った。自身が体調を崩したことが休業の理由とした上で「再開する場合は後継者や店舗などの態勢も整える必要がある」と説明した。松永店(福山市柳津町)は
 2019(令和元)年06月18日(火)限りで閉店。同店でも長い行列ができた。(村島健輔)
 https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=590691&comment_sub_id=0&category_id=1167
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1954(昭和29)年06月19日(土) 名古屋テレビ塔完成 ⇒ 名古屋市中区の久屋大通公園に名古屋テレビ塔が完成した。高さ180メートル、地上90メートルと100メートルに展望台がある。2005(平成17)年にタワーとして全国で初めて国の登録有形文化財に認定された。写真は15年撮影【時事通信社】※2020(令和二)年説明追加
 1960(昭和35)年06月19日(日) 新日米安保条約が、デモ隊33万人が国会を包囲する中で自然承認
 2000(平成12)年06月19日(月) ナスダック・ジャパン取引開始 ⇒ 大阪証券取引所の株式新市場「ナスダック・ジャパン」が取引を開始。米ナスダックの取引方法を採用し、緩やかな上場基準と厳しい上場廃止基準を特徴とした。ナスダックとの提携解消、名称変更などを経て、2010年「新ジャスダック」に統合された。写真は取引開始直後のナスダック・ジャパン市場【時事通信社】※2020(令和二)年説明削除
 https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=佐藤真一
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‡2016(平成28)年06月19日(日)“神ってる”広島・鈴木誠也が3試合連続決勝弾
‡2017(平成29)年06月19日(月) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は6月19日だ。 
 写真◆“神ってる”鈴木の左はこの試合でプロ1号を放った下水流昂
 いまや球界を代表する人気者となった広島・鈴木誠也。若き四番としてチームをけん引し、6月14日のオリックス戦(マツダ広島)では延長12回裏に劇的なサヨナラ本塁打を放っている。週刊誌のターゲットとなっても気にせず、逆に“もみってる”ポーズをパフォーマンスとしてやってしまう図太い性格も魅力だ。 
 今回は2016年6月19日、まだ1年前で懐かしネタではないが、「オリックス戦、鈴木サヨナラ弾」となれば、これが一番いいだろう。 
 6月18日オリックス戦(マツダ広島)で鈴木は2試合連続サヨナラ弾を放ち、試合後、緒方孝市監督が「いまどきの言葉で言えば、“神ってる”よな」とコメント。一気に流行語となっていくが、その翌19日もすごかった。4対4で迎えた8回に決勝ソロ。2013年に入団し、14年1本、15年5本が全本塁打だった男が早くも10号だ。 
「分からないです、本当に。ホームランなんて狙っていません」と初々しくクビをひねった鈴木だが、その後もバットは湿ることなく、25年Ⅴの功労者の1人となった。 
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1993(平成五)年6月19日(土) 無印の新助っ人、横浜ローズ2試合に4本塁打
‡2018(平成30)年6月19日(火) 8:01 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は6月19日だ。 
 写真◆まだまだ笑顔は初々しい。助っ人としては小柄だった
 バリバリの現役メジャーとして騒がれて来日し、鮮烈な活躍をする外国人選手もいることはいるが、大抵尻切れトンボとなる。 
 理由はいくつもあるが、一つには実力者ほど日本球界を“ナメて”しまうことがある。 
 最初は、スイングスピードのすさまじさもあって、“ノーカン”でもガンガン打ちまくるが、欠点を徹底して攻められたり、勝負を避けられまくると、徐々に焦りが生まれ、ボール球に手を出して凡打を繰り返し、フォームやメンタルのバランスを崩し、調子も上がらなくなる。 
 そうではなく、日本の文化、野球を受け入れる“柔軟性”があるタイプのほうが活躍できる、というのは1つ定説のようにはなっている。 
 そういう意味では、日本球界の8年で1275安打を放ったロバート・ローズは例外的な選手と言えるのか知れない。 
 この男は8年の滞在ながら日本語を覚えようとも、日本文化に馴染もうともしなかった。 
 今回はローズ1年目の話だ。1993(平成五)年、横浜に入団。同時期に入団したブラッグスのほうが、メジャーの実績は遥かに勝り、ローズの評価はさほど高くなかった。 
 それは自身も分かっており、来日時の会見では「試合に出るためにはキャッチャーだってやる」と話したほどだ。 
 この男が開幕から打ちまくり、セカンドの名手と言われた高木豊をサードに追いやってしまったのだから面白い。 
 圧巻だったのが6月19日の広島戦(秋田)だった。1打席目でバックスクリーン右、2打席目でレフトスタンド、3打席目は左中間場外へ。5打数5安打5打点だ。 
「3本目は出そうな予感があった。よかったね」とローズ。 
 1993(平成五)年6月20日(日) 翌日も敗れはしたが、一時は逆転となる12号3ラン。47打点でリーグ打点トップにも躍り出た。 
 同年打点王にも輝いている。日本文化にはなじまなかったが、日本野球にはなじんだ男は、ここからさらに成長していく。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2002(平成14)年06月19日(水) 投手・桑田真澄が初めて代打で登場!
