夕暮れにはまだ少し早い、10月の、高く蒼い空。
月命日の墓参に来た川上巌(いわお)は、手桶の水を杓子で墓石に流し、妻が生前手縫いしていた布巾で拭き清めた。
自宅の庭から切ってきた、妻の好きだった桔梗を供え、蝋燭を立てる。
束ごとの線香に火をつけ振り消し、しゃがんで目を閉じ手を合わせ、(よお元気でやってるかぃ、まぁ死んじまったもんに元気かはないなぁ)そんな言葉をいつも通り頭の中で呟いて・・・ふと人の気配を感じた巌は、前列右5つほど離れた墓の前に佇む和服姿も上品な婦人に気づく。
あぁまた来ていらっしゃる、お見かけするのはこれで何度目だろうか、長いこと手を合わせているところを見ると御主人にでも先立たれたのだろうか。
・・・いかんいかん。頼子の墓の前で。何をか一人思っては妻の墓前で謝っているのだろうと苦笑いしつつ、日本酒の小瓶と猪口を2つバッグから取り出す。
妻の頼子は程良く酒が好きで、季節の肴をこしらえては毎晩のように一緒に晩酌したものだった。春は蕨のお浸しやフキノトウ味噌・若竹煮、夏は小さな畑で育てた枝豆の塩茹でやシシトウ焼き・茗荷の味噌漬け、などというように。
持参した折り畳み椅子に腰掛け、2つの猪口に酒を注いで1つを口元に運び、視界の隅に和服の墓参者を感じている。腰を落とし頭を垂れ、ただただ静かに手を合わせ、やがてその人は衣擦れの音も密かに帰ってゆくのだった。
広い霊園の出入り口付近のススキが音もなく風に揺らいでいるのを見やり、“枯れすすき”という言葉を思い浮かべる。70歳になる自分のことをまさに“枯れすすき”であることだと失笑しつつ、痩せた肩を上げ下げなどして、暮れ始めた空に包まれ、いつも通り一人家路を辿るのだった。
翌月命日は墓参を午前中に済ませようと、一人きりの朝食の後、支度をして家を出た。
決して近くはない霊園への道を、雨風ない日は、ゆったりと景色など見ながら歩いてゆくのが常である。
墓に向かおうとして、ふと例の御婦人の家の墓石を見てみようという気になった。吉峰家と書かれたその墓の前で軽く手を合わせた巌は、墓誌に刻まれた一番新しい日付を見て驚いた。
3年前、武志という名の主(あるじ)が、頼子と同じ月日に同じ65歳で亡くなっていたのである。巌はあらためて墓前に居直り、今度は長く合掌した。
「あら・・・」その小さく柔らかな声に振り向くと、あの御婦人が花を携えて歩いて来るではないか。
巌は一瞬カーーーッと顔が熱くなるのを感じた。なんというところを見られてしまったのだろう。なんと言い訳したらよいものか。
「ありがとうございます、主人も喜びますわ、お優しい方」
その言葉に救われたように思いながらも、また尚更に居たたまれず頭を下げるばかり。そんな気持ちも知らぬ素振りで、婦人はにこやかに話を続ける。
「何度かお見受けしていましたのよ。なんとも羨ましくて。不躾ですが・・・奥様とお酒を?」
そこで初めて巌は口を開いた。
「お恥ずかしゅうございます。家内は昨年亡くなりまして・・・よく一緒に晩酌していたものですから」
「そうでしたの。私も主人が元気な頃は、えぇ・・・でも女が独り墓前でお酒では絵になりませんでしょ、ですから羨ましく拝見しておりましたのよ」
そう言って婦人は顔をほころばせた。頼子と同い年くらいだろうか、その笑顔が人懐こく少女のように思われて、巌は再び気恥ずかしく思ってしまう。
「・・・では・・・失礼致しました」一刻も早くこの場を立ち去りたい。
「あら、奥様のお参りはもう済みまして?」
なんたること!あんまり慌てていたものだから・・・巌はもう消え入りたい想いで、幾分禿げ上がった額を掌で押さえるばかりなのだった。
すると御婦人、「お待ちになって、今、主人に声をかけますから。そしたら奥様のお参り、私もさせていただいて宜しいでしょうか」と言うではないか。
