現在、皆様が生きておいでになることは、燃えていることです。命が燃えているのです。
現在の文明意識は、機能、構造的にしか考えていません。文明意識で生きていますと、皆様はますます不幸になります。皆様の魂がだんだんスポイルされていくのです。だからできるだけ早く悔い改めて、福音を信じて頂きたいのです。
私は地球ができたこと、そして地球がなくなってしまうことを見通して、お話しているのです。
専門学は目の前のことしか知りません。精神状態がかたわになっているのです。ユダヤ人のトリックにかかっているのです。
皆様はユダヤ人のトリックをご存じないでしょう。これは恐るべき、世界的、歴史的な大犯罪です。ユダヤ人のトリックは、比べものがない、巨大な犯罪です。皆様はその生贅になっているのです。
皆様は今生きている命を、本物だと思っているでしょう。これが間違っているのです。皆様の中に、悪魔が住んでいます。皆様の精神状態の、どこに悪魔が住んでいるのか。悪魔を追い出すことは、死を追い出すことですが、それをするためにはどうすればいいかということです。人間のカルマを追い出すために、どうすればいいかです。
イエスが死を破ったというのは、歴史的事実です。これは、今生きている命の他に、もう一つの命があることを示しているのです。皆様が今生きている命の他に、もう一つ、全く別の、死なない命があることを示しているのです。
例えば、礼儀、仕様、作法がなぜあるかです。これは、普通の生き方ではない、もう一つ別の生き方があることを、示しているのです。礼儀や作法をきちつと守っていけば、何かの形で、魂に係わりがあることを知っている。だから礼儀作法をやかましく言ってきたのです。
日本人は礼儀作法は知っていますが、それが魂とどういう係わりがあるかを知らないのです。今生きていることは何かです。これを本当に生きこなすことができるようになりますと、死なない命を現実に生きこなすことができるようになるのです。
女性は現在のセックスのあり方が間違っていることをうすうす感じているのですが、それなら正しいセックスはどういうものかが、分からないのです。男性は初めから分かりません。女性はそれが何となく間違っていることを知っているのです。礼儀作法とセックスについて、今のあり方が聞達っていることを、知っているのです。
学の本質は何か。例えば地球が存在することの本質が何かを、専門学は説こうとしていますが、結局死んで行くだけなのです。死んでいく人間が造ったものが、専門学です。大学を五つ卒業しようが十校卒業しようが、ただ死んでいくだけです。命の根源を教えずに、生活の方ばかりを教えているからです。魂には何の足しにもならないのです。
弘法大師も伝行大師も、日蓮も親鸞も、命について説いていません。般若心経でさえも、まともに読んだ人はいないのです。五蘊皆空を実行した人はいません。だから皆死んでしまったのです。
般若ハラミタを、実行した人はいないのです。だから、宗教ではない般若心経と言わなければならないのです。
地球が始まって、地球がなくなる時まで、過去、現在、未来を見通すような眼識で見ていかなければ、命の本体は分からないのです。
手が動く、足が動くというのは、天然の生理機能が働いている状態です。呼吸機能は天然の機能です。地球物理がそのまま人間の生理機能になっているのです。
ところが、皆様の心は天然の心ではありません。生理機能は天然の機能ですが、人間の意識で生きている。固有名詞の自分、自我意識の自分がいて、目に見える現象を実体だと考えている。これを肉の思いと言います。肉体的には天然の機能で生きていながら、精神では利害得失の判断ばかりをしています。これが死んでいく原因です。
学問はただ生活の知恵を説いているだけです。いくら学問を研究しても、こんなことは宗教では分からないのです。
人間の生理機能は天然ですが、意識は常識によって考えている。生態と精神がばらばらになっているのです。皆様の五官は、味わう、色や形を見る、香いを嗅ぐとかして、天然自然を見ています。ところが精神的には常識によって自分の都合ばかりを考えている。そのように、人間の生き方が矛盾しているのです。
天然自然を神と言います。日本式に言えば御天道様です。御天道様が皆様の五官の本質です。呼吸機能とか、消化機能は皆御天道様の働きです。
人間は御天道様に基づいて生きていながら、考えていることは、善悪利害ばかりです。人間が死ぬのはあたりまえです。生理機能と心理機能がばらばらになっているのからです。
