2013年3月31日イースター礼拝メッセージ
『もしキリストが復活しなかったのなら』
【Ⅰコリント15:12~20】
はじめに
きょうはイエス・キリストが十字架で死んでから三日目によみがえったことを祝うイースターの日です。このイースター礼拝の説教箇所として示された箇所は第一コリント15章の12節からです。この第一コリント15章の始めのほうで、パウロは復活したイエス・キリストが弟子たちの前に現れたことを記しています。3節から8節までをお読みします。
15:3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
パウロがまだキリスト者を迫害していた頃にダマスコ途上で復活したキリストに会ったのは、キリストの復活から3,4年後のことです。キリストが復活してから間もない頃というのは、このようにキリストは強烈な形で弟子たちの前に現れたのですね。
1.キリストが復活しなかったのなら、私たちは一番哀れな者
しかし、それ以降は、キリストはこのような強烈な形では現れなくなりました。そしてコリントの教会では死者の復活を信じない者がいたようです。死者の復活を信じないということは、キリストの復活を信じないということです。そのように復活を信じない者たちがいることを憂慮してパウロは14節のように書いています。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
そしてさらにパウロは19節で次のように書いています。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
この19節は強烈ですね。キリストが復活したという確信がなく単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者だというわけです。この「私たち」というのは、パウロの時代の人々のことですが、これはもちろん現代の「私たち」にも当てはまることです。日本人の多くが休暇を楽しんでいる日曜日に私たちは毎週このように集まって来て、多くの時間をこれに費やし、また多額の献金もします。教会に献金しなければ、もっと他にいろいろな使いみちがあるでしょう。これで、もしキリストの復活が無かったのなら、私たちは本当に、全ての人の中で一番哀れな者であると言えるでしょう。
私の場合は仕事を辞めて神学校に入り、制約の多い寮生活をしました。ですから、寮にいた時は、もしキリストが復活しなかったのなら、自分は本当に全ての人の中で一番哀れな者になってしまうと思いました。このことを特に強烈に感じたのは、神学校の一年生の時の1月の中頃でした。
私は神学校の寮に入るまでは、一人暮らしでしたから、本当に好き勝手に気ままに暮らしていました。それが、神学校の寮に入って急に自由の少ない生活をすることになりました。私が入学した時の5年前は、今と違ってまだまだ厳しい規則がたくさん残っていましたから、本当に大変でした。散歩程度の外出なら毎日出ることができましたが、電車に乗っての外出は2週間に一度だけで、それも寮監から外出許可を得なければなりませんでした。それでも、もし日曜日の教会の奉仕が神学校と同じキャンパスにある教会でなければ、特に許可は要らずに毎週日曜日には電車に乗って遠くの教会に行くことができましたから、その時に息抜きもできるのですが、私の場合、1年生の時は日曜日の教会の奉仕は神学校と同じキャンパス内の教会でしたから、本当に閉じ込められているという気がしていました。
そんな1年生の時の1月のある日、インターネットを見ていて、映画のエキストラの仲間たちが新年会をしている様子の写真を目にしたのですね。神学校に入る前、私は映画のエキストラに出ることが面白くてたまりませんでした。映画の現場というのは本当に魅力的な場所です。有名な俳優さんのすぐ近くにいることができる、ということもありますが、それだけではなくて、映画監督やカメラマン、照明や録音の技術者たち、美術関係や衣装やメイクの担当者などのプロの仕事ぶりを間近で見られるということも、また大きな魅力でした。そして、雑音が入らないようにシーンと静まりかえった本番前は気持ちの良い緊張感に包まれます。エキストラでは、そのような魅力的な場に身を置くことができましたし、新年会の時は、映画関係者と共に宴会を楽しむことができました。私がインターネットで見た新年会の写真は、前の年まで私も毎年出席していたものでした。
神学校に入った私は仕事を辞めていましたから社会的地位も収入もなく、大好きだったエキストラにも出られず、新年会にも出られず、外出許可をもらわなければ電車に乗ることもできない身でした。その時私は、もしキリストの復活がなかったのなら、私こそがすべての人の中で一番哀れな者だろうと思いました。
ですから、私は、この1年生の時の1月から3月に掛けては、キリストは本当に復活したのだという強固な確信を得るために必死になりました。そして、私は確信を得ました。そのことは、後で話すことにして、ここでは、なぜキリストの復活がそれほどまでに重要なのかということを、もう少し話させていただきます。