「は、はぁ・・・」まるで木偶の坊のようにヌボォとした風情で婦人が合掌する姿を見ながら、巌は高まる鼓動を必死で押さえようとしていた。
霊園の出口までの道すがら並んで歩きながら、吉峰澄子と名乗ったその美しい人は、馴れ馴れしくない程度に楽しげに話しをした。とは言っても、巌があまり饒舌ではないので気を遣ってくれたとも考えられる。
出口まで来た時、「久しぶりに楽しい月命日になりました。なんだかお喋りしすぎたようで。静かな時間をお邪魔してしまいました」
澄子は、そう言って一礼した。
「いえいえ、とんでもございません、こちらこそ大変楽しゅうございました」
巌も頭を下げる。穏やかな1日になりそうな心地よい秋風。すっかりフワリと金色になったススキが揺れている。
その柔らかな様を見ながら澄子が言った。「秋も深まりましたこと。風に揺れるススキというのは本当に綺麗ですねぇ」
「きれい・・・ですか?」
「えぇとっても。」そうして澄子は、また来月お会いできたら宜しいですね、と微笑み去っていった。
家に帰ってきた巌は、すぐさま仏壇の前へ。
頼子の写真を見つめていると、遠い昔の一コマが思い出されてきた。
見合い結婚だった2人。そのささやかな式の、明くる日夕暮れの散歩道。頼子が道端のススキを指差し、巌に問うた。
「これ、なんというか知ってますよね」
「あぁ?なんだ。ススキだよ。」
「もう一度おっしゃって。」
「なんだい、ススキだよ。」
すると頼子は、いたずらっぽいような顔をして、こう言ったのだった。
「ススキ。ス・ス・キです、巌さん。」
当惑する巌に、今度は真顔で、「好きです。貴方が好きです。末永くよろしくお願いします」
遠い昔の秋の日・・・妻がいなくなった暮らし・・・
ほんの少しのことで今なお揺れる心・・・秋風にサワサワと揺れる枯れすすき・・・
巌は独り泣いた。いつもの悲しい涙ではなかった。
何故かしら今日は、暖かな気持ちが、後から後から溢れてくるのだった。
月命日の墓参に来た川上巌(いわお)は、手桶の水を杓子で墓石に流し、妻が生前手縫いしていた布巾で拭き清めた。
自宅の庭から切ってきた、妻の好きだった桔梗を供え、蝋燭を立てる。
束ごとの線香に火をつけ振り消し、しゃがんで目を閉じ手を合わせ、(よお元気でやってるかぃ、まぁ死んじまったもんに元気かはないなぁ)そんな言葉をいつも通り頭の中で呟いて・・・ふと人の気配を感じた巌は、前列右5つほど離れた墓の前に佇む和服姿も上品な婦人に気づく。
あぁまた来ていらっしゃる、お見かけするのはこれで何度目だろうか、長いこと手を合わせているところを見ると御主人にでも先立たれたのだろうか。
・・・いかんいかん。頼子の墓の前で。何をか一人思っては妻の墓前で謝っているのだろうと苦笑いしつつ、日本酒の小瓶と猪口を2つバッグから取り出す。
妻の頼子は程良く酒が好きで、季節の肴をこしらえては毎晩のように一緒に晩酌したものだった。春は蕨のお浸しやフキノトウ味噌・若竹煮、夏は小さな畑で育てた枝豆の塩茹でやシシトウ焼き・茗荷の味噌漬け、などというように。
持参した折り畳み椅子に腰掛け、2つの猪口に酒を注いで1つを口元に運び、視界の隅に和服の墓参者を感じている。腰を落とし頭を垂れ、ただただ静かに手を合わせ、やがてその人は衣擦れの音も密かに帰ってゆくのだった。
広い霊園の出入り口付近のススキが音もなく風に揺らいでいるのを見やり、“枯れすすき”という言葉を思い浮かべる。70歳になる自分のことをまさに“枯れすすき”であることだと失笑しつつ、痩せた肩を上げ下げなどして、暮れ始めた空に包まれ、いつも通り一人家路を辿るのだった。
翌月命日は墓参を午前中に済ませようと、一人きりの朝食の後、支度をして家を出た。
決して近くはない霊園への道を、雨風ない日は、ゆったりと景色など見ながら歩いてゆくのが常である。