人間が考えていることで、信用ができるものは一つもありません。現世の常識で考えているからです。現世の常識は、人間が生きている間しか通用しないのです。
天然自然の原理は、死んでからでも通用します。天然自然で生きている命を死んでからも持続させるにはどうすればいいか。皆様の考えを、天然自然と同じものにしてしまえばいいのです。神を信じるとはこういうことを言うのです。
常識は死んでしまう人間が考えたことばかりです。死んでいった人間、やがて死んでいく人間が造ったものです。死にたくないと思ったら、常識をやめるしかないのです。常識を捨てることは、大変なことかもしれません。いくら大変なことでも、死から逃れる方法は、常識をやめるしかないのです。
商売として常識を用いるのはいいのです。商売は命とは違いますから、常識的にすればいいのです。命のことは常識ではまにあわないのです。
人間は天然自然によって生きています。天然自然のものを見たり食べたりしていながら、天然自然のように考えることができないという、決定的な間違いを犯しています、だから、死んで行かなければならないのです。
宗教を信じるというのは、安易な方法です。人間の思いを変えないで、常識を持ったままで信じられると考えるのです。これはだめです。人間の常識は死んでから通用しないからです。
天然の意識は、死んでからでも通用します。花を見てきれいだと思う意識は、死んでからでも通用するのです。人間が常識で判断している善悪利害という考え方は、死んでから一切通用しません。
宗教の信心は、生きている間でも、その宗派内でしか通用しません。天理教の教義は、天理教の中だけでしか通用しませんし、創価学会の教義は、創価学会の中でしか通用しません。私が述べている天然自然の原理は、どこでも通用するのです。カナダでもロシアでも、ヨーロッパ、アフリカでも通用するのです。どこでも、いつでも通用する原理をつかまえなければいけないのです。
皆様は常識で生きるという癖がついていますが、その癖がいけないのです。その癖がどこから来たかを冷静に判断しますと、悪魔が人間の心理構造の中になぜいるかが分かるのです。
皆様はそれをつかまえる方法が、お分りになりません。肉の思いで生きているからです。霊の思いで生きるようになりますと、人間の心理構造のどこに悪魔が住んでいるか、どこをどのように叩けば、悪魔が出ていくかが、分かるのです。イエスはそれが分かつていたのです。
一番間違っているのは、自分が生きていると思っていることです。この考えは無茶苦茶です。自分が生れたと思っている。こんなバカな理屈はないのです。生まれる前に少しでも自分が生れたいと思ったのなら、自分が生れたと言えなくもないのですが、皆様はそう思ったことはありません。
皆様は生れる前には、自分という意識は全くありませんでした。この状態が、永遠の命の原則です。自分という意識は全くなかったが、命はあったのです。この状態を信仰と言います。
イエスは生れる前に、自分はいないという意識を持っていた。それをそのまま持って、この世にやってきたのです。イエスは生れる前に父なる神が分からなかった。生れたことによって、父なる神が分かったのです。イエスの場合、生れたことがプラスになっているのですが、皆様は生れたことが、大マイナスになっているのです。
五官の働きは隠し絵になっているのです。皆様は、隠し絵をご存じでしょう。一見して何が書いてあるか分かりませんが、よくよく見ると、その中に何か目的のものが描かれているのです。絵の中に、別の絵が隠れているのです。
皆様の命は隠し絵です。皆様の命の中に、もう一つ別の命が隠れている。これを見つけたものが勝なのです。
まず、自分がいないことが分かることです。自分がいないことが分かりますと、お正月がきたように、気持ちが変わってしまうでしょう。
神が日本人にお正月を与えているのは、新しく生れることを経験させるためです。欧米人にはクリスマスという状態で、キリストを信じるというチャンスを与えているのです。日本の場合は、年が新しくなるのです。欧米の場合は命が新しくなるチャンスを与えているのです。
どうすれば命が新しくなるか。悪魔が住んでいるのを見つけて、追い出したらいいのです。今まで、こういうことを教える人が、日本にはいなかったのです。五蘊皆空を本当に説明できた坊さんは一人もいなかったのです。般若心経は仏教を否定しています十二因縁とか四諦八正道を否定しているのです。