‡2019(令和元)年06月19日(水) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2002年6月18日だ。 
 写真◆代打で登場し、見事にバスターを決めた桑田
 この日、横浜スタジアムで行われた横浜戦、巨人は9回裏に追いつかれて延長を戦うハメになった。迎えた11回表、先頭の松井秀喜が四球を選ぶ。次打者は投手の岡島秀樹。ここで原辰徳監督は一気に勝負に出た。代打である。しかし、打席に立ったのは投手の桑田真澄だった。なぜ? 原監督の答えは明快だった。 
「思いつきじゃない。バスターをやらせたらチームでもトップクラス。桑田も行く気が十分だった」 
 巨人が投手を代打に送ったのは1997年6月17日ヤクルト戦の宮本和知(三振)以来だった。17年目で初めて代打起用された桑田は初球、バントの構えからヒッティング。打球はきれいに三遊間を抜けた。このあと、仁志敏久、清水隆行にタイムリーが出て5対3。勝負は決まった。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170619-01
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180619-01
 ③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190619-10
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1988(昭和63)年6月14日(火) 巨人・呂明賜、鮮烈デビュー
 2018(平成30)年6月14日(木) 7:00 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は6月14日だ。 
 写真◆試合後の呂。右は完封勝利の香田勲男
 ヤクルトのホーナーを筆頭に新外国人がデビュー戦から鮮烈な印象を残すことは少なくないが、このときインパクトは、その中でも屈指と言えるだろう。 
 台湾出身、アジアの大砲・呂明賜(ルー・ミンスー)が、巨人上空に停滞していた梅雨空を吹き飛ばした日だ。 
 1988(昭和63)年6月14日(火)の神宮球場。試合後の巨人のロッカールームは異様な興奮で包まれた。 
「すごいね。驚いた。こんなうれしい日は久しぶりだ」 
 王貞治監督が笑顔いっぱいでまくし立てる。 
 5対0の快勝。ただ、それは勝利の喜びからだけではない。 
 時計の針を戻し、試合前、王監督の表情は暗かった。 
 それも仕方あるまい。なにしろ頼れる主砲クロマティが死球を受け、左手親指を骨折。全治2カ月の診断で首位広島追い上げに燃えるチームに、完全に水を差してしまったのだ。 
 この日のヤクルト戦。初回一死一、三塁で打席に入ったのが、背番号97の呂だった。外国人枠の関係で一軍に上がれなかったが(当時は2人でクロマティとガリクソンがいた)、イースタンでは三冠王と打ちまくっていた。クロマティの代役で昇格し、晴れて一軍初打席だ。 
 ヤクルトのギブソンが投げた2球目だった。独特の大きなフォロースルーで呂のバットが振り抜かれると、打球はピンポン球のように飛び、左翼席上段に飛び込んだ。 
「甘い球が来たから打ったまで」 
 さらりと言った呂だが、そのすさまじい打球は満員の観衆だけでなく、敵味方ナインの度肝を抜いた。 
「やっぱりお客さんが入ったところでプレーがしたかった。入れば入るほど燃えるんです」 
 呂旋風は、この日だけではなかった。
 1988(昭和63)年6月18日(土)に1試合2本、
‡1988(昭和63)年6月19日(日)に1本。
「毎打席ホームランを狙う」の言葉どおり、5試合に4本塁打の量産ペースだ。 
 王監督も「球を打ち崩す感じで打っているのは呂だけじゃないかな。とにかくあのパワーはすごい」とベタボメした。 
 だが、日本投手に研究され、徐々に失速。最終的には打率.255、16本塁打、40打点に終わった。 
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④┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1998(平成十)年07月07日(火) 千葉ロッテ、七夕の悲劇と18連敗の状況
 2018(平成30)年07月07日(土) 7:07 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は7月7日だ。 
 7月07日(火)、七夕のオリックス─ロッテ戦。GS神戸には平日にもかかわらず2万人の観衆が集まり、異様な盛り上がりを見せていた。ロッテの先発は、ここのところクローザーとして起用され、先発は
 6月18日(木)以来となる黒木知宏。ロッテは3対1とリードし、9回裏オリックスの攻撃を迎えていた。黒木の球威は衰えず、先頭のイチローを三振、ニールにライト前ヒットを許すも、谷佳知をファウルフライで二死。続くプリアムも2ストライク1ボールと追い込む。1球外した後の139球目だった。サインどおり、プリアムが苦手なはずの内角低めの速球を投げ込んだが、プリアムがまさかの同点2ラン。黒木はそのままマウンドに崩れ落ち、交代。ベンチ裏で号泣した。そして同点で迎えた延長12回裏にロッテの三番手・近藤芳久からオリックスの広永益隆が満塁サヨナラ弾。試合後、黒木は脱水症状と体力消耗から全身がけいれんし、コーチに抱きかかえられながら無言でバスに向かった。 
 6月13日(土)から始まったロッテの連敗はこれで17。単独のチームワースト記録になった。さらに翌日も破れ、18連敗。ようやく泥沼から脱出したのは、
 7月09日(木)のオリックス戦だった。 ただし、18連敗は決して一方的なものではなく、逆転負け10度、サヨナラ4度と紙一重の試合も多かった。今回は18連敗を簡単に振り返ってみよう。 
‡05連敗 6月19日(金) 日本ハム戦0対7(東京ドーム)※4回終了時0対0も以後7点を取られ、完封負け。 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180613-01
 ④http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180706-01
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.168 ┃  30円
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‡1961(昭和36)年6月19日(月)号“和製ベーブ”野村克也の告白
 2018(平成30)年4月13日(金) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎『これでは稲尾がかわいそう…』
 写真◆表紙は東映勢。左から土橋正幸、水原茂監督、久保田治
 今回は『1961年6月19日号』。定価は30円だ。グラビアでは巻末ページに『ブルーム観客に暴行』の記事がある。6月3日、阪急-近鉄戦だ。スタンドから「ヤンキー・ゴー・ホーム」とやじられた近鉄のブルームが客席に上がって、ヤジを発した男に暴行。ブルームは5万円の罰金、1週間の出場停止処分となった。 
『ホームランを打つのにこの苦労』は、57年にホームラン王を獲得以来、タイトルには、あと一歩で届かないままだった南海・野村克也の話だ。 
「今年はひとつタイトルを狙ってみようと思っているんだ。こんな気持ちになったのは初めてだ」 
 結婚したことも意欲をかきたてた要因のようだった。ただ、ご存じのとおりサッチーの話ではない。昔の週べは家族のエピソードも多いが、離婚された方も多い。注意して書いていこう。 
 投手の酷使話を2つ。 
『これでは稲尾がかわいそう…』は、この年、すさまじい勢いで投げまくっている西鉄・稲尾和久の話。最終的には78試合404イニングに投げ、史上最多42勝を挙げたシーズンだ。ただ、チームとしては稲尾に続く存在がおらず、優勝を逃している。 
 以前書いたように、この年、パは投手の上限を290回に決めていたが、すでに、間違いなく、あっさり抜いてしまうペース。あくまで紳士協定ではあったが……。 
 西鉄・川崎徳次監督は「稲尾は投げれば投げるほどよくなるタイプの投手だ」と言っていたようだが、監督の身勝手さでいえば、中日・濃人貴実監督もすごい。 
 中日はいま新人・権藤博の連投で首位に立っていた。こちらは最終的には69試合、429回3分の1に投げ、35勝を挙げている。『佐々木信也連載対談』に出ていた濃人監督はこう語っている。 
 佐々木 最近権藤の登板回数が増えているんですが、あんな使い方をしてバテやしませんか。 
  濃人 大丈夫ですよ。ノンプロの時代は連投連投で投げ抜いてきたピッチャーですもの。権藤は見かけよりもずっとタフですし、いい根性をしていますわ。 
 低迷が続いていた阪神は、6月6日に金田正泰監督が休養と藤本定義コーチの監督昇格が発表された。 
 以下、宣伝。 
 週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』が好評発売中です。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.473 ┃  60円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1967(昭和42)年06月19日(月)号 長嶋茂雄に代打が出された!
