幸村の部屋を二度ほど訪ねたが、その度に幸村はいなかった。普段外出する用事はほとんど下女に任せ、ベッドの上にいることが多い幸村にしては、これは珍しいことだった。
一度目の訪問では下女も不在だったが、二度目に訪ねた時に自分の部屋で編み物をしている下女を見つけ、柳生は幸村の様子について尋ねた。「ご安心下さい。ここのところよくお散歩をなさっているんですよ」、そう明るい笑顔で言われ、柳生は驚いた。更に下女は奇妙なことを言った。「これまで、あんなに不機嫌な幸村さんを見たこともありませんけど、あんなに元気な幸村さんを見たことだって一度もありませんわ」
「用がある時はこちらから連絡をするから、それまでは部屋に来なくてもいい」という幸村からの伝言も下女は伝えた。帰りに柳の部屋へ寄ると、やはり柳もしばらく幸村には会っておらず、下女から同じように言われたのだと言う。
「どういうことでしょうか」
「何かあるんだろうが、俺達には詮索されたくないようだな。だが、下女が健康に関しては保証すると言っていたから、具合が悪いわけではないんだろう」
「度々外出しているようですからね。それに、下女の様子を見ても、少なくとも彼に悪いことが起きているわけではないようです」
幸村は見たこともないほど元気だと下女は言ったが、そう告げる下女の表情とて見たこともないくらいに明るく、半ばはしゃいでいるようにさえ見えたのだ。「とにかくお元気ですよ」、そう繰り返す彼女は、他にももっと何かを言いたくてならないらしかったが、それを必死で堪えている風だった。
「ああ。あの下女も、恐らく何か口止めされているな。幸村のことだ、何か考えがあるんだろう。ところで柳生、お前は気付いたか? 幸村の部屋の窓辺に、ゲラニウムの鉢植えが置いてあるのを」
「ゲラニウム? いえ、気が付きませんでした」
「やはりお前が持って行ったわけじゃないんだな。まさか自分で買うわけもないだろう。そんな金があれば、他にもっと買うものはあるはずだからな」
柳はそれ以上鉢植えの話を続けず、柳生も何も言わなかった。幸村の言葉通り、連絡があるまでは彼に会いに行くのはやめ、その代わり一日おきに下女に幸村の具合についてどちらかの部屋に報告に来させるようにすることで話はまとまった。その話の間にも、ともすれば沈みがちな表情の柳生を柳が見咎めた。
「柳生。お前は何だか浮かない顔だな」
「いえ……」
「この前、天使に会ったと言っていたな?」
「………………」
弾かれたように顔を上げたものの、柳生は答えに詰まった。柳は小さく息をついた。
「話したくないのならいい。だが、アグラーヤ・ペトローヴナ(金貸し老婆)のことはどうだ? 踏ん切りはついたのか? 幸村はああ言っていたが、お前の気が進まなければ俺が手を下して構わないと俺は思っている。この前様子を見に行ったが、まだあの建物の四階は老婆の部屋以外すべて空室だったよ。だが、それもいつまで続くかわからないからな。なるだけ早いうちに、出来れば夏中にけりを付けた方がいいだろう」
「ええ」
老婆殺しを現実のものにしようと心を決めかけた矢先、仁王から訣別にも等しい言葉を受けた柳生の心は複雑だった。たとえ計画の遂行によって大金を得ることが出来たとしても、嫌っている人間からの助けであるならば、彼は頑なにそれを退けるかも知れない。その時は金の出所が自分ではないと思われるようにすればいいだけの話だが、それでも柳生の胸のつかえが取れることはなかった。
あの日、自分の腕の中で泣いてくれたのに。
小さく震えている彼の肩や、自分の背中にしがみつく彼の腕。彼のぬくもり。彼の匂い。