これは唯識論の中心思想です。仏教の重要な教義を、般若心経は否定しているのです。般若心経は仏教の経典ではないのです。ところが寺は、般若心経を仏教の経典として用いている。全くずぼらな、いいかげんな話です。でたらめもいいところです。坊主が正直に、般若心経を読んでいない証拠です。ですから、宗教ではない般若心経と言わなければならないのです。
皆様は天然自然に生きていながら、常識という不自然な感覚で生きておいでになります。自分の常識で、好き嫌いを判断しています。常識は全部間違っています。これを信じたままで死んでいくのですから、恐ろしいことになるのです。
自分の精神構造を根底から考えるのです。根底から変えるには、どこをどうしたらいいかです。精神構造の働きが、天然自然と同じになればいいのです。甘いものは甘い、辛いものは辛いとなればいいのです。砂糖が甘いという感覚は、地球がなくなってからでも通用するのです。
砂糖が甘いという感覚は、永遠の命の感覚です。お茶を恵んでも、ご飯を食べても、永遠の命を味わっているのです。これが分かると、飲み方、食べ方が変わってくるはずです。皆様の考え方を、天然自然の在り方に合わせていけば、皆様の精神が、天然自然の本質を受け取ることができるようになるのです。そうすると死ななくなるのです。
地球がなくなっても、天然はなくなりません。自然は地球と共に消えてしまいます。太陽も地球もなくなりますから、自然はなくなりますが、天然はなくならないのです。
天然のことを、「おのずから」と言います。「おのずから」の原理が、永遠の原理です。これを勉強しなければならないのです。これは一番確かなことです。ここへ行くしかないのです。すべての人が行きつくところが、天然です。
「おのずから」の知恵が、そのまま永遠の知恵になるのです。その知恵をどのようにして受け取ることができるか。それを受け取るためにどうするかです。人間の常識をどのように変えたらいいかです。
人間が生きていることは、燃えていることです。それを現実に経験しながらハートが燃えないということは、その人のハートが死んでいることを意味しています。
女性が本当に狙っているのは、それをはっきり経験している男性です。白馬に乗った王子様とはそのことを意味するのです。女性の心は人格的ハートと言うべきものです。女性自身では何か分からないが、常識で判断できないものを狙っているのです。
女性は白馬に乗った王子様、シンデレラを狙っているのですが、それは今の男性とは違います。それを女性は知っていますので、心の本質を夫に与えようとしないのです。
現在皆様が生きていらっしゃる命は、本当の命ではありません。もう一つの命を見つけるのです。もう一つ命とは、もう一つの考え方です。肉体は天然自然によって生きていますが、考え方が聞達っています。考え方が天然自然の様になれば、人間は死ななくなるのです。
今の皆様の命は、仮の命です。仮の命を脱ぎ捨てて、本物の命を見つけるのです。皆様の肉体構造は天然自然のあり方になっています。皆様の舌は甘いものを甘いと感じますし、辛いものを幸いと感じます。この舌の感じ方が皆様の常識になってしまえば、皆様は死なないことが分かるのです。
現在生きている命が本物ではないことが分かりますと、病気になっても失望落胆しません。人間はいいことも悪いことも、すべて経験をしているのです。これが命の経験です。病気の経験、恋愛の藍、職場の経験、家庭の経験と、色々な経験をしています。これはすべて本物のたとえです。
人間の生態を考えるといいのです。人間の生態はそのまま魂の働きです。魂がなければ生態は経験できません。
皆様がご自分の生態をよくごらんになりますと、聖書を見なくても分かるようにできているのです。これはなかなか難しいので、よほどの人でなければ分かりませんが、聖書がないからと言って福音が分からないのではないのです。
中国にかつて現われた老子は、分かる知恵を持っていました。イエスより四百年位前に生れていたので、イエスが分からなかったのですが、今生れていれば、はっきりイエスが分かったでしょう。
老子は釈尊と同じ頃に生れていました。同じころにギリシャでは、ソクラテスが生れています。これらの人々は、イエスの半分位は分かつていたようです。
本当の命は、聖書がなくても、イエス・キリストがいなくても、素直になれば分かるようにできているのです。