 2019(令和元)年06月03日(月) 16:56 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎村山実の血行障害
 写真◆表紙は左から東映・水原茂監督、大杉勝男
 今回は『1967年6月19日号』。定価は60円。 
 5月27日、中日戦(中日)、不振が続いていた巨人の長嶋茂雄が9回二死で打席に向かう際、川上哲治監督に肩をポンとたたかれ、ひと声かけられると、口を真一文字にし、ベンチに戻った。代打だ。故障などによる途中交代はあったが、体調万全で代打を出されたのは、プロ入り10年目で初めてだったという。 
 投手は右のサイドハンドの小川健太郎、代打は左の森永勝也だった。 
「打てないから仕方がない」と口数少なかった長嶋。川上監督は「疲れでバッティングの視野が狭くなっている。余裕を持たせる意味で代えた」と語っていた。 
 長嶋は不振について、こんなふうに嘆いていた。 
「俺は、明るいうちなら外野スタンドの一番後ろに立っている人の顔が見分けられるが、いまは、目の前のボールが見えないんだ」 
 視力2.0、いや、それだけ見えたら4.0か。オスマン・サンコンさんクラスである。 
 長嶋のライバル、阪神の村山実も苦しみの中にあった。5月31日先発し、4回のマウンドに立ちながら1球も投げず、降板。藤本定義監督に「腕に力が入らない。投げられない」と告げた。右腕の血行障害だった。 
 実際に病院でテストしてみたらしいが、右指の体温が投球前は34度だったのが、75球投げたら30度程度まで下がった。受けた捕手も測ったようだが、こちらはむしろ高くなる傾向にあったようだ。 
 村山は、「投げるだけ投げて、それで腕は折れても悔いはないですよ」と言ってはいるが……。 
 6月2日、不振が続く大洋・三原脩監督からの休養の申し出があり、中部兼吉オーナーが認めた。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180413-13
 ②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190603-01
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.072 ┃ ONLINE
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   【助っ人トンデモ話 No.23】
 代役が巨人で巻き起こした大旋風
 2018(平成30)年3月05日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 呂明賜[1988-91巨人/外野手]
 巨人・呂明賜
 1988(昭和63)年、キャンプ中に来日した呂明賜。台湾関係者は「呂は台湾の最高傑作。日本で名を残してもらわないと、われわれ台湾棒球人の恥となる」と語っていた。世の中的にもNICS(香港、シンガポール、韓国、台湾のアジア新興工業国)商品のブームが騒がれていた時代である。ただ、巨人にはクロマティ外野手、ガリクソン投手と大物選手がおり、二軍スタートを余儀なくされた。 
 しかし1988(昭和63)年6月12日(日)、クロマティが死球を受け、左手親指を骨折。「全治2カ月」の診断が下され、シーズン絶望に。イースタンで絶好調だった呂の一軍初昇格が決まった。 
 1988(昭和63)年6月14日(火)、神宮球場でのヤクルト戦、王貞治監督は初出場の呂を六番スタメンで起用。この日は朝からテレビ3社、新聞3社が密着マーク。打撃練習から強烈なライナーを放ち、三塁を守っていた原辰徳のグラブをはじき飛ばし、「重い、すごいです」と原をうならせた。初打席は初回一死一、三塁だった。ギブソンが投げた2球目、うなりを上げて呂のバットが振り抜かれると、打球はピンポン球のように左翼上段へ飛び込んだ。 
「甘い球が来たから打っただけです」と呂は試合後、落ち着き払っていた。 
 五番に抜擢された
 1988(昭和63)年6月18日(土)の中日戦(ナゴヤ)では1試合2本、
‡1988(昭和63)年6月19日(日)に1本。「毎打席、ホームランを狙う」という言葉どおりの量産体制に入った。
 1988(昭和63)年6月25日(土)にはヤクルト戦(東京ドーム)でサヨナラ本塁打。この時点では9試合で6本塁打のハイペースだ。その後、
 1988(昭和63)年7月06日(水)時点では17試合に出場し、打率.379、10本塁打、18打点でノーヒットは2試合しかなかった。 
 名前の正しい発音は「ルー・ミンスー」。台湾高雄出身で3人兄姉の末っ子。リトルリーグの世界選手権で優勝経験があり、文化大から入団した。台湾ナショナルチームでは四番として通算112本塁打。当時のポジションは捕手で、強肩と粘り強いリードに定評があった。兵役もあったが、体重100キロ以上は免除の項目があり、そこまで体重を増やし、免除され、巨人入りした。 
 その後、勢いは落ちたが、フォローの大きな豪快なフォームもあって、一時は1987(昭和62)年のホーナーに負けない大旋風を巻き起こした。
 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
②┃ プロ野球仰天伝説 No.017 ┃ ONLINE
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 ヘルメットのない時代に帽子に布を縫い込んでいた飯田徳治
 2018(平成30)年1月9日(火) 11:06 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 異名は“ホトケの徳さん”
 写真のように帽子の内側に布を縫い込んでいた飯田
「ケガや病気で試合に出られないのは選手の恥です」と飯田徳治。練習熱心で、正確は謹厳実直、“ホトケの徳さん”の異名があった(本人は「顔がそう見えるだけでしょ。本当は、いろいろありますよ」と言っていたらしい)。 