2.復活がなかったなら神が命を造ったか分からず、戒めも守れない
キリストの復活を信じることはキリスト教の信仰の根幹に関わる、極めて重要なことです。仮に洗礼を受けた人であっても、もしキリストの復活を信じていないのであれば、その人はクリスチャンとは言えないと言っても良いと私は思います。キリストの復活を信じることは、それほど大切なことです。
なぜそれほどまでに大切なのか、それは、これまでも何度か話して来たと思いますが、キリストが復活したことと、神が私たちの命を創造したこととは、密接な関係があるからです。神が死者を復活させることができるなら、命を造ることもできます。死者を復活させることができないなら、命を造ることもできないでしょう。ですから、もしキリストが復活しなかったのなら、神が命を造ったかどうかも分からないことになってしまいます。もし神が私たちの命を造ったのでなければ、私たちは聖書に書かれている神の戒めも守る必要はないでしょう。私たちが神の戒めを守らなければならないのは、神が私たちの命を造られたからです。
新聞や雑誌などの若い人向けの人生相談などで、時々、「どうして人を殺してはいけないのですか」という質問を見受けることがあります。回答者はいろいろ苦心して回答しています。周囲の人々が悲しむとか、人に迷惑を掛けるとか、社会的損失が大きいとか、いろいろな回答があります。しかし、私たち神を信じる者にとっては、人を殺してはいけない理由は単純です。それは神様が「殺してはならない」(出エジプト20:13)とおっしゃっているからです。私たちクリスチャンの善悪の基準は神様のおっしゃることが絶対的な基準になっています。神様が良いと言うことが良いことであり、神様が悪いと言うことが悪いことです。実に単純です。神様が私たちの命を造られたから、神様がおっしゃることが絶対的な基準になるのです。ですから、もし神様が私たちの命を造ったかどうかわからないのであれば、神様の戒めを守る必然性はないでしょう。その場合、私たちは善悪の判断基準を別のものさしで決めなければならなくなります。
もしキリストの復活がなかったとしたら、神が私たちの命を造ったということを、どうやって信じたら良いでしょうか。それは、とても難しく、キリストの復活は単なる希望になってしまいます。そして、キリストの復活の確信がないなら、神の戒めも守ることはできません。しかし、幸いなことに、イエス・キリストは復活しましたから、私たちは神様が私たちの命を造ったことを信じることができます。
では、イエス・キリストが復活したことの確信はどうしたら得られるでしょうか。これは、お一人お一人が真剣に向き合わなければならないことだと思います。これから話すことは私が個人的に納得したことですから、もし皆さんの中で、まだキリストが復活したことの確信を得る作業をしていない人は、ぜひご自身で取り組んでいただきたいと思います。
3.使徒たちが迫害に負けずに宣教できたのは聖霊の力を得たから
きょうの聖書の交読では、マタイの28章をご一緒に読みました。私がイエス・キリストの復活を信じる最も大きな拠り所としているのが、この28章の15節です。
「そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」
ここで、金をもらった彼らというのは、墓の番をしていた番兵たちのことです。この番兵たちに金を与えて指図したのは、イエスを十字架に付けて殺した祭司長たちです。そして「指図」の内容は13節に書いてあることです。祭司長たちは番兵たちに、13節のように言うように指図しました。
「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った」
ここからわかることは、イエスが墓から消えたということは、事実であるということです。「この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に至っている」ということですから、イエスが本当に復活したのか、弟子たちがイエスを盗んだのかはともかく、イエスが墓から消えたことは事実であることがわかります。
では、イエスはどうして消えたのでしょうか。考えられる可能性は、イエスは本当に復活したのだということと、このユダヤ人の間に広まった話のように実は弟子たちがイエスの遺体を盗んだのだということと、もう一つ、実はイエスは完全には死んでおらずに蘇生したのだ、ということです。
この3つめのイエスが蘇生したということは、あり得ないでしょう。死刑を実際に執行したローマ兵たちはイエスが死んだことをしっかりと見届けています。もし半端な仕事をしていればローマ兵たちは、自分たちが罰せられてしまいますから、しっかりと仕事をしたはずです。さらに祭司長たちもイエスに確実に死んでもらわなければ困る事情がありました。27章の62節から64節までに、次のように書いてあります。
27:62 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」