現在の文明意識は、機能、構造的にしか考えていません。文明意識で生きていますと、皆様はますます不幸になります。皆様の魂がだんだんスポイルされていくのです。だからできるだけ早く悔い改めて、福音を信じて頂きたいのです。
私は地球ができたこと、そして地球がなくなってしまうことを見通して、お話しているのです。
専門学は目の前のことしか知りません。精神状態がかたわになっているのです。ユダヤ人のトリックにかかっているのです。
皆様はユダヤ人のトリックをご存じないでしょう。これは恐るべき、世界的、歴史的な大犯罪です。ユダヤ人のトリックは、比べものがない、巨大な犯罪です。皆様はその生贅になっているのです。
皆様は今生きている命を、本物だと思っているでしょう。これが間違っているのです。皆様の中に、悪魔が住んでいます。皆様の精神状態の、どこに悪魔が住んでいるのか。悪魔を追い出すことは、死を追い出すことですが、それをするためにはどうすればいいかということです。人間のカルマを追い出すために、どうすればいいかです。
イエスが死を破ったというのは、歴史的事実です。これは、今生きている命の他に、もう一つの命があることを示しているのです。皆様が今生きている命の他に、もう一つ、全く別の、死なない命があることを示しているのです。
例えば、礼儀、仕様、作法がなぜあるかです。これは、普通の生き方ではない、もう一つ別の生き方があることを、示しているのです。礼儀や作法をきちつと守っていけば、何かの形で、魂に係わりがあることを知っている。だから礼儀作法をやかましく言ってきたのです。
日本人は礼儀作法は知っていますが、それが魂とどういう係わりがあるかを知らないのです。今生きていることは何かです。これを本当に生きこなすことができるようになりますと、死なない命を現実に生きこなすことができるようになるのです。
女性は現在のセックスのあり方が間違っていることをうすうす感じているのですが、それなら正しいセックスはどういうものかが、分からないのです。男性は初めから分かりません。女性はそれが何となく間違っていることを知っているのです。礼儀作法とセックスについて、今のあり方が聞達っていることを、知っているのです。
学の本質は何か。例えば地球が存在することの本質が何かを、専門学は説こうとしていますが、結局死んで行くだけなのです。死んでいく人間が造ったものが、専門学です。大学を五つ卒業しようが十校卒業しようが、ただ死んでいくだけです。命の根源を教えずに、生活の方ばかりを教えているからです。魂には何の足しにもならないのです。
弘法大師も伝行大師も、日蓮も親鸞も、命について説いていません。般若心経でさえも、まともに読んだ人はいないのです。五蘊皆空を実行した人はいません。だから皆死んでしまったのです。
般若ハラミタを、実行した人はいないのです。だから、宗教ではない般若心経と言わなければならないのです。
地球が始まって、地球がなくなる時まで、過去、現在、未来を見通すような眼識で見ていかなければ、命の本体は分からないのです。
手が動く、足が動くというのは、天然の生理機能が働いている状態です。呼吸機能は天然の機能です。地球物理がそのまま人間の生理機能になっているのです。
ところが、皆様の心は天然の心ではありません。生理機能は天然の機能ですが、人間の意識で生きている。固有名詞の自分、自我意識の自分がいて、目に見える現象を実体だと考えている。これを肉の思いと言います。肉体的には天然の機能で生きていながら、精神では利害得失の判断ばかりをしています。これが死んでいく原因です。
学問はただ生活の知恵を説いているだけです。いくら学問を研究しても、こんなことは宗教では分からないのです。
人間の生理機能は天然ですが、意識は常識によって考えている。生態と精神がばらばらになっているのです。皆様の五官は、味わう、色や形を見る、香いを嗅ぐとかして、天然自然を見ています。ところが精神的には常識によって自分の都合ばかりを考えている。そのように、人間の生き方が矛盾しているのです。
天然自然を神と言います。日本式に言えば御天道様です。御天道様が皆様の五官の本質です。呼吸機能とか、消化機能は皆御天道様の働きです。
人間は御天道様に基づいて生きていながら、考えていることは、善悪利害ばかりです。人間が死ぬのはあたりまえです。生理機能と心理機能がばらばらになっているのからです。
