足の向くまま、気の向くまま

興味のあるところ、日頃歩いているところの季節の移り変わりを感じたまま。

鶏足

2007-01-25 | 播磨国風土記を歩く
姫路市石倉から林田町まで歩いたときのことです。石倉バス停から少し北へ歩くと特徴のあるとんがった山が見えます。通称トンガリ山といって峰相山系の1峰です。

峰相山といえば『播磨国風土記』揖保郡の項「稲種山」に比定されている山です。この山は中世の地誌『峯相記』が有名ですが、それによれば神功皇后が三韓を治められたとき、新羅の王子を連れ帰り王子が草庵を結び千手観音の陀羅尼を誦したのが始まりだとしています。のち峰相山鶏足寺として隆盛を極めたということです。

峰相山鶏足寺の他に滋賀県伊香郡木ノ本町古橋に己高山鶏足寺、栃木県足利市小俣町に仏手山金剛王院鶏足寺があります。

己高山鶏足寺は、古くは修験場であったが、行基が仏像を刻んで寺を立て、白山開山の泰澄が修行場とした。のち、比叡山に入った天台宗の開祖最澄が再興したと縁起書にあります。行基・泰澄・最澄とほぼ同時代の高僧たちがかかわっています。

また、仏手山金剛王院鶏足寺は大同四年に修験の山石尊山を弟子の円仁から聞いた最澄が東大寺の僧定恵に伝え、定恵が山を切り開き一乗坊世尊寺を建立した。これが鶏足寺の草創です。天慶二年平将門の乱に僧定宥(定祐)が勅を奉じて将門を調伏、乱が平定したとき鶏足寺と改めた。将門平定のとき、定宥の枕に鶏が高らかに喝を唱える霊夢を見、将門の首に三足の鶏の足跡がついていたという伝説があります。

これらの鶏足寺は、お釈迦さんの十大弟子の一人、迦葉が入定された地を鶏足山だといわれるとこらから寺号に付けられたということがいわれています。しかし、伝承からは新羅から渡来してきた人たちの影響もあると思います。というのは、新羅の国の始祖は卵から生まれたという卵生神話があり、鶏を神聖視されているからです。

 地名から見ると、『日本山名事典』『大日本地名辞書』を引いてみると、茨城県東茨城郡城里町と栃木県芳賀郡茂木町の境、三重県亀山市と鈴鹿市の境にある野登山、一名を鶏足山といわれる山、岡山県高梁市と総社市の境にそれぞれ鶏足山が見えます。

 これらの地名由来は、山頂の大石に鶏の足跡があったからだとか、高梁市の伝説には、鬼退治を吉備津彦に頼んだ話があります。その鬼の正体は黒い鳥で足は鶏の足にそっくりだったことから鶏足といわれるようになったという地名起源の話があります。

