足の向くまま、気の向くまま

興味のあるところ、日頃歩いているところの季節の移り変わりを感じたまま。

五輪塔板碑

2005-10-08 | 播磨国風土記を歩く
 粟生駅の北、約700m、粟生橋の下に「来迎院」という寺院があり、境内の墓地の入り口に石棺材に彫られた小野市の文化財に指定されている五輪塔の板碑があります。

 五輪塔の正面からは西方に向かって拝むように建てられています。板碑には五大種子が彫られていますが、彫が浅くはっきりと読めません。『小野市史』別巻文化財編によりますと、上からケン・カン・ラン・バン・アンという種字が彫られているようです。彫られた時期は鎌倉時代後期後半ごろ、14世紀前半も早い時期としています。

 五輪塔は塔婆の一形式で、密教において始められた塔形式です。下方から方形・円形・三角形・半円形・宝珠形を積み上げ、地・水・火・風・空の五大をあらわすものとしています。この形の源流は、基本的に珠形を台座の上に安置し、笠をのせ、頂上に飾りの請花、宝珠をつけたもので、これに五大の思想を盛り込んだものであるといわれています。

 五大とは、万物構成の要素を五つに見たもので、地・水・火・風・空の性質をいい、また、種子(しゅじ)とは、密教で仏や菩薩を梵字一字で表現したものです。

 この板碑の種字は西への結界を表し、建立されている方向も西向きであり西方浄土、阿弥陀信仰にもとづくものでしょう。市内「浄土寺」に安置されている国宝阿弥陀三尊が西日があたると後光が輝くように。

 この板碑は愛嬌があり、水輪が大きく造られているように見えます。地輪が埋まって見えないからでしょうか。太鼓腹を突き出しているように見えたのが第1印象でした。

粟生

2005-10-01 | 播磨国風土記を歩く
 「播磨国風土記を歩く」というグループがあります。参加しないかというお誘いがあり、初めて参加し、賀茂郡川合里をめぐりました。

 JR加古川線粟生(あお)駅で下車、ここから約15キロの行程で歩きました。現在のように自動車があまり発達していない、鉄道が主な移動・運搬手段であったころ駅前に通じる街道はにぎやかであっただろうと思いました。今は家屋が連なりかつての面影を残しています。

 「川合里」は加古川中流域の小野市にあり、加古川と青野ヶ原台地に挟まれた西岸に位置します。『播磨国風土記』(以下風土記といいます)には川合という名がついたのは、端鹿川(現東条川)と鴨川(現万願寺川)がこの村で合流しているからこの名がついたとしています。

 粟生駅の粟生、小野市粟生という大字名です。『兵庫県の地名』平凡社、『角川日本地名大辞典』兵庫県の部、角川書店、いずれも粟ができた畑からという地名由来が書かれています。

 もともとアオという音があって漢字を後から当てたと考えればどうでしょうか。アオを文献で見ますと、
 ①青は阿保、芦屋村と関係があるのかもしれない。芦屋村主は百済の意宝荷羅支王の後裔と『新撰姓氏緑』に出ている。『地名の古代史』谷川健一・他
 ②アオと発音する地名は、海岸または島の名で、南方系の地名かという。『地名・苗字の起源99の謎』鈴木武樹
 ③「アオ」は(1)湿地 (2)青緑色。『新潟県地名考』五十嵐秀太郎
 ④(1)青という地名は物の色から来ているものもある。(2)粟の訛り。『南日本の地名』小川亥三郎
 ⑤アワ・アオはともに湿地とか、水辺とか、海辺を示す語。『丹後半島の旅 (上)』澤 潔
 ⑥(1)沖縄では青の島は死者が葬られる島に付けられた名前。(2)粟生、粟崎、阿尾の地名はすべて青に由来すると考えてよい。いずれも海人の活躍するところ  であった。『日本の地名』谷川健一
 ⑦青の字は金属に関連する。『日本山岳伝承の謎』谷 有二
 ⑧(1)埋葬地。(2)海人族とつながりがある。『姫路の地名あれこれ』田中早春

などがあります。

 それでは、いつ頃粟生という地名が出てくるのでしょう。『小野市史』によりますと、承和5年(838)に粟生荘は東大寺に施入された、とあります。『風土記』の書かれたのは、和銅6年(713)に出された撰進の命から、それほどたたない段階でつくられたとしますと、アオという地名は正式には認められていなかったのでしょう。そこに住んでいた人たちが通称として呼んでいたものかもしれません。