このように、祭司長たちは、イエスが確実に死に、ずっと墓にとどまっていてくれなければ困るという事情がありましたから、イエスが確実に死んだことは祭司長たちも見届けたはずです。ですから、イエスが実は完全に死んではおらず、蘇生したのだという考えは否定されます。
では、祭司長たちが広めた話のように、弟子たちがイエスの遺体を墓から盗み出した可能性はどうでしょうか。もし弟子たちがイエスの遺体を盗み出したのだとしたら、弟子たちはイエスが死んで、復活もしなかったことを知った上で、宣教活動をしていたことになります。そんなことが可能でしょうか。1年か2年は可能かもしれませんね。しかし、3年、4年も可能でしょうか。特に3,4年後ぐらいのステパノの殉教からは迫害が激しくなっていました。イエスは死んで、よみがえらなかったということを知りながら、頑張って嘘をつきながら宣教を続けることができたでしょうか。できるはずはありませんね。私たちは、人はそんなに強くないことを知っています。3年ぐらいは頑張れたとしても、ペテロやパウロのように30年も頑張ることはできないでしょう。ペテロやパウロが頑張ることができたのは、聖霊による力を受けていたからです。使徒の働き1章8節でイエス・キリストが言っている通りです。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
ペテロやパウロたちは様々な迫害に遭いながらも、頑張り続けることができました。それは聖霊によって力を受けていたからこそです。そのことは、使徒の働きを読むと、よくわかります。使徒の働きは、使徒たちの働きというよりは、聖霊の働きについて書かれた書です。弟子たちは、聖霊の働きにより力を受けて宣教を続けることができました。
このことは、1世紀のペテロやパウロたちの時代に限りません、2世紀以降、21世紀の現代の私たちの時代まで、ずっと続いていることです。例えば、日本にキリスト教が初めて伝えられた、ザビエルの時代も、ヨーロッパの宣教師たちは大変な苦労をしながら海を渡って宣教活動をしていました。遠藤周作の『沈黙』という小説は、ザビエルより少し後の江戸時代の初期に、キリシタンへの迫害が強まっていた日本にわざわざやって来て大変な目に遭う宣教師の姿を描いています。迫害があっても、なお宣教を行うことができるのは、聖霊によって力を得ているからです。
現代の日本ではキリスト教徒に対する過激な迫害というものはありません。もちろん私も迫害に遭ったことはありません。ですから、もし私が迫害に遭ったら信仰を守り通すことができるのかどうか、それは迫害に遭ってみなければわかりません。私は絶対に迫害に屈しませんと強がってみても、鶏が鳴く前にペテロが三度イエスを知らないと言ったように、簡単に屈してしまうかもしれません。ただし、ペテロと私が違うのは、私には聖霊が力を与えて下さっているということです。ペテロがイエスを知らないと言った時には、まだペテロは聖霊の力を受けていませんでしたから、簡単に屈してしまいました。私の場合は、聖霊にすべてを委ねれば、ある程度は頑張れるのかもしれないと思っています。
このような覚悟は、一度にできるものではありません。私の場合は、少しずつ、少しずつ、覚悟ができて来ました。まだ神学校への入学を考える前、もしかしたら神様は私を用いようとしているかもしれないと、ふと感じたことがありました。その時、私は恐怖感を覚えました。伝道者になるということは、迫害をも覚悟しなければならないと思ったからです。しかし、そのような恐怖は少しずつ薄らいでいきました。それもきっと、聖霊の力によるものだと思います。
いま私は、ヨハネの福音書の重大な秘密を神様から教えていただいています。それで、この姫路教会の説教の場で、皆さんに説明しながら、これはアウグスティヌスやルターも気付かなかったことなのだ、などと大それたことを言っています。こんな大それたことを言う私のことを皆さんは、どう思ってらっしゃるか良くわかりませんが、私にしてみれば、これはこれで、けっこう恐ろしいことです。アウグスティヌスやルターでさえ気付かなったことを神様が私に教え、私を用いようとしているならば、サタンが放っておくはずがありません。ですから、サタンはいろいろな妨害をすることでしょう。このサタンの攻撃に対する恐怖心を私は持っています。しかし、聖霊が私に力を与えて下さっていますから、私はこの恐怖心をかなり克服できています。
ヨハネの福音書の構造についての説教に関しては、皆さんが忍耐強く聞いて下さったことを、本当に感謝に思っています。皆さんの反応を見ながら、私も大いに考えさせられ、ヨハネの福音書の学びを進めることができました。
皆さんの反応を見ていてわかったことは、ヨハネの福音書の構造についていくら説明しても、伝道にはあまり役に立たないのだということです。学問的には価値があることかもしれませんが、私は学者ではなく伝道者ですから、伝道の役に立たなければ意味がありません。どうしたらヨハネの福音書の構造の学びを伝道に生かしていくことができるのか、私は随分と考えさせられました。そして、この姫路教会でのご奉仕の最後の最後になって、一つの答が与えられたように感じています。