あの時、まるでそれらすべてを自分のものにしたかのような愚かな錯覚に囚われていた。彼は自分の邪な思いに気付いたのかも知れない。「馴れ馴れしくした」ことを謝った、その舌の根も乾かぬうちに彼を抱きすくめたりその身体に触れたりする自分は、果たして彼の目にはどう映ったのだろう。彼は強く拒みはしなかったが、全く拒まなかったわけではない。「そげなことせんで」、そう彼は言った。すみませんと詫びながら、次の瞬間には彼を抱き締めていた。学習しないにも程がある。
もう彼に会えないのだろうか。一目だけでもまた彼の顔が見たかった。そう思う一方で、いざ彼に会ってしまえばまた彼を抱き締めたくなるに違いないことを柳生は自分でよく知っていた。学習しないにも程がある。これでは嫌われない方がおかしい。
ポーレチカ達に勉強を教えに行く時間だった。
暇を告げた柳生に、柳が風呂敷に包んだ何かを差し出した。
「幸村のところに持って行くつもりだったものだが、持って帰らないか」
受け取って中身を見るとそれはスィールニキ(チーズの焼き菓子)で、思わず柳生は顔を綻ばせた。ポーレチカとコーリャがきっと喜ぶだろう。
「ありがとうございます。これは切原さんの御宅から?」
柳の家庭教師先は、比較的裕福な商家だった。柳はその家の一人息子を教えているのだが、話を聞くところによると、赤也という名前のその少年は柳に随分懐いているようだ。
「ああ。俺の生活が苦しいことを知っていて度々いろんなものをくれるから助かっている」
「ええ。とても親切なご家庭のようですね」
ふと何かを思い出し、苦笑しながら柳は言った。
「『給料をもっと上げるように俺から親父に頼みましょうか』と言われたよ」
「赤也君ですか?」
「子供の癖に、やれちゃんと食事はしているかだの、少し痩せたんじゃないかだのと余計な心配ばかりして来るから参っている。そんなことよりも勉強に身を入れて欲しいものだ。第一、俺はもともと相場よりいくらか多い給料をもらっているんだからな。たとえ可能だとしても、これ以上上げてもらうというわけにはいかない」
三人の中で、金銭的に柳が一番恵まれた境遇にいることは確かだ。ただ、三人が常にお互いの暮らしを補い合っていることから、結果的には三人ともぎりぎりの生活になる。柳が切原家に対して心苦しく思う気持ちは、柳生にもよくわかった。そして、柳を心苦しくさせているのは自分達であるということも。だが、それは言わない約束だった。三人はこれまでも、そしてこれからもお互いの運命を共にして生きて行く仲間であり、同胞だった。
「赤也君は本当に君のことが好きなんですね」
柳生の言葉に、珍しく柳は笑っただけで何も言わなかった。
少しずつ、互いに言えない何かが三人の中に生まれ始めている。そのことに一番先に気付いたのは、恐らく柳だったのだろう。
いつもなら遊んでもらいたがるはずのコーリャは、勉強が済むなり内職をする母親のところへ甘えに行ってしまった。今日のコーリャは元気がなく、まともに口もきいてくれない有様で、折角持って行ったスィールニキにもほとんど手を付けなかった。ほどなく母親とコーリャは仕立ての済んだ服を届けに出掛け、部屋の中には柳生とポーレチカ二人だけになった。
柳生がポーレチカに事情を聞こうとするより先に、ポーレチカが口を開いた。
「今日もお昼に雅治兄さんが来たの。大抵夕方が多いけど、最近よく来てくれるわ」
「そうですか。元気そうでしたか?」
あの日以来、柳生は仁王の部屋を訪ねていない。ポーレチカもそれを知ってはいるものの、気を利かせてか柳生にあれこれと尋ねたりはしなかった。恐らくそれは仁王に対しても同じなのだろう。
ポーレチカは頷いたが、しかしその眉間には皺が寄っていた。
「とっても元気よ。何だか、明る過ぎるくらいなの。いつも笑っているけど、でも何だかちっとも笑ってないようにも見えるわ。面白くもないのに無理矢理笑ってるみたい。それから、口癖のように言うの」
