インマヌエル姫路キリスト教会

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もしキリストが復活しなかったのなら(2013.3.31 全文)

2013年04月01日 07時58分08秒 | 礼拝メッセージ全文
2013年3月31日イースター礼拝メッセージ
『もしキリストが復活しなかったのなら』
【Ⅰコリント15:12~20】

はじめに
 きょうはイエス・キリストが十字架で死んでから三日目によみがえったことを祝うイースターの日です。このイースター礼拝の説教箇所として示された箇所は第一コリント15章の12節からです。この第一コリント15章の始めのほうで、パウロは復活したイエス・キリストが弟子たちの前に現れたことを記しています。3節から8節までをお読みします。

15:3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。

 パウロがまだキリスト者を迫害していた頃にダマスコ途上で復活したキリストに会ったのは、キリストの復活から3,4年後のことです。キリストが復活してから間もない頃というのは、このようにキリストは強烈な形で弟子たちの前に現れたのですね。

1.キリストが復活しなかったのなら、私たちは一番哀れな者
 しかし、それ以降は、キリストはこのような強烈な形では現れなくなりました。そしてコリントの教会では死者の復活を信じない者がいたようです。死者の復活を信じないということは、キリストの復活を信じないということです。そのように復活を信じない者たちがいることを憂慮してパウロは14節のように書いています。

15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

 そしてさらにパウロは19節で次のように書いています。

15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

 この19節は強烈ですね。キリストが復活したという確信がなく単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者だというわけです。この「私たち」というのは、パウロの時代の人々のことですが、これはもちろん現代の「私たち」にも当てはまることです。日本人の多くが休暇を楽しんでいる日曜日に私たちは毎週このように集まって来て、多くの時間をこれに費やし、また多額の献金もします。教会に献金しなければ、もっと他にいろいろな使いみちがあるでしょう。これで、もしキリストの復活が無かったのなら、私たちは本当に、全ての人の中で一番哀れな者であると言えるでしょう。
 私の場合は仕事を辞めて神学校に入り、制約の多い寮生活をしました。ですから、寮にいた時は、もしキリストが復活しなかったのなら、自分は本当に全ての人の中で一番哀れな者になってしまうと思いました。このことを特に強烈に感じたのは、神学校の一年生の時の1月の中頃でした。
 私は神学校の寮に入るまでは、一人暮らしでしたから、本当に好き勝手に気ままに暮らしていました。それが、神学校の寮に入って急に自由の少ない生活をすることになりました。私が入学した時の5年前は、今と違ってまだまだ厳しい規則がたくさん残っていましたから、本当に大変でした。散歩程度の外出なら毎日出ることができましたが、電車に乗っての外出は2週間に一度だけで、それも寮監から外出許可を得なければなりませんでした。それでも、もし日曜日の教会の奉仕が神学校と同じキャンパスにある教会でなければ、特に許可は要らずに毎週日曜日には電車に乗って遠くの教会に行くことができましたから、その時に息抜きもできるのですが、私の場合、1年生の時は日曜日の教会の奉仕は神学校と同じキャンパス内の教会でしたから、本当に閉じ込められているという気がしていました。
 そんな1年生の時の1月のある日、インターネットを見ていて、映画のエキストラの仲間たちが新年会をしている様子の写真を目にしたのですね。神学校に入る前、私は映画のエキストラに出ることが面白くてたまりませんでした。映画の現場というのは本当に魅力的な場所です。有名な俳優さんのすぐ近くにいることができる、ということもありますが、それだけではなくて、映画監督やカメラマン、照明や録音の技術者たち、美術関係や衣装やメイクの担当者などのプロの仕事ぶりを間近で見られるということも、また大きな魅力でした。そして、雑音が入らないようにシーンと静まりかえった本番前は気持ちの良い緊張感に包まれます。エキストラでは、そのような魅力的な場に身を置くことができましたし、新年会の時は、映画関係者と共に宴会を楽しむことができました。私がインターネットで見た新年会の写真は、前の年まで私も毎年出席していたものでした。
 神学校に入った私は仕事を辞めていましたから社会的地位も収入もなく、大好きだったエキストラにも出られず、新年会にも出られず、外出許可をもらわなければ電車に乗ることもできない身でした。その時私は、もしキリストの復活がなかったのなら、私こそがすべての人の中で一番哀れな者だろうと思いました。
 ですから、私は、この1年生の時の1月から3月に掛けては、キリストは本当に復活したのだという強固な確信を得るために必死になりました。そして、私は確信を得ました。そのことは、後で話すことにして、ここでは、なぜキリストの復活がそれほどまでに重要なのかということを、もう少し話させていただきます。

2.復活がなかったなら神が命を造ったか分からず、戒めも守れない
 キリストの復活を信じることはキリスト教の信仰の根幹に関わる、極めて重要なことです。仮に洗礼を受けた人であっても、もしキリストの復活を信じていないのであれば、その人はクリスチャンとは言えないと言っても良いと私は思います。キリストの復活を信じることは、それほど大切なことです。
 なぜそれほどまでに大切なのか、それは、これまでも何度か話して来たと思いますが、キリストが復活したことと、神が私たちの命を創造したこととは、密接な関係があるからです。神が死者を復活させることができるなら、命を造ることもできます。死者を復活させることができないなら、命を造ることもできないでしょう。ですから、もしキリストが復活しなかったのなら、神が命を造ったかどうかも分からないことになってしまいます。もし神が私たちの命を造ったのでなければ、私たちは聖書に書かれている神の戒めも守る必要はないでしょう。私たちが神の戒めを守らなければならないのは、神が私たちの命を造られたからです。
 新聞や雑誌などの若い人向けの人生相談などで、時々、「どうして人を殺してはいけないのですか」という質問を見受けることがあります。回答者はいろいろ苦心して回答しています。周囲の人々が悲しむとか、人に迷惑を掛けるとか、社会的損失が大きいとか、いろいろな回答があります。しかし、私たち神を信じる者にとっては、人を殺してはいけない理由は単純です。それは神様が「殺してはならない」(出エジプト20:13)とおっしゃっているからです。私たちクリスチャンの善悪の基準は神様のおっしゃることが絶対的な基準になっています。神様が良いと言うことが良いことであり、神様が悪いと言うことが悪いことです。実に単純です。神様が私たちの命を造られたから、神様がおっしゃることが絶対的な基準になるのです。ですから、もし神様が私たちの命を造ったかどうかわからないのであれば、神様の戒めを守る必然性はないでしょう。その場合、私たちは善悪の判断基準を別のものさしで決めなければならなくなります。
 もしキリストの復活がなかったとしたら、神が私たちの命を造ったということを、どうやって信じたら良いでしょうか。それは、とても難しく、キリストの復活は単なる希望になってしまいます。そして、キリストの復活の確信がないなら、神の戒めも守ることはできません。しかし、幸いなことに、イエス・キリストは復活しましたから、私たちは神様が私たちの命を造ったことを信じることができます。
 では、イエス・キリストが復活したことの確信はどうしたら得られるでしょうか。これは、お一人お一人が真剣に向き合わなければならないことだと思います。これから話すことは私が個人的に納得したことですから、もし皆さんの中で、まだキリストが復活したことの確信を得る作業をしていない人は、ぜひご自身で取り組んでいただきたいと思います。

3.使徒たちが迫害に負けずに宣教できたのは聖霊の力を得たから
 きょうの聖書の交読では、マタイの28章をご一緒に読みました。私がイエス・キリストの復活を信じる最も大きな拠り所としているのが、この28章の15節です。

「そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」

 ここで、金をもらった彼らというのは、墓の番をしていた番兵たちのことです。この番兵たちに金を与えて指図したのは、イエスを十字架に付けて殺した祭司長たちです。そして「指図」の内容は13節に書いてあることです。祭司長たちは番兵たちに、13節のように言うように指図しました。

「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った」

 ここからわかることは、イエスが墓から消えたということは、事実であるということです。「この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に至っている」ということですから、イエスが本当に復活したのか、弟子たちがイエスを盗んだのかはともかく、イエスが墓から消えたことは事実であることがわかります。
 では、イエスはどうして消えたのでしょうか。考えられる可能性は、イエスは本当に復活したのだということと、このユダヤ人の間に広まった話のように実は弟子たちがイエスの遺体を盗んだのだということと、もう一つ、実はイエスは完全には死んでおらずに蘇生したのだ、ということです。
 この3つめのイエスが蘇生したということは、あり得ないでしょう。死刑を実際に執行したローマ兵たちはイエスが死んだことをしっかりと見届けています。もし半端な仕事をしていればローマ兵たちは、自分たちが罰せられてしまいますから、しっかりと仕事をしたはずです。さらに祭司長たちもイエスに確実に死んでもらわなければ困る事情がありました。27章の62節から64節までに、次のように書いてあります。

27:62 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」

 このように、祭司長たちは、イエスが確実に死に、ずっと墓にとどまっていてくれなければ困るという事情がありましたから、イエスが確実に死んだことは祭司長たちも見届けたはずです。ですから、イエスが実は完全に死んではおらず、蘇生したのだという考えは否定されます。
 では、祭司長たちが広めた話のように、弟子たちがイエスの遺体を墓から盗み出した可能性はどうでしょうか。もし弟子たちがイエスの遺体を盗み出したのだとしたら、弟子たちはイエスが死んで、復活もしなかったことを知った上で、宣教活動をしていたことになります。そんなことが可能でしょうか。1年か2年は可能かもしれませんね。しかし、3年、4年も可能でしょうか。特に3,4年後ぐらいのステパノの殉教からは迫害が激しくなっていました。イエスは死んで、よみがえらなかったということを知りながら、頑張って嘘をつきながら宣教を続けることができたでしょうか。できるはずはありませんね。私たちは、人はそんなに強くないことを知っています。3年ぐらいは頑張れたとしても、ペテロやパウロのように30年も頑張ることはできないでしょう。ペテロやパウロが頑張ることができたのは、聖霊による力を受けていたからです。使徒の働き1章8節でイエス・キリストが言っている通りです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 ペテロやパウロたちは様々な迫害に遭いながらも、頑張り続けることができました。それは聖霊によって力を受けていたからこそです。そのことは、使徒の働きを読むと、よくわかります。使徒の働きは、使徒たちの働きというよりは、聖霊の働きについて書かれた書です。弟子たちは、聖霊の働きにより力を受けて宣教を続けることができました。
 このことは、1世紀のペテロやパウロたちの時代に限りません、2世紀以降、21世紀の現代の私たちの時代まで、ずっと続いていることです。例えば、日本にキリスト教が初めて伝えられた、ザビエルの時代も、ヨーロッパの宣教師たちは大変な苦労をしながら海を渡って宣教活動をしていました。遠藤周作の『沈黙』という小説は、ザビエルより少し後の江戸時代の初期に、キリシタンへの迫害が強まっていた日本にわざわざやって来て大変な目に遭う宣教師の姿を描いています。迫害があっても、なお宣教を行うことができるのは、聖霊によって力を得ているからです。
 現代の日本ではキリスト教徒に対する過激な迫害というものはありません。もちろん私も迫害に遭ったことはありません。ですから、もし私が迫害に遭ったら信仰を守り通すことができるのかどうか、それは迫害に遭ってみなければわかりません。私は絶対に迫害に屈しませんと強がってみても、鶏が鳴く前にペテロが三度イエスを知らないと言ったように、簡単に屈してしまうかもしれません。ただし、ペテロと私が違うのは、私には聖霊が力を与えて下さっているということです。ペテロがイエスを知らないと言った時には、まだペテロは聖霊の力を受けていませんでしたから、簡単に屈してしまいました。私の場合は、聖霊にすべてを委ねれば、ある程度は頑張れるのかもしれないと思っています。
 このような覚悟は、一度にできるものではありません。私の場合は、少しずつ、少しずつ、覚悟ができて来ました。まだ神学校への入学を考える前、もしかしたら神様は私を用いようとしているかもしれないと、ふと感じたことがありました。その時、私は恐怖感を覚えました。伝道者になるということは、迫害をも覚悟しなければならないと思ったからです。しかし、そのような恐怖は少しずつ薄らいでいきました。それもきっと、聖霊の力によるものだと思います。
 いま私は、ヨハネの福音書の重大な秘密を神様から教えていただいています。それで、この姫路教会の説教の場で、皆さんに説明しながら、これはアウグスティヌスやルターも気付かなかったことなのだ、などと大それたことを言っています。こんな大それたことを言う私のことを皆さんは、どう思ってらっしゃるか良くわかりませんが、私にしてみれば、これはこれで、けっこう恐ろしいことです。アウグスティヌスやルターでさえ気付かなったことを神様が私に教え、私を用いようとしているならば、サタンが放っておくはずがありません。ですから、サタンはいろいろな妨害をすることでしょう。このサタンの攻撃に対する恐怖心を私は持っています。しかし、聖霊が私に力を与えて下さっていますから、私はこの恐怖心をかなり克服できています。
 ヨハネの福音書の構造についての説教に関しては、皆さんが忍耐強く聞いて下さったことを、本当に感謝に思っています。皆さんの反応を見ながら、私も大いに考えさせられ、ヨハネの福音書の学びを進めることができました。
 皆さんの反応を見ていてわかったことは、ヨハネの福音書の構造についていくら説明しても、伝道にはあまり役に立たないのだということです。学問的には価値があることかもしれませんが、私は学者ではなく伝道者ですから、伝道の役に立たなければ意味がありません。どうしたらヨハネの福音書の構造の学びを伝道に生かしていくことができるのか、私は随分と考えさせられました。そして、この姫路教会でのご奉仕の最後の最後になって、一つの答が与えられたように感じています。
 それは、週報の3ページ目の下段と月報の4月号に書いたことですが、ヨハネの福音書の学びを通じて、「霊性とは何か」が何となく分かってきたということです。そして、人々が霊性を高めることができるよう、お手伝いすることが、ヨハネの福音書を伝道に役立てることではないか、と感じています。週報3ページ目の下段をそのまま読ませていただきます。

