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動物倫理及び環境倫理の背景思想としての仏教の可能性ー1

2023-06-22 00:01:06 | 日記

 今回は、仏教が今後の人類社会に対して果たしうる役割について考察した学術論文をアップする事にします。論文なのでちょっと長いですが、お時間のある時にでもじっくり読んで頂ければ幸甚です。


目  次

序 章

第1章:欧米で生まれた「動物倫理」と「動物福祉」政策の世界的な広がり

第2章:同時期に生まれた「環境倫理」とその課題

第3章:仏教における不殺生戒と慈悲の意味と位置づけ

第4章:原始仏典に説かれる慈悲の大切さ

第5章:大乗仏教で重視される慈悲とその前提となる無分別智

第6章:仏教国における慈悲の思想の思想的及び現実的影響の歴史と現状

第7章:仏教は「動物倫理」及び「環境倫理」の背景思想に成り得るか?

終 章

序 章

 「人間のみならず動物など生きとし生けるものを含めた他者は何故大切にされなければならないのか?」という、根源的な問いは、古来、さまざまな哲学・宗教によって論究されて来た。
 特に20世紀の後半以降、動物倫理や環境倫理という動物や植物を保護するための思想や活動が、世界的な拡がりを見せつつある。
 仏教においては、その答えは、仏に成る為の前提条件であるとされる「無分別智」に求められると本論考では考察する。
 その理由は、そもそも無分別智とは自と他の区別・分別を超えた境地に至る事であり、その境地を実践を通じて体現しようとするのが菩薩行である事、そして、菩薩にとっては、他者の苦しみや喜びはそのまま自分の苦しみ・喜びであり、その他者とは人間のみならずあらゆる生きとし生けるものを意味していると考えられるからである。
 仏教が不殺生をあらゆる戒律の一番目においているのも、仏の境地から見れば、自他の分別も人間とそれ以外の生き物の分別も無く、全ての生きとし生けるものが平等に大切にされるべき対象であると観ずる仏の無分別智が反映されているからであると考えられる。
 この様な不殺生戒の背景にある、全ての生きとし生けるものが平等に大切にされるべき対象であるという思想こそが、近年欧米を中心に意識されるように成って来た「動物倫理」の先駆的なものである。また、この無分別智を前提とする平等観こそが、あらゆる生きとし生けるものに対する最大限の配慮を要請する「動物福祉」や更には「環境倫理」の理念的根拠にも成り得るはずである。
 従って、この無分別智を前提とする仏教思想における慈悲の概念の更なる研究は、現代の「動物福祉」「動物倫理」そして「環境倫理」の世界的潮流にも少なからず寄与しうるはずのものであると思われる。
 欧米において、人間と動物のあるべき関わり方を問い直す研究分野として「動物倫理」というテーマが本格的に意識されるように成ったのは20世紀中頃以降である。しかるに東洋では、仏教やジャイナ教などに於いて2千数百年前から絶対不殺生の考え方が存在し、古くはアショーカ王の勅令や近年では徳川綱吉の生類憐みの令などの仏教思想に基づく法令化の例も見られた。しかし、いずれの場合も、近現代の欧米化の波の中で、インドなどに於けるジャイナ教徒などの一部の例外を除けば、すっかり過去のものと成った感があり、むしろ欧米における「動物倫理」研究やビーガン運動が逆輸入される形で、日本でも「動物倫理」というテーマが近年少しずつ意識される様に成り始めている。
 しかし、仏教では、釈尊による開教当初から不殺生戒は最重要の戒律であり、それは、仏に成る為の前提である無分別智の境地が反映されたものと考えられ、仏を目指す菩薩にとっても、自他の区別・分別を超えて全ての他者を平等に大切にすることこそが菩薩行の根幹であったはずである。
 だが、仏教における不殺生戒の意義やそれと無分別智との関係についての研究や更にはそれらと昨今の欧米における動物倫理思想との関係性についての研究は、現状では充分になされているとは言えない状況にある。
 日本での、動物倫理研究は一ノ瀬正樹博士や伊勢田哲治博士らによって先駆的研究がなされ、ここ数年の間に漸く関連書籍も相次いで出版されるようになった。しかし、一般社会に於ける認知度は未だに殆ど無いと言っても過言ではあるまい。
 更に、この動物倫理の問題は、欧米における法整備進展と畜産業界の在り方の改革に大きな影響を及ぼしているのにも関わらず、日本においては、法整備の点においても畜産業界の在り方においても大幅に遅れており、それどころか、上記のような欧米における潮流を警戒した日本の鶏卵業界による法整備の阻止を狙った農林大臣への贈収賄事件【注】が起きるなど、その後進性が著しいと言わざるを得ない。
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 【注】大手鶏卵生産会社「アキタフーズ」は、吉川農林水産大臣に、2年
  間に渡って現金500万円の賄賂を渡したなどとして、贈賄などの罪に問
  われ、大臣も辞任し、収賄罪に問われた事件。2021年10月6日の
  「アキタフーズ」の元代表秋田善祺被告に対する判決で、東京地方裁判
  所の向井香津子裁判長は「国際的な飼育環境の基準『アニマルウェルフ
  ェア』の考え方をもとにした飼育方法が採択されれば、養鶏業者の経営
  が壊滅的な打撃を受け、卵の安定供給にも悪影響が生じると懸念し、現
  職の大臣に現金を渡すことで、重要な政策判断に強い影響を及ぼそうと
  した」と指摘した。