人間が考えていることで、信用ができるものは一つもありません。現世の常識で考えているからです。現世の常識は、人間が生きている間しか通用しないのです。
天然自然の原理は、死んでからでも通用します。天然自然で生きている命を死んでからも持続させるにはどうすればいいか。皆様の考えを、天然自然と同じものにしてしまえばいいのです。神を信じるとはこういうことを言うのです。
常識は死んでしまう人間が考えたことばかりです。死んでいった人間、やがて死んでいく人間が造ったものです。死にたくないと思ったら、常識をやめるしかないのです。常識を捨てることは、大変なことかもしれません。いくら大変なことでも、死から逃れる方法は、常識をやめるしかないのです。
商売として常識を用いるのはいいのです。商売は命とは違いますから、常識的にすればいいのです。命のことは常識ではまにあわないのです。
人間は天然自然によって生きています。天然自然のものを見たり食べたりしていながら、天然自然のように考えることができないという、決定的な間違いを犯しています、だから、死んで行かなければならないのです。
宗教を信じるというのは、安易な方法です。人間の思いを変えないで、常識を持ったままで信じられると考えるのです。これはだめです。人間の常識は死んでから通用しないからです。
天然の意識は、死んでからでも通用します。花を見てきれいだと思う意識は、死んでからでも通用するのです。人間が常識で判断している善悪利害という考え方は、死んでから一切通用しません。
宗教の信心は、生きている間でも、その宗派内でしか通用しません。天理教の教義は、天理教の中だけでしか通用しませんし、創価学会の教義は、創価学会の中でしか通用しません。私が述べている天然自然の原理は、どこでも通用するのです。カナダでもロシアでも、ヨーロッパ、アフリカでも通用するのです。どこでも、いつでも通用する原理をつかまえなければいけないのです。
皆様は常識で生きるという癖がついていますが、その癖がいけないのです。その癖がどこから来たかを冷静に判断しますと、悪魔が人間の心理構造の中になぜいるかが分かるのです。
皆様はそれをつかまえる方法が、お分りになりません。肉の思いで生きているからです。霊の思いで生きるようになりますと、人間の心理構造のどこに悪魔が住んでいるか、どこをどのように叩けば、悪魔が出ていくかが、分かるのです。イエスはそれが分かつていたのです。
一番間違っているのは、自分が生きていると思っていることです。この考えは無茶苦茶です。自分が生れたと思っている。こんなバカな理屈はないのです。生まれる前に少しでも自分が生れたいと思ったのなら、自分が生れたと言えなくもないのですが、皆様はそう思ったことはありません。
皆様は生れる前には、自分という意識は全くありませんでした。この状態が、永遠の命の原則です。自分という意識は全くなかったが、命はあったのです。この状態を信仰と言います。
イエスは生れる前に、自分はいないという意識を持っていた。それをそのまま持って、この世にやってきたのです。イエスは生れる前に父なる神が分からなかった。生れたことによって、父なる神が分かったのです。イエスの場合、生れたことがプラスになっているのですが、皆様は生れたことが、大マイナスになっているのです。
五官の働きは隠し絵になっているのです。皆様は、隠し絵をご存じでしょう。一見して何が書いてあるか分かりませんが、よくよく見ると、その中に何か目的のものが描かれているのです。絵の中に、別の絵が隠れているのです。
皆様の命は隠し絵です。皆様の命の中に、もう一つ別の命が隠れている。これを見つけたものが勝なのです。
まず、自分がいないことが分かることです。自分がいないことが分かりますと、お正月がきたように、気持ちが変わってしまうでしょう。
神が日本人にお正月を与えているのは、新しく生れることを経験させるためです。欧米人にはクリスマスという状態で、キリストを信じるというチャンスを与えているのです。日本の場合は、年が新しくなるのです。欧米の場合は命が新しくなるチャンスを与えているのです。
どうすれば命が新しくなるか。悪魔が住んでいるのを見つけて、追い出したらいいのです。今まで、こういうことを教える人が、日本にはいなかったのです。五蘊皆空を本当に説明できた坊さんは一人もいなかったのです。般若心経は仏教を否定しています十二因縁とか四諦八正道を否定しているのです。