 『「霊性」とは、ひどく漠然としたことばであり、「霊性とは何か」を文章で書き表すことは不可能であろうと私はこれまで考えていました。しかし姫路教会で思い巡らす日々を過ごすうち、私なりの考えがかなり結晶化して来ました。ここに姫路教会での思い巡らしの総決算として文章化に挑戦してみることにします。
 ここでは「理性」・「感性」・「霊性」を比較しながら考えることにします。「理性」が働いている時は時間管理がしっかり出来ている時です。ルカ10章のマルタのように段取り良く多くのことをテキパキとこなすことができます。「霊性」を高めるには、まずこの忙しい状態から脱する必要があります。すると「感性」または「霊性」を働かせることができます。「感性」が働いている時は現在のみを感じながら過ごしている時でしょう。そして「霊性」が働いている時とは、過去と未来を感じながら過ごす時です。しかし特定の過去のみにこだわると悪霊に利用される危険性があります。良い霊性は永遠の中にいる神と交わり、旧約・新約の全ての時代を「現在」と感じることで高められるでしょう。』

 続いて、月報の4月号の下半分をお読みします。「ヨハネ4:24」というところからです。ヨハネ4:24とは、次の聖句です。
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
では、月報をお読みします。

 『ヨハネ4:24にあるように神は霊ですから、神を礼拝する者は良い霊性を養い、高める必要があります。そのためには週報に書いたように、永遠の中にいる神、アルファでありオメガである神と交わりを持つことです。神にとってはアブラハムもモーセもペテロもパウロも私たちも皆、同じ時間の中にいます。ですから私たちも聖書を読む時にこれらの人物を皆同じくらいに身近に感じるなら、神との交わりに入れていただけていると思って良いでしょう。』

 ここで解説を少し入れさせていただくと、週報に書いたように「理性」が働いている時は、過去・現在・未来の時間の流れを意識して時間管理がしっかりできている時と言えると思います。字数の制限がありますので詳しいことは省略していますが、たとえば離人症など、ある種の精神病を発病している方などは、時間の感じ方が健常者とは異なるようです。そういう意味で、過去・現在・未来の時間観と理性とは密接に関連していると言えると思います。
 そして「感性」は「現在」を感じ、「霊性」は「過去」と「未来」を感じる力ではないかと私は考えるようになりました。ただし週報に書いたように、特定の過去だけに捉われると、霊でも悪霊に狙われます。サタンの誘惑により過去のことに対して恨みを持つようになり、平和が乱され、戦争が起こります。ですから、良い霊性というのは、特定の過去ではなく、すべての「過去」を平等に「現在」と感じる力だと私は考えます。月報の続きを読みます。

 『しかしアブラハムはペテロよりも古い時代の人物であると考えてしまうと霊性ではなく理性に支配されており、神との交わりはあまりできていないでしょう。十字架も同様です。十字架はモーセより後でパウロよりも前なのではなく、神にとっては全てが現在です。私たちはこのことを「旧約の時代」・「イエスの時代」・「使徒の時代」が並行するヨハネの福音書から知ることができます。』

 ヨハネの福音書の構造が、丸ごと頭の中に入ると、アブラハムの時代もイエスの時代もパウロの時代も全部、同じ時間の中にあることを感じることができます。これこそが、霊性なのだと、今私はかなりの確信を持って考えています。ヨハネの福音書は「霊的な福音書」であると言われています。ヨハネの福音書を読むと、神様との交わりを感じることができます。神様と交わるとは、過去から未来までのすべての時間が現在である、そういう時間観の中に身を置くことだと思います。そうできるようになることが、霊性を高めることなのだと思います。

おわりに
 霊性に目覚め、霊性を高めることは、信仰を持つ者にとって本当に大事なことです。私の姫路でのご奉仕の最後の最後になってしまいましたが、きょう、このように皆さんと大事なことを分かち合うことができたことを、うれしく思います。
 イエス・キリストは十字架で死んで三日目に復活した後に、天に昇り、聖霊を私たちに与えて下さり、私たちが神様と霊的な交わりができるようにして下さいました。そして、聖霊の力を得ることができるようにして下さいました。これは、イエス・キリストが十字架で死んで復活しなければ、かなわなかったことです。
 もし、キリストが復活しなかったのなら、私たちは聖霊の力を得ることができず、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、イエス・キリストは死者の中からよみがえられましたから、今週もまた、聖霊の力をいただきながら歩んで行くことができます。この素晴らしい恵みを感じながら、これからも力強く歩んで行くお互いでありたいと思います。

恵みの上のさらなる恵み(2013.3.17 全文)

2013年03月18日 08時08分32秒 | 礼拝メッセージ全文
2013年3月17日礼拝メッセージ
『恵みの上のさらなる恵み』
【ヨハネ1:1~18】

はじめに
 先週の説教では、ヨハネの福音書の1章に3回出て来る「その翌日」という表現と、2章1節の「それから三日目に」に注目しました。ヨハネの福音書では、「旧約の時代」、「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代が重ねられています。「イエスの時代」はもちろん、この「その翌日」によって日にちが変わって行くのですが、「旧約の時代」にあっては、3つの「その翌日」で、テラの時代からアブラハムの時代、イサクの時代、ヤコブの時代へと変わり、さらに「それから三日目に」で、ヤコブの時代からヨセフの時代を飛ばしてモーセの時代に入るという話を先週しました。また、「使徒の時代」にあっては、「その翌日」で10日間が過ぎ、3つの「その翌日」と「それから三日目に」で50日が過ぎて、2章のカナの婚礼の場面はペンテコステの日になるという話を先週しました。
 ただ、「その翌日」が連発されると、どうしても読者の意識は「イエスの時代」に集中してしまいがちですので、その背後に「旧約の時代」と「使徒の時代」が重ねられていることに気付くことが難しくなります。それで、1章の3つの「その翌日」は、背後の「旧約の時代」と「使徒の時代」を目立たなくして隠すために挿入したのだと考えることもできるかもしれません。しかし、先週私は、それは違うであろうと言いました。むしろ、「イエスの時代」の背後には、「旧約の時代」と「使徒の時代」がこんなにも豊かに存在しているのだということを示すために挿入したのだろう、という話をしました。私がそのように言ったのは、きょうこれからご一緒に見るヨハネの福音書のプロローグで、「旧約の時代」と「使徒の時代」の存在をハッキリと宣言しているからです。きょうの説教では、まずそのことについて説明して行くことにします。

1.3つの時代を3度繰り返すヨハネ1章1~13節
 ヨハネの福音書は、1章1節の有名な出だしで始まります。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

 「初めに、ことばがあった。」この冒頭の文は、創世記の冒頭の「初めに、神が天と地を創造した。」を意識した文であることは明らかです。このことは誰でも認めることだと思います。すると、この「初めに、ことばがあった」は「旧約の時代」について書かれた文であることがわかります。
 問題は、二番目と三番目の文の、「ことばば神とともにあった」と「ことばは神であった」です。従来の普通の解釈なら、この二つの文も冒頭の文と同じ「旧約の時代」のことを言っていることになり、そして1章2節へと移ります。2節、

「この方は、初めに神とともにおられた。」(ヨハネ1:2)

 ここにも「初めに」とありますから、これも「旧約の時代」のことですね。そうすると、また同じことを繰り返しているようで、私には何だか、冗長で、くどくて、もっちゃりしているような気持ちの悪さを感じます。囲碁で言えば、悪手ですね。悪手というのは、悪い手です。囲碁の盤面は広いですから、一つの狭い部分だけに必要以上にたくさんの石を置くことは悪手とされます。部分部分には必要最低限の石だけを置いて、他の所にも石を置くようにしないと、手厚く石を置いた部分の陣地は確保できても、他の部分の陣地は全部相手に取られてしまいます。
 ヨハネの福音書1章の1節と2節、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」も、全部が「旧約の時代」のことを言っているとしたら、これは「旧約の時代」のことを語るのに文をたくさん使い過ぎる、悪文ということになります。
 ヨハネの福音書の出だしが悪文で始まるとしたら、それは全く美しくないですね。ですから、私は、このヨハネ1章1節は、初めに、三つの時代の存在を宣言している文であると考えます。つまり、最初の「初めに、ことばがあった」が「旧約の時代」、「ことばは神とともにあった」が「イエスの時代」で、「ことばば神であった」は「使徒の時代」の存在を宣言しているのだと考えます。
 そうして、1節から13節までで、三つの時代の存在を示すことを、三度繰り返します。1章1節だけで三つの時代の宣言の1度目、2節から8節までで2度目、9節から13節までが3度目です。昔は文字を読める人はほんの一握りしかいませんでしたから、多くの人々は聖書を読むのではなく、教会で朗読される聖書を聞いて、みことばに触れていました。ヨハネの福音書も同様です。ほとんどの人々は読むのではなく、聞いていました。三つの時代の存在の宣言が三度繰り返されるのを聞きながら、会衆は19節以降で三つの時代が重なった状態で示されることに備えるようにする。それが、1節から13節までの役割であろうと私は考えます。
 では、2節以降も見ていきましょう。2節から8節では、どのように3つの時代が提示されているでしょうか。
 まず2節と3節が「旧約の時代」ですね。2節と3節、