墓に向かおうとして、ふと例の御婦人の家の墓石を見てみようという気になった。吉峰家と書かれたその墓の前で軽く手を合わせた巌は、墓誌に刻まれた一番新しい日付を見て驚いた。
3年前、武志という名の主(あるじ)が、頼子と同じ月日に同じ65歳で亡くなっていたのである。巌はあらためて墓前に居直り、今度は長く合掌した。
「あら・・・」その小さく柔らかな声に振り向くと、あの御婦人が花を携えて歩いて来るではないか。
巌は一瞬カーーーッと顔が熱くなるのを感じた。なんというところを見られてしまったのだろう。なんと言い訳したらよいものか。
「ありがとうございます、主人も喜びますわ、お優しい方」
その言葉に救われたように思いながらも、また尚更に居たたまれず頭を下げるばかり。そんな気持ちも知らぬ素振りで、婦人はにこやかに話を続ける。
「何度かお見受けしていましたのよ。なんとも羨ましくて。不躾ですが・・・奥様とお酒を?」
そこで初めて巌は口を開いた。
「お恥ずかしゅうございます。家内は昨年亡くなりまして・・・よく一緒に晩酌していたものですから」
「そうでしたの。私も主人が元気な頃は、えぇ・・・でも女が独り墓前でお酒では絵になりませんでしょ、ですから羨ましく拝見しておりましたのよ」
そう言って婦人は顔をほころばせた。頼子と同い年くらいだろうか、その笑顔が人懐こく少女のように思われて、巌は再び気恥ずかしく思ってしまう。
「・・・では・・・失礼致しました」一刻も早くこの場を立ち去りたい。
「あら、奥様のお参りはもう済みまして?」
なんたること!あんまり慌てていたものだから・・・巌はもう消え入りたい想いで、幾分禿げ上がった額を掌で押さえるばかりなのだった。
すると御婦人、「お待ちになって、今、主人に声をかけますから。そしたら奥様のお参り、私もさせていただいて宜しいでしょうか」と言うではないか。
「は、はぁ・・・」まるで木偶の坊のようにヌボォとした風情で婦人が合掌する姿を見ながら、巌は高まる鼓動を必死で押さえようとしていた。
霊園の出口までの道すがら並んで歩きながら、吉峰澄子と名乗ったその美しい人は、馴れ馴れしくない程度に楽しげに話しをした。とは言っても、巌があまり饒舌ではないので気を遣ってくれたとも考えられる。
出口まで来た時、「久しぶりに楽しい月命日になりました。なんだかお喋りしすぎたようで。静かな時間をお邪魔してしまいました」
澄子は、そう言って一礼した。
「いえいえ、とんでもございません、こちらこそ大変楽しゅうございました」
巌も頭を下げる。穏やかな1日になりそうな心地よい秋風。すっかりフワリと金色になったススキが揺れている。
その柔らかな様を見ながら澄子が言った。「秋も深まりましたこと。風に揺れるススキというのは本当に綺麗ですねぇ」
「きれい・・・ですか?」
「えぇとっても。」そうして澄子は、また来月お会いできたら宜しいですね、と微笑み去っていった。
家に帰ってきた巌は、すぐさま仏壇の前へ。
頼子の写真を見つめていると、遠い昔の一コマが思い出されてきた。
見合い結婚だった2人。そのささやかな式の、明くる日夕暮れの散歩道。頼子が道端のススキを指差し、巌に問うた。
「これ、なんというか知ってますよね」
「あぁ?なんだ。ススキだよ。」
「もう一度おっしゃって。」
「なんだい、ススキだよ。」
すると頼子は、いたずらっぽいような顔をして、こう言ったのだった。
「ススキ。ス・ス・キです、巌さん。」
当惑する巌に、今度は真顔で、「好きです。貴方が好きです。末永くよろしくお願いします」
遠い昔の秋の日・・・妻がいなくなった暮らし・・・
ほんの少しのことで今なお揺れる心・・・秋風にサワサワと揺れる枯れすすき・・・
巌は独り泣いた。いつもの悲しい涙ではなかった。
何故かしら今日は、暖かな気持ちが、後から後から溢れてくるのだった。