それは、週報の3ページ目の下段と月報の4月号に書いたことですが、ヨハネの福音書の学びを通じて、「霊性とは何か」が何となく分かってきたということです。そして、人々が霊性を高めることができるよう、お手伝いすることが、ヨハネの福音書を伝道に役立てることではないか、と感じています。週報3ページ目の下段をそのまま読ませていただきます。
『「霊性」とは、ひどく漠然としたことばであり、「霊性とは何か」を文章で書き表すことは不可能であろうと私はこれまで考えていました。しかし姫路教会で思い巡らす日々を過ごすうち、私なりの考えがかなり結晶化して来ました。ここに姫路教会での思い巡らしの総決算として文章化に挑戦してみることにします。
ここでは「理性」・「感性」・「霊性」を比較しながら考えることにします。「理性」が働いている時は時間管理がしっかり出来ている時です。ルカ10章のマルタのように段取り良く多くのことをテキパキとこなすことができます。「霊性」を高めるには、まずこの忙しい状態から脱する必要があります。すると「感性」または「霊性」を働かせることができます。「感性」が働いている時は現在のみを感じながら過ごしている時でしょう。そして「霊性」が働いている時とは、過去と未来を感じながら過ごす時です。しかし特定の過去のみにこだわると悪霊に利用される危険性があります。良い霊性は永遠の中にいる神と交わり、旧約・新約の全ての時代を「現在」と感じることで高められるでしょう。』
続いて、月報の4月号の下半分をお読みします。「ヨハネ4:24」というところからです。ヨハネ4:24とは、次の聖句です。
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
では、月報をお読みします。
『ヨハネ4:24にあるように神は霊ですから、神を礼拝する者は良い霊性を養い、高める必要があります。そのためには週報に書いたように、永遠の中にいる神、アルファでありオメガである神と交わりを持つことです。神にとってはアブラハムもモーセもペテロもパウロも私たちも皆、同じ時間の中にいます。ですから私たちも聖書を読む時にこれらの人物を皆同じくらいに身近に感じるなら、神との交わりに入れていただけていると思って良いでしょう。』
ここで解説を少し入れさせていただくと、週報に書いたように「理性」が働いている時は、過去・現在・未来の時間の流れを意識して時間管理がしっかりできている時と言えると思います。字数の制限がありますので詳しいことは省略していますが、たとえば離人症など、ある種の精神病を発病している方などは、時間の感じ方が健常者とは異なるようです。そういう意味で、過去・現在・未来の時間観と理性とは密接に関連していると言えると思います。
そして「感性」は「現在」を感じ、「霊性」は「過去」と「未来」を感じる力ではないかと私は考えるようになりました。ただし週報に書いたように、特定の過去だけに捉われると、霊でも悪霊に狙われます。サタンの誘惑により過去のことに対して恨みを持つようになり、平和が乱され、戦争が起こります。ですから、良い霊性というのは、特定の過去ではなく、すべての「過去」を平等に「現在」と感じる力だと私は考えます。月報の続きを読みます。
『しかしアブラハムはペテロよりも古い時代の人物であると考えてしまうと霊性ではなく理性に支配されており、神との交わりはあまりできていないでしょう。十字架も同様です。十字架はモーセより後でパウロよりも前なのではなく、神にとっては全てが現在です。私たちはこのことを「旧約の時代」・「イエスの時代」・「使徒の時代」が並行するヨハネの福音書から知ることができます。』
ヨハネの福音書の構造が、丸ごと頭の中に入ると、アブラハムの時代もイエスの時代もパウロの時代も全部、同じ時間の中にあることを感じることができます。これこそが、霊性なのだと、今私はかなりの確信を持って考えています。ヨハネの福音書は「霊的な福音書」であると言われています。ヨハネの福音書を読むと、神様との交わりを感じることができます。神様と交わるとは、過去から未来までのすべての時間が現在である、そういう時間観の中に身を置くことだと思います。そうできるようになることが、霊性を高めることなのだと思います。
おわりに
霊性に目覚め、霊性を高めることは、信仰を持つ者にとって本当に大事なことです。私の姫路でのご奉仕の最後の最後になってしまいましたが、きょう、このように皆さんと大事なことを分かち合うことができたことを、うれしく思います。
イエス・キリストは十字架で死んで三日目に復活した後に、天に昇り、聖霊を私たちに与えて下さり、私たちが神様と霊的な交わりができるようにして下さいました。そして、聖霊の力を得ることができるようにして下さいました。これは、イエス・キリストが十字架で死んで復活しなければ、かなわなかったことです。
もし、キリストが復活しなかったのなら、私たちは聖霊の力を得ることができず、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、イエス・キリストは死者の中からよみがえられましたから、今週もまた、聖霊の力をいただきながら歩んで行くことができます。この素晴らしい恵みを感じながら、これからも力強く歩んで行くお互いでありたいと思います。