「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:2,3)

 続いて、4節と5節とで「イエスの時代」が提示されます。4節と5節、

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4,5)

 そして、6節と8節は「使徒の時代」と考えるのが良いと思います。6節から8節、

「神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」

 このヨハネはバプテスマのヨハネではなく、「使徒ヨハネ」と考えるべきだと思います。或いは、「バプテスマのヨハネ」と「使徒ヨハネ」が重ねられているのかもしれません。いずれにしても、ここに「使徒ヨハネ」が含まれていることは間違いありません。8節の「彼は光ではなかった」という表現は、この福音書の記者でもある使徒ヨハネが、自分のことであるからこそ、はっきりとそう言い切ることができたのだと思います。
 ここまでが、2度目の3つの時代の存在の提示であり、3度目の提示が9節から13節まででなされます。
 まず9節と10節が「旧約の時代」です。9節と10節、

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」(ヨハネ1:9,10)

 次に11節が「イエスの時代」です。11節、

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)

 そして12節と13節が、「使徒の時代」です。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12,13)

2.「律法の恵み」の上のさらなる「聖霊の恵み」
 ここまでで、3つの時代の存在の提示が3度、繰り返されました。そして、14節以降は、「イエスの時代」を中心にして、イエス・キリストの福音の核心の部分を宣べ伝えていると言えるでしょう。
 14節、
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

 「ことば」とはイエス・キリストのことです。神であるお方が、人になりました。このことが、日本の宗教で崇められている神仏との最も大きな違いですね。日本の神道では、人が神になります。仏教でも人が仏になります。しかし、キリスト教は、神が人になりました。このように、キリスト教は、日本の神道と仏教とでは正反対ですから、それを宗教ということばで一くくりにするのは無理があると言えるでしょうね。神道も仏教もキリスト教も同じ宗教であると言われると、私たちは違和感を覚えます。
 神が人になるのと、人が神になるのとの何がそんなに違うかというと、それは単に方向が違うだけでなく、神としてのスケールや力量が圧倒的に異なります。神道のように、人が神になって学問の神様や軍隊の神様になった場合は、専門分野が決まっていて、全知全能というわけではありません。しかし、神が人になったイエス・キリストは万物を創造した全知全能の神です。全知全能の神が、人になって、私たちのレベルに合わせて、神とはどのようなお方かを、教えて下さっているのですね。18節には、そのことが書いてあります。18節、

 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

 14節に戻ります。私たちの主イエス・キリストは恵みとまことに満ちておられました。そして、15節のヨハネというのは、バプテスマのヨハネのことでしょう。15節、

「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」」(ヨハネ1:15)

 ここでバプテスマのヨハネが登場するのですから、6節のヨハネは、やはり使徒ヨハネのことと考えるのが、囲碁の悪手のような悪文にならないためにも、良いのではないかと思います。
 そして、次の16節、これは今日の説教題のもとになっている節です。この1章16節は、ヨハネの福音書を一言で言い表しているような、非常に重要な節です。16節、

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」(ヨハネ1:16)

 ヨハネの福音書の中の重要な聖句と言えば、3章16節が筆頭に挙げられるでしょう。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 ヨハネ3:16は、この一つの聖句で聖書全体を表しているような聖句と言われ、「聖書の中の聖書」とも、「小聖書」とも呼ばれますから、確かにそう言われるだけの聖句だと思います。しかし私はヨハネ1:16もまた、3:16に負けず劣らず重要だと考えます。
 この1章16節の後半の「恵みの上にさらに恵みを受けた」というのは、「律法の恵み」の上に、さらに「聖霊の恵み」を受けたということです。そのことは、17節からわかります。17節、

「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:17)

 この17節からわかることは、まずモーセの律法という恵みの下地があって、そこにイエス・キリストが人として、この世に来て、十字架に掛かって死に、復活した後に天に昇り、聖霊が注がれることで、恵みが成就したのだ、ということです。これが、1章16節の、

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」(ヨハネ1:16)

ということです。

3.イエス・キリストの十字架は律法の完全な形での成就
 イエス・キリストはいけにえの小羊として十字架に掛かりました。つまりそれは、律法が完全な形で成就したのだということを示しています。もし律法が恵みでなかったとしたら、イエス・キリストがいけにえの小羊になることは、まったく意味の無いことです。恵みではない律法に則っていけにえの儀式が行われたとしても、意味がありません。律法が恵みであるからこそ、律法が完全な形で成就して、イエス・キリストは十字架上で「完了した」と言って、息を引き取ったのでしょう。
 ヨハネの福音書の11章までに3つの時代が重ねられていることと、イエスがいけにえの小羊として十字架で死んだことは、密接に関連しています。イエスの十字架で律法が完全な形で成就して「完了した」からこそ、イエスの両側に車の両輪のようにして、「旧約の時代」の律法の恵みと、「使徒の時代」の聖霊の恵みとが存在します。
 イエスがいけにえの小羊であったことは、1章29節でヨハネが自分のほうにイエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったことでわかります。
 さらに、ヨハネの福音書のイエスが、過越の羊がほふられる日に十字架に掛かって死んだことからもわかります。
 これから述べることは、教会の礼拝の説教では語られることが、あまりないかもしれませんが、実はマタイ・マルコ・ルカの福音書の十字架の日と、ヨハネの福音書の十字架の日というのは、異なっています。マタイ・マルコ・ルカの福音書の最後の晩餐は、過越の食事です。イエス・キリストは、この過越の食事を食べた後で、十字架に掛かりました。しかし、ヨハネの福音書の最後の晩餐は、過越の食事の日の前日でした。
 過越の食事というのは、モーセの時代にイスラエルの民がエジプトを脱出する時に食べた食事のことですね。その夜、イスラエルの民は小羊をほふり、その羊の血をかもいと門柱に付けました。神は、その夜、エジプト中の家の初子を打って死なせましたが、かもいと門柱に血が付いているイスラエルの民の家の前は過ぎ越して行きました。そして、イスラエルの民は、種を入れないパンと、このほふった小羊を焼いて食べました。
 神がエジプトにいたイスラエルの民の家を過ぎ越したために、初子が打たれることを免れたことと、新約の時代にイエス・キリストを信じる者は罪が無かったことにしていただけて裁きを免れるということとは、同じ神の恵みとして、捉えられています。ヨハネの福音書のイエス・キリストは、そのいけにえの小羊として死にましたから、最後の晩餐の食事が過越の食事だと、まずいわけです。ですから、ヨハネの福音書の最後の晩餐は、過越の食事の日の前日ということになっています。その根拠はヨハネの福音書の18章28節にあります。18章28節、

「さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。」(ヨハネ18:28)

 この記述により、ヨハネの福音書のイエスの逮捕は過越の食事の前のことであったことがわかります。このことは聖書学者には良く知られていることです。でも、なぜヨハネの福音書では、マタイ・マルコ・ルカの最後の晩餐と過越の食事との関係を変えてまで、イエスが過越のいけにえの小羊であることに、こだわろうとしたのかは謎のままでした。しかし、私たちはヨハネの福音書には三つの時代が重ねてあり、律法の恵みと聖霊の恵みが車の両輪のように存在していることを知っていますから、ヨハネのこだわりが理解できます。このこだわりは、エレミヤ31章の有名な箇所を見ることで、より一層確信できるだろうと思います。
 エレミヤ31章の31節から33節までを交代で読みましょう。31節を私、32節を皆さんが読み、33節はご一緒に読みましょう。

31:31 見よ。その日が来る。──の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 33節に、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」とあります。これが、助け主である聖霊がして下さることです。ですから、新約の時代であっても律法の必要性は基本的にあるわけです。このように、イエス・キリストがいけにえの小羊として十字架で死に、律法が完全な形で成就したことで、私たちは、恵みの上にさらに恵みを受けることができるようになりました。
 ヨハネの福音書が書かれたばかりの頃の人々は、この福音書の1章のプロローグが朗読されるのを聞きながら三つの時代が重ねられていることを感じ、恵みを感じていたことでしょう。その恵みとは、イエス・キリストを中心にして、律法の恵みと聖霊の恵みとが車の両輪のように存在する完全な恵みです。どちらかが欠けていると、それは完全な恵みではありません。律法の恵みと聖霊の恵みの両方がそろって初めて恵みが完全な形で成就したと言えます。

おわりに
 1週間後には私たちはパームサンデー、棕櫚の主日を迎えて受難週に入り、そして最後の晩餐の木曜日、十字架の金曜日を経て、イースターの日を迎えます。受難週の出来事は、決して過去の出来事ではありません。イエス・キリストと共に歩む時、私たちはいつも、「旧約の時代」の中も、「使徒の時代」の中も、歩んでいるのだということをヨハネの福音書は教えてくれています。天の御父の律法の恵み、聖霊の恵み、そしてイエス・キリストの満ち満ちた豊かさの恵みと共に歩むことができる、こんな素晴らしい恵みは他にはありません。
 私たちは毎週の礼拝で霊的に整えられて、この素晴らしい恵みを感じる特権をいただいています。このことを覚えて、パームサンデー、棕櫚の主日に向かって歩んで行きたく思います。

平和を作れない人類に足りないこと(2013.3.10 全文)

2013年03月10日 16時06分35秒 | 礼拝メッセージ全文
2013年3月10日礼拝メッセージ
『平和を作れない人類に足りないこと』
【ヨハネ1:35~51】

はじめに
 今週は私たちの群れ、イムマヌエル綜合伝道団の年会があります。その年会で、すべての牧師は新たな任命を受けます。きょうは、その前の最後の礼拝ということになります。
 そこで今日の説教は、私がこの姫路教会での思い巡らしの中で与えられたことの集大成とも言える内容のものにしたいと願っています。そういう、大それた考えを持っていますので、きょうの説教題も、大それたものです。
 実は、私は今、本を書いていて、何とか今年中には世に出せれば良いなあ、と願っています。願い通りに世に出せるかどうかは、「神のみぞ知る」の世界です。御心に適っているなら世に出せるでしょうし、そうでなければ出せないでしょうが、その本のサブタイトルが、きょうの説教題の、『平和を作れない人類に足りないこと』です。
 では、メインタイトルは何かと言うと、それは、もっと大それていて、『人類はなぜヨハネの福音書の謎が解けなかったのか』というものです。そして、サブタイトルが今日の説教題ですから、メインタイトルとサブタイトルを続けると、
『人類はなぜヨハネの福音書の謎が解けなかったのか ―― 平和を作れない人類に足りないこと』
となります。つまり、人類には何か足りないことがあって、それゆえにヨハネの福音書の謎も解けなかったし、それだけでなく、今でも戦争が無くならずに平和な世界が作れないのも、人類にその何かが足りないからではないですか、ということを世の人々に問い掛ける本にしたいと思って、いま書き始めているところです。
 きょうの説教の前半は私が今書いている本の序章からの引用を中心として、後半は、聖書朗読で読んでいただいたヨハネの1章を見て、私達に足りないこととは何かを検証して行くことにしたいと思います。
 では、しばらくは今私が書いている本の序章からの引用とさせていただきます。