 堅実な一塁守備と勝負強い打撃で、南海黄金時代に四番にも座り、
 1948(昭和23)年から国鉄移籍後の
 1958(昭和33)年5月24日(土)、試合中にアキレス腱を断裂するまで、連続試合出場記録1246試合も達成している。足も速く、
 1957(昭和32)年には国鉄で盗塁王に輝き、通算でも390盗塁をマークした。 
 とにかく体のケアに気を配り、食事はバランスを考え、酒もほとんど飲まず、麻雀もせず。ベテランになると時間があれば昼寝をしていた。非常に几帳面で夫人に毎日、帰宅時間を告げてから外出し、試合が極端に延びたとき以外は、その時間ピッタリに帰ってきたという。 
 そんな飯田が一番気を付けたのが死球だ。避けるのがうまく、17年間で1965試合に出場しながら死球は20にすぎない。それでも心配だったらしく、写真のように帽子の内側に布を縫い込んでもらい、頭部を守った。もちろん、ヘルメットなどなかった時代の話である。 
 飯田徳治(いいだ・とくじ) 
 1924(大正13)年4月6日(日)生まれ。神奈川県出身。旧制の浅野中から東京鉄道局を経て
 1947(昭和23)年にグレートリング(のち南海)入団。
 1951(昭和26)年から2年連続打点王、
 1952(昭和27)年から6年連続で40盗塁以上。
 1955(昭和30)年にはMVPに。
 1957(昭和32)年に国鉄へ移籍すると、40盗塁で初の盗塁王に。
 1948(昭和23)年から1246試合連続試合出場は当時の最多記録だった。
 1963(昭和38)年限りで現役引退。その後はサンケイ、南海で監督も。
 1981(昭和56)年野球殿堂入り。
†2000(平成12)年6月19日(月)死去。主なタイトルはMVP1回、打点王2回、盗塁王1回。通算成績1965試合、1978安打、183本塁打、969打点、390盗塁、打率.284
 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
③┃ プロ野球仰天伝説 No.179 ┃ ONLINE
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 中畑清の口グセが「絶好調!」になった理由
‡2018(平成30)年6月19日(火) 11:35 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 長嶋監督に「調子はどうだ?」と聞かれて
 巨人・中畑清
 現役時代、中畑清ほど“ジャイアンツ愛”に燃えていた男はいない。
 1976(昭和51)年、駒大からドラフト3位で巨人入団。層の厚い巨人野手陣のなかで、なかなか一軍出場のチャンスに恵まれず、3年間で12試合の出場にとどまった。しかし、
 1978(昭和53)年オフ、レッズとの日米野球でソトから2ラン本塁打。実はクラウンとのトレードがほぼ決まっていたのだが、この一発で“ジャイアンツ中畑”はクビの皮一枚つながった。 
 このころからの口グセが「絶好調!」だ。長嶋茂雄監督に「調子はどうだ?」と聞かれた際、「まあまあです」と答えたら、土井正三コーチに「そんなんじゃ、使ってもらえんぞ。いつも元気よく『絶好調です!』と答えろ」と言われたのがきっかけだったという。翌
 1979(昭和54)年には高田繁のケガもあって三塁の定位置をつかみ、陽気な言動と闘志あふれるプレーで、たちまち人気者となった。そのオフ、「伊東キャンプ」で徹底的に鍛えられ、
 1980(昭和55)年は初の規定打席に到達。しかし同年限りで、プロ入り前からあこがれ続けた恩師・長嶋監督が無念の思いでユニフォームを脱いだ。 
 1981(昭和56)年、大学No.1三塁手と言われた原辰徳が入団。それでも藤田元司新監督は中畑の三塁は動かさず、原をセカンドに回すが、開幕1カ月で中畑自身がケガ。復帰後は一塁に回り、三塁には原が座った。それでも同年の打率は.322。原の代わりにセカンドに入った篠塚利夫の好調もあって、ジャイアンツはリーグ優勝&日本一となっている。 
 その後、一塁のポジションを守り、四番にも何度も入った。レジー・スミスの加入、駒田徳広の成長で外野転向の話が出たこともあるが、そのたびにはねのけ、
 1982(昭和57)年から1988(昭和63)年までは一塁でダイヤモンドグラブに輝いている。三塁に再コンバートされた
 1989(平成元)年はケガもあって出番が激減。それでもくさることなくベンチで声を出し、チームを鼓舞し続けた。 
 引退を決意し、最後の試合は日本一を決めた近鉄との日本シリーズ第7戦だ。6回表に代打で登場し、ホームラン。笑顔でベンチに戻った中畑だが、その後、ベンチ裏に駆け込み、号泣した。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180305-10
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180110-10
 ③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180619-14
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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・H3.5.~ 『創価新報』の「教学講座」で5月1日号から「僧俗を考える」と題し、6月19日号から「仏教儀礼を考える」と題して連載がスタート
 ●核URL●http://sudati.iinaa.net/hamon.html

 

トインビー孫娘ポーリー女史の手記全文
『21世紀への対話』と題された、上・下2巻からなる本がある。イギリスの歴史学者・故アーノルド・トインビー博士と池田大作とが、
1972(昭和47)年5月と