 これらは、「鶏足」という日本語から付会されたものでしょうが、本当のことは分かりません。ご意見をいただきたいものです。

琴池

2006-11-17 | 播磨国風土記を歩く
 稲美町を歩いたときのことです。稲美町は西は加古川、北を流れる美嚢川、東の明石川に囲まれ、南には播磨灘の浸食作用によって形づくられた「いなみ野台地」と呼ばれている台地の中央部に位置しています。このような台地状の地形のため河川からの用水は期待できず、ため池によって古代から開拓たされた地域です。
 これらのため池も時代の要請にしたがって築造され、最盛期には140箇所以上もあったそうです。現在は89箇所に減少していますが、町域の12%がため池だといわれ、これらため池群は文化的景観として位置付けされイベントなどが開かれます。
 古代のため池工事は重機械もなく、人力で築造するため、困難を極めたと想像されます。やはり「入ヶ池(にゅうがいけ)」には「お入」という美女が人柱にたったという伝説があります。
 さて琴池ですが、稲美町の中心部にあり、中央公園、万葉の森に隣接しています。現在、周囲の長さ13.5キロメートル、満水時の面積10.5ヘクタール総貯水量275,000トンの規模を持っています。築造年代は不明だとしていますが、池の中に散在している土器の状況から中世から近世初めごろにつくられたとしています。池の名前は堤防が頻繁に決壊するので、琴を埋めたことによるという伝説からだといいます。
 楽器である琴には呪力があるのでしょうか。『日本書紀』景行天皇40年、ヤマトタケルの魂が白鳥となって留まった土地の一つに倭の「琴弾原」。『播磨国風土記』揖保郡の条に山田で働いていた娘の気を引こうとして琴を弾いて誘ったという「琴坂」。餝磨郡の条に暴れん坊のホアカリが父神の舟をひっくり返し琴が落ちたところが「琴神丘」。『出雲国風土記』飯石郡の条、石神が石琴を弾いていると見立てた「琴引山」。『肥前国風土記』神埼郡の条、宴をしたときに立てかけておいた琴が樟になったという「琴木岡」などが見えます。
 このように琴を演奏する地名の多くは神の出現する場所だとする説もあります。すなわち琴を演奏することは神の霊威の出現を期待することだといえると思います。琴そのものにも神の霊威を期待して堤防に埋めたという話も理解できます。
 現在は、親水護岸も整備され、町民の散策に提供されています。
 
次の資料を参考にしています。
稲美町ホームページ
「歴史地名通信」11号 平凡社地方資料センター
「風土記」 岩波書店
琴池 琴池・国岡土地改良区掲示板

 

生野から長谷へ

2006-05-01 | 播磨国風土記を歩く
 4月15日 AM8:44発の列車に乗り、途中電化した区間、寺前で乗り換え、気動車で分水嶺の町生野着9:48。現在JR播但線姫路、和田山間全線開通100周年記念のイベントが催されています。

 生野といえば銀山で有名です。江戸時代から明治時代の町並みも残っており、町おこしもさかんで一度は訪ねてみたい町です。魅力的な町ですから虜になるかもしれません。

 生野は但馬でしょうか、播磨でしょうか。行政区域は、朝来市で但馬側になっていますが、奈良時代の『播磨国風土記』に神前(かむざき)郡の条に“生野”が書かれています。それによると、「昔、ここに人に害する神がいて、行き来する人の半分を殺しました。これによって死野となづけられました。その後、応神天皇がこれは悪い名だ、とおっしゃって、改めて生野にしました」とあります。

 「死野」は以前から鉱毒が流れていたのではないか、という説があります。あるいはそうかも知れません。わが国でも最も古い鉱山のひとつですから。この山の付近の明延鉱山も有名です。独立行政法人 産業技術研究所のホームページによりますと、養父市関宮町中瀬鉱山、明延鉱山、生野鉱山と北西から南東へ斜めに鉱脈が走っているようです。生成時期は白亜紀後期(7億年~7千万年前)だそうです。
中瀬鉱山は金、銀、アンチモンを、明延・生野鉱山は銀、銅、鉛、亜鉛、錫、アンチモンを生産されていたそうです。

 明延鉱山は飛鳥時代には開山され、東大寺の大仏の鋳造にも明延産出の銅が使用されています。生野鉱山は大同2(807)年開坑だとの伝承があります。大同という年号はわずか4年、平安時代の初期にあたります。
 
 大同という時代には、鎮守府将軍坂上田村麻呂が蝦夷を平定しています。東北地方には田村麻呂が多くの社寺に蝦夷征伐の戦勝祈願をしたのでしょう。大同2年の伝承が非常に多く、鉱山の開坑の伝承も多いです。当地方では、『波賀町誌』によれば、宍粟市波賀町引原八幡宮の石碑に田村氏助(田村麻呂の子)が大同2年8月15日京都清水より播州清水へ移り、後当村へ移ったとあります。波賀町といえば千種町と並ぶ産鉄地です。俘囚として送られた蝦夷が開発に携わったのかも知れません。