「何をです?」
「私とコーリャにね、『お前達のことは絶対俺が幸せにする』って。『お前達はなんも心配せんでええんよ』、『お前達は、何があっても幸せにならんといけん』って」
「………………」
「だから私、何だか心配になって尋ねてみたの。『雅治兄さんは? 兄さんの幸せは?』って。そしたら兄さんはこう言ったわ。『俺の幸せは、お前達が幸せになることなんよ』って。『お前達が幸せになれたらそれで俺も幸せなんじゃ』って。……そう聞いた時、嬉しかったけど同じくらい悲しかった。雅治兄さんは、もしかしたら私達のために自分の幸せを捨てるつもりなのかも知れないって思ったの。それとも、もう捨ててしまったのかも知れないって」
柳生はポーレチカの言葉を一語も聞き漏らすまいとした。仁王が言ったという言葉、その一言一言を彼はどんな思いで口にしたのか、そこにどんな意味が込められているのかを考えていた。無言でいる柳生をポーレチカはじっと見つめていたが、やがて何かを決めた顔つきになって言った。
「柳生先生。柳生先生は、雅治兄さんのことどう思っている? 雅治兄さんのこと、好きじゃない? 柳生先生も、他の人達みたいに兄さんの仕事のことで兄さんを笑うの? 兄さんのこと、『汚れてる』って」
「ポーレチカ」
静かに、しかし凛とした声で名前を呼ばれ、ポーレチカは俯きかけていた顔を上げた。泣き出しそうな顔をしている。柳生はポーレチカの髪を優しく撫でてやった。
「兄さんは、柳生先生のことが好きよ」
柳生の、彼女の髪を撫でる手が止まった。瞠目する柳生に、ポーレチカは繰り返した。
「兄さんは、柳生先生が好きよ」
「……何故、そう思うのです?」
そう尋ねるだけでやっとだった。夢想だにしなかった言葉に、胸の鼓動が俄かに激しくなるのを感じた。その目にはポーレチカを映しながら、柳生は何一つ見えていなかった。
「雅治兄さんが『黄色い鑑札』をもらって、この部屋を出て行った日のことを覚えているの。ママは泣いていたわ。パパも。コーリャはまだよくわかっていなくて、自分にはまだ大きいのに、兄さんが使っていた古い帽子をもらって喜んでいたわ。兄さんが出て行こうとする前、パパが兄さんに言ったの。『雅治、お前は本当にこれでいいのかい。もう後戻りは出来なくなるんだぞ』って。兄さんは頷いたわ。でも、パパは兄さんのことを諦め切れなかったのね、『じゃあ、好きな人が出来たらどうする。いつか、誰かを好きになったら。その時はどうするんだ』、そうパパは言ったの。雅治兄さんは……」
そこでポーレチカはいったん言葉を途切らせた。柳生ははっとした。ポーレチカが悲しそうな、つらそうな瞳で自分を見ていることに気付いたからだ。
「雅治兄さんは、『会わんようにすれば忘れるとよ』って。寂しそうに笑ってそう言ったわ」
沈黙が流れた。
「もう、ここには来んでくれん?」、そう言った時の彼のぎこちない表情。その言葉の意味。自分の胸の鼓動を聞きながら、柳生はまだ何も言えずにいた。
ポーレチカは、どこか沈んだ声で言った。
「柳生先生には、誰か好きな人がいるの? コーリャがそう言ってた」
「コーリャが……?」
ポーレチカは頷いた。
「雅治兄さんは最近、前みたいに私達に柳生先生の話を聞かなくなったわ。それだけじゃない、柳生先生の話になると、すぐ話題を逸らしてしまうの。それに気付いたから私はもう兄さんの前で先生の話はしないようにしたけど、でもコーリャにはやっぱりわからないから、コーリャは先生の話を兄さんに聞いてもらいたがるの。今日もそうだった。コーリャが明日礼拝に行くのをとても楽しみしていたから私と兄さんが不思議がっていたら、カーチャって子と会えるからだってわかったわ。先生は、カーチャがどんな子か知ってるんでしょう?」