1973(昭和48)年5月の2回にわたって対談した記録――であるという。この本は昭和50年の出版当時から、トインビー博士の名声を利用した、池田のノーベル平和賞へのデモンストレーションではないか、といわれていたもので、さすがにノーベル平和賞は受賞できずじまいであるものの、この本が池田の虚像の宣伝に大きく貢献してきたことは事実である。ところが、この本、後に化けの皮が剥(は)がされ、実際は「トインビー・池田対談」などと呼べるものでないことが明らかとなったばかりか、故トインビー博士の孫娘・ポーリー女史からも、池田大作の実像を衝(つ)く手厳しい批判手記が発表された
1984(昭和59)年5月19日(土)付・英紙『ガーディアン』紙に掲載)その辺の経緯をより世の中に知らしめていくべく、当「被害者の会」では、会結成と同時に、イギリスのポーリー・トインビー女史にコンタクトをとったところ、ポーリー女史より “私の手記の全文を貴会で使うことを歓迎し、かつ貴会の活動の成功を祈る” という返事をいただいたのである
そこで、ポーリー女史の手記全文(和訳での全文発表は初めて)と若干の解説とを併せて掲示する
01■突然の招待と“対談”の評価 /「とりとめもない、内容薄い本」⇒ 日本に着くまでの長い時間、私は祖父の死後に出版された本『生命の選択』※邦題『21世紀への対話』を読みました。この本は祖父と、池田大作という日本の仏教指導者との対談を収録したものです。この対談がなされた時期は、歴史家だった祖父アーノルド・トインビーが85歳の時で、脳出血で倒れる少し前でした。この本は、祖父の著作の中でも最も忘れ去られたような本で、性教育から始まって、汚染、戦争などに至るまで、とりとめもなく長々とした、二人のおしゃべりを収録したものです。数ヶ月前、突然、池田氏のロンドンの代理人から電話があり、“祖父を偲び、また、祖父への感謝の気持ちを現わす意味で、私と夫を日本に招待したい”とのことでした。祖父が死んでから8年も後だっただけに、私達はちょっといぶかしく思ったのですが、これが西洋人には理解のできない、日本人特有の“恩”とか“家族意識”とかいったものなのかもしれない、と思いました。いろいろ考えても、その理由以外、まったく思いつかなかったのですが、この旅行が終わり近づく頃、その意味は次第に明らかになっていきました。西洋からの訪問者が、どちらかというと、めったに見られない、日本の別の一面を見ることができたのです
02■不可解な招待主の歓迎 /「何という大がかりな…」⇒ 私達が東京に着くと、10人以上の人が出迎えてくれて、私と、びっくりしている12歳になる娘ミリーに、大きな花束が渡されました。池田氏からの、長い荘厳な歓迎のメッセージが読まれた後、大きな黒いリムジンに乗せられました。この車は、電動で黒張りとなる窓に囲まれ、車内に敷いた絨毯には、池田氏の紋章が金色の糸で刺繍されていました。ホテルに着くまで、車は行列をなして進みましたが、その途中でも、無線を使って、不可解な招待主(※池田氏)からの新たなメッセージが届けられました。彼が私達に対する招待を、どれほど大がかりなものにしたかが、すぐにわかりました。イギリスの創価学会組織の代表2人が、ロンドンからずっと私達にお伴してきて、ほとんどいつもそばに付いていただけでなく、通訳や運転手、そして雑用をしてくれる人までが付けられました。ホテルの14階から、たくさんの滝と橋と鯉の庭園に目をみはっている私達のもとへ「池田氏は“ご自宅のような気持ちでくつろいでください”と言われています」とか「池田氏は“あらゆるホテルのサービスと36のレストランをご利用いただきたい”と望んでいます」とかいう伝言が、次々と届きました
03■莫大な富と権力を持つ組織/池田の虚像崇める会員達 ⇒ 数日後、この不可解な招待主に会うまでの間に、私達は、池田氏と創価学会について、いろいろわかってきました。なかでも、まず挙げておきたいことは、この組織は、莫大な富と権力と政治力を持っている、ということです。この団体について書かれたある本では、「この大規模な宗教的・政治運動を理解せずに、日本の戦後を語ることはできない」とまで言っています。また、この組織は数々の出版物を出していますが、中には400万部を越える新聞(※聖教新聞)があります。そして、日本において3番目に大きな抱えています。会員数は1000万人で、まだ増え続けています。7000人の学生が学ぶ総合大学、美術館等を有しています。池田氏は、1930年代に創価学会ができて以来、3代目の会長です。組織が飛躍的に大きくなり、力を持ちはじめたのは、彼の代からです。彼は大森のノリ屋の息子で、あまり教育は受けていません。創価学会の青年の長であった32歳のときに、会長に就任しました。そして、いわば伝統的社会からはみ出した人々を集め、組織的に強く団結させ、低中流階級を主とする運動としたのです。昼夜、彼の側近に囲まれていた私達は、彼の名前が畏敬の思いを込めて述べられているのを聞きました。引退したビジネスマンである英国組織の長は、「池田氏は、自らを人間革命した方だ」と語っていました。他の人々は、彼の書物、心、詩、精神、そして彼の撮った写真さえも挙げて、彼を“偉大な存在である”と証言しました。なお、後で、彼の写真の撮り方を見ることができましたが、彼は、側近がフィルム入りのカメラを渡すと、腕を伸ばしてカメラを構え、ファインダーも覗かないまま、適当にシャッターを切っていくのです。その撮り方について質問をすると、側近は「先生は、写真を目で撮るのではなく、心で撮るんですよ」とささやきました