『もしキリストが復活しなかったのなら』
【Ⅰコリント15:12~20】
はじめに
きょうはイエス・キリストが十字架で死んでから三日目によみがえったことを祝うイースターの日です。このイースター礼拝の説教箇所として示された箇所は第一コリント15章の12節からです。この第一コリント15章の始めのほうで、パウロは復活したイエス・キリストが弟子たちの前に現れたことを記しています。3節から8節までをお読みします。
15:3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
パウロがまだキリスト者を迫害していた頃にダマスコ途上で復活したキリストに会ったのは、キリストの復活から3,4年後のことです。キリストが復活してから間もない頃というのは、このようにキリストは強烈な形で弟子たちの前に現れたのですね。
1.キリストが復活しなかったのなら、私たちは一番哀れな者
しかし、それ以降は、キリストはこのような強烈な形では現れなくなりました。そしてコリントの教会では死者の復活を信じない者がいたようです。死者の復活を信じないということは、キリストの復活を信じないということです。そのように復活を信じない者たちがいることを憂慮してパウロは14節のように書いています。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
そしてさらにパウロは19節で次のように書いています。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
この19節は強烈ですね。キリストが復活したという確信がなく単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者だというわけです。この「私たち」というのは、パウロの時代の人々のことですが、これはもちろん現代の「私たち」にも当てはまることです。日本人の多くが休暇を楽しんでいる日曜日に私たちは毎週このように集まって来て、多くの時間をこれに費やし、また多額の献金もします。教会に献金しなければ、もっと他にいろいろな使いみちがあるでしょう。これで、もしキリストの復活が無かったのなら、私たちは本当に、全ての人の中で一番哀れな者であると言えるでしょう。
私の場合は仕事を辞めて神学校に入り、制約の多い寮生活をしました。ですから、寮にいた時は、もしキリストが復活しなかったのなら、自分は本当に全ての人の中で一番哀れな者になってしまうと思いました。このことを特に強烈に感じたのは、神学校の一年生の時の1月の中頃でした。
私は神学校の寮に入るまでは、一人暮らしでしたから、本当に好き勝手に気ままに暮らしていました。それが、神学校の寮に入って急に自由の少ない生活をすることになりました。私が入学した時の5年前は、今と違ってまだまだ厳しい規則がたくさん残っていましたから、本当に大変でした。散歩程度の外出なら毎日出ることができましたが、電車に乗っての外出は2週間に一度だけで、それも寮監から外出許可を得なければなりませんでした。それでも、もし日曜日の教会の奉仕が神学校と同じキャンパスにある教会でなければ、特に許可は要らずに毎週日曜日には電車に乗って遠くの教会に行くことができましたから、その時に息抜きもできるのですが、私の場合、1年生の時は日曜日の教会の奉仕は神学校と同じキャンパス内の教会でしたから、本当に閉じ込められているという気がしていました。
そんな1年生の時の1月のある日、インターネットを見ていて、映画のエキストラの仲間たちが新年会をしている様子の写真を目にしたのですね。神学校に入る前、私は映画のエキストラに出ることが面白くてたまりませんでした。映画の現場というのは本当に魅力的な場所です。有名な俳優さんのすぐ近くにいることができる、ということもありますが、それだけではなくて、映画監督やカメラマン、照明や録音の技術者たち、美術関係や衣装やメイクの担当者などのプロの仕事ぶりを間近で見られるということも、また大きな魅力でした。そして、雑音が入らないようにシーンと静まりかえった本番前は気持ちの良い緊張感に包まれます。エキストラでは、そのような魅力的な場に身を置くことができましたし、新年会の時は、映画関係者と共に宴会を楽しむことができました。私がインターネットで見た新年会の写真は、前の年まで私も毎年出席していたものでした。
神学校に入った私は仕事を辞めていましたから社会的地位も収入もなく、大好きだったエキストラにも出られず、新年会にも出られず、外出許可をもらわなければ電車に乗ることもできない身でした。その時私は、もしキリストの復活がなかったのなら、私こそがすべての人の中で一番哀れな者だろうと思いました。
ですから、私は、この1年生の時の1月から3月に掛けては、キリストは本当に復活したのだという強固な確信を得るために必死になりました。そして、私は確信を得ました。そのことは、後で話すことにして、ここでは、なぜキリストの復活がそれほどまでに重要なのかということを、もう少し話させていただきます。
2.復活がなかったなら神が命を造ったか分からず、戒めも守れない