「ええ。先週の礼拝の時にコーリャが知り合った子供ですよ。コーリャと同じ年頃の」
先週の日曜日。礼拝堂で、柳生とコーリャはミレーナ・イワーノヴナとポーレチカとはたまたま離れた席に座ったのだ。コーリャの座る斜め前の席にいたカーチャという少女をコーリャが一目で気に入ったことは、その場に居合わせた柳生にもわかった。礼拝の後、コーリャはカーチャに話し掛け、小さな子供特有の自然さで二人はすぐに仲良しになった。教会から帰る道で、その日コーリャと交わした会話を柳生は思い出した。「比呂士お兄ちゃんには好きな人がいるの?」、「どんな人が好き?」、そうだ、あの時コーリャはそう尋ねた。
「『なんじゃ、好きな子が出来たんか』って、雅治兄さんは笑ってたわ。コーリャも恥ずかしそうにして、でも嬉しそうだった。コーリャはそのカーチャって子のことを話し始めたの。ブロンドで鳶色の目をしたとってもかわいい子なんだって。私が『本当にかわいいの?』ってからかって尋ねたら、『比呂士お兄ちゃんもかわいいってほめてたよ』ってむきになって言うの。
それからコーリャが言ったわ。『比呂士お兄ちゃんにも好きな人がいるんだよ』って。『どんな人かぼく知ってる』って。その時の雅治兄さんの顔、私忘れないわ。一瞬、泣きそうな顔をしたから。兄さんは話を変えようとしたの。『コーリャ、それよりそのカーチャはいくつなん? どこに住んどると?』、でもコーリャは先生の話をやめなかった。『比呂士お兄ちゃんの好きな人はね、とっても綺麗でとっても優しい人なんだよ』……コーリャが言い終わる前に、兄さんは今まで聞いたこともないくらい大きな声で怒鳴ったの。『話さんでもええて言うとるじゃろ……!』って。コーリャはびっくりして、声を上げて泣き出したわ」
「………………」
「兄さんははっとして、すぐコーリャに謝ってた。コーリャのこと抱き締めて、コーリャが泣き止むまでずっと『ごめん』って繰り返していたの。でも、コーリャが泣き止んで、ママも帰って来たら逃げるみたいに帰ってしまったわ。コーリャはすっかり落ち込んでいるのよ。でもそれは兄さんに怒られたからじゃないの。『ぼくが雅治兄ちゃんのこと泣かした』って、『ごめんって言いながらずっと兄ちゃんは泣いてた』って、自分が兄さんを傷つけてしまったことがショックなのね。だから、コーリャも兄さんも悪くないの。誰も悪くなんかないのよ。………あのね、柳生先生」
ポーレチカはそこでまた口を噤んだ。唇を噛みしめ、彼女は柳生をまっすぐに見た。
「神様がお許しにならないことを雅治兄さんはしているって、みんなが言うわ。兄さんは罪深い人間だって、汚(けが)れた人間なんだってみんな言うわ。みんなそう言うから、そうなのかも知れない。でもね、柳生先生。でも私、雅治兄さんくらい綺麗な人を知らないわ。兄さんくらい優しい人なんて、どこにもいないと思うわ……!」
それは縋るような、必死に訴えるような声音だった。涙ぐむポーレチカを、柳生はその膝の上に抱き上げた。彼女の濡れた睫毛にキスを落としてから、柳生は言った。
「私もですよ。彼ほど美しい人も知らなければ、彼ほど美しい心を持った人も知らない。ポーレチカ。コーリャが言った私の好きな人は、君の大好きな人と同じですよ。違う人だと思いましたか?」
一瞬、ポーレチカはぽかんとした表情になった。両瞳から大粒の涙を零しながら、ポーレチカは柳生にきつくきつくしがみついた。その小さな身体を抱き締めて、柳生は仁王のことを思った。
彼もまた自分を想ってくれている。そう思うと、心が震え出しそうになる。
それを隠そうとした彼。妹達のために、その感情を捨てようとしている彼。恐らくそれは、妹達のためばかりではない。
今日、彼は泣いたのだという。今も、あの部屋で彼は泣いているのかも知れない。
柳生は今、気が狂いそうな程に彼を愛しいと思った。