04■次々と示される慇懃な応対 /たわいなく、厳粛な会話 ⇒ とうとう彼と会う夜がやってきました。大きな黒いリムジンで、豪華な本部に入っていきました。入り口はカメラのライトで昼間のように明るくなり、深くおじぎをしたままの側近や信奉者に囲まれて、池田夫妻が立っていました。この予想もしなかった出迎えぶりに、私達は、目がくらみ、ドギモを抜かれました。  私達は、彼のもとに導かれ、小さな丸々と太った手と握手しました。そこに立っていた彼は、背の低い、太った男で、髪の毛は油で固められ、上等なスーツを着ていました。フラッシュがたかれ、映画のカメラが近づき、私達は大勢の人々とともに、白いドレスを着た女性がおじぎをしている列の間を通り、とてつもなく大きな広間へと入って行きました。その大広間には、大きな白いアームチェアーが並べられており、私達は、上座にある、王座のようなイスへと導かれました。イスは私達夫妻に1席ずつ、そして池田氏に一つです。池田氏は英語を話せないので、私達の後ろには、世界中どこへでも彼のお伴をする、若くて美しい通訳が座りました。彼女はマイクの前に座り、私達の一言一言を全て、並んで座っている側近や信奉者達に聞き取れるようにしていました。私達は、次から次へと繰り出される慇懃な応対を受けながら、畏敬と驚きで、唖然としてしまいました。池田氏は「今夜はお家にいるのと同じように、まったくリラックスした気持ちでいてください」とか「この特別な機会を楽しんでください」などと言いましたが、私達は、自宅でのくつろぎなどとは、まったく正反対の精神状態におかれていました。私達は、約30分間、大衆の面前で、シャンパンをグラスの中で揺すり、スモークサーモンを食べながら、ロンドンと東京の天気について、また都市や風景についてなど、とにかくどうしようもないくらい、たわいのない会話をしました。その間、広間に居並ぶ側近達は、厳粛にうなづくのでした
05■崇高さのカケラもない池田 /ゾッとする絶対権力の実像 ⇒ 池田氏の話し方は、傲慢かつ他に恐怖心を与えるもので、彼が話を進め、他の人がそれにうなづき従う、といったものでした。時として、彼が予期しない、一般的でない意見が述べられると、途端に彼の目には厳しい反応が現われ、警告にも似た冷たさが浮かぶのです。私達は、形だけの会話をしながら、この男を観察いたしました。彼は、頭の先からハンドメイドの靴のつま先まで、俗人そのものであり、崇高さのひとカケラも見えませんでした「彼の職業が何か。当ててみろ」と言われても“宗教家”と答えられる人は、ほとんどいないでしょう。私は、多くの有力者と会ったことがあります。それは、首相をはじめ、さまざまな分野の指導者達ですが、しかし、池田氏のように、絶対的権力者の雰囲気をにじみ出させた人物と会ったことはありませんでした。彼は、おそらく長年にわたり、あらゆる自分の気まぐれを押し通し、すべての命令に従わせ、そして、それに対する反論や軋轢に触れないよう、守られてきた人間なのでありましょう。私はめったに恐怖を感じることはないのですが、彼の中にある何かに、私は体の芯までゾッとさせられました。夕食は苦しい体験でした。私達は、伝統的な日本間に通されました。畳に座布団を敷き、池田氏を中心にテーブルを囲みました。テーブルの中央には料理人が入り、熱い油の鍋から天ぷらを揚げてくれるのです「あまり堅苦しい話は、今夜は止めにして、ともかく楽しみましょう」と、池田氏は命令口調で言いました。私達は、耐えがたい、くだらない会話を、まだ続けなければならないのかと、沈痛な気分になりました
06■明かされた日本招待の目的 /“対談集”続編の出版狙う ⇒ 彼は、次第に祖父の思い出話とロンドンでの会談に話を向けました。私には、この、小さな太った体つきの、権力の塊(かたまり)のような男が、ガチャガチャと音のするエレベータに乗って、祖父の薄暗い、ガランとしたアパートの部屋を訪ねた、などということは、思いも及ばないことでした。彼には、どんな食べ物が出されたのでしょうか。祖父のところでは、ハムを薄く切ったものとレタスの葉が日常の食べ物でした「彼(※トインビー博士)はじつに偉大な方でした。」  池田氏は、私の方へ身を乗り出したままの姿勢でそう言い、私をジッと見ました「世界でもっとも偉大な学者です」とも言いました。私は、こうしたコメントが、どこか、よその家族に関する見当違いの話ではないか、との考えが頭をよぎりましたが、すぐに心の奥にたたみ込みました「私の使命は、彼の作品を全世界の人に読んでもらうようにすることです。そのために、あなたも協力してくれるでしょうね」と言われ、私は「ノー」とは言えませんでした「約束しますね? 約束してくれますね?」と言われ、彼が私に何を期待しているのか、不安に思いました「そこで突然、彼は“トインビー・池田会談で、まだ出版されていない部分があり、近いうちに出版にこぎつけられる”という事を明かしました。この旅行の目的の一部が、ここで明らかになった訳です。<注3>その後、私はそれ以上のことを知りましたが……
07■池田の表情が突如一変 /その冷たさ、危険を見抜いた女史 ⇒ また、食事が進む中で、気まずい思いをする瞬間がありました。彼は私達に、「トインビー博士は別れ際に、私にどんな戒めの言葉を与えてくれたとおもいますか?」と質問してきました。考え抜いたあげく、夫が少しヤケ気味に「貪欲であってはならない、ということでしょう」と答えてしまいました。すると池田氏の大きな顔は、氷のように冷たい表情に一変したのです。あたかも武士達でも召集して、私達を外へ引っ張り出すのではないか、とすら思えました。私は慌てて、夫のピーターが言おうとしたのは、例の対談でも、しばしば触れている“人間を支配する利己主義のことについて”のことだ、と説明しました。彼は完全に気を落ちつかせてはいない様子でしたが、その場はそれで過ぎました。
08■顔は引きつり、心は疲労困憊『聖教』に利用された対談の模様 ⇒ 夕食後、私達は、大きなアームチェアーの部屋に戻りました。そして、あり余るプレゼント(※ミリーには、大きな人形と計算機。私達には、真珠、トインビー・池田会談の記念アルバム、トインビー・池田会談のサイン入り本など)を贈られました。やっと神経のひどく疲れる夜が終わりましたが、私達の頬は、ヒビが入ったような感じに引きつっており、心は、わずかばかりの会話や冗談をしていただけなのに、すっかり疲れ果ててしまいました。私達は、白いドレスでおじぎをして見送る女性達の群れと、カメラの前をすぎて、リムジンへと逃げ込むように乗りました。翌日、創価学会の全国紙『聖教新聞』の第1面に、夕食時の私達の写真と対談の模様が載っていました。<注4>記録(録音)されているなどとは、誰も教えてくれませんでした(もっとも、載っているのは主に池田氏の言葉を伝えたもので、私達は、池田氏の支持者のような形で出ているだけだったの、で大したことではありませんでしたが)私達は、さらなる褒め言葉や宴会と、地方の創価学会組織の歓迎を受けるために、京都と広島へ向けて出発しました。