キリストの復活を信じることはキリスト教の信仰の根幹に関わる、極めて重要なことです。仮に洗礼を受けた人であっても、もしキリストの復活を信じていないのであれば、その人はクリスチャンとは言えないと言っても良いと私は思います。キリストの復活を信じることは、それほど大切なことです。
なぜそれほどまでに大切なのか、それは、これまでも何度か話して来たと思いますが、キリストが復活したことと、神が私たちの命を創造したこととは、密接な関係があるからです。神が死者を復活させることができるなら、命を造ることもできます。死者を復活させることができないなら、命を造ることもできないでしょう。ですから、もしキリストが復活しなかったのなら、神が命を造ったかどうかも分からないことになってしまいます。もし神が私たちの命を造ったのでなければ、私たちは聖書に書かれている神の戒めも守る必要はないでしょう。私たちが神の戒めを守らなければならないのは、神が私たちの命を造られたからです。
新聞や雑誌などの若い人向けの人生相談などで、時々、「どうして人を殺してはいけないのですか」という質問を見受けることがあります。回答者はいろいろ苦心して回答しています。周囲の人々が悲しむとか、人に迷惑を掛けるとか、社会的損失が大きいとか、いろいろな回答があります。しかし、私たち神を信じる者にとっては、人を殺してはいけない理由は単純です。それは神様が「殺してはならない」(出エジプト20:13)とおっしゃっているからです。私たちクリスチャンの善悪の基準は神様のおっしゃることが絶対的な基準になっています。神様が良いと言うことが良いことであり、神様が悪いと言うことが悪いことです。実に単純です。神様が私たちの命を造られたから、神様がおっしゃることが絶対的な基準になるのです。ですから、もし神様が私たちの命を造ったかどうかわからないのであれば、神様の戒めを守る必然性はないでしょう。その場合、私たちは善悪の判断基準を別のものさしで決めなければならなくなります。
もしキリストの復活がなかったとしたら、神が私たちの命を造ったということを、どうやって信じたら良いでしょうか。それは、とても難しく、キリストの復活は単なる希望になってしまいます。そして、キリストの復活の確信がないなら、神の戒めも守ることはできません。しかし、幸いなことに、イエス・キリストは復活しましたから、私たちは神様が私たちの命を造ったことを信じることができます。
では、イエス・キリストが復活したことの確信はどうしたら得られるでしょうか。これは、お一人お一人が真剣に向き合わなければならないことだと思います。これから話すことは私が個人的に納得したことですから、もし皆さんの中で、まだキリストが復活したことの確信を得る作業をしていない人は、ぜひご自身で取り組んでいただきたいと思います。
3.使徒たちが迫害に負けずに宣教できたのは聖霊の力を得たから
きょうの聖書の交読では、マタイの28章をご一緒に読みました。私がイエス・キリストの復活を信じる最も大きな拠り所としているのが、この28章の15節です。
「そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」
ここで、金をもらった彼らというのは、墓の番をしていた番兵たちのことです。この番兵たちに金を与えて指図したのは、イエスを十字架に付けて殺した祭司長たちです。そして「指図」の内容は13節に書いてあることです。祭司長たちは番兵たちに、13節のように言うように指図しました。
「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った」
ここからわかることは、イエスが墓から消えたということは、事実であるということです。「この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に至っている」ということですから、イエスが本当に復活したのか、弟子たちがイエスを盗んだのかはともかく、イエスが墓から消えたことは事実であることがわかります。
では、イエスはどうして消えたのでしょうか。考えられる可能性は、イエスは本当に復活したのだということと、このユダヤ人の間に広まった話のように実は弟子たちがイエスの遺体を盗んだのだということと、もう一つ、実はイエスは完全には死んでおらずに蘇生したのだ、ということです。
この3つめのイエスが蘇生したということは、あり得ないでしょう。死刑を実際に執行したローマ兵たちはイエスが死んだことをしっかりと見届けています。もし半端な仕事をしていればローマ兵たちは、自分たちが罰せられてしまいますから、しっかりと仕事をしたはずです。さらに祭司長たちもイエスに確実に死んでもらわなければ困る事情がありました。27章の62節から64節までに、次のように書いてあります。
27:62 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」
このように、祭司長たちは、イエスが確実に死に、ずっと墓にとどまっていてくれなければ困るという事情がありましたから、イエスが確実に死んだことは祭司長たちも見届けたはずです。ですから、イエスが実は完全に死んではおらず、蘇生したのだという考えは否定されます。