 また、弘法大師空海が大同元年に帰朝して真言宗を創設し、大宰府に滞在しています。のち大同4年に平安京に移っています。空海ゆかりの四国霊場の寺院には大同年間の縁起が多く、また、各地にある空海伝説にも大同という年号が多く見られます。ほんの4年間で全国を回れるはずもありません。しかも鉱山と関係のある寺院にはこの年号が多いのです。坂上田村麻呂と空海と接点があるのでしょうか。教えていただきたいと思います。

 長谷まで歩く途中、播但線のトンネル名に「伯耆」「真名谷」という名称があり、地名からとられたものでしょう。興味のある地名です。今回は生野鉱山の大同2年にこだわってみました。写真は生野町の「姫宮神社」の桜です。




家島群島のうち上島・本島を歩く

2006-03-25 | 播磨国風土記を歩く
 久しぶりに投稿します。3月15日(水)天気快晴、波は穏やかな1日でした。
メンバーと一緒にチャーター船に乗り、まず上島に行きました。『播磨国風土記』に次の説話が載っています。

「神嶋  伊刀嶋(いとしま)の東なり。神嶋と稱ふ所以(ゆえ)は此の嶋の西の邊(へ)に石神在(いしがみいま)す。形、佛のみ像(すがた)に似たり。故(かれ)因(よ)りて名と為(な)す。此の神の顔に五つの色の玉あり。又、胸に流るる涙あり。是も五つの色なり。泣く所以は品太の天皇(ほむだのすめらみこと)のみ世、新羅の客来朝(まれびとまゐき)けり。仍(すなは)ち、此の神の奇偉(あや)しきを見て、常ならぬ珍玉(うづたま)と為(おも)ひ、其の面色(おもて)を屠(ほふ)りて、其の一つの瞳(まなこ)を掘(こじと)りぬ。神、因(よ)りて泣けり。ここに、大きに怒りて、即(やが)て暴風(あからしまかぜ)を起こし、客(まれびと)の船を打ち破りき。高嶋の南の濱に漂い没(しづ)みてひと悉(ことごと)に死亡(みう)せけり。乃(よ)りて其の濱に埋めき。故(かれ)、號(なづ)けて韓濱(からはま)といふ。今に、其処を過ぐる者は、心に慎み、固く戒めて、韓人と言わず、盲(めしひ)の事に拘(かかは)わらず。」『風土記(秋本吉郎 校注 岩波書店)』

 神嶋は現在の上島に比定されています。説話にある石神は見当たらず、現在は大本教がお祀りされています。理由はわかりませんが、何か神の啓示があったのでしょうか。説話のとおり航海の難所でしょう。上島灯台が建っています。

 続いて、家島本島へ向かい、家島神社へお参りをしました。神社掲示の沿革には、

延喜式内名神大社で、家島という地名は、神武天皇が大和へ向かわれる途中、当地に御寄航になられたところ、港内が大変おだやかで、「あたかも家の中にいるようで静かだ」として、名付けられたとある。

 宮司様のお話を聞きました。「名神大」のお宮で、いかに重要な港か、古事記などに見えるオノコロジマは淡路よりも家島群島がふさわしいのではないか、と熱っぽく語られていたのが印象的でした。

 港付近の「真浦神社」の境内で、子供たちがかくれんぼをしていました。最近物騒な世の中で、広場で子供たちが広場で遊ぶ姿が見られなくなっています。何かホッとしました。鬼になった子供が可愛かったのでスナップ写真を撮りましたが、肖像権とかの問題が生じる恐れがありますので、掲載はやめます。

 写真はご一緒した萩原貞昭様が撮影された上島の全景です。

茶髪の草坊主

2006-01-08 | 菅生ダム(明神湖) 
 今年の冬は、例年になく寒さが厳しいです。残暑が長く続き暖冬かなと思っていましたが外れました。ダム湖周辺の日陰へ行くとまだ雪が凍りつき歩くのに大変です。