1.人類はなぜヨハネの福音書の謎が解けなかったのか?
(引用始め)
 小さな子供は好奇心が旺盛で、何でも貪欲に知りたがります。人間は生まれつき豊かな好奇心を持つことが、子供を見ているとわかります。子供の頃の好奇心は成長とともに衰えがちですが、大人になっても好奇心が衰えない者は研究者となり、新しい発見を求めて日夜研究に励みます。そして大きな発見をした研究者に与えられるノーベル賞のような賞には、研究者の世界だけではなく社会全体も注目して、発見に至った経緯などが詳しく報道されたりします。
 人類はこのように、新しい発見をしたり謎を解明したりすることに大きな喜びを感じ、それらを成し遂げた人々には称賛を送ります。それゆえ、自分も何か新しいことを発見したいと思い、あこがれる人は多いことでしょう。しかし一般に、新しい発見をするには、資金が必要です。例えば自然科学の実験系では、実験装置を組み上げるだけで莫大な費用が必要ですし、継続して運用して行くにも大金をつぎ込み続けなければなりません。素粒子物理学の加速器や国際宇宙ステーションの実験棟などはその代表でしょう。もっとずっと小さな規模の実験であっても、それなりの新しい成果を得るには、1年当たりの平均で数百万円は必要でしょう。また理論系や人文・社会系の分野においても、計算や調査を行うには、それなりの研究費が必要でしょう。そのため研究者にとって研究資金を獲得することは最重要課題です。このように、新しい発見をすることは資金面の制約だけを考えても、誰にでもチャンスがあるというわけではありません。
 ところが、例外がありました。聖書の研究です。聖書はキリスト教が禁止されていない国であれば、誰でも比較的容易に手にして読むことが可能です。教会に行けば聖書が置いてありますし、無料で配布される場合もあります。そして書店に行けば、比較的安価に買い求めることができます。日本でも、ある程度の売場面積がある書店には聖書がたいていは置いてありますから、3千円ほどあれば入手が可能です。また現代においては書店に行かなくてもインターネットで購入することもできます。
 私はこの聖書一冊だけで聖書のヨハネの福音書に関する大きな発見をしました。最初の発見のために必要だった資料は、まさに聖書一冊だけでした。その後もヨハネの福音書に関する新たな発見は続きましたが、それらの追加の発見をする上で参考になった本は市販されている2冊の本(J.L.マーティン著『ヨハネ福音書の歴史と神学』とD.M.スミス『ヨハネ福音書の神学』)だけでした。聖書と参考図書の2冊を足した3冊の合計は約1万円です。特別な装置も入手困難な資料も必要とせずに、1万円の出費で新しい発見ができました。つまり資金面だけで言えば、聖書に関心がある者なら誰でも聖書のヨハネの福音書の謎を解明するチャンスがあったわけです。宇宙の研究には莫大な費用が掛かりますから、宇宙に関心がある者なら誰でも宇宙の謎を解明するチャンスがあるわけではありません。同様に、医学に関心がある者なら誰でも医学上の発見をするチャンスがあるわけではありません。しかし、ヨハネの福音書の謎の場合は、聖書に関心がある者なら誰でも解明するチャンスがあったわけです。特別なお金も設備も必要とせずに、聖書が一冊あれば誰でも、人類が謎としていたことを発見するチャンスがあったわけです。
 それにも関わらず、ヨハネの福音書の謎がこれまで解明されなかったのは、一体どういうわけでしょうか。ヨハネの福音書は1世紀の末頃に書かれたと考えられますが、2世紀後半にエイレナイオスが書いた『異端反駁』の中でヨハネの福音書について説明している箇所(第3巻11章)を見ると、既にこの2世紀の後半には、ヨハネの福音書の特殊な構造は、誰にも気付かれないものになってしまっていたようです。3世紀前半のオリゲネスによる『ヨハネによる福音注解』(小高毅・訳)を見ても、オリゲネスはヨハネの福音書の特殊な構造に全く気付いていません。このように2世紀の後半以降、現代の21世紀に至るまで、ヨハネの福音書は謎に包まれたままでいたのです。例えば敬虔なクリスチャンで、伝統的な解釈に疑いを挟むことを不敬だと考える人の場合なら、気付かなかったとしても不思議ではないでしょう。しかし、聖書に疑いの目を向けながら読む人々も、この世には数多く存在します。そのような人々でも謎を解くことができなかったのは、いったいどうしてでしょうか。人類には、何か足りないことがあるためにヨハネの福音書の謎が解けなかったのでしょうか。
 本書では、まず人類に足りないことについての考察から始めることにします。そのようにして読者の方々に頭の準備運動をしていただきながら、徐々に今回発見したヨハネの福音書の特殊な構造についての説明をして行くことにします。

2.人類は一本の時間の流れという線的な時間観に束縛されている
 当初私は「人類はなぜヨハネの福音書の謎が解けなかったのか?」などという、大それたタイトルを掲げるつもりなど、全くありませんでした。ヨハネの福音書に関して新しく発見したことを、ただ単に淡々と説明するだけの本を書くつもりでいました。しかし、今回の新しい発見について周囲の人々に説明しても、なかなか理解してもらえないという経験をしました。なぜだろうと悩み考えるうちに、人類は、「過去・現在・未来」という1本の時間の流れの時間観に束縛されているのだということに思い至りました。そして、このことが、人類がなかなか平和な世界を実現できないこととも関係しているのではないかと思い至り、本書のサブタイトルに「平和を作れない人類に足りないこと」を掲げて、このことの考察も本書を執筆する中で進めることにしました。
 イエス・キリストは聖書のマタイの福音書の中で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)と言いました。また、本書の考察の対象であるヨハネの福音書ではイエス・キリストは最後の方で三度も弟子たちに「平安(平和)があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19,21,26)と言っています。この時から2千年が経ちましたが、人類は平和な世界を実現することができないでいます。前の世紀の20世紀には二度の大きな世界大戦があり、1945年の8月には広島と長崎への原子爆弾の投下という人類史上最悪と言っても良いであろう行為がなされました。核兵器の威力のあまりの凄まじさゆえに、長崎以降は幸いにして実戦では使用されていません。しかし核兵器の技術を保有する国が大国だけに限られなくなった21世紀の今、核兵器が実戦で使用される危険性が再び高まっています。
 どうして私たち人類は平和な世界を実現することができないのでしょうか。私は主要な原因の一つとして、人類が「過去・現在・未来」という一本の時間の流れの時間観に束縛されているためであると考えます。人間は他者から受けた過去の被害の記憶をなかなか消し去ることができないため、相手を恨む思いが増殖して、遂には復讐に及んだりします。そのことがまた、未来における相手の報復を招くことにもなります。たとえ武力には及ばなかったとしても、心の中では赦すことができずにいて、相手に対する憎悪の感情を持ち続けることは良くあることでしょう。私たち人類が「過去・現在・未来」という時間観にとどまっている限り、このような平和を乱す憎悪の感情から、なかなか逃れることはできないのではないでしょうか。
 イエス・キリストは「七度を七十倍するまで」相手を赦すよう、弟子のペテロに教えました(マタイ18:22)。或いはまた「互いに愛し合いなさい」とも教えました(ヨハネ13:34)。しかし私たち人類は、このように人を赦し、互いに愛し合うことがいかに難しいことであるか、ということを過去の歴史から何度も何度も、繰り返し学んで来ています。私はヨハネの福音書の構造がわかって来るに連れて、私たち人類が平和な世界をなかなか実現できないのは、福音書が記したイエス・キリストのメッセージを私たちがしっかりと受け取ることができていなかったからではないかと考えるようになりました。私たちが「過去・現在・未来」という一本の時間の流れの時間観の中にいる限り、私たちは永遠に、互いに愛し合うことができないだろうと思います。イエス・キリストは、私たちがもっと違う時間観の中で生きることができるよう、私たちに勧めているのではないかと思います。報復することでしか満足感を得られないような狭い時間観よりも、もっと大きな幸福感に浸れる時間観があります。それが、どのような時間観なのか、それは、ヨハネの福音書の中に見ることができます。これまでクリスチャンは、このことに薄々は気付いていました。しかし、本書がこれから解き明かすような明白な形では気付くことができないでいました。それゆえクリスチャンもヨハネの福音書の謎を解くことができないでいました。私たち人類が平和な世界をなかなか実現できないのも、そのためなのかもしれないと、いま私は思っています。
 ヨハネの福音書の時間観をご一緒に学ぶことで、私たち人類が平和な世界を作る方向に向かって行くことができるようになるよう、心から願っています。
(引用終わり)

 以上が、いま書いている本の序章です。これから書き進める中で、序章の内容も、多少は書き換えるかもしれませんが、だいたいはこんな流れです。
 私たちの時間観は、一本の時間の流れの中に閉じ込められています。そこから解放されない限り、私たちはなかなか人を赦し、互いに愛し合うことができるようには、なれないのではないかと思います。

3.ヨハネ1章の3つの「その翌日」と2章の「それから三日目に」
 では、そのことを具体的に、きょうの聖書箇所であるヨハネの福音書1章をご一緒に見ながら考えて行きたいと思います。
 まず注目したいのが、38節のイエス・キリストのことば、

「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)