 『古事記』景行天皇の条にヤマトタケルが伊吹山の悪神と戦って山を下り、三重県三重村で「足が三重に曲がってひどく疲れた」と書かれています。これは、伊吹山周辺で行われいた金属精錬の鉱毒に犯されていたといわれています。『風土記』の賀茂郡の条には万願寺川の上流に三重里(加西市)の説話に「そこにすむ女が竹の子を抜いて食べたところ、立つことができずに足を三重に曲げて座り込んだ」とあり、その土地の毒にあてられたらしい。品遅部(ほんじべ)によって播磨に運ばれたものだと『青銅の神の足跡』の中で谷川健一さんは述べられています。万願寺川の下流にあたる川合里は流れてきた毒によってアオと呼ばれたのかもしれません。そう考えると金属に関係のある地名だとも思われます。

 次に、景観からみてみますと、粟生駅前の街道を北へ進むと県道23号線に突き当たります。県道から北を望みますと、耕地整理された広大な農地が広がっています。訪れたときには取り入れ前の稲穂が台風の影響がなったのか頭をたれていました。

 今から約100万年前から10万年位前まで大地の隆起が繰り返しあり、そこを川が削り込む。削り込んだ土砂は堆積し、現在見られるような低地が形成され、削り残されたところは青野ヶ原のような台地として残りました。

 低地では、加古川の流れは揺れ動き、洪水のたびに氾濫し流れは一定していなかったのでしょう。多数の流路跡が耕地整理以前の航空写真で見られると『小野市史第1巻』に示されています。加古川の水位が上がり、万願寺川からの水はけが悪くなると付近に大きな氾濫が起こり、湿地帯が現れたかもしれません。また、粟生の大薮には不気味な渕があり、ガータラというカッパがいたという伝説もあります。そのような土地の性質によってアオと呼ばれていたのかもしれません。

 下車した粟生という地名で遊んでみました。




暑いのに紅葉

2005-09-14 | 菅生ダム(明神湖) 
 台風15号の影響か蒸し暑い日が続きます。ダム湖周辺に植樹されたモミジが紅葉を始めています。夏の日差しによる葉焼けかなと思いまいたがそうではない。紅葉は気温が下がると始まるといわれていますが、毎日熱帯夜が続いているのに不思議です。木の種類かもしれませんが。。。

 紅葉といえば、毎日新聞9月9日付夕刊に「病める“紅葉”」と題する記事が出ていました。富山県の医王山(936m)でミズナラなどナラ類が南方系のカシノナガキクイムシが持つナラ菌が原因とされ、立ち枯れているという記事です。被害の原因は、温暖化、里山の荒廃による「繁殖場所」の増加、酸性雨による樹木の抵抗力の低下などだそうです。

 化石燃料の大量消費で、我々は非常に生活の質の向上という恩恵を受けてきました。その結果、ヒートアイランド現象による局地的な豪雨、それによる浸水被害、沿岸漁業の魚種の変化、酸性雨、オゾン層の破壊による紫外線の増大などが最近問題になっています。

 モミジとナラとの違いはありますが、一地方の小さな木を見ていろいろなことを考えるきっかけになりました。

2005-09-10 | 菅生ダム(明神湖) 





 ダム湖終点付近。県道の石積と自然の岩の隙間に、モモ・ウルシ・クズが仲良く生えています。この生命力はすごい。ウルシとクズの種子は小さいのでわかりますが、モモの種は大きいのでどうして発芽するまで落ち着いたのかな。

 モモの原産地は、中国及びペルシャ辺であろうというのが定説らしいのですが、ヨーロッパのモモは中国であろうとする説もあります。中国にはモモにかかわる伝説が多く、その中心思想はモモには邪気を払うという民族思想があります。

 わが国の「古事記」イザナギ命・イザナミ命の項、黄泉国の軍勢をモモの実3個をとって軍勢に投げつけました。すると黄泉国の軍勢はことごとく退散した、と見えます。これは中国の桃に邪気を払うという思想を受継いだものとされています。

 ここのモモの実は小さい。せいぜい4センチ程度の果実です。食べてみると渋く、酸っぱい。今は熟してきたので、少し甘みが出て確かにモモの味がしますが果肉が少なく種が大きい。これはモモの原種なのでしょうか。教えていただきたいと思います。上の写真は生育しているところ、下は果実の大きさです。

草坊主

2005-09-07 | 菅生ダム(明神湖) 
 ダム湖終点、菅生川に面白い姿をした石があります。石の上にススキとは違う、葉が細く、草丈が40~50センチもある草が生い茂っています。何の草だろうか?