09■学会は非民主的な絶対権力の組織「平和」宣揚も要人との会談も、すべては池田の名声作り ⇒ 広島はあまり楽しい所ではありませんでした。そこは、戦後の平和を願う聖地でした「広島についてどう思いますか。広島について何か言うことはありませんか」と私達は続けて尋ねられました。しかし、展示物を見てショックでしたし、唖然として言葉も出ませんでした。ここには、平和と核の悲劇が二度と起こらないようにとの、祈りを込めた国立の殿堂があり、青く晴れた空に原爆が落とされた、あの日のことや、世界が日本に対して何をしたか、という話などを聞かされます。しかし、そこでは、日本が戦時中にしたかもしれないことについては、一言も、その気配すら語られません。戦時中、広島には主要な軍事基地が一つ存在しており、そこから、ビルマ、シンガポール、中国、韓国を侵略すべく、軍隊が送り出されていました。これらの国々では、いまだに、日本のイメージと平和を結びつけることは難しいでしょう
10■池田創価学会の「平和」はニセモノ池田への集中と、会員集めが目的 ⇒ ある晩、私達は、池田氏がダラスからサンディエゴまでを巡回旅行した際の各地のスタジアムで開かれた第会合の映画を見せられました。鼓笛隊とバトンガールのメンバーと何千人もの人が“SOKA”と“PEACE”の人文字を描き、群衆が金切り声にも似た歓声を上げる中、スポットライトに照らし出された池田氏は、相も変わらぬ「平和」についての演説をしました。いつも「平和」です。人々の心の中に平和を、世界の国々へ平和を、人間同士に友情を等々――これが創価学会のいつも言っていることです。レーガン大統領(※強いアメリカへの回帰を主張した、好戦的イメージの濃い、合衆国第40代大統領)からの、創価学会および池田氏に対する賛辞と、歓迎の意を述べたメッセージが読み上げられると、スタジアム全体はシーンとなりました。その演出効果は抜群で、スタジアムは突然、熱狂的な拍手に包まれました。創価学会は、頻繁に広島の悲惨さを訴える展示会を開きながら、世界中を廻って平和を説いていますが、これは新会員を集める手段として、大いに利用されているようです。私達が「平和を説いて廻りながら、レーガン大統領からの学会支援メッセージを受け入れるのですか。いったい、学会は何を考えているのですか」と尋ねると、口数の少ない池田氏の男性秘書は「レーガン大統領に投票することと、創価学会のメンバーであることは、別に矛盾しているとは思わない」と答えました
11■また、イギリス創価学会の代表者は、すぐに次のように付け加えました「どんな人でも自らを改革していけるのです。レーガン大統領が私達にメッセージを送ったときに、彼もまた命の中を変えることができるということを示した、ということです」と。正直な感想に怯えたメンバー池田は権力と自己陶酔の塊 ⇒ 私達が、とうとう我慢できなくなったのは、広島での会食会のときでした。私達が、創価学会と池田氏との在り方について、その感想を正直に述べたところ、接待役のメンバーは、恐れおののき、その場をなんとかとりつくろって、私達の言葉は最初から聞かなかったかのように振る舞いました。私達は、池田氏との真剣な会見ができるよう頼んだのですが、それが池田氏に取り次がれたとは思えません。私達が最後に池田氏に会ったとき、彼の表情からは、私達の声や要望が伝えられている様子など、まったく見られませんでしたか。池田氏に最後に会ったのは、創価学会設立記念にあたる日で、映画で見たのと同じような、6000人の大会合がありました。鼓笛隊による演奏曲は「ダラス」と「サウンド・オヴ・ミュージック」のテーマ・ソングでした。フィナーレの後、池田氏はスタジアムの中を一周し、しっかり予行演習をしてきたと思われる女子グループが、彼の方に体を傾け金切り声で飛ばす、歓声と賞賛を受けていました。私達はそれっきり彼とは会いませんでしたが、彼からの別れの贈り物を見て、誰も、私達の彼に対する怒りの気持ちを伝えていないことがわかりました。彼は私達に、絹で製本された大きな本をプレゼントしてくれたのですが、それは、本文などなく、ただ296ページにもわたって、彼自身と彼の家族の写真だけが納められた、驚くべきナルチシズムそのものの本でした
12■招待の目的は、さらなるトインビー利用「池田は祖父と親しくなどなかった」⇒ この旅行は、いったい何のためのものだったのか、それは、帰途につくまでに、すべて判明しました。私達は来日中、新聞やテレビのインタビューを受け、夫のピーターは国際情勢について、私は祖父について質問をされました。インタビューを受けるたびに、大衆の目には、池田氏とアーノルド・トインビーの仲が、より親密なものとして映ったと思います。池田氏は、自らをトインビーの、公けの代表的な親友であり、スポークスマンであるかのように見せるため、記事やフィルムを造らせたのです。私は祖父が、日本でどれだけ有名で重んぜられているのかを、まったく知りませんでした。「オーダー・オブ・ライジング・サン」で受賞してから、祖父の著書は全ての大学で必読書となっていました。また、東洋の興隆と西洋の衰退を予言したとして、長い間、彼は日本で崇拝されてきていました。有名な学者によって運営されるトインビー協会もあり、その何人かの人を祖父は昔から知っており、協会では年4回、雑誌も出しております。私の祖父は、日本を訪問した際、まったく池田氏には会っていません。祖父の昔からの日本の友人達も、祖父の最晩年の、どちらかというと漠然(ばくぜん)としたインタビューをもとに、池田氏が大袈裟に祖父の思い出を書きたて、自分のために利用していることに対し、明らかに苦々(にがにが)しく思っていました。