です。これは、ヨハネの福音書におけるイエス・キリストの第一声です。イエス・キリストはこれ以前から登場していますが、口を開いてことばを発したのは、この38節が一番始めです。
 私はこの1章38節が大好きです。ヨハネの福音書の中で一番好きだと言っても良いかもしれません。それは、この「あなたがたは何を求めているのですか」ということばが、単にイエスの時代の弟子たちに向けられたことばではなく、そこを飛び出して、現代の私たちに向けても話されているように感じられるからです。
 最初の頃、まだ私がヨハネの福音書についての思い巡らしを本格的に始める前は、このことが、とても不思議でした。どうして、この箇所は、イエス・キリストが直接自分に話し掛けているように感じるのか、不思議に感じていました。
 しかし、今はわかります。それは、これまで皆さんに話して来たように、ここには「イエスの時代」だけでなく、「旧約の時代」と「使徒の時代」も重ねられているからです。一本の線的な時間観ではなく、もっと立体的な時間観によって描かれ、三位一体の神を霊的に感じることができるようになっています。
 この、ヨハネの福音書の立体的な時間観を思い浮かべるのに、「飛び出す絵本」を想像してみていただいたら、どうかなと思います。子供向けの飛び出す絵本というのがありますね。そんな風に、ヨハネの福音書は、ページをめくるごとに、父・御子・御霊の三位一体の神の愛がページから飛び出して来ます。そして、それを私たちは、霊的には、ある程度感じ取ることができていました。理性では全く理解できていなくても、霊性では、ある程度は感じていたのですね。ですから、38節の「あなたがたは何を求めているのですか」を読むと、イエスさまが直接自分に話し掛けて下っているように感じるわけです。
 ではなぜ理性では理解できなかったかというと、この1章に出て来る、「その翌日」ということばによって、私たちが思い浮かべる時間が「イエスの時代」だけに完全に限定されてしまったからだと思います。
 いま開いていただいているページの35節に、「その翌日」とありますね。それから43節にも「その翌日」とあります。さらに、2章の1節に、「それから三日目に」とありますし、ページを一つ戻していただいて、29節にも「その翌日」があります。私たちは、この三度出て来る「その翌日」と、2章1節の「それから三日目に」という記述によって、すっかり「イエスの時代」の中に取り込まれてしまいます。これだけ頻繁に「その翌日」が出て来ると、まさか、この「イエスの時代」の背後に「旧約の時代」や「使徒の時代」が重ねられているとは思い至りませんね。
 では、この「その翌日」や「それから三日目に」は、私たちの目をくらますために、故意に入れたのでしょうか。「旧約の時代」と「使徒の時代」を気付きにくくするために、わざと挿入されたのでしょうか。私は、そうではないと思います。なぜなら、ここにある「その翌日」と「それから三日目に」は、「飛び出す絵本」のページの区切りのようになっているからです。
 この「飛び出す絵本」のからくりを、まず「旧約の時代」から見て行きましょう。いま、「その翌日」は「飛び出す絵本」のページの区切りだと話しました。では、この「その翌日」の前後で何が変わるのでしょうか。それは、創世記の中での時代が変わります。
 29節の「その翌日」の前はアブラハムの父のテラの時代で、29節以降が、アブラハムの時代になります。28節に、「この事があったのは、ヨルダン川の向こう岸の」とありますね。これは、アブラハムが、父テラと共に、ヨルダン川の向こう側のウルの地にいたことを示します。ヨルダン川の向こうというのは、ヨルダン川の西側にあるエルサレムから見て向こう側ということです。ウルは東方のユーフラテス川の下流にありました。そこがアブラハムのふるさとで、ある時、テラとアブラハムはウルを出発してハランに行きました。そこまでが28節までのことです。そして29節以降、イエスが登場した所でアブラハム、当時はまだアブラムでしたが、アブラムは神の声を聞いてハランを出発してカナンの地に入りました。
 そして、ページをめくっていただいて、35節の「その翌日」から、アブラハムの息子のイサクの時代に入ります。そして、43節の「その翌日」から、イサクの息子のヤコブの時代に入ります。45節で登場するナタナエルとは、ヤコブのことであるということは、これまで何度か、話して来たことです。47節でイエスがナタナエルのことを、「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ」と言いましたが、ヤコブは、「イスラエル」という新しい名前を神から与えられて、イスラエル12部族の父となりました。
 そして、2章1節の「それから三日目に」以降、モーセの時代に入ります。先日も話した通り、2章4節でイエスは母のマリヤに「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言いましたが、それはモーセの実の母がモーセをナイル川の岸に置いたのをパロの娘の王女が発見したために、モーセは王女の息子になっていたからです。モーセにとって実の母は乳母ではありましたが、母ではありませんでした。また、なぜヤコブの三日目がモーセかと言うと、それは系図上ではなく、聖書の記述上のことです。聖書の記述ではヤコブの時代の次がヨセフの時代、ヨセフ時代の次がモーセの時代になっています。この三日目というのは、イエスが三日目によみがえった時の数え方と同じです。イエスは金曜日に十字架に掛かり、金・土・日の三日目の日曜日によみがえりました。ですから、この三日目というのは、間に土曜日が一日挟まっているだけです。同様に、このヨハネの福音書2章1節の「それから三日目に」というのは、聖書の記述上で、間にヨセフの時代が挟まっていますが、それは省略してモーセの時代に移ったことを示しています。
 このように、ヨハネの福音書1章の背後には、霊的には旧約聖書の創世記の時代のことが、こんなに豊かに詰まっています。
 では、「使徒の時代」と、「その翌日」とは、どういう関係になっているでしょうか。これについては、私は、「旧約の時代」のことほどには自信たっぷりに言えませんが、「使徒の時代」は、この1章の3つの「その翌日」と2章1節の「それから三日目に」によって、イエスの復活からペンテコステまでの50日間を表していると考えます。ペンテコステは日本語では五旬節と言います。五旬節は復活節の7週間後の50日目にあります。ヨハネの福音書2章のカナの婚礼の「最初のしるし」は「使徒の時代」にあっては、ペンテコステのことであると、先月、話しましたね。
 ですから、ヨハネの福音書の1章19節から2章1節までが50日あるのだ、ということを、「その翌日」を挿入して、その間(あいだ)を10日間とすることで示しているのだと思います。1章29節までで10日、35節までで20日、43節までで、30日、そして、2章の手前までで40日が経過し、2章1節でさらに10日間が間に挟まり、それでちょうど50日目になり、ガリラヤの弟子たちや母マリヤやイエスの兄弟たちに聖霊が降ったペンテコステの日となりました。
 このように、ヨハネの福音書1章に三度も出て来る「その翌日」と2章1節の「それから三日目に」というのは、これらが挿入されているがゆえに私たちは、どうしても「イエスの時代」だけに注目してしまうことになります。しかし、これらの「その翌日」は、私たちの目を「イエスの時代」に集中させて、背後の時代を隠すために故意に挿入されたのではなく、むしろ、背後にはこんなにも豊かに「旧約の時代」と「使徒の時代」が存在するのだということを、教えてくれているのだと思います。ところが、私たちの時間観があまりに狭いために、私たち人類は、今まで、このことに気付くことができないでいました。

おわりに
 けれども今や、私たちはこのことに気付くことができました。ですから、私たちは、大いなる希望を持つべきだと思います。
 今までの私たちでしたら、今の不穏な世界情勢を見て、ついつい悲観的になってしまうかもしれません。これから、世界はどのような方向に進むのだろうか。近いうちに、本当に核戦争が起きてしまうのではないか、そんなふうに悲観的な気持ちになってしまい、暗くなってしまうかもしれません。時間を一本の線的な流れでしか見られない、狭い時間観の中に閉じ込められたままでいるなら、そのような悲観的な気持ちにもなるのも、仕方がないかもしれません。
 しかし私たちは、そのような狭い時間観から解放されて、神様の立体的な時間観の中に身を置くことができるようになりつつあります。
 神様は紀元1世紀のヨハネの福音書が書かれた時代に、ヨハネを通じてこのことを教えて下さいました。けれども、うなじがこわくて理性に頼りがちな私たち人類は、この大切なことを1世紀に置き忘れて来てしまい、2世紀以降は、この立体的な時間観に気付くことができなくなってしまいました。でも、これからは違います。私たちは、この立体的な時間観の中に身を置くことで、神様とより一層深く交わることが可能になりました。ですから、私たちは希望を持って進むべきです。
 特に、姫路教会の私たちは希望を持って進むべきだと思います。この姫路教会の会堂で私たちは、2世紀以降の人類としては最初に、神様の立体的な時間観を知ることができました。これは、すごい恵みだと思います。そんな素晴らしい恵みを、私たち姫路教会の者たちは、神様からいただくことができました。
 このことを覚えて、希望を持って神様と共に前進して行くなら、神様は私たちをきっと豊かに祝福して下さることでしょう。

ヨハネの福音書の「私たち編」(2013.2.24 全文)

2013年02月25日 06時53分39秒 | 礼拝メッセージ全文
2013年2月24日礼拝メッセージ

『ヨハネの福音書の「私たち編」』
【ヨハネ4:28~42】

はじめに
 先週から、ヨハネの福音書の背後にある「使徒の時代」について、ご一緒に見ています。
 ヨハネの福音書は20章で「イエスの時代」が終わり、21章から「使徒の時代」が始まります。この20章と21章は背後には何もなく、表舞台だけです。しかし、21章で始まった「使徒の時代」は、今度は1章からは「イエスの時代」の背後にまわり、見え隠れしながら、1章、2 章、3章と進み、11章まで続きます。
 この1章から11章までの「イエスの時代」の背後には、「旧約の時代」も見え隠れしていますが、先週は「旧約の時代」の話はしませんでした。混乱を防ぐためです。
 先週は、21章と1章のナタナエルを見てから、2章の母マリヤを見て、それから「最初のしるし」と「第二のしるし」はそれぞれ「ペンテコステ」と「異邦人の救い」であることを簡単に話しました。さらに6章と7章を急ぎ足で見ました。
 今日は少し戻して4章から11章までを見て、そして来週の伝道礼拝では「終わりの時」について話そうかと思っていました。
 しかし、来週の3月3日の説教は協力牧師の先生が行うことになりましたので、予定を変更して、もう少しゆっくりとヨハネの福音書の背後にある時代を見て、皆さんとヨハネの福音書をじっくりと味わうことにしようと思っています。
 今日は4章だけを見ることにします。4章だけですので、「旧約の時代」と「使徒の時代」の両方を見ようと思います。
 この4章も、本当に面白いです。ヨハネは実に巧妙に、「イエスの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」とを重ねています。これは、まさに神業と言えます。こういう所にも、ちゃんと神様はいらっしゃるのだなあ、という思いがします。

 これまで私たちはヨハネの福音書のこの巧妙な構造を知らなくても、ちゃんと神様を感じ、神様を信じました。これは、本当に幸いなことです。なぜなら、イエスさまは「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)とおっしゃったからです。私たちは、ヨハネの福音書の細かい所までは見ないでも、神様を感じ、神様を信じました。隅々まで粗探しをすることなく、神様を素直に信じることができました。これは素晴らしいことだと思います。
 一方、神を信じない人々というのは、こういう聖書の読み方をしないのですね。聖書をバラバラにして、隅々まで粗探しをします。ヨハネの福音書に関して言えば、この福音書はちょっと見たところでは、時間が行ったり来たりしているように見えます。それは、実は、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の3つの時代が重ねられているためなのですが、神を信じない聖書学者たちには、この三重構造が見えていませんから、ヨハネの福音書の時間の流れがスッキリしないのは、例えば、写本が伝わる過程のどこかの時代で、ページが入れ替わってしまったなどと考えています。或いは、前後に脈絡がないと感じられるような挿入も所々にありますから、これらは後の時代の編集者が勝手に挿入したものだ、と考えたりしています。そうして、聖書はそのように改ざんされた書物だから信じるに値しないという結論を下したりしています。確かに後世の挿入は少しはあるのかもしれません。しかし、そのような挿入の箇所は聖書学者が考えるほど多くはないはずです。こういうことは疑い始めると、あちらもこちらも挿入と感じられるようになってしまうと思いますが、実際はそれほどは多くないと思います。
 疑い深い聖書学者たちは、聖書の隅々までを一生懸命に調べますが、大事なことに対しては目が閉じられていますから、見えません。何とも残念な人たちという思いがします。こういう聖書学者たちはとても頭の良い人たちですから、聖書の正典以外のいわゆる外典や、その他の様々な古代の文献の知識も豊富で、それらの知識を総動員して聖書を読み解こうとします。ヨハネの福音書に対する態度も同様です。しかし、ヨハネの福音書の三つの時代の三重構造を解読するには、この聖書一冊だけがあれば十分だったのですね。背後の「旧約時代」のことは、旧約聖書に書いてあり、背後の「使徒の時代」のことは使徒の働き(使徒行伝)に書いてあります。聖書を信じない聖書学者たちは聖書以外の知識で頭の中をパンパンにして聖書を読みますから、逆に聖書が見えなくなってしまったのですね。ですから、イエスさまがおっしゃるように、「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)なんですね。
 私はそんなに頭が良くなくて、本当に良かったなあと思います。そういう聖書学者たちのような素晴らしい頭脳を持っていませんから、他の文献を読む余裕がほとんどなくて、聖書だけを一生懸命読みました。ですから、宝の隠し場所を神様が教えて下さったのだと思います。
 私は今、聖書の中には、ちゃんと神様がいらっしゃるということを、聖書を信じている方々にも、聖書を信じていない方々にも、できるだけ多くの方々にお伝えしなければならないと思っています。既に聖書を信じている方々も、ヨハネの福音書のことをもっと良く知れば、さらに大きな恵みをいただけるだろうと思います。そして、聖書を信じていない方々には、聖書の中にいる神様が見えるようになっていただきたいと願っています。

1.ヨハネ4章の背後の「旧約の時代」(1~28節)
 では、聖書を見て行きましょう。
 ヨハネの福音書の4章です。ヨハネの福音書の4章は、本当に面白いです。
 4章の「旧約の時代」と「使徒の時代」の両方を見ますが、この4章の場合は、背後の「旧約の時代」と「使徒の時代」は、全く同じ箇所に重ねてあるのではなくて、場所をずらして書いてあるので、そんなに混乱する恐れはないと思います。4章28節を見て下さい。