 気をつけてみれば、あちこちの道路や川の堤防で見ることができます。土木構造物の法面(人工的に造られた傾斜面)保護のための植えられたものです。最近は大量の芝を入手することが困難なため、外来種の種子を利用するとのことです。

 使われる主な種類は、ケンタッキー31フェスタ・ウィーピングラブグラス・クリーピングレッドフェスタ・ホワイトクローバー・野芝などだそうです。野芝は日本でも見られるものですが、生育が遅いため、使われる頻度は低いとか。

 クローバーは分かるとして、クリーピングレッドフェスタは草丈が10~30センチというからこれも違う。これと野芝、クローバを除けば、後、ケンタッキーかウィーピングかどちらかです。ケンタッキーは常緑、ウィーピングは冬枯れるという性質らしい。冬に確認したいと思います。ここでは種子が飛んできて、石に張り付いて分けつし、写真のような姿になったのでしょう。

 外来種といえば、カミツキカメ、緑亀、ブラックバス、ブルーギル、インコなど野生化したものが、人間の都合のため移入されたものが、在来種の生態系を脅かしているとか。この草は大丈夫なのかな。注意してみると、ススキなど在来種のものとせめぎあいをしている場所があちこちの見られます。

 本題に戻りますが、この石を見ていると、水木しげるさんの漫画、“ゲゲゲの鬼太郎”を思い出します。大きな目玉を出して、たくさんの妖怪が踊り狂っている姿を想像してみて下さい。楽しいではありませんか。

 また、逆にこの世の未練ため、緑の髪を振り乱し、夜遅く現れるというようにも想像できます。入水自殺などのうわさは聞きませんが、湖があり、夜暗く、お膳立てはそろっていますが、そのようなことのない様に祈りたいものです。

時間差?

2005-09-03 | 菅生ダム(明神湖) 
 蒸し暑い。どうもこの気候は弱いです。標高220m程度のダムへ行けば少しは涼しいかなと思っていましたが、午前8時前だというのに、町と同じように27度の気温です。台風の影響かな。

 ダム建設のため、付け替えられた県道を歩いてみると、写真のような露岩が見えます。切取った斜面は、落石防護網、モルタルなどで防護されなかなか素顔が見えませんが、たまたま道路から離れているので、そのままにしておかれたのかも知れません。

 写真のAの岩の上にBの岩が乗っかっています。Aの岩が現れて、後Bの岩がその上に乗ったとしか思われません。ダムの諸元を見ると、基礎岩盤は中生代・白亜紀、生野層群、流紋岩質凝灰角礫岩とあります。何のことかな?

 「播磨の地理」自然編を見ると、中生代白亜紀には播磨一円が完全に陸化し、生野・相生層群流紋岩質岩などが噴出してきたとあります。これは雲仙普賢岳のような粘り気のある溶岩で約7000万年から8000万年前のこと。この後すぐに恐竜たちは滅亡していくのだそうです。

 そう考えると、何度も噴火がおこったことが理解できるような気がします。Aが噴出し、ようやく固まった後、再び噴火がおこり、Bがその上に乗ったと思われます。これも勝手に思っているだけですがーーー

 人の一生はぜいぜい80年、長く生きていても100年ですから気の遠くなるような過去の出来事です。想像すればSF映画を見ているような気になります。
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菅生ダム(明神湖)

2005-08-31 | 菅生ダム(明神湖) 
「足の向くまま、気の向くまま」のブログを始めました。

 日頃ホームグランドにしている菅生(スゴウと読みます)ダム周辺の道路を、ウォーキング方法を参考にしながら、体にある程度負荷をかけて歩いています。

 まず、ホームグランドの紹介しましょう。兵庫県内の播磨灘に流れ込む「夢前川」の支流になり、源流部にあたります。「兵庫県」のホームページによると飾磨郡夢前町莇野(アゾノ)にあり、昭和53(1978)に完成した重力式コンクリートダム、高さ55m、総貯水量195万㎥、洪水対策、既存水利に対する水の補給を目的としたダムです。

 愛称は「明神湖」、修験道の山で、播磨富士と呼ばれる秀麗な山容を持つ「明神山」の流域にあるところから名づけられています。 ダム周辺道路1周の長さは、自動車の距離計で4km。だいぶ自然が回復してきています。季節を感じながら歩いています。