これは唯識論の中心思想です。仏教の重要な教義を、般若心経は否定しているのです。般若心経は仏教の経典ではないのです。ところが寺は、般若心経を仏教の経典として用いている。全くずぼらな、いいかげんな話です。でたらめもいいところです。坊主が正直に、般若心経を読んでいない証拠です。ですから、宗教ではない般若心経と言わなければならないのです。
皆様は天然自然に生きていながら、常識という不自然な感覚で生きておいでになります。自分の常識で、好き嫌いを判断しています。常識は全部間違っています。これを信じたままで死んでいくのですから、恐ろしいことになるのです。
自分の精神構造を根底から考えるのです。根底から変えるには、どこをどうしたらいいかです。精神構造の働きが、天然自然と同じになればいいのです。甘いものは甘い、辛いものは辛いとなればいいのです。砂糖が甘いという感覚は、地球がなくなってからでも通用するのです。
砂糖が甘いという感覚は、永遠の命の感覚です。お茶を恵んでも、ご飯を食べても、永遠の命を味わっているのです。これが分かると、飲み方、食べ方が変わってくるはずです。皆様の考え方を、天然自然の在り方に合わせていけば、皆様の精神が、天然自然の本質を受け取ることができるようになるのです。そうすると死ななくなるのです。
地球がなくなっても、天然はなくなりません。自然は地球と共に消えてしまいます。太陽も地球もなくなりますから、自然はなくなりますが、天然はなくならないのです。
天然のことを、「おのずから」と言います。「おのずから」の原理が、永遠の原理です。これを勉強しなければならないのです。これは一番確かなことです。ここへ行くしかないのです。すべての人が行きつくところが、天然です。
「おのずから」の知恵が、そのまま永遠の知恵になるのです。その知恵をどのようにして受け取ることができるか。それを受け取るためにどうするかです。人間の常識をどのように変えたらいいかです。
人間が生きていることは、燃えていることです。それを現実に経験しながらハートが燃えないということは、その人のハートが死んでいることを意味しています。
女性が本当に狙っているのは、それをはっきり経験している男性です。白馬に乗った王子様とはそのことを意味するのです。女性の心は人格的ハートと言うべきものです。女性自身では何か分からないが、常識で判断できないものを狙っているのです。
女性は白馬に乗った王子様、シンデレラを狙っているのですが、それは今の男性とは違います。それを女性は知っていますので、心の本質を夫に与えようとしないのです。
現在皆様が生きていらっしゃる命は、本当の命ではありません。もう一つの命を見つけるのです。もう一つ命とは、もう一つの考え方です。肉体は天然自然によって生きていますが、考え方が聞達っています。考え方が天然自然の様になれば、人間は死ななくなるのです。
今の皆様の命は、仮の命です。仮の命を脱ぎ捨てて、本物の命を見つけるのです。皆様の肉体構造は天然自然のあり方になっています。皆様の舌は甘いものを甘いと感じますし、辛いものを幸いと感じます。この舌の感じ方が皆様の常識になってしまえば、皆様は死なないことが分かるのです。
現在生きている命が本物ではないことが分かりますと、病気になっても失望落胆しません。人間はいいことも悪いことも、すべて経験をしているのです。これが命の経験です。病気の経験、恋愛の藍、職場の経験、家庭の経験と、色々な経験をしています。これはすべて本物のたとえです。
人間の生態を考えるといいのです。人間の生態はそのまま魂の働きです。魂がなければ生態は経験できません。
皆様がご自分の生態をよくごらんになりますと、聖書を見なくても分かるようにできているのです。これはなかなか難しいので、よほどの人でなければ分かりませんが、聖書がないからと言って福音が分からないのではないのです。
中国にかつて現われた老子は、分かる知恵を持っていました。イエスより四百年位前に生れていたので、イエスが分からなかったのですが、今生れていれば、はっきりイエスが分かったでしょう。
老子は釈尊と同じ頃に生れていました。同じころにギリシャでは、ソクラテスが生れています。これらの人々は、イエスの半分位は分かつていたようです。
本当の命は、聖書がなくても、イエス・キリストがいなくても、素直になれば分かるようにできているのです。