では、祭司長たちが広めた話のように、弟子たちがイエスの遺体を墓から盗み出した可能性はどうでしょうか。もし弟子たちがイエスの遺体を盗み出したのだとしたら、弟子たちはイエスが死んで、復活もしなかったことを知った上で、宣教活動をしていたことになります。そんなことが可能でしょうか。1年か2年は可能かもしれませんね。しかし、3年、4年も可能でしょうか。特に3,4年後ぐらいのステパノの殉教からは迫害が激しくなっていました。イエスは死んで、よみがえらなかったということを知りながら、頑張って嘘をつきながら宣教を続けることができたでしょうか。できるはずはありませんね。私たちは、人はそんなに強くないことを知っています。3年ぐらいは頑張れたとしても、ペテロやパウロのように30年も頑張ることはできないでしょう。ペテロやパウロが頑張ることができたのは、聖霊による力を受けていたからです。使徒の働き1章8節でイエス・キリストが言っている通りです。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
ペテロやパウロたちは様々な迫害に遭いながらも、頑張り続けることができました。それは聖霊によって力を受けていたからこそです。そのことは、使徒の働きを読むと、よくわかります。使徒の働きは、使徒たちの働きというよりは、聖霊の働きについて書かれた書です。弟子たちは、聖霊の働きにより力を受けて宣教を続けることができました。
このことは、1世紀のペテロやパウロたちの時代に限りません、2世紀以降、21世紀の現代の私たちの時代まで、ずっと続いていることです。例えば、日本にキリスト教が初めて伝えられた、ザビエルの時代も、ヨーロッパの宣教師たちは大変な苦労をしながら海を渡って宣教活動をしていました。遠藤周作の『沈黙』という小説は、ザビエルより少し後の江戸時代の初期に、キリシタンへの迫害が強まっていた日本にわざわざやって来て大変な目に遭う宣教師の姿を描いています。迫害があっても、なお宣教を行うことができるのは、聖霊によって力を得ているからです。
現代の日本ではキリスト教徒に対する過激な迫害というものはありません。もちろん私も迫害に遭ったことはありません。ですから、もし私が迫害に遭ったら信仰を守り通すことができるのかどうか、それは迫害に遭ってみなければわかりません。私は絶対に迫害に屈しませんと強がってみても、鶏が鳴く前にペテロが三度イエスを知らないと言ったように、簡単に屈してしまうかもしれません。ただし、ペテロと私が違うのは、私には聖霊が力を与えて下さっているということです。ペテロがイエスを知らないと言った時には、まだペテロは聖霊の力を受けていませんでしたから、簡単に屈してしまいました。私の場合は、聖霊にすべてを委ねれば、ある程度は頑張れるのかもしれないと思っています。
このような覚悟は、一度にできるものではありません。私の場合は、少しずつ、少しずつ、覚悟ができて来ました。まだ神学校への入学を考える前、もしかしたら神様は私を用いようとしているかもしれないと、ふと感じたことがありました。その時、私は恐怖感を覚えました。伝道者になるということは、迫害をも覚悟しなければならないと思ったからです。しかし、そのような恐怖は少しずつ薄らいでいきました。それもきっと、聖霊の力によるものだと思います。
いま私は、ヨハネの福音書の重大な秘密を神様から教えていただいています。それで、この姫路教会の説教の場で、皆さんに説明しながら、これはアウグスティヌスやルターも気付かなかったことなのだ、などと大それたことを言っています。こんな大それたことを言う私のことを皆さんは、どう思ってらっしゃるか良くわかりませんが、私にしてみれば、これはこれで、けっこう恐ろしいことです。アウグスティヌスやルターでさえ気付かなったことを神様が私に教え、私を用いようとしているならば、サタンが放っておくはずがありません。ですから、サタンはいろいろな妨害をすることでしょう。このサタンの攻撃に対する恐怖心を私は持っています。しかし、聖霊が私に力を与えて下さっていますから、私はこの恐怖心をかなり克服できています。
ヨハネの福音書の構造についての説教に関しては、皆さんが忍耐強く聞いて下さったことを、本当に感謝に思っています。皆さんの反応を見ながら、私も大いに考えさせられ、ヨハネの福音書の学びを進めることができました。
皆さんの反応を見ていてわかったことは、ヨハネの福音書の構造についていくら説明しても、伝道にはあまり役に立たないのだということです。学問的には価値があることかもしれませんが、私は学者ではなく伝道者ですから、伝道の役に立たなければ意味がありません。どうしたらヨハネの福音書の構造の学びを伝道に生かしていくことができるのか、私は随分と考えさせられました。そして、この姫路教会でのご奉仕の最後の最後になって、一つの答が与えられたように感じています。
それは、週報の3ページ目の下段と月報の4月号に書いたことですが、ヨハネの福音書の学びを通じて、「霊性とは何か」が何となく分かってきたということです。そして、人々が霊性を高めることができるよう、お手伝いすることが、ヨハネの福音書を伝道に役立てることではないか、と感じています。週報3ページ目の下段をそのまま読ませていただきます。
『「霊性」とは、ひどく漠然としたことばであり、「霊性とは何か」を文章で書き表すことは不可能であろうと私はこれまで考えていました。しかし姫路教会で思い巡らす日々を過ごすうち、私なりの考えがかなり結晶化して来ました。ここに姫路教会での思い巡らしの総決算として文章化に挑戦してみることにします。
ここでは「理性」・「感性」・「霊性」を比較しながら考えることにします。「理性」が働いている時は時間管理がしっかり出来ている時です。ルカ10章のマルタのように段取り良く多くのことをテキパキとこなすことができます。「霊性」を高めるには、まずこの忙しい状態から脱する必要があります。すると「感性」または「霊性」を働かせることができます。「感性」が働いている時は現在のみを感じながら過ごしている時でしょう。そして「霊性」が働いている時とは、過去と未来を感じながら過ごす時です。しかし特定の過去のみにこだわると悪霊に利用される危険性があります。良い霊性は永遠の中にいる神と交わり、旧約・新約の全ての時代を「現在」と感じることで高められるでしょう。』
続いて、月報の4月号の下半分をお読みします。「ヨハネ4:24」というところからです。ヨハネ4:24とは、次の聖句です。
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
では、月報をお読みします。
『ヨハネ4:24にあるように神は霊ですから、神を礼拝する者は良い霊性を養い、高める必要があります。そのためには週報に書いたように、永遠の中にいる神、アルファでありオメガである神と交わりを持つことです。神にとってはアブラハムもモーセもペテロもパウロも私たちも皆、同じ時間の中にいます。ですから私たちも聖書を読む時にこれらの人物を皆同じくらいに身近に感じるなら、神との交わりに入れていただけていると思って良いでしょう。』
ここで解説を少し入れさせていただくと、週報に書いたように「理性」が働いている時は、過去・現在・未来の時間の流れを意識して時間管理がしっかりできている時と言えると思います。字数の制限がありますので詳しいことは省略していますが、たとえば離人症など、ある種の精神病を発病している方などは、時間の感じ方が健常者とは異なるようです。そういう意味で、過去・現在・未来の時間観と理性とは密接に関連していると言えると思います。
そして「感性」は「現在」を感じ、「霊性」は「過去」と「未来」を感じる力ではないかと私は考えるようになりました。ただし週報に書いたように、特定の過去だけに捉われると、霊でも悪霊に狙われます。サタンの誘惑により過去のことに対して恨みを持つようになり、平和が乱され、戦争が起こります。ですから、良い霊性というのは、特定の過去ではなく、すべての「過去」を平等に「現在」と感じる力だと私は考えます。月報の続きを読みます。
『しかしアブラハムはペテロよりも古い時代の人物であると考えてしまうと霊性ではなく理性に支配されており、神との交わりはあまりできていないでしょう。十字架も同様です。十字架はモーセより後でパウロよりも前なのではなく、神にとっては全てが現在です。私たちはこのことを「旧約の時代」・「イエスの時代」・「使徒の時代」が並行するヨハネの福音書から知ることができます。』
ヨハネの福音書の構造が、丸ごと頭の中に入ると、アブラハムの時代もイエスの時代もパウロの時代も全部、同じ時間の中にあることを感じることができます。これこそが、霊性なのだと、今私はかなりの確信を持って考えています。ヨハネの福音書は「霊的な福音書」であると言われています。ヨハネの福音書を読むと、神様との交わりを感じることができます。神様と交わるとは、過去から未来までのすべての時間が現在である、そういう時間観の中に身を置くことだと思います。そうできるようになることが、霊性を高めることなのだと思います。
おわりに
霊性に目覚め、霊性を高めることは、信仰を持つ者にとって本当に大事なことです。私の姫路でのご奉仕の最後の最後になってしまいましたが、きょう、このように皆さんと大事なことを分かち合うことができたことを、うれしく思います。
イエス・キリストは十字架で死んで三日目に復活した後に、天に昇り、聖霊を私たちに与えて下さり、私たちが神様と霊的な交わりができるようにして下さいました。そして、聖霊の力を得ることができるようにして下さいました。これは、イエス・キリストが十字架で死んで復活しなければ、かなわなかったことです。
もし、キリストが復活しなかったのなら、私たちは聖霊の力を得ることができず、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、イエス・キリストは死者の中からよみがえられましたから、今週もまた、聖霊の力をいただきながら歩んで行くことができます。この素晴らしい恵みを感じながら、これからも力強く歩んで行くお互いでありたいと思います。