徳本入滅の寺。
天暁山満徳寺という。寛永3年(1626)の創建。開山春貞、開基秋元三太夫、中興開山徳本行者。本堂は東に面し本尊の聖観世音は木像にして慈覚大師の作と伝える。徳本行者の墓あり、御影石の端垣を二重にめぐらし高さ6メートル余りの五輪塔がある。
当寺は、「神田橋亜相公(一橋治斉)、縁山の大僧正へ向け厚く御頼み有」(『関東蓮華勝会』)って徳本のために再興され、永世捨世道場と定められた。文化14年(1817)12月、一行院新堂が落成、教化を盛んに為し、文化15年9月形見の真影木像を開眼させ、10月6日に自らは滅せられた。一行院再興までの経緯は田中祥雄著「徳本と原町一行院について」(大正大学研究紀要62 1976所収)に詳しい。
戦前までは、現在の徳本研究における根本資料として頻繁に使われる『徳本行者集』の原本や、誕生院本、旧無量光寺本と並ぶ『徳本行者絵伝』(3幅・明治5年)、大奥の女中などから贈られた着物など、徳本ゆかりの品が数多くあったが戦火で失われた。しかし、徳本の形見、木造徳本像は、九死に一生を得、現在も大切に守られている。
所在地;東京都文京区千石1―14―11
図;一行院蔵 西田立慶作徳本上人木像(一行院発行『徳本行者傳全』より)
天暁山満徳寺という。寛永3年(1626)の創建。開山春貞、開基秋元三太夫、中興開山徳本行者。本堂は東に面し本尊の聖観世音は木像にして慈覚大師の作と伝える。徳本行者の墓あり、御影石の端垣を二重にめぐらし高さ6メートル余りの五輪塔がある。
当寺は、「神田橋亜相公(一橋治斉)、縁山の大僧正へ向け厚く御頼み有」(『関東蓮華勝会』)って徳本のために再興され、永世捨世道場と定められた。文化14年(1817)12月、一行院新堂が落成、教化を盛んに為し、文化15年9月形見の真影木像を開眼させ、10月6日に自らは滅せられた。一行院再興までの経緯は田中祥雄著「徳本と原町一行院について」(大正大学研究紀要62 1976所収)に詳しい。
戦前までは、現在の徳本研究における根本資料として頻繁に使われる『徳本行者集』の原本や、誕生院本、旧無量光寺本と並ぶ『徳本行者絵伝』(3幅・明治5年)、大奥の女中などから贈られた着物など、徳本ゆかりの品が数多くあったが戦火で失われた。しかし、徳本の形見、木造徳本像は、九死に一生を得、現在も大切に守られている。
所在地;東京都文京区千石1―14―11
図;一行院蔵 西田立慶作徳本上人木像(一行院発行『徳本行者傳全』より)