サドワヤ通りに建つ娼館の扉から、貴族らしい身なりの紳士と寄り添って出て来た「高級娼婦」。遠目には女性にしか見えない。けれど、柳生は一目で彼だとわかった。
美しい絹の衣装を身に纏ってはいるが、それは他の娼婦達のそれとはかなり趣が違っている。他の娼婦達に比べればいっそ地味に見える程のそのシンプルなドレスは、しかし彼の美しさを引き立てる役目を存分に果たしていた。彼ほど美しい人間ならば、衣服や身につけるものにこだわり、金を掛けてごてごてと飾り立てる必要などありはしない。素顔がわからない程に濃い化粧をした娼婦達とは違い、薄化粧をしただけの彼は息を呑む程に美しく、そして眩しかった。
停まっている馬車に乗り込む前に、紳士が仁王の腰を抱き、彼の細い首筋に口づけした。仁王は微笑んでそれを受け、客を送り出す。柳生はそれを見ていた。見ているしか出来なかった。
馬車が去ってしまうのを確認し、再び娼館の中へ入ろうと踵を返しかけた仁王と、十歩ほど先の距離に立っていた柳生の目とが合った。瞬間、仁王は凍り付いたようにその場に立ち尽くし、柳生は無言で彼の前へ歩いた。ポーレチカの言った言葉を、胸の中で繰り返しながら。
柳生が目の前に立った時、しかし仁王は既にその表情に微笑みを湛えていた。
「お久し振りじゃの。柳生さんもこんげなところに来ることがあるとは知らんかったぜよ。誰か贔屓の子でもおるんかの? それとも、俺に会いに来てくれたん? そんなら嬉しかね。今日はもう三人目じゃし、柳生さんにはいつも妹達が世話になっとるけ、安うするぜよ。五十ルーブリでよか。けど、これ以上はまけられんと。五十ルーブリ、出せる?」
そう言うと仁王はしなを作り、甘えるように柳生の肩に左手をのせた。彼が心にもないことを言っているのだということはわかっていた(彼はそれらの台詞を恐ろしく早口に、柳生の目を見ずに言った)。柳生は自分の肩に置かれた彼の手をとり、離さずに答えた。
「貴方は、本当に五十ルーブリで自分を売るのですか」
彼の唇が微かに戦慄いたのを、柳生は見逃さなかった。だが、彼はその唇に再び笑みを浮かべた。おどけるように彼は言った。
「柳生さんには世話になっとるけ、特別ぜよ。今日一番目の客は二百ルーブリ出したけんの。俺も案外捨てたもんじゃなかろ?」
柳生は仁王の瞳をじっと見つめ、答えなかった。仁王は居心地悪そうに目を逸らした。
「やっぱし柳生さんは女の方がお好みみたいじゃ。俺がええ子を呼んで来ちゃろうか」
「結構です」
「そうか、……そうやったね。柳生さんには好いとる人がおるっちゅう話じゃもんね。コーリャが言うとったぜよ。じゃったら、こげなとこには顔を出さんことじゃな。どうせ金もないんじゃろ?」
柳生の手を振りほどき、仁王は蔑むように笑ってみせる。柳生を蔑んでいるようにも、自分を蔑んでいるようにも見える顔だった。また、確かに笑っているのに泣いているようにも見えた。柳生は眉をひそめた。
「そんな顔で笑うのはやめて下さい」
「………………」
「仁王くん」
完全に顔を背けようとした仁王の肩に柳生の手が掛かった時、彼はそれを拒むように両手で顔を覆った。驚いている柳生の前で、しばらくの沈黙の後に彼の手の間から押し殺したような声が聞こえた。
「なしてこげなとこに来たん? 俺を笑いに来たんか?」
「……違います」
柳生のその声が仁王の耳に届いたかどうかはあやしい。仁王は顔を隠したまま話し続けた。
「こげなとこ見て何になると? 面白かことなんぞいっこもなかぜよ。ただ汚らわしゅうて、みっともなかだけじゃ」
彼の声は次第に荒々しくなり、ところどころで掠れた。それはまるで悲鳴だった。