13■これが池田創価学会の実態だ全てが池田の権力と名声のため ⇒ 創価学会は、戦後の混乱期に何かの団体に属し、自己のアイデンティティを得ようとした上昇志向の強い都会人を集め、急成長した新興宗教の一派です。創価学会とは、価値を創造する会という意味で、13世紀の僧侶で現世の利益を主張した日蓮聖人の教えを基礎としています。  また、まったく民主主義的な要素のない、階級支配的な団体であり、池田氏が絶対的権力を手中に握っている組織です。会員には、1日に2度の勤行以外に、ほとんど宗教的かつ倫理的な修行を課してはいませんが、一方、組織内では、ほとんど絶対的な服従のもとで活動に参加することが求められています。池田氏が政党である公明党を作ったことにより、彼がこの権力をどのように使っていくのかを警戒する声をが聞かれはじめました。この警戒感をほぐすため、表向きは、党と創価学会とは分離されましたが、しかし、党の議員は全て創価学会員なのです。この公明党(公明とは、きれいな政治を意味する)は、不可思議で複雑な日本の政治の中で、第3党の地位を占めています。“中道政党”などと呼ばれていますが、防衛・外交・福祉などに関して大多数の同意がなされている日本では“中道”という名は大して意味のあるものではありません。また日本では、25年間、同一政党(※自民党)が政権を担ってきており、公明党――清い政党であろうとなかろうと――、たとえば、田中派の候補者を助け、その代わり田中派は学会のスキャンダルをもみ消して守ってきました。創価学会や公明党を「ファシスト」と呼ぶと、日本の政治を誤解することになります。しかし、その活動は頑なまでに反民主主義の路線で運営されており、絶対的な服従を要求しています。また、そうした国家主義的な面がある一方、非常にアメリカナイズされているところもあります。平和憲法を支持し、日本の再軍備には反対しており、また、他の政党と同様、政権を獲得する意志を持っています。創価学会は国連では非政府組織、いわゆるNGOとして認められておりますが、それは池田氏に大いに利用されています。つまり、“学会の運動は、世界平和を目指すものだ”との認識を弘め、これが、池田氏と世界の要人との会談を容易にしているのです。創価学会創立記念には、各国の大使館から代表者が参列していましたし、フランスの在日大使は主賓として招待されていました。 それ故、日本に影響力を持とうと考えている人は、池田氏の力を無視することはできないのです。事実、彼の本には、ここぞとばかりに、著名人(たとえば、E・ケネディ、J・ガルブレイズ、そして各国の大統領)との写真が、何百枚と並べられています
14■対談集続編の発行は拒絶利用されたことを認める著名人も ⇒ 私達が日本を出発するとき、池田氏の秘書が横に来て「初版で洩(も)れた部分を、池田・トインビー会談の2冊目として出版したいが、その手助けをしてくれるか、どうか」と尋ねてきました。出版および著作権で、何か問題があったようです。また
1985(昭和60)年6月に池田氏がイギリスに行く予定があり、それで何らかの手助けが必要だったようです。それが何だったのかは明らかにされませんでしたが、少なくとも私達を利用しようとしていたのです。私達は、イギリスに戻ってから、池田氏により招待され、また彼の訪問を受けたりした何人かの人物に、電話を架けてみました。尋ねられること自体が不愉快、という明らかな反応を示した人もありましたが、何人かは、池田氏の名声を高めるために利用されてしまったことを認めました。つまり、すべての行事が素晴らしいものであるかのように繕われ、写真が撮られ、そっけない型どおりの会話が、あたかも非常に重要な会談であったかのごとくに取り扱われ、記事にされた、と。私は、祖父の著作を出版しているオックスフォード大学出版(OUP)にも問い合わせてみました。OUPでは、池田氏が、祖父の死後、宣伝のためにトインビー・池田対談の出版をしようと頼んできたが、最初は固く断った、と言っていました。その決断を貫き通せればよかったと思うのですが、池田氏はニューヨークの出版社から出版させることに成功し、OUPも、それに従わざるをえない形になってしまった、ということです。また、保存されているファイルの中には「対談の第2冊目が出版されるかもしれない」といった内容の手紙もありました。OUPによると、原稿は著作者の権利代行者が許可しなければ手に入れることはできない、ということで、祖父の原稿は、オックスフォードのボルドレイアン図書館に保存されていました。  また、私達が日本に滞在中、池田氏の秘書が、イギリスにそっと電話をして、トインビーの原稿について問い合わせていたこともわかりました。これが、私達が日本へ招待された目的だったのではないか、と思います。しかし、OUPの頑なな態度からして、今後、トインビー・池田対談についての新たな本が世に出ることは、ほとんど考えられません 
15■年老いた博士を利用した池田実態見ていれば博士も協力しなかった ⇒ もし、祖父があれほど年老いていなかったら、また、もし祖父が池田氏のあの異様な取り巻きと雰囲気の中で会っていたならば、けっして池田氏に力を貸すようなことにはならなかったと思います。祖父は当時、とても弱っていましたし、人を信じて疑わない、生来からお人好しの性格だったのです。もし、私達の招待旅行が、祖父トインビーと池田氏を、よりしっかりと結び付けようとして企てられたものでしたら、それは、まったくの逆効果に終わったといえるでしょう
http://www.erigonomi.net/erigonomi2.html


 懸垂のバリエーション①⑨選!それぞれ効果がある筋肉部位も解説 
 2019(令和元)年07月20日(土) 
 https://nikutai-kaikaku.info/pullup-variation#19

 あなたは「①⑨世紀のセックス」をどれだけ知っているだろうか?
 例題:ベッドに入る前、生殖器を冷水で洗わなければならない? 
 2018(平成30)年02月12日(月) 17:01
 https://www.buzzfeed.com/jp/sallytamarkin/bathe-ur-genitals-people-1

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