 以前夏に「草坊主」というタイトルで投稿をしましたが、現在はどうなっているのか確かめに行きました。すると写真のように見るからに年寄りくさくなっていますが、枯れ落ちるでもなくしっかりとこびりつき歌舞伎役者のかぶりもののようです。この草は外来種のウィーピングラブグラスだと特定できました。

 これら外来種について、「外来生物法」という法律がありますが、その中では、この草はこの法律にいう特定生物に該当していません。経済優先の立場からなのでしょうか。

 この草は、播種後も長期間繁茂し、在来種の生育を妨げ、また流域下流の植生を撹乱する恐れがある植物だといわれています。我が国固有の生態系に影響が出ないうちに早く法面緑化の代替的な手法の確立が望まれます。

 “ゲゲゲの鬼太郎”も年寄になったものです。春には復活するでしょうがーーー妖怪の妖怪たるゆえんでしょうか。


一時の晴間

2005-12-30 | Weblog
 ミステリーバスツアーに参加しました。ミステリーだけあって行先も通過地点も秘密。添乗員さんも説明に困っただろうと思います。

 12月に入って例年にない寒波が押し寄せ、あちこちの高速道路が通行止めになる中、北陸道へ入っていきました。木之本から北は雪でいつ通行止めになるかと心配していましたが、どうにか通行できました。道路脇は除雪の雪の壁、猛烈な吹雪でさすが北陸だと感じました。瀬戸内では見られない光景です。

 観光地へ行く道中も、雪、みぞれ、雹など天から落ちてくる水の変化を一度に見ることができ刺激になりました。

 北日本の日本海側で冬に吹く北西風を「タマカゼ」といい、タマは霊魂のことでタマカゼは不意に吹く強い風のことで恐れられているそうです。同じような言葉に「アナジ」という言葉もあり、西北風のことだといわれています。これも鬼門から吹く風で、神に祈るべき風のことだといわれます。

 先日のJR羽越線の列車転覆事故も、この風の影響が大きいと新聞記事にありますが、痛ましいことです。一両40トンもある車両が浮き上がるような風の力に人間の力の及ぶところではないとつくづく思いました。

 能登半島志賀町のホテルでは空調がきいていて快適な空間でしたが、外は風が強くうなりをあげていました。朝、一時的に晴間がのぞき、どんよりした空に虹が彩を添えてくれました。

 シガという地名は全国的に見られますが、どのような意味があるのでしょうか。

多可

2005-12-09 | 播磨国風土記を歩く
 このたびは多可郡多可町中区の一部をを歩きました。多可町は播磨の北東部に位置し、加古川支流杉原川・野間川流域にあり、2005年11月1日に旧加美町・中町・八千代町が合併して新しく発足した町で丹波・但馬に接した町です。
 概観してみますと、加古川中流域以南はほとんど高い山はなく、旧八千代町以北から急に700~1,000m級の山が現れます。この地域は山崎断層系の影響があるのでしょうか。

 『播磨国風土記』には巨人が「この土地は天が高いので、体を伸ばして歩ける。高いなあ。そこでタカと郡という」という説話があります。また『播磨鑑』によりますと「この郡の由来は分からない。地形が高いから名づけられたか」とあります。

 『播磨国風土記』の説話は、山を擬人化して巨人の話としたものでしょう。土地の形をよく知った人の話だと思います。また、町内には銅鉱山の跡があり、播磨国二宮荒田神社に鍛冶の神、天一目命の伝説もあり古くから鉱山の開発が行われたことが伺われます。

 タカという地名と鉱山の結びつきが全国的に以外に多く見られます。高い山に鉱床があるからなのでしょうか。それを発見する人たちはどんな人たちだったのでしょうか。

黄色のじゅうたん

2005-12-01 | 菅生ダム(明神湖) 
 ダム湖周辺道路に休憩所が2箇所あります。南側休憩所の風景です。イチョウの葉が見事に黄葉し舗装道路に落葉していました。黄色いじゅうたんを敷きつめたようです。

