ばりふりっと鳥羽 ~ぬくとまるバリアフリー観光地~

伊勢志摩バリアフリーツアーセンターより、鳥羽市及び伊勢志摩のバリアフリー観光情報を発信しています。

新聞記事に見る昭和の伊勢志摩

2008-04-07 17:09:55 | バリアフリー情報
鳥羽市佐田浜の港湾センターで、
昭和25年から昭和40年の伊勢志摩の出来事が掲載されている新聞記事や、当時の観光・イベントポスターが展示されていました。
この資料は勢志摩国立公園協会・鳥羽ビジターセンターが収蔵していた貴重な資料の数々です。

伊勢志摩国立公園は戦後間もない昭和21年に国立公園に指定されてから60年が経ちます。
これらの資料からは、戦後の復興期から高度経済成長期における伊勢志摩の観光の推移を読み取ることが出来ます。

まずは昭和26年5月27日の新聞
『西日本一の王座 伊勢志摩 訪問客は230万人』とあります。
現在は鳥羽市だけでも年間観光客数は約500万人ですが、
戦後まだ間もない頃、当時の交通手段は国鉄の参宮線と観光バスしかなかったことを思うと、
その数は驚くべきものですね。

新聞記事によると、『一般的に利用が増加した原因は、生活の安定、休日利用の団体旅行の激増によるもの』とありました。


次に目に付いた記事は昭和28年11月25日の記事から
『銅像になった真珠王 功績をたたえて除幕式』

日本真珠業界の功労者、御木本幸吉翁(95)を永遠に称えるため、全国の真珠業者が一千万円(銅像建設費八百万円)を出し合って作った同翁の銅像除幕式が志摩郡鳥羽町真珠島で行われた。とありました。

この銅像は彫刻家北村西望氏作で、長崎の平和祈念像も同氏によるもの。
高さ3.79メートルの御木本幸吉の銅像は、間近で見ると、なかなかの存在感。
(新聞では高さ2尺5寸、重さ650貫。戦後最大級の銅像とありました。単位が尺貫法になっていたのが、時代を感じますね)
聳え立つその迫力は、ご本人の豪快さそのものです。
この真珠王の銅像は現在でもミキモト真珠島で見ることができ、記念写真のスポットになっています。


伊勢志摩は戦後から10年もたたないうちに日本を代表する観光地の一つとして復活していたのですね。
・・・とはいっても、まだまだ観光地としての整備には不備があり、こんな記事も見つけました。
昭和29年8月13日
『これで観光道路とは恥ずかしい
ひどい二見―鳥羽間のデコボコ道』
伊勢志摩への観光客はここ数年特に増え、年間400万人をこえ、静岡、滋賀、愛知、岐阜などから観光バスの群れが訪れ活況をみせているが、二見町江―鳥羽町堅神間剣道3.5キロ(幅7メートル)はまだ予算の関係から舗装されず、観光道路ははづかしきデコボコ道路で遠来客から非難の声が上がっている。(中略)車もスピードが出ず、乗客は車内で座っておれないほどのバウンドが続くという。



また、他にもゴミ問題やトイレの不足、不衛生、接客の悪さなど、激増した観光客に対応しきれていない当時の問題が新聞記事にも扱われていました。

そして時代は高度経済成長期に!
昭和30年 鳥羽水族館開業
昭和34年 イルカ島開業
昭和39年 伊勢志摩スカイライン開通
昭和39年 伊勢湾フェリー 鳥羽ー伊良湖間 就航
昭和44年 佐田浜港が市営定期船の発着港に(岩崎から移動)
昭和45年 近鉄鳥羽駅 開業
昭和48年 パールロード開通
昭和40年後半 安楽島のリゾート開発が本格化 



昭和51年のポスターには、こんなものもありました。
三重交通沿線観光写真コンクール
フレッシュ伊勢志摩 観光写真募集

ファッションが時代を物語ってます。




先日鳥羽駅から水族館までの道で、50代とみられるご夫婦が、
仲良さそうにがっちり手をつなぎながら歩いていらっしゃいました。
なんだか、その姿をみているだけでほほえましくなってくるのですが、
ご主人がある方向を指差して『あっ、思い出した』と叫ばれました。
『思い出した』ということは、以前にも鳥羽に遊びに来てくれたのね。
修学旅行?
それとも初デート??

懐かしさともあれ、その頃と比べて、この町はどう見えるのかな?
整備されて、きれいになったって思ってくれるかな?

そして、また鳥羽に遊びにきてくれるといいな。





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