「なして構うん。なして優しゅうするん。可哀相て思うてくれたんか? 気紛れに相手ばしてやって、それで人助けしたて思うとるん? それで俺が喜んで、感謝しとるって思うたと?……俺は馬鹿じゃけ、どうしようもない馬鹿じゃけ、あんたさんが想像も付かんようなこと思うたりもするんよ。身の程も知らんと、どうしようもないこと考えたりもするんよ」
「そうではない。貴方に、言わなければいけないことがあるんです。私の話を聞いて下さい」
柳生の言葉など何も聞かなかったかのように、仁王は感情のままに叫ぶことをやめなかった。恐らく彼は、その「話」を聞くのが怖かったのだ。
「柳生さんにだけは、柳生さんにだけはこんげなとこ見られとうなかった。こげな俺、見られとうなかったんに。なして放っといてくれんの。なして俺のこと傷つけるん。つらくさせるん。柳生さんのことなんか、知らんかったらよかった。俺なんか今すぐ消えてなくなればええのに。俺なんか……」
「仁王くん」
「もう、イヤじゃ……」
その言葉に仁王を抱き寄せようとした柳生の腕は、彼によって乱暴に振り払われた。その時見えた彼の表情に、柳生は声を失くした。その顔は痛々しく、儚く、そして美しかった。彼の頬を伝って、涙はあとからあとから零れ落ちた。涙に濡れた彼の瞳に柳生の目は釘付けにされた。胸が鈍く痛んだ。
周囲に気を配る余裕など二人にはなかったが、娼館のすぐ前での「騒動」であり、ただでさえ人目を惹く仁王のことでもあったから、周りの注目を集めたのも無理はなかった。通りで客引きをしていた娼婦や客、通りすがりの酔っ払いなどは、もうさっきから何事かと並々ならぬ興味を持って二人を見ていたのである。
その時、二頭の白馬をつけた豪華な馬車が娼館の前で停まった。中から降り立ったのは、まだ若い大尉か少佐といった風体の軍人で、すぐ仁王に目を留めると迷わず彼の手をとった。振り向いた涙目の仁王に少し肩を竦めると、男は穏やかに言った。
「雅治。久し振りだね。お前のために休暇をとって来たよ。何を泣いているの? その人はお前の次のお客なのかい?」
そう言いながら、男は柳生を一瞥した。男は背丈が仁王よりいくらか高く(柳生と同じくらいだった)、その容貌は整っていた。軍人でありながら粗野なところなど少しもないように見えるその男は、優しい仕草で仁王の手の甲にキスし、濡れた頬にも口づけた。目の前で起こったその光景に、柳生は歯を食い縛った。
我に返った仁王が、急いで涙を拭いながら言った。
「ダーシャ? ほんに久し振りじゃ。この人は客なんかじゃなかけ、関係なか。なあ、今日はいくらで買うてくれる?」
「お前の望むままに。ああ、僕がこの夜をどれほど待ち望んでいたか、それがお前にも伝わればな!」
「百ルーブリ出せる?」
「百でも、二百でも!」
「二百出してくれたら、俺のことめちゃくちゃになるまでしてくれてええよ。お前さんが望むこと、何だってしてやるぜよ」
男は満足気に頷き、仁王の耳もとで何か卑猥な言葉を囁いたようだった。仁王は妖艶に微笑むと、男の腕に自分の腕を絡めた。娼館の入口への階段を二人が上りかけた時、柳生は彼の名を呼んだ。このまま行かせるわけにはいかなかった。
「仁王くん」
階段を上る仁王の足が止まった。
「俺をこの人以上の値段で買えるん? でなかったら、あんたさんに俺を止める権利はなかけ、帰りんしゃい。ここはつまらん世間話ばしに来るところじゃないんじゃ」
仁王は柳生の方を見もせずに吐き捨て、扉の向こうへと消えていった。扉が閉まる前、男が自分に向けた、憐れむような、勝ち誇ったような視線。周囲の者達が向ける好奇の眼差し。それらはほとんど柳生の胸に何の感情も抱かせなかった。
ただ彼の泣き顔が、いつまでも柳生の脳裏に焼きついて離れなかった。
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