「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。」(ヨハネ4:28)

 女というのは、サマリヤの女のことです。女は水がめを置きました。この時の「イエスの時代」の背後にあるのは、水がめを置く【前】が「旧約の時代」で、水がめを置いた【後】が、「使徒の時代」です。
 女が自分の手に水がめを持っている時は、旧約のエリヤの時代の貧しい「やもめ」(Ⅰ列17:8)に重ねられています。
 エリヤは、このやもめの女に言いました。

「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませて下さい」(Ⅰ列17:10)

 そして「水を飲ませて下さい」と頼んだのは、イエスも同じでした。ヨハネ4章7節でイエスはサマリヤの女に、

「わたしに水を飲ませて下さい」(ヨハネ4:7)

と言いました。このサマリヤの女の夫について、イエスは18節で、

「あなたには夫が5人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」(ヨハネ4:18)

と言っています。このサマリヤの女の夫というのは、「旧約の時代」の北王国の歴代の王たちのことを指します。エリヤは、ソロモンの王国が南北に分裂した後の北王国のアハブ王の時代の預言者です。イエスがサマリヤの女に、「今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」と言ったのは、重ねているエリヤの時代の女がやもめであることと、一緒にいる男がアハブ王であるため、「夫ではない」と言ったと考えられます。アハブ王は北王国の7代目の王ですから、アハブの前には6人の王がいました。そのうち、5代目のジムリ王は1週間しか在位期間がありませんでしたから(Ⅰ列16:15)、サマリヤの女の夫としてはカウントしなかったのではないかと思います。北王国の王たちは、ヤロブアムからアハブまで、いずれも悪王たちですから、北王国の民は不幸でした。そうして、5人の夫があったサマリヤの女もまた不幸な女性でした。

2.ヨハネ4章の背後の「使徒の時代」(28~42節)
 このヨハネ4章の時代の重ね方で、私が非常に重要であると感じるポイントは、4章の6節と34節との対比です。6節では、「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた」とあります。6節でのイエスは預言者エリヤです。預言者は人間ですから疲れます。実際、列王記には、疲れて弱ったエリヤの姿が描かれています(Ⅰ列19:1-18)。このヨハネ4章の井戸端で疲れたイエスの姿は、疲れたエリヤの姿とも重ねられているようです。一方、28節でサマリヤの女が水がめを置いて以降は「使徒の時代」になりますから、イエスは聖霊として描かれています。32節でイエスは、
「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」(ヨハネ4:32)
と言い、34節で
「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネ4:34)
と言いました。聖霊の食物とは、このようなものなのですね。このように、人間であるエリヤと神である聖霊との大きな違いが対比して描かれています。

 次の35節から38節までも、感動的に面白いです。この35節から38節の謎が解けた時、私は神様の御業の鮮やかさに、本当に心底から感動して心が震えました。35節、

「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)

 皆さん、これは使徒の時代の、どの出来事と重ねてあるでしょうか。私は長いこと、わからないでいました。一体全体、このヨハネ4:35は何が言いたいのか、全然わかりませんでした。しかし、とうとうわかった時には、本当に感動して心が震えました。
 では、この箇所が使徒の働き(使徒行伝)のどこと重ねてあるか、ご一緒に見てみたく思います。今、イエスと弟子たちは、サマリヤ人たちが集まって来ている所にいますから、使徒の働きにおいても、サマリヤ人たちが登場する場面であるはずです。それは使徒の働き8章です。使徒の働き8章を見て下さい。8章5節に、

「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」(使徒8:5)

とあります。そして、12節に、

「ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。」(使徒8:12)

とあります。バプテスマを受けたとありますが、後ろの方をよくよく読むと、16節には、

「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。」(使徒8:16)

とあります。ピリポにより、サマリヤ人たちは水のバプテスマは受けていましたが、聖霊のバプテスマは受けていませんでした。サマリヤ人たちに聖霊が下ったのは、ペテロとヨハネが彼らの所に行った時でした。14節と15節、

「さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。」(使徒8:14,15)

そして17節、

「ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(使徒8:17)
 
 これでヨハネの福音書4章の感動的な「使徒の時代」の重ね方がお分かりになったでしょうか。ピリポが水のバプテスマを授けた段階においては、「色づいて、刈り入れるばかり」になってはいましたが、まだ刈り取られてはいなかったのですね。サマリヤ人たちは聖霊のバプテスマを受けて初めて、刈り取られたのだと言うことができます。ヨハネの福音書4章に戻りましょう。35節をもう一度読みます。

「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)

少し飛んで37節と38節、

「こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(ヨハネ4:37,38)

 この37節の一人で種を蒔いた者が「使徒の時代」のピリポで、刈り取りをした者がペテロとヨハネでした。ヨハネの福音書のほうでは、刈り取りに至ったのは、42節ですね。サマリヤ人たちは女に言いました。

「そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:42)
 
 サマリヤ人たちは女から話を聞いただけではなく、イエスと直接、交わることができました。これが聖霊を受けたということです。

3.巧妙に時代を重ねた神の御業に感動する私たち
 この、きょうの聖書箇所のヨハネ4章28節から42節に掛けては、背後に「使徒の時代」が隠されているということに気付かなければ、さっぱり理解ができない箇所です。32節と34節でイエスが言っている「食物」のことは、イエスが「使徒の時代」の聖霊であることがわかって初めて理解できることです。そして35節の「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」は、使徒の働き8章のサマリヤ人たちの救いの場面が思い浮かばなければ、さっぱりわからない箇所です。
 この隠された秘密がわかった時、私は本当に感動しました。皆さんも感動していませんか。こんなに巧妙に「使徒の時代」をヨハネの福音書の中に仕込むなんて、「まさに神業だ」と感動しないでしょうか。
 この素晴らしい感動は、聖書を信じない聖書学者では決して味わうことができないでしょう。感動できる私たちは、本当に素晴らしい恵みをいただいていると思います。
 そして、今回、私はこの説教の準備をしていて、このようにヨハネの福音書を読んで感動することこそが、きょうのタイトルの『ヨハネの福音書の「私たち編」』なのだという思いを抱いています。先週まで私は、ヨハネの福音書の中で「私たち」が重なって来るのは、「使徒の時代」の「パウロ編」である5章の後半以降かなと思っていましたが、そうではなくて、やはりヨハネの福音書全体が「私たち編」なのだという思いを強くしています。きょうは4章しか見ていませんが、ヨハネの福音書のいたる所に、きょうのような感動を覚える箇所があります。こうして私たちは、ヨハネの福音書の全体で感動的な交わりを味わうことができます。
 ヨハネの手紙第一でヨハネは、

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものになるためです。」(Ⅰヨハネ1:3,4)

と書いています。私たちがヨハネの福音書を読むのは、「御父および御子イエス・キリスト」との交わりの中に入れていただくためです。きょうヨハネの福音書4章で味わったような感動を覚えることが、交わりの中に入れていただいているということであり、この感動の中に私たちがいることがヨハネの福音書の「私たち編」であると言えるのだと思います。
 そして、ヨハネの福音書のような素晴らしい書を私たちに与えて下さった神様の御名を崇め、感動とともに礼拝を捧げること、それがヨハネ4章24節でいう、「霊とまことによる礼拝」ということではないかなあ、と思います。イエスさまはおっしゃいました。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

 そういう意味で私はやはり、聖書を信じている人々とも、もっともっと、このヨハネの福音書の感動を分かち合いたいと思います。
 今まで私は、ヨハネの福音書の構造のことを他の人々に言っても、あまり期待したほどの反応が返って来ないことに失望していました。しかし、それは、私がこの感動を上手く伝えることができていなかったからなのだと気付かされました。
 きょう、皆さんは、私と一緒に感動を味わうことができたでしょうか。

 しつこいかもしれませんが、きょうのポイントを、もう一度おさらいしたいと思います。

 きょうの聖書箇所のヨハネの福音書4章でイエス・キリストはサマリヤ地方にいました。サマリヤ地方というのは、エルサレムの北にある、もともとは北王国があった地方です。
このヨハネの福音書4章の「イエスの時代」は、北王国の預言者エリヤが活動していた「旧約の時代」と、サマリヤ人たちに聖霊が下って救われた「使徒の時代」とが重ねられています。
 「旧約の時代」のエリヤであるイエスは、人間のように、旅の疲れが出て井戸端に座っていました。一方、「使徒の時代」の聖霊であるイエスには、弟子たちの知らない食べ物がありました。それは、父のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることです。それが聖霊であるイエスの食べ物でした。
 この、「旧約の時代」から「使徒の時代」への切り替えは、サマリヤの女が水がめを下に置くことによって示されました。「旧約の時代」ではエリヤであるイエスが女に「水を飲ませてください」と頼みました。それゆえ、女が水がめを下に置いたことで、「旧約の時代」が終わって「使徒の時代」へと切り替わりました。そうして、イエスがサマリヤ人たちの前で弟子たちに「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」と言いました。この時、背後の「使徒の時代」ではサマリヤ人たちが、ピリポによって水のバプテスマを受け、あとは聖霊のバプテスマを受けるばかりになっていました。その聖霊のバプテスマは、弟子のペテロとヨハネがサマリヤ人たちの上に手を置くことによって為されました。こうして、ピリポというひとりが種を蒔き、ほかの者であるペテロとヨハネが刈り取ったのでした。
 こんなに見事に「旧約の時代」と「使徒の時代」とが重ねられていることは、本当に感動的なことです。これは神様でなければできない御業です。このような巧妙な構造は、人間では、ちょっと思い付かないと思います。神から霊感を受けたヨハネであるからこそ、書くことができたのだと思います。
 このような神の御業をほめたたえて、霊とまことによる礼拝を捧げることができることは、本当に大きな喜びです。これが、ヨハネの手紙第一が言うところの、御父と御子イエス・キリストと交わりを持つことによって得られる喜びであると言えるでしょう。

おわりに
 このように、聖書の中には、三位一体の神様がしっかりとおられます。今まで私たちは、この神様を感じることはできていましたが、ハッキリとは見えていませんでした。これもまた、感謝なことでした。なぜなら、イエス・キリストは「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)とおっしゃったからです。
 しかし、今や私たちはヨハネの福音書の中にしっかりと三位一体の神様を見ることができるようになりました。それゆえ、私たちは決して信仰が揺らぐことはないでしょう。この揺るがぬ信仰を持って私たちは、今週も神様と共に歩んで行きたく思います。

わたしはいのちのパンです(2013.2.17 全文)

2013年02月18日 07時41分54秒 | 礼拝メッセージ全文
2013年2月17日礼拝メッセージ

『わたしはいのちのパンです』
【ヨハネ6:41~51】

はじめに
 きょうの説教では、いのちのことばであるパンを、ヨハネの福音書を見ながら、ご一緒にじっくりと味わうことを、予定していました。しかし、実はその説教に備えて、ヨハネの福音書について思いを巡らしていたところ、ヨハネの福音書の全体像で、今まで私が見えずにいた部分が、いろいろと見えるようになって来ました。
 そこで、きょうは予定を変更して、「いのちのパン」について短く触れた後で、きょうと来週の2回は、ヨハネの福音書の全体像で、まだ私が皆さんにお伝えしていないことについて、お話しすることにします。