 イチョウは中国原産といわれ、街路樹、社寺の境内、庭、盆栽などに植えられています。秋には見事な黄色に色づき街路などは黄金色の並木道になり、街の景観に彩を添えていえます。

 黄色といえば、交通信号や工事中の注意信号を連想します。赤・黄・青の原色が用いられ、人にとって強い訴えかけができるのかもしれません。

 また、黄(キ)は鬼(キ)に通じると考えれば、中国の民間信仰における霊的存在だとされ、人間の霊魂をさします。人間は死んだ後その魂は陰陽の間をさまよい、この世の人間に禍と福を与えるという信仰です。すなわち、生前に善行をつんだ人は神格を得て人格神となるが、横死したり無縁で祀るものがない霊魂は幽鬼となって祟りする。その鬼の祟りを鎮めるため、盂蘭盆など迷える鬼に供物を供え、その霊を慰めるという考えです。(平凡社刊 世界大百科事典)
 そのように見ると、社寺に植えられているのも納得がいくように思います。また、イチョウは枝や幹から気根ができ、これを乳といい、安産、子育ての信仰を得ている神社などもあります。

 ここのイチョウも周囲の山の緑と補色の関係があるのでしょうか、ひときわ鮮やかに見え、季節の移り変わりを感じさせてくれました。

 

 

ようやく紅葉

2005-11-20 | 菅生ダム(明神湖) 
 11月になり急に気温が下がってきました。以前“暑いのに紅葉”という記事を投稿しましたが、今は紅葉がはじまり、あのモミジは落葉もせず一層色づき見事な赤色に染まっています。やはり木の種類ですかなぁ。

 今見ごろですから、一度ご近所の方は足を運ばれたらよいと思います。穴場かもーーー

エンタシス

2005-10-30 | 播磨国風土記を歩く
 最近カタカナで表される言葉が数多くみられます。意味不明、何ことか分からない我が国で造られたものもたくさんあるのではないでしょうか。小野市にある「近津神社」の鳥居の説明板で“エンタシス”と書いてあるのを見て意外な感じを受けました。

 JR加古川線粟生駅の北西約1キロのところに「近津神社」が鎮座しています。東からの参道に新しい形式の鳥居と平行して、見るからに古い鳥居が建っています。兵庫県の文化財に指定されている鳥居です。説明板の全文を引用してみます。

 『凝灰岩で造られ、柱真々約1.8メートル、高さ約2.7メートルの鳥居である。丈は高いが、木割が太く、総体的に古い様式が認められる。とくに目立つのは、エンタシスをつけて直立する柱端部に向かって丈を減じつつ折れ上がった笠木、そしてその端を垂直にした切口などである。
 額束表に「近津宮」、裏に「大工藤原甚五郎奉本願筑前光明房 施主 天正廿年壬辰年十二月十六日 敬白」と記されており、天正20年(1592)の造立であることがわかる。
 現状は貫木の両端の差込み鼻を失っているが、古風さを今に伝えている。
         平成2年11月
                       兵庫県教育委員会』

 エンタシスは円柱のふくらみで、建物に視覚的な安定感を与えるものとされています。奈良の法隆寺や唐招提寺などで見られるものです。これは古代ギリシャの建築で見られるとのことですが、日本へ伝来したという学問的な根拠はないそうです。本当のことは私には分かりませんが、ロマンがあって面白いと思います。

 「近津神社」は万願寺川と加古川の合流点近くに鎮座し、多くの神社がこのような川の合流するところに祀られているところから、古くから信仰を集めてきたのでしょう。この信仰は、背後の山と一体となって性の交換の場所であったことから始まったという説もあります。この神社も古い時代から祀られてきた神社ですからどうなのでしょう。