 また、近年、世界中の畜産動物の排出する放屁やゲップに含まれるメタンガスの温室ガス効果が人間の産業活動による二酸化炭素以上である事が分かり、環境問題の視点からも食肉習慣そのものの廃絶が必要であるとの認識が広がりつつある。
 人類による森林伐採と環境破壊により、人間の存続そのものが危ぶまれるようになり、環境倫理の問題が論じられるようになったのも、1970年代初頭であり、上述の動物倫理の問題が提言されたのとほぼ同時期である。しかし、日本においては環境倫理の問題は比較的早くから論じられるようになったが、動物倫理の問題は殆んど論じられてこなかったようである。欧米においては、動物倫理も環境倫理も1970年代初頭以降ほぼ同時期に論じられるようになった。
 だが、動物倫理においては植物などの森林保護の問題はなおざりにされる傾向があるのに対し、環境倫理においては、その急先鋒であるディープエコロジーや生命中心主義においてさえ、人間の生存の為の肉食は容認するなど、双方がそれぞれの不徹底さを批判し合う状況にある。動物も植物も含めた、生きとし生けるものすべてを徹底的に大切しようとする倫理思想は未だに登場し得ていないと言える。
 このような動物倫理と環境倫理の現状を見るにつけ、今や動物倫理における世界的な後進状態にある日本ではあるが、本来は世界中から仏教国であるとみなされている。そうであれば、動物倫理や動物福祉、更には環境倫理においても思想的先進国であっても良いはずだ。事実、仏教の学術研究も仏教教団の活動も盛んであることを考えると、今後は仏教思想に基づく数多くの学術研究と活動を持って、動物倫理や動物福祉さらには環境倫理に関する様々な提言をなしうるはずであると考える。
 このような現状を踏まえ、本論考においては、欧米における「動物倫理」及び「動物福祉」の背景思想の現状を検証し、その問題点と課題を明らかにし、更に、同時期に提言され始めた植物を含めた環境の保護を訴える環境倫理学の現状と課題を概観し、それら双方の不備な点を補い統合しうる哲学が仏教思想に存在する事を明らかにしたい。
 その為には、先ずは不殺生戒の重要性と、その根拠となる慈悲の意味と教義全体における位置づけを再確認する。そして、それが、仏の境地に至る為の大前提であるとされる、全ての生きとし生けるものが平等に大切にされるべき対象であると観ずる無分別智とその帰結としての平等観に依るものであること、そして、その実践こそが本来は仏教の最重テーマであったはずであることを確認する。しかし、歴史上でもそれが中心的に実行されたことはあまり無く、その思想も広く普及しないまま、現状の日本の動物倫理と環境倫理の後進状態に帰結している現状を概観する。
 そのような現状を打破する為にも、今一度、かつて釈尊が説かれた慈悲の重要性とそれに基づく不殺生戒の意味を問い直し、そこから導き出される思想こそが、今後の世界の動物倫理や環境倫理の背景思想として大きな役割を果たしうるものである事を確認する。
 更に、最大の問題として、そのような本来あるべき理想や理念をそのままでは実行することができない人間存在の根深い利己性に目を向ける。そこから、仏教が説くところのその根深い利己性の自覚と克服への努力と全ての他者に対する究極の謙虚さを学ぶことこそが、今後の人類が、本当の意味で動物福祉と環境問題解決を実現していくうえでのカギになる事を検証する。

第1章:欧米で生まれた「動物倫理」と「動物福祉」政策の世界的な広がり

 1975年、オーストラリアの哲学者ピーター・シンガー(Peter Singer)が『動物の開放』(Animal Liberation: A New Ethics for Our Treatment of Animals)という本を出版した。シンガーは、「人間の平等の土台となる倫理的原則が、平等な配慮を動物にも拡張することを私たちに求めている理由」①として「平等の基本原則は同一の扱いを要求するわけではない。平等な配慮を要求するのである。」②とし、更に「この平等原則が暗に示しているのは、私たちの他者への関心や、他者への利益を配慮に入れようとする意図は、他者がどんな存在であるか、どんな能力をもっているか、といったことに依存すべきではないという事である。」③と述べ、結論として「他者の利益を考慮に入れるということは、平等の原則によって、黒人であれ白人であれ、男性であれ女性であれ、ヒトであれその他の動物であれ、すべての生きもの(being)へと拡張されればならない。」④としている。
 そして、「もしある当事者が苦しむならば、その苦しみを考慮に入れることを拒否することは道徳的に正当化できない。当事者がどんな生きものであろうと、平等の原則は、その苦しみが他の生きものの同様な苦しみと同時に――大ざっぱな苦しみの比較が成り立ちうる限りにおいて――考慮を与えられることを要求するのである。」⑤「だから、感覚 (sentience) をもつということ(苦しんだりよろこびを享受したりする能力を厳密に表す簡潔な表現とはいえないかもしれないが便宜上この感覚という言葉を使う)は、その生きものの利益を考慮するかどうかについての、唯一の妥当な判断基準である。」⑥とした。
 つまり、シンガーは人間の平等の土台となる倫理原則に則れば、必然的に感覚を持つ全ての生き物に対して苦しみを与えることは、その倫理原則に反する事になるはずであるという結論に達し、あらゆる動物に対して苦しみを与える人間の行為を糾弾しはじめたのである。そして、人間に対する倫理原則を、他の動物にあてはめようとしない大多数の人間は、人間以外の動物は人間とは違う種族であるという理由だけで、それら動物達の苦しみ対する配慮をしようとしない、そのような態度をシンガーは種差別 (speciesism) であるとして問題提起している。
 特に、動物実験と食用家畜の飼育は動物に苦しみを与える最たる行為であるとし、種差別の典型であるとした。そして、シンガーは第2章全編に渡って動物実験の様々な具体例とその悍しいほどの残酷さを詳述し、続く第3章では食用家畜の飼育の現状とその残酷さを衝撃的に紹介している。
 そして、そのような人間としての最大の欺瞞である種差別とそれによって平然と行われている何億もの動物に対する非道で残酷な行為に加担しないためには、ベジタリアンになる事とその有益性を続く第4章で詳細に述べている。
 そして、第5章では、今日のような種差別と人類による動物の利用の正当化の背景には、ユダヤ教と古代ギリシャ思想とそれを引き継ぐキリスト教の影響が少なくないことを指摘している。
 つまり、伝統的な西洋哲学はギリシャ的あるいはキリスト教的な世界観・人間観の延長線上またはそのアンチテーゼとして展開してきたと言えるが、シンガーの思想は、世界や人間や動物を創造したとされる創造主の意志や働きを全く前提とせずに、純粋に人間と人間同様に苦しみを感じうるあらゆる生きものとの間に、配慮すべき対象としては一切の差異を認めず、平等な配慮がなされるべきであると考えている。その点で、同じく人間と人間以外の感覚を持つ生きとし生けるものとの間に、配慮すべき対象としては一切の差異を認めない仏教の基本姿勢と相通じる点があるように思われる。ただ、その近似性と根本的な違いについては、別項で改めて検証することにする。
 いずれにしても、シンガーの様な、欧米の思想家がそれまでの一神教的な世界観・価値観から完全に一線を画す視点から、人間が人間以外の苦しみを感じうる全ての生きものに対して、人間に対するのと同等の配慮をすべきであるという主張と、そのような配慮が無い、種差別の結果としての実験動物や食用家畜の飼育の残酷さの現状の痛烈なる告発は、多くの人に衝撃を与えた。
 シンガーは最終章でこう述べる。「私たちは、人間が、利害に対する平等な配慮が私たちとあらゆる生き者 (being)との関係を律するべきであるという基本的な道徳原理に反して、いかに些細な目的からヒト以外の動物に苦しみをあたえているかをみてきた。そして、各世代の西洋の思想家たちが、人間がこうしたことをする権利を擁護しようとしたのをみてきた。この最終章では、スピーシスト(種差別)的な慣行が今日維持され、促進されているやり方のうちいくつかと、今もなお動物の奴隷制を擁護するために使われているさまざまな議論や口実を、みていこうと思う。」⑦ シンガーは更に次のように言う。「現代人は、動物に対する基本的な態度を変更しなくても、動物のおかれた状態をいくらか改善することができる程度の博愛心はもっている――ただし改善は非常に選択的になされる――が、これらの改善は、私たちがヒト以外の生物を人間の目的のために無慈悲に搾取することを容認する根本的な立場を変えないかぎり、つねに浸食される危険にさらされるであろう。二〇〇〇年以上つづいた西洋思想の動物観の伝統とラディカルに決別することによってのみ、私たちはこの搾取を廃絶する堅固な基礎をうち建てることができよう。」⑧
 そして、現代人が今なお肉食を続ける最大の理由は、人間にとって肉食は必須であるという誤った考えであり、その誤った考えを幼少期から子供に植え付けていることであるとしている。しかし、実際には植物性たんぱく質のみで充分に栄養は取れるし、実際にベジタリアンの現役有名運動選手が数多くいて運動能力面でも健康面でもむしろ肉食選手以上の状態である事が示されている。
 更に、食肉用動物(牛)に与える穀物や豆類をそのまま人間が食べれば、エネルギー効率は1/17以下で、言い換えれば、同一面積での穀物や豆類の収穫量の1/17のみが食肉に転換されており、それが世界的な食糧不足と飢餓の大きな原因になっていることも指摘する。
 また、世界中の何億匹もの畜産動物の放出するゲップやオナラにはメタンガスが含まれており、その温室効果は全産業の2酸化炭素の温室効果を上回っているという研究成果も紹介している。
 つまり、食肉習慣を止めることは、残酷な動物虐待を終わらせるだけでなく、人類の食糧危機の回避と地球温暖化の歯止めにも欠かせないことをシンガーは示す。
 1975年に初版が発刊されたシンガーの『動物の開放』は、大きな反響を呼び、世界中で実験動物や畜産動物に対する虐待行為を告発する運動が広がり始めた。それまでは、殆どの人は実験動物や畜産動物の実情については何も知らされていなかった。むしろ、敢えて目を背けてきたと言っても過言ではない態度をとり続けてきたのかもしれない。このような状況に対して、この本は数々の動物に対して実際に行われている身の毛もよだつような非情で残酷な行為を、目を覆いたくなるほど具体的に執拗に次から次へと実例を挙げて、読者にとっては逃げ場も言い訳の余地も無くなるほど突き付けてくるのだ。その為、この本を読んだ後でも何も行動を起こさずにいられる人の方が少ないと思われるほど、この本のインパクトは絶大であったものと思われる。
 この本はその後40数年に渡って版を重ね、その間、この本に触発されて世界各国で制度化され始めた「動物福祉」政策は、今や先進国では当然のことのように施行されて、結果的に我が国日本が先進国の中では最も制度化が遅れる状況に陥っている。
 2009年度版への序文でシンガーは1975年に初版が発行されて以来、この本が彼の予想以上に大きな反響を呼び、その反響の具体例を次の様に列挙している。「1980年代には、動物問題市民運動の圧力にのもとで、化粧品会社は動物実験の代替法の開発に資金を投じ始めた。動物を使わない商品試験方法の開発は、いまや科学界において独自の推進力を得てきており、用いられる動物の数を減らすことに寄与することになっている。産業界による「毛皮の復権」の主張にもかかわらず、毛皮の売り上げはまだ1980年代――この時期に動物問題市民運動が毛皮を活動の標的にし始めた――のレベルにまで回復してはいない」⑨「産業動物にとっての最初の突破口は、欧州でやってきた。スイスでは、本書の第三章で描いたような、産卵鶏のバタリー・ケージ(著者注:殆ど身動きが出来ないような狭い金網の檻に雌鶏を閉じ込めてひたすら餌を食べて卵を産ませる養鶏方法で、日本の殆ど養鶏場は今でもこの方法をとっており、この方法を禁止する法律を作らないように、養鶏会社が農林大臣に賄賂を渡したかどで農林大臣が辞任したのが本論冒頭で紹介した事例。)のシステムは、1991年の終わりに禁止された。雌鶏が羽を伸ばすにはあまりに小さな針金のケージに詰め込める代わりに、スイスの養鶏業者は、わらやその他の有機材料でおおった床の上で生活ができ、保護された床のやわらかい巣箱に卵をうめるような小屋に鶏を移すのである。ひとたび、スイスがそのような改革が可能であることを示すと、バタリー・ケージへの反対論が欧州をおおいつくし、27の加盟国とほぼ5億人の人口を擁する欧州連合 (EU)が、標準的な裸の針金のケージを2012年までに廃止して、雌鶏により広い空間と、休む場所へのアクセス、卵をうむ巣箱を提供することに同意したのである。」⑩
 更に、仔牛や雌豚を身動きがとれない木枠にずっと閉じ込めておく飼育法が1990年には英国ではすでに禁止され、今では欧州連合でも全面禁止されている事、米国でも2007年には禁止され始め、2017年までには全面禁止されることになった事、更には多くのシェフや食料品店や仕出し屋が、残酷な環境で飼育された豚や鶏や卵を使用しないと宣言したり、2008年にはカリフォルニア州でバタリー・ケージが2015年までに全面禁止されることが決まったことなどを列挙している。
 このように、1975年にシンガーが『動物の開放』という衝撃的な本を出版して以来、欧米では人間の動物に対する扱い方の見直しを求める世論が一気に噴き出し、それが大きな世論の潮流となって今日の「動物福祉」の為の法制化として結実していく中、日本はそのような国際的な流れの埒外にいるままで、「動物福祉」などという言葉すら聞いた事が無い人が殆どであった。そして、欧米の活動家たちによる反捕鯨や反イルカ漁運動などに対しても、日本人の典型的な反応は「欧米人は牛や豚を平気で殺して食べているのに鯨やイルカだけを特別扱いするのは矛盾している」というものであった。しかし、欧米の反捕鯨運動は、上記のような人間の動物に対する残酷な扱いを見直す運動の一環であって、反捕鯨運動家達は当然ながら反畜産と反実験動物主義者でありベジタリアンかビーガンなのであった。
 このように、日本の世論は、動物福祉を重視し始めた欧米の国際世論の潮流から大きく乖離した状態で、挙句の果てに上述の様な養鶏会社による農林大臣への賄賂事件の不祥事なのであるが、日本の現状の最大の問題点は、殆どの日本人がこの賄賂事件の背景すら全く理解できないままであることである。
 国際的に日本は仏教国であると見なされているが、現在の日本は、明治の文明開化以降、欧米の生活様式と産業構造が輸入されて、急速に欧米化され、食肉習慣が当たり前になっており、かつ仏教思想や不殺生戒や慈悲の趣旨などは、一般国民には殆どの理解されていないことが、現状の様な動物福祉後進国に成り果てた原因であるように思われるが、欧米先進国から顰蹙を買うほどの現在の日本の動物福祉後進性は、日本の仏教界や仏教学会のこの問題に関する無関心さにも一因がある事は否定できないと思われる。
 シンガーが、配慮すべき対象を「痛みを感じる能力を持つ動物」に限定した事は、具体性があった分、現実的な対応を可能にするものでもあった。しかし、逆に言えば、痛みを感じることが出来ない動物や植物、場合によっては人間までもが配慮の対象にならないとしていることが、各方面からの批判の対象と成ったことも事実である。
 特に、胎児の段階で重大な障害を持っていることが確認され、生まれてきても苦痛しか味わえないことが分かっている場合は、その胎児がまだ苦痛を自覚できない段階で堕胎すべきであると次のように述べている。
 「そこで私の提案は、〈理性、自己意識、感知能力、感覚能力などの点で同じレベルにあるならば、胎児の生命に人間以外の生命と同じだけの価値しか認めないようにしよう〉ということである。どんな胎児も人格ではないのだから、胎児には人格と同じだけの生きる資格がないのである。胎児がいつから痛みを感じるようになるかについてはこれから検討しなければならないが、ここでは次のように言うだけで十分であろう。すなわち、感覚能力が存在するようになるまでは、中絶は内在的価値を全く持たない存在の生存を終わらせることである、と。胎児が自己意識ではないにしても、意識を持つようになれば、中絶は軽々しく行われるべきではない(中絶を軽々しく考える女性がいるとしての話だが)。しかし、たとえ胎児が意識を持っているとしても、通常は女性の重大な利益の方が、胎児の未発達な(rudimentary)利益にまさるだろう。実際のところ、肉を味わうために胎児よりも格段に発達した生き物が殺されている以上、そのような行為をも同時に非難するのでなければ、最も取るにたらない理由による妊娠後期の中絶でさえ非難することは難しい。」⑪
 更に、動物でも貝以下の痛みを感じる感覚がそれほど進化していない動物や植物などは、配慮の対象とならないとしている点が、依然として人間中心主義的で環境倫理の背景思想には成りえないとして欧米でも環境倫理学者達から批判を受けている。
 「痛みを相当程度感じる動物」に対する配慮の必要性を訴えるシンガーの主張は多くの欧米人の共感を呼び、「動物倫理」「動物福祉」とそれに基づく法整備の充実は大きき社会変革をもたらしたが、逆に「痛みを感じない動物・植物・人間」に対する非常に冷淡な考え方は、シンガー自身が何度も主張している「種差別」に該当すると言わざるを得ず、自己矛盾を孕んでいることは否定できない。
 やはり、配慮すべき対象は「生あるもの全て」であり、その中でも至急なんらかの手立てを講ずるべき対象は「痛みを相当程度感じる動物」であって、段階的には「全ての生きとし生けるもの」に対する配慮が必要であるとするべきであったと思われる。
 そうしていれば、シンガーの思想は植物も含む地球上の生きとし生けるもの全てを配慮の対象とする環境倫理思想にも成り得たはずである。
 しかし、シンガーは「配慮すべき対象」と「配慮の必要がない対象」を明確に分けてしまった。そこにこそ、シンガーの思想の限界と、仏教思想との最大の相違点があることを後章で検証するものとする。

第2章:同時期に生まれた「環境倫理」とその課題

 上記の「動物倫理」同様、「環境倫理」という用語も1970年代初頭以降から使われるようになった。
 そもそも倫理とは、人間生活の秩序つまり人倫の中で踏み行うべき規範の筋道という意味なので、あくまで人間あるいは人間社会を対象とした用語であった。
 その本来は人間を対象にした倫理という用語を、人間以外の動物や環境に対して使われるようになったのは、動物や環境に対しても人間に対するのと同等の配慮がなされるべきであるという主張がなされるようになったからである。
 「動物倫理」に関しては上述のシンガーによる「動物の開放」以降、その概念が意識されるようになり、用語としても定着していった。
 「環境倫理」に関しては、古くは、1864年のGeorge Perkins Marshによる「Man and Nature」の出版をきっかけに、1891年にはアメリカでForest Reserve Act(森林保留区法)が制定され、その後1900年代にはJohn Muirらの自然保護の活動がつづき、1944年にはアルド・レオボルドが、人間の立場を「土地」の支配者的立場から相互に依存し合う生態系における一構成員へという立場の転換を提唱する「土地倫理」という概念を打ち出した。そして、1967年にはアメリカの歴史学者リン・ホワイト(Lynn White)が、"The Historical Root of Our Ecological Crisis"「現在の生態学的危機の歴史的根源」において、現在の環境危機の根源は「ユダヤ・キリスト教的な伝統」のうちにあるとし「神は人間の利益と統治のためにという明白な目的のために、人間以外のすべての存在をおつくりになられたのである。すなわち、いかなる自然の創造物も、人間の目的に奉仕する以外の目的をもっていなかったのである。……このようにユダヤ・キリスト教は人類史上でもっとも人間中心主義的な宗教なのである」⑫とした。
 このような、自然は人間が利用するために存在しているという人間中心主義的な自然観に対する疑義が意識されるようになりはじめた1970年代の初頭、1972年9月ブカレストで開催された第3回世界未来研究会議において、ノルウェーのオスロ大学哲学教授のアルネ・ネス(Aarne Næss)が“The Shallow and the Dee, Long-Range Movement.” という講演を行い「先進国の人々の健康と豊かさに資するはずの自然環境資源の枯渇と汚染に対する戦い」を主な目的とする環境保護運動を人間中心主義的で皮相的・浅薄(Shallow)なエコロジーであるとし「環境の中の人間というイメージを否定し、関係性のあるトータルフィールドのイメージを支持する。・・生物圏ネットの結び目としての有機体・・内在的関係の場の結び目としての生物の・・生き、花開くための平等な権利は、エコロジカルなフィールドワーカーにとっては、直感的に明確で明白な価値公理である。それを人間に限定することは、人間の生活の質に悪影響を及ぼす人間中心主義である。その質とは他の生命体との密接な協力関係から得られる深い喜びと満足感に依存している。人間の依存性を無視し、主従関係を築こうとすることは人間を自分自身から遠ざけることになる。(著者和訳」⑬。
 つまり、ネスは、人間にとっては全ての生物との関係性の総体こそ真の自己であり、他の生物を利用の対象として扱うことは、自己疎外に他ならないとしている。そして、人間にとっての真の環境保護とは、このような全ての生命の関係性の総体を守る事であり、それは人間の一人一人の自己実現の行動でもあるとした。そのような環境保護活動を上述の人間中心主義的なShallow Ecologyに対して、Deep Ecologyと名付けたのである。
 このように、人間を含めた全ての生命の関係性の総体に対する配慮を要請するDeep Ecologyの登場をきっかけとして、環境も倫理の対象であるという認識が広がり、環境倫理という用語が使われるようになった。
 そして、1973年には,オーストラリアの哲学者リチャード・ロートリー(Rihchard Routley)が、第15回世界哲学会議で「新しい倫理、すなわち環境の倫理は必要か(Is There a Need for a New, an environmental
Ethics?)」と題する論文を発表し、環境問題に対処するには,伝統的な西洋の倫理では対象がもっぱら人間に限られており、人間が自然物を破壊したとしても、他人に危害を与えないかぎり、そうした行為に道徳的な非難が下されないどころか、場合によっては許されることにもなるとし、こうした事態に対処するためにはこれに代わる「新しい倫理」が必要だとした。
 ロートリーは,アルド・レオポルド(Aldo Leopold)の「土地倫理(land ethic)」、すなわち「人間と,土地および土地に依存して生きる動植物との関係を律する倫理則」の思想をその原型と見なし、レオボルドの「土地倫理」に基づく新しい環境倫理思想の必要性を訴えた。
 しかし、1974年には同じくオーストラリアの哲学者ジョン・パスモア(John Passmore)は、「自然に関する人間の責任(Man's Responsibility for Nature)」を出版し、そこでロートリーに反対して、新しい倫理は必要ないと論じた。
 パスモアは「環境に対する我々の態度を変える緊急の必要性があり、人間は生物圏の制約のない搾取を続けることはできない」⑭と主張したが、科学的合理主義の西洋の伝統を放棄する必要があるという見解は拒絶し、誤った神秘主義や非合理主義であると考えられるディープエコロジーによって提唱されるような、私たちの倫理的枠組みの抜本的な改訂を通じて環境問題を明確にしようとする試みには賛同しなかった。パスモアは本質的な価値を自然に帰属させようとする試みについては非常に懐疑的であり、彼の支持する立場は、それが感覚を持つ生き物(人間を含む)の繁栄に何を寄与するかという点で自然を大切にすることであった。彼は上述のリンホワイトのユダヤ・キリスト教こそが人間中心主義と環境破壊の元凶であるとする主張に反論し、キリスト教は人間に自然環境や動物を管理する役割を与えられたのであり、好き勝手に利用したり破壊したりしても良いわけではないとした。そして、自然環境や動物を保護管理するのが人間の役割なのだから、既存の人間の為の倫理で充分であり、新たな倫理など必要ないと主張した。
 その後は、欧米の環境倫理思想における主要な論点は、人間中心主義か非人間中心主義か、生命中心主義か生態系中心主義か理念か実用性かでの論争が続いた。
 しかし、そのような環境倫理学における論争の行方とは別に、現実の各国の行政による環境保護政策を後押しする理念は、このまま環境が破壊されれば、人間自身の生存が危うくなるというものであり、いわゆるディープエコロジーが言う所のShallowで人間中心主義的な発想によるものである。やはり、大多数の人々を突き動かすものは、自分達自身の生存に関わる事であって、必然的に人間中心主義的にならざるを得ないのかもしれない。
 しかし、先の動物倫理の章でも見てきたように、痛みを感じる動物に対する純粋な配慮のみを理由として、肉食をやめてベジタリアンやビーガンになる人々の数が世界中でどんどん増えており、畜産動物の待遇改善の為の法整備も世界中で進んでいるのも事実である。
 これは上述のピーター・シンガーによる人々の良心と感性に訴える主張に共感する人々が連鎖的に増加した結果としてもたらされた結果であると言っても過言では無い。
 しかし、そのシンガーは既に述べた通り、人間が配慮すべき対象を相当程度の痛みを感じる動物以上に限定し、あまり痛みを感じない動物や植物は配慮の対象にはしておらず、従ってシンガーの思想は環境倫理の背景思想には成り得ないという状況になっている。
 また、現在の環境倫理思想の主流に成りつつある J・ベアード・キャリコットらの非人間中心主義で生態系中心主義の運動においては、生態系の保護を最大目的にしている為、外来種の繁殖によってその地域の本来の生態系が変異してしまっている場合は、元の状態に戻すべく、外来種の徹底的な駆除が公然と行われている。外来種は悪であり、固有種の保全の為には、外来種を駆除することは当然の正義であるかのごとく冷徹な殺戮が淡々と行われているのである。
 そういう意味では、現在主流となっている生態系中心主義や生態系保全主義といった環境倫理においては、固有の生態系を維持するという大義こそが最重要課題であって、個々の生物の生命の尊厳が充分に考慮されているとは言えない。
 そのような姿勢は先の動物倫理のシンガーや「動物は人間による干渉や搾取なしに生きる権利がある」と動物の権利を主張するトム・レーガンなどの思想からすれば、絶対に容認できないものであると言えよう。
 このように、現在の動物倫理の主要原動力となっている背景思想と、環境倫理の主要原動力となっている背景思想が相互に全く相容れないものであり、根源的な矛盾を孕んでいることは誠に由々しき問題であり、動物倫理と環境倫理双方に矛盾なく通底する一貫性のある背景思想の登場が急務であると言える状況にある。
 そういう意味では先に触れたアルネ・ネスのディープエコロジーや「あらゆる生命が等しく神聖である」という価値観に基づき、生命への畏敬を唱えたアルベルト・シュヴァイツァー、そしてそのシュヴァイツァーの価値観を現代の環境倫理学の文脈で整理し直し、生命中心主義を唱えたポール・テイラーらの主張は、動物も植物も含めた全ての生命を配慮の対象としている点で、双方に通底する背景思想に成りそうではある。だが、彼らも結局は、正当な道徳的理由があればとの条件つきで、他の生命を奪うことを容認している点で、シンガーやレーガンなどの動物倫理の思想家たちとは相入れない。一方、生態系保全主義の環境倫理の思想家たちからは、ディープエコロジーなどの生命中心主義の環境倫理思想は理念的過ぎて非現実的な実行不可能な思想であるとして批判されている。
 人間が生きて行く為に、他の生命を奪わざるを得ないことは、避けがたい事実である。その言い訳のしようのない事実こそが、真に他者の福利を願う者の心を痛める最大の要因なのである。この他者の幸せを願うという事と自分の生存を維持していくことの根源的矛盾とその葛藤に焦点を当てた思想が仏教であったと言えよう。それ故に、仏教ではその様な根源的な矛盾を抱えた「生」というものは「苦」なのであって、他者を押しのけてでも自分だけ生き残ろうとする自己保存の為の貪欲さを抱えている限りは、そのような根源的矛盾の結果としての「苦」からは逃れられない。だからこそ最終的にはそのような自己保存の為の貪欲さを完全に克服して、他者の犠牲の上にしか成り立たない「生」の存在形式を超えた、仏という存在形式に昇華する為の努力を続ける事が目指されているのであろう。
 つまり、仏教的観点からすれば、ありとあらゆる生き物は大切にされるべきで、どのような理由があってもその命を奪う事は許されないのであり、自分が生きて行く為に他の生物の命を奪う事は決して容認されるものではなく、決して容認されはしないが、どうしようもなく行なってしまっている行為なのである。この決して容認されはしないがどうしようもなく行なってしまっている行為であるという認識こそが、動物倫理、環境倫理の問題を考えるうえで極めて重要なポイントであると思われる。
 なぜなら、他者の命を奪う行為は、どのような理由があっても決して正当化できることでも、されるべきことでもないのであり、容認されたり、ましてや権利として認められてはならないものだからである。
 動物を食する事や森を伐採し利用する事は神から与えられた人間の「権利」であるとか、生態系保全の為には外来種の殺戮は「必要な事」であるとか、人間が生きて行く為の食肉は「容認」されるとか、動物は殺してはいけないが、痛みを感じない生物は「殺してもいい」などの、人間が勝手に決めた「言い訳がましい自己正当化」こそが諸悪の根源なのであると言っても過言では無かろう。
 人間というものは、いったん容認されたり認められたりしたとたんに、罪悪感も悔悟の念も後ろめたさも遠慮の気持ちも殆ど忘れてしまって、あたかもそうする「権利」があるかの如く、堂々と「本来の理想」に反する行為を遠慮なく行なってしまうものだからである。
 だからこそ「決して、容認も正当化もできないが、どうしようもなく行なってしまっているという自覚」こそが、人間が自らの行動によって引き起こす他者への被害を最小限に止める為の最大の歯止めになりうると考えられるのである。
 これを極めて卑近な例で例えると、日本では自転車は道路交通法上、道路を走るべきであって、歩道を走ってはいけないと定められている。つまり、自転車で歩道を走ることは明白な違法行為なのである。とは言っても、現実には狭い道路を自転車で走ることは極めて危険であり、自動車の通行の妨げにもなるし、場合によって危険回避の為に歩道上を走らざるを得ないこともままあるものである。ただ、本来は違法行為であると分かっていながら「どうしようもなく」歩道を走るからこそ、ちょっとでも人が歩いていれば、即座に道路に戻って歩行者の安全を最優先するのである。しかし、自転車の歩道走行が常態化しているのにも関わらず、本来の原理原則である道路走行を自転車に強いるのは、現実を無視した理想論であり、非現実的であるとして、自転車の歩道走行が容認されて合法化されたとしたらどうだろう。もはや、自転車が歩道を走ることは、国から認められた「権利」であり、「必要な事」であり、誰からも「容認」されたことなのであるから、殆どの自転車は歩道を走ることになり、その結果として自転車と歩行者の事故は激増して、多くの死傷者を出すことになることは目に見えているであろう。
 このように、本来は「決して、容認も正当化もできないが、どうしようもなく行なってしまっているという自覚」こそが、これからの人類の行動に歯止めをかけるカギであり、それを説いてきたのが他ならぬ仏教であることをこれから検証していくこととする。

第3章:仏教における不殺生戒と慈悲の意味と位置づけ

 紀元前450年頃に、インドのブッダガヤに於いて悟りを開いたとされる釈尊によって説かれた仏教は、その後インドのみならず近隣諸国や東南アジア、チベット、中国、韓国、日本、そして今や世界中に広がる世界宗教として定着している。
 その仏教において、僧侶も在家の信者も守るべき戒律の筆頭に来るのは、不殺生戒である。釈尊が説いたとされる教えやその解釈には大きな幅があり、本当の釈尊の教えは一体どんなものであったのかについては、未だに議論の分かれるところと成っているが、確実に言えることは、釈尊が仏教徒としての行動規範である戒律の、イの一番に不殺生戒を定めていたというのは誰もが認める事実であろう。つまり、釈尊は不殺生戒を破る事は、仏の教えの根本理念に反するとまで見なしていたと言っても過言ではあるまい。
 しかし、これ程重要な「殺生をしない」という事の意味やその思想的な根拠については、歴史上もあまり深く掘り下げて来られたとは言えない状況であるように思われる。
 仏教開教当初の頃は「殺生をしない」という戒律は、守るべき大前提としてそのまま受け取られていて、その意味や理由については深く説明する必要も掘り下げて考察される必然性も無かったのかも知れないが、その後の部派仏教の釈尊の教えの分析の細かさや緻密さを考えれば、これ程重要なテーマについて殆ど論究されずに、どちらかと言えば過剰に細かい議論にさえ心血を注いでいた状況を考えると、慈悲の問題が最重要テーマであると見なされていたとは思えない。
 更に、釈尊が最初に説いたとされる四諦・八正道や無常・無我の教えからは、一見、不殺生戒の大前提となる慈悲の心は導き出されないように思われる。
 つまり、無我説を突き詰めると、そもそも執着すべき対象である「我」には実体がなく、修行の目的も、「我」も含めてあらゆる執着すべき対象には実体がないことを実感して、全ての執着から解放されて、二度とこの世に再生しなくなる、いわゆる阿羅漢果に到達する事とされた。
 このように、「我」も含めたあらゆる執着すべき対象には実体がないということは、そもそも慈悲の対象であるあらゆる生きとし生けるものも本来は実体のないものであり、執着すべき対象にはならない訳で、従って慈しむべき対象でも無くなることになる。
 これは、明らかに矛盾であり、もし無我説とそれに基づく阿羅漢に成る為の修行道からは、慈悲の必然性が導き出されないのだとしたら、釈尊がそもそも仏教徒としての行動規範の第一項目に不殺生を定め慈悲の行を厳命された理由は何だったのかが不明になってしまう。
 釈尊が、不殺生戒と慈悲の行を厳命されたという事実と、四諦・八正道や無常・無我を説かれて、阿羅漢になる為の修行法を説かれたのは、どちらもほぼ確実な歴史上の事実とされている。
 その二つの重大な事実のうちのひとつが、もう一つの事実からは導き出されない、或いはその理念とは矛盾するということは、明らかに、その片方の事実が二つの事実を包含するような全体像を示しえていない証拠であるとも言える。
 つまり、現在、初期仏教の教えとして伝えられている四諦・八正道や無常・無我の教えとそれに基づく阿羅漢果を目指す修行方法の体系からは、不殺生戒と慈悲の必然性が導き出されないとすれると、それは明らかに釈尊が示された仏教の全体像を示し得ていないということになる。
 慈悲の問題は、大乗仏教に到って漸く深く考察され、それが阿羅漢を超えた仏に到達するための前提条件であることが論究される様になった。しかし、当初釈尊が説かれたとされる四諦・八正道や無常・無我の教えの説かれ方から比べると、後に大乗仏教が論究した慈悲の問題とそれに基づく菩薩行の教えの論理展開上での広がりの大きさは、本来の釈尊の教えを逸脱しているとして、大乗非仏説まで唱えられる様に成った。
 しかし、慈悲の問題は、不殺生戒を守るという仏教徒としての大前提の根拠となるものであり、ある意味で仏教徒としての一番重要な問題であったはずである。その最大の重要テーマが釈尊以降の弟子たちによって深く掘り下げられることがないまま、関心の中心は阿羅漢道を極めるという慈悲の必然性とは必ずしも結びつかない内容で固定化されてしまい、結果的に不殺生戒と慈悲の実践は単なる戒律の一つと望ましい徳目のような扱いに留まってしまったようである。だが、そこには、釈尊が在世当時、わざわざ不殺生戒を仏教徒としての第1行動規範に定めたという事の重大性が反映されていない。そういう意味では大乗仏教が非仏説であるというより、むしろ、それ以前の仏教の在り方こそが、釈尊の説かれた本来の仏の教えの全体像を示し得ていないという意味で、半仏説でしかなかったと言っても過言では無いのかもしれない。
 それを論証する為にも、先ずは原始仏典に遡り、そこでの慈悲の大切さの説かれ方を検証する。明らかにするのは、第一に、釈尊の教えとしては、慈悲の実践の大切さが説かれるのみで、その理由や必然性は一切示されていないこと。第二に、後の大乗仏教において、釈尊の四諦・八正道と無常・無我の教えを深く掘り下げられた結果、仏や菩薩の到達する無分別智による平等心の境地から一切衆生に対する慈悲の念が生じ、仏教徒としての第1行動規範である不殺生戒の動機も必然的に導き出されてきたことである。

第4章:原始仏典に説かれる慈悲の大切さ

◆スッタニパータ

第一 蛇の章

<8、慈しみ>

 143 究極の理想に通じた人がこの平安の境地に達してなすべきことは次の
 とおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い
 上がることのない者であらねばならぬ。

 144 足ることを知り、質素に暮らし、雑務少く、生活もまた簡素であり、
 諸々の感官が静まり、聡明で、気負い立つこと少く、諸々の(ひとの)家で
 貪ることがない。

 145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを決してしてはならない。
 一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。

 146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも悉
 く、長いものでも、大なるものでも、中位のものでも、短いものでも、微
 細または粗大なものでも、

 147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに或いは近くに住むも
 のでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するもので
 も、一切の生きとし生けるものは幸福であれ。

 148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽ん
 じてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛
 を与えることを望んではならない。

 149 あたかも、母が已が独り子を身命を賭しても護るように、そのように
 一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを
 起すべし。

 150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に下にまた横
 に、障礙なく怨恨なく敵意なき(慈しみを行うべし)。

 151 立ちつつも歩みつつも坐しつつも臥しつつも、眠らないでいる限り
 は、この(慈しみの)心づかいを確っかりとたもて。この世では、この状態
 を崇高な境地と呼ぶ。

 152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒をたもち、知見を具えて、諸々の
 欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろ
 う。⑮

 これは、現存する仏教経典の中でも最も古い部類に入るとされているスッタニパータの一節であるが、特に149の「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。」とあるように、ここに示されている生きとし生けるものに対する慈悲の心は、単に「生き物を害していけない」という程度ではなく、「母が已が独り子を身命を賭しても護るように」と自分の命を賭してでも護れとされるほどのものである。
 つまり、あらゆる生きとし生けるものの命は自分の命と同等の価値があると明言されていると言っても過言では無いと思われる。
 しかし、一切の生きとし生けるものの命がそれほどまでに大切である理由や彼らの命を自分の命に代えてでも護らなければならない理由などは一切示されていないし、どこにも説かれてはいない。
 尚、ここで言われている一切の生きとし生けるものの中に植物も入るのかどうかについては、146の「怯えているものでも強剛なものでも」と訳されている部分の元のパーリ語は「可動者(tasa,動物)であれ,不動者(thāvara,植物)であれ」⑯と訳せるとする先行研究⑰もあり、少なくともこの経典が編纂された頃には生きとし生けるものの中には植物も含まれていたと考える事も可能な様である。
 後の弟子達によって、釈尊の教えが教義的に分析整理された結果、慈悲の対象はいわゆる有情であるとされ、つまり、感覚を有する生き物を意味するようになったが「感覚を有する生き物」だけが慈悲の対象とみなされるというのは、ピーター・シンガーが保護の対象を「ある程度の感覚を有する動物以上」のみとしたのと近似性があるように思われる。ただし、シンガーは「ある程度の感覚を有する動物以上」は保護の対象にすべきだが、それ以外は保護の対象にする必要は無いとキッパリ割り切ってしまった所にシンガーの最大の問題点があると思われ(この点については、第7章で改めて検証する)、その姿勢が仏教とは根本的に異なる点であると言える。
 釈尊の弟子達によって後に分析整理された教義によれば、慈悲の対象は有情であり具体的には感覚を有する動物以上の存在であるとされた。だがそれは、動物以上の存在だけが慈悲の対象になるのであって、それ以外の植物などの生物は慈悲の対象にはならないと明言されているわけでは決してない。ましてや、先にも引用した釈尊自身のことばあるとされる原始経典では、ただ「一切の生きとし生けるもの」とされているので、殊更に、動物と植物を分けて考えたりする意図も趣旨も全く感じられないと言わざるを得ない。
 動物と植物が分けられたのは、弟子達の教義の分析過程で、ある程度の感覚や情動を持って行為を積み重ねるのは動物であり、行為を積み重ねることによって業を生み出し、その業によって輪廻すると考えられたからであろう。
 しかし、これらは、ある意味弟子達の考えた形而上学であり、そこにどれほど、釈尊の本来の意図や世界観が反映されていたのかは、疑問であるし、少なくともそのような形而上学からは釈尊の言葉から感じられるような力強い慈悲の行いの要請は殆ど感じられないという事実が、そもそも釈尊は本当にそのような動物と植物の区別を意図していたのかどうかは極めて疑わしいという印象を与えるのである。
 いずれにしても「一切の生きとし生けるものを自分の命に代えても護れ」というのは釈尊の全仏教徒に対する至上命令に等しかったとも考えられるが、その理由や重要性並びに仏教の教義全体の中での位置づけについては、大乗仏教が興隆するまでは論究されることは無かったようである。

(動物倫理及び環境倫理の背景思想としての仏教の可能性ー2に続く)

 



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