1.「いのちのパンとは、「いのちのことば」
 きょうの説教のタイトルの『わたしはいのちのパンです』という言葉は、イエス・キリストが、ご自身のことについて、言った言葉です。「自分はいのちのパンなのだ」と、イエス・キリストは言っておられます。
 ヨハネの福音書は「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)という有名な書き出しで始まり、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(1:14)と書かれています。ですからヨハネの福音書は、イエス・キリストはことばであった、と言っています。
 イエス・キリストはことばである、ということを念頭に置いて今日のヨハネ6章の48節、「わたしはいのちのパンです」を読むなら、これはイエス・キリストが「わたしはいのちのことばです」と言っているのと同じである、ということに気付きます。
 私たちは、いのちのことばを体の中に取り込みます。すると、そのいのちのことばは私たちの霊的な糧となって、私たちの魂に栄養を与えて下さり、揺るぎない信仰を育てて下さいます。
 「いのちのパン」の話はここまでとします。いま私は、ヨハネの福音書の読者が、どこに導かれているのか、ということを、どうしても皆さんにお伝えしなければならない、という気持ちになっています。今の私は、今年の私の聖句であるエレミヤ書の、

「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」(エレミヤ20:9)

という状態になっています。そのように、今週と来週に話す予定のことは、どうしても皆さんにお伝えしておきたいものです。
 今週と来週はヨハネの福音書の大きな流れについて2回に分けて話し、再来週の伝道礼拝では、「終わりの時」について話すことを考えています。
 「終わりの時」をテーマした説教は、私は神学生の時も含めて、一度もしたことがありません。それは、「終わりの時」の話をすると、何だか不安をあおるような気がするからです。不安をあおってイエス・キリストを信じることを勧めるのは、どうも私としては、気が進みません。それよりは神の愛の大きさを語って、イエス・キリストを信じることをお勧めしたいです。
 しかし、ヨハネの福音書のことが段々にわかって来ると、そうも言っていられないようです。それは、ヨハネの黙示録やヨハネの手紙が、「終わりの時」が近いと言っているのと、ヨハネの福音書を包んでいた濃い霧が1900年ぶりに晴れて、私たちが「終わりの時」に向かって歩んでいることがわかったというのでは、神さまからのメッセージ性が、全く異なると思うからです。
 などと言うと、不安をあおるような感じがしますから、気を楽にして聞いていただきたいのですが、私が何を言おうとしているかというと、ヨハネの黙示録とヨハネの手紙第一には、「終わりの時」が近いことが、ちゃんと表立って書いてありますから、ヨハネの黙示録とヨハネの手紙第一が「終わりの時」が近いと言っていることは1世紀の終わりの1900年前からわかっていることです。
 しかし、ヨハネの福音書には、「終わりの時」が近いことは、表立っては書いていません。それでも、ヨハネの福音書からも、「終わりの時」が近いという雰囲気は感じることができました。それは、ヨハネの福音書が書かれた時期はヨハネの黙示録やヨハネの手紙とだいたい同じ時期と考えられますから、「終わりの時」が近いという雰囲気がヨハネの福音書から感じられても、少しもおかしくはありません。でも、それは、あくまでも、そういう匂いがする、という程度のものだと思います。
 それが、最近になって、ヨハネの福音書の隠された構造が細かい所まで急速に分かって来ました。そうして1900年間、わからなかったことが、最近になってわかったということになると、神が私たちに何らかのメッセージを発していると考えなければならないと思います。
 そのメッセージというのが、「終わりの時」が近いから気を付けなさい、と言っているのかどうかはわかりません。そうではない可能性もあります。それは、誰にもわからないことです。「終わりの時」がいつ来るかは、天の父以外は知らないことです。ですから、ヨハネの福音書の構造がわかって、ヨハネの福音書には、私たちが皆、「終わりの時」に向かって歩んでいるということが書いてあるということがわかったとしても、「終わりの時」が、すぐ近くに迫っている、ということにはならないと思います。
 しかし、神さまが私たちの目を1900年ぶりに開いて、ヨハネの福音書に何が書かれているかを私たちに教えて下さっているということは、神さまが私たちに何らかのメッセージを伝えようとしていることは確実だと思います。それが何なのか、私たちは、それぞれが感じることを、お互いに分かち合うことで、探って行く必要があるのではないかと思います。ですから、私は、ヨハネの福音書に何が書かれているか、最近になってわかったことを、文章の形でできるだけ早くまとめなければならないと思っています。そして、それと並行して皆さんにも、このように口頭でお伝えしなければならないと思いました。

2.ヨハネの福音書の背後の「使徒の時代・ペテロ編」
 では、私たちが今、どのような中を歩んでいるのか、それをヨハネの福音書がどのように書いているのか、ご一緒に見て行くことにします。
 ヨハネの福音書を丁寧に辿って行きますから、少し大変かもしれませんが、ご一緒に付いて来ていただきたく、願っています。
 まず、押さえておいていただきたい基本的なことは、ヨハネの福音書の1章から11章までは、3つの時代が並行して流れているということです。3つの時代というのは、「イエスの時代」と、「旧約の時代」と、「使徒の時代」です。「イエスの時代」が正面にあって、はっきりと見えていますが、背後には、「旧約の時代」と「使徒の時代」とが隠されています。
 背後に「旧約の時代」が隠されているということは、以前から何度も話して来たことですので、皆さんには、ある程度はわかっていただいていると思います。しかし、もう一つの、「使徒の時代」も重ねられているということは、あまり話してはいないと思います。それでも、1回か2回ぐらいは話したことがあるのではないかと思います。
 そして今回は、ヨハネの福音書が「終わりの時」に向かって行く所までをお話ししたく思っていますから、「使徒の時代」のことだけを、お話しするようにします。
 ヨハネの福音書の1章から11章までの「イエスの時代」の背後には、「旧約の時代」と「使徒の時代」が隠れていますが、きょうは「使徒の時代」のことだけを話すようにします。つい、「旧約の時代」ことにも言及したくなる誘惑が生じるかもしれませんが、皆さんが混乱しないように、「使徒の時代」のことだけを話すようにします。
 
 さて、今、1章から11章までのことを言いました。では、12章から先はどうなっているかと言うと、12章からは「イエスの時代」のことだけが書いてあります。12章でイエスはエルサレムに入京し、そして13章から17章までには最後の晩餐のこと、18章はイエスが逮捕されたこと、19章はイエスが十字架に付けられて死んだこと、そして20章にはイエスが復活したことが書かれています。20章の終わりをご一緒に見てみましょう。
 20章の30節と31節を、私のほうでお読みします。

「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:30,31)

 ここで、ヨハネの福音書は、いったん終わったような形になっていますね。ですから、次の21章について聖書学者の多くは、後の時代の編集者が付け足したものであると考えており、本来のヨハネの福音書は、20章で終わったと考えています。しかし、21章が後の時代の編集者による付け足しであるという考えは、間違っています。この20章で終わっているのは、「イエスの時代」です。20章で「イエスの時代」が終わり、21章から、「使徒の時代」が始まります。21章から「使徒の時代」が始まり、1章へとつながって行きます。21章の1節と2節をお読みします。

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。」(ヨハネ21:1,2)

 ここで注目すべきは、ナタナエルです。ナタナエルは、ヨハネの福音書だけに登場する謎の人物で、この21章の他に、1章にも登場しています。あとで1章を見ますから、今はまだ21章を開きながら、話だけ聞いていて下さい。
 1章のナタナエルについては、随分前の説教で私は、ナタナエルは創世記のヤコブと重ねられているという話をしました。しかし、きょうは「旧約の時代」のことは考えませんから、「使徒の時代」のナタナエルだけを考えます。そうすると、面白いことがわかります。この21章にいるナタナエルは、1章のナタナエルよりも、時間的には前にいたことになります。
 20章で「イエスの時代」が終わって21章から「使徒の時代」に入って、21章でナタナエルという人物が登場し、その後に、1章のナタナエルが登場します。従って、1章のナタナエルは、イエスの時代の人物ではありません。これで、ヨハネの福音書のナタナエルの謎が解けたことになります。マタイ・マルコ・ルカの福音書にはナタナエルとう人物はいませんから、ヨハネの福音書のナタナエルは、いったいどういう人物なのかということが聖書学者の間では問題になっていますが、ヨハネの福音書の1章のナタナエルは、「イエスの時代」の人物ではなく、「使徒の時代」の人物です。
 では、使徒の時代を見て行きましょう。21章の「次」の1章を見て下さい。1章19節から見ます。1章の1節から18節まではプロローグです。1節の「初めに、ことばがあった」の「初めに」というのは、「旧約の時代」のことです。今日は「旧約の時代」は見ませんからプロローグは省略して、19節から見て行きます。1章19節に、

「ヨハネの証言はこうである」(ヨハネ1:19)

とあります。ここにいるヨハネは、「イエスの時代」であればバプテスマのヨハネですが、きょう私たちが見て行くのは「使徒の時代」ですから、ここにいるヨハネは、使徒ヨハネです。私が持っている何十冊ものヨハネの福音書の注解書の全ては、ここにいるヨハネはバプテスマのヨハネのことである、と書いてありますが、実は、「使徒の時代」においては、ここにいるヨハネは使徒ヨハネです。使徒ヨハネが、「使徒の時代」のイエスについて証言しています。「使徒の時代」のイエスというのは、助け主である聖霊のことです。「使徒の時代」においては、人は聖霊を通してイエスと出会っています。
 この、「使徒の時代」の証言をしているのは使徒ヨハネであるということは、1章の大事なポイントだと思います。それから、ページをめくっていただいて、45節にナタナエルが登場しますね。これは、先ほど言ったように、時間的には21章のナタナエルよりも、後の時間のナタナエルです。

 次に、2章を見てみましょう。2章の1節、

「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた」(2:1)

そして4節でイエスは母に、言いました。

「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」(2:4)

 このイエスの冷たい言い方に違和感を覚えたことがある方は多いと思いますが、実は「使徒の時代」においては、母マリヤはもう、イエスの母ではなく、使徒ヨハネの母になっていました。ヨハネの福音書の十字架の場面で、十字架に付けられたイエスは、母と、そのそばにいた愛する弟子のヨハネを見て、「女の方。そこにあなたの息子がいます」(19:26)と言いました。そしてヨハネには、「そこにあなたの母がいます」(19:27)と言いました。それで、その時から、ヨハネはマリヤを自分の家に引き取りました。ですから、イエスがマリヤに、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言ったのは、「ここには『使徒の時代』を背後に隠していますよ」という【標識】のようなものなのですね。
 そして、このカナの婚礼でイエスが水を良いぶどう酒に変えた奇跡は、11節に「最初のしるし」と書いてあります。この「最初のしるし」は「使徒の時代」では、ペンテコステのことです。カナの婚礼に集まっていたのはガリラヤの弟子たちでした。そして、ペンテコステの日に聖霊が注がれたのも、使徒の働き(使徒行伝)によれば、ガリラヤの弟子たちでした。
 ヨハネの福音書には、もう一つ、「第二のしるし」というのがあります。この「第二のしるし」は、「使徒の時代」にあっては、異邦人に聖霊が注がれた、「異邦人の救い」のことです。
 新約聖書の使徒の働き(使徒行伝)には、ペンテコステと異邦人の救いの間には、ユダヤ人たちが三千人救われ(使徒2:41)、次にサマリヤ人たちも救われたこと(使徒8:17)が書いてあります。ヨハネの福音書の背後の「使徒の時代」にも、その順番で、ユダヤ人の救いとサマリヤ人たちの救いのことが書いてあります。ヨハネの福音書2章23節を見てください。23節、

「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。」(2:23)

 この箇所は、「イエスの時代」の背後の「使徒の時代」に、三千人のユダヤ人たちが救われたことと重ねられています。そして、サマリヤ人たちの救いに関しては、ヨハネの4章にあります。ヨハネ4章の42節にあります。42節の「彼ら」というのはサマリヤ人たちのことです。

「そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。』」(4:42)

 ここで、サマリヤ人たちが救われました。そして、ヨハネ4章54節に、「第二のしるし」のことが書いてあります。54節、

「イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。」(4:54)

 この「第二のしるし」が、「使徒の時代」にあっては、「異邦人の救い」のことです。使徒の働き(使徒行伝)には、ペテロにより、異邦人のコルネリオたちが救われたこと(使徒10:44)が記されています。
 その新約聖書の「使徒の働き」には、前の3分の1ぐらいまではペテロのことが書いてあり、後ろの3分の2ぐらいはパウロのことが書いてあります。
 ヨハネの福音書の背後にある「使徒の時代」も、ペテロ編とパウロ編とに分かれています。その境い目がどこにあるかと言うと、それはヨハネ5章にあります。この境い目について、きょうは詳しく話す時間はありませんので、それは来週話すことにして、ヨハネ6章に話を移します。

3.ヨハネの福音書の背後の「使徒の時代・パウロ(と私たち)編」
 ヨハネ6章では、背後の「使徒の時代」は、既にパウロ編に入っています。
 きょう聖書朗読で読んでいただいたヨハネ6章の「いのちのパン」の箇所は、「使徒の時代」の最後の晩餐に当たります。「使徒の時代」は、ペテロ編が終わった後のパウロ編では、いったん時間が戻されます。それで6章の後半には最後の晩餐のことが書かれていて、そして最後の71節に、

「イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた」(6:71)

と、ユダのことが書いてありますから、ここまでが、最後の晩餐です。なぜ、パウロ編に最後の晩餐のことが書かれているかというと、最後の晩餐が行われていた頃、パウロはまだイエスの弟子ではありませんでしたから、これはパウロの知らない所で行われていたことである、という事情が書かれています。ペテロとパウロとの決定的な違いは、ペテロは地上生涯のイエスを良く知っていましたが、パウロは地上生涯のイエスには会ったことがない、ということでした。最後の晩餐と十字架の時、イエスはパウロにとってはまだ隠された存在でした。そのような隠された存在であることが書かれているのが、7章の4節です。イエスの兄弟たちはイエスに言いました。7章4節、

「自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」(7:4)

 このように、パウロにとってイエスはまだ、隠れていた存在でした。十字架の現場も、パウロは直接見たわけではありません。それが10節です。

「しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた」(7:10)

 パウロにとっては十字架もまだ直接知らない、内密のことでした。パウロがイエスのことを知ったのは、その少し後からでした。そして、7章39節にある、

「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである」(7:39)

というペンテコステの出来事の時にはパウロは既にキリスト者のことを知っており、このペンテコステの後から迫害を開始します。
 このように、パウロが地上生涯のイエスとは会っていなかったという状況は、現代の私たちも全く同じです。ですから、このヨハネの福音書の背後の「使徒の時代」の「パウロ編」というのは、「私たち編」でもあります。こういう形で、私たちも、このヨハネの福音書の物語の中に組み込まれています。イエスを信じるようになった私たちはパウロと同じように、目からウロコが落ちて目が開かれた9章の盲人として描かれ、或いはまたイエスを信じない者は、イエスを迫害するユダヤ人たちとして描かれています。このように私たちは皆、イエスを信じていても信じていなくても、このヨハネの福音書の物語の中に組み込まれています。
 きょうはもう、時間がありませんから、続きはまた来週、話すことにしますが、ヨハネの福音書は、11章のラザロの復活の場面へと進んで行きます。ラザロの復活は、おめでたい話とは限りません。私たちは皆、死んでしまった後でも、「終わりの時」にはラザロのように生き返らせられて、以前、生きていた時にイエスを信じていたか信じていなかったかによって、天国に行くか、地獄に落とされかが、決められます。ですから、ラザロの復活の場面は、イエスを信じていた者にとってはおめでたい場面ですが、イエスを信じていなかった者にとっては恐ろしい場面です。私たちは皆、イエスを信じていた者も、信じていなかった者も、どちらも再び生き返らせられた上で、さばきを受けます。
 この使徒の時代の「パウロ編」と「私たち編」とは、来週、もう少し丁寧に説明することにします。

おわりに
 きょうは概略しかお話しできませんでしたが、今やヨハネの福音書の全貌が、かなりわかりました。細かい所では、もちろんまだ分からないことがありますが、全体像というのは、かなりはっきりしました。
 このヨハネの福音書の3つの時代を重ねた構造に関しては、2世紀以降の神学者たちに気付かれた形跡は全くありません。いま私は、2世紀後半のエイレナイオスや3世紀前半のオリゲネスの文献なども少し調べていますが、このヨハネの福音書の構造に、気付いていた形跡は全くありません。アウグスティヌスやルターらも気付いていません。
 21世紀になって、神さまは突然、私たちの目を開いて、ヨハネの福音書がどんな書であるかということを、教えて下さいました。
 このことを通じて神様が私たちに何を伝えようとしているのか、今の私たちにはまだ分かりません。しかし、主を恐れる信仰を持って歩んで行かなければならないことだけは、はっきりしているでしょう。
 ヨハネの福音書によれば、私たちは、いつかは必ずラザロの復活の時に至ります。それが、私たちが生きている間か、私たちが地上生涯を終えた後かどうかは分かりませんが、いずれにしても、ヨハネの福音書によれば、その時は必ず来るのですから、私たちは主を恐れる信仰を持って歩んで行かなければなりません。
 主を恐れる信仰を持って主を愛し、主を賛美し、霊とまことによる礼拝で満ち足りることができる、お互いでありたいと思います。

どうしても必要なこと(2013.2.3 全文)

2013年02月04日 07時38分51秒 | 礼拝メッセージ全文
2013年2月3日伝道礼拝メッセージ

『どうしても必要なもの』
【ルカ10:38~42】

はじめに
 きょうは第一日曜日です。毎月、第一日曜日は伝道礼拝の日で、教会は初めてという方にも、できるだけ関心を持って理解していただける説教になるよう心掛けています。
 きょうの聖書の箇所のルカの福音書10章のマルタとマリヤの姉妹の箇所は、クリスチャンにはとても有名な箇所です。マルタとマリヤの姉妹は、しっかり者のお姉さんとマイペースの妹という姉妹で、これは現代においても良く見られることだと思います。1番目の子と2番目の子の性が異なり、男の子と女の子という場合には、そんなでもないかもしれませんが、1番目も2番目も男の子または女の子という場合には、上の子がしっかり者になり、下の子がマイペースになるというパターンは、よく見られると思います。

1.貧しい者、飢えている者は幸いであると教えを説いたイエス
 では、ルカの福音書の10章を見て行きましょう。38節、

 10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。

 彼らというのは、イエス・キリストと弟子たちのことです。イエス・キリストはこの福音書の最後のほうでは十字架にはりつけにされますが、それまでの間は、弟子たちと北のガリラヤと南のユダの地を巡って、神の教えを説いていました。
 どんな教えを説いていたのかを、少し見てみましょう。いま10章を開いていただいていますが、少し戻って6章を見て下さい。6章の20節と21節をお読みします。

6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
6:21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。

 イエス・キリストは常に弱い立場の人々に寄り添っていました。貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々は弱い人々の代表です。そのような人々にイエス・キリストは「貧しい者は幸いです。飢えている者は幸いです。いま泣く者は幸いです」と言いました。
 多くの物を持っているお金持ちの人は、どうしても心が物の方ばかりに向いてしまいます。多くの持ち物をどうやって管理するか、そのことばかりに気を使うようになってしまいます。自分の財産のことばかりを考える、自己中心的な人間になってしまいます。そして、財産を巡って周囲の人々と争い事を起こすことさえ、するようになってしまいます。神様は平和を望んでおられますから、このような自己中心的で平和を乱す人を神様は非常に嫌います。
 そこへいくと、貧しい者、飢えている者は、財産を持っていませんから、自分の財産のことで気を使う必要はありません。貧しい者や飢えている者でも、もちろん自己中心的な人はたくさんいます。しかし、一旦そのような自己中心の罪に気付いたなら、隣人や神様に目を転じて悔い改めることが、金持ちの人よりは遥かに容易にできるでしょう。金持ちの人というのは、自分の持ち物への執着がありますから、たとえ自分が自己中心的であると気付いたとしても、なかなか自分の持ち物への執着から離れることができません。これは、とても不幸なことです。それに対して、貧しい人や飢えている人は執着する物を持っていません。ですから、貧しい者は幸いであり、飢えている者は幸いです。
 この6章の20節、21節以降にも神の教えが続きます。イエス・キリストは弟子たちと共に旅をしながら、このような教えを説いていました。

2.分刻みのスケジュールの時間の中にいたマルタ
 10章の38節に戻ります。そうして、旅を続けている時、マルタとマリヤのいる村に入り、この姉妹の家に迎え入れられました。39節、
 
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

 イエスは先ほどの6章にあったような教えを説いていたのでしょう。マルタの妹のマリヤは、その教えに聞き入っていました。40節、

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

 姉のマルタはイエスをもてなすための食事の準備で忙しくバタバタと働いていましたが、妹のマリヤは、そんなマルタを手伝おうともせずに、イエスの教えに聞き入っていました。そのことが不満で、マルタはイエスに、マリヤも手伝うよう言ってもらおうとしたのですね。しかし、41節と42節、

10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 イエスが言ったこのことばを聞いて、皆さんはどのように思われますか。
 私が、この箇所のことを始めて知った時は、まだ信仰のことが、あまり良く分かっていない時でした。そして、当時は私自身も、マルタのように、とても忙しく働いていました。ですから、姉のマルタの言うことは、もっともなことだと思いました。そして、イエスがなぜ、働かない妹のマリヤをこんな風に擁護するのか、わかりませんでした。ですから私は、このルカ10章のマルタとマリヤの箇所の重要性について、何も分かっていませんでした。
 しかし、聖書のことが分かって来れば来るほど、この箇所の重要性がわかるようになって来ました。特に、聖書は一つの書なのだということが分かってからは、特にこの箇所の重要性が分かって来ました。聖書は一番始めの創世記から最後のヨハネの黙示録まで、66の書が収められていますが、これらはお互いに絡み合っていますから、聖書は一つの書です。或いはまた、聖書は旧約聖書と新約聖書の二つに分かれたものではなく、一つの書です。聖書は紀元前から紀元後までの大きな時間の流れを感じながら読むべきものです。そういう大きな時間の流れを感じるためには、マルタではダメで、マリヤにならなければなりません。
 きょう、この説教を聞いて下さっている皆さんと、このことを分かち合うことができることを、私はとてもうれしく思います。

 そこで、まず皆さんにお願いしたいのは、皆さんには妹のマリヤになって、この説教を聞いていただきたいということです。のんびり屋でマイペースのマリヤになって、ゆったりとした気分で、聞いていただきたいと思います。忙しい姉のマルタの状態で、この説教を聞いていただいても、かつての私のように、この箇所の重要性は、あまりわからないであろうと思います。
 マルタとマリヤの何が違うかというと、どういう時間の中に身を置いているか、ということです。二人とも同じ家の中にいますから、同じ時間を過ごしているかというと、それは全然違います。
 姉のマルタが過ごしている時間というのは、分刻みのスケジュールの中で、頭の中で段取りを考えながら忙しく過ごしている時間です。
 いま、おイモをゆでていて、あと何分でゆで上がるから、それまでの間に、お皿を出して、それから飲み物のカップも出して、あー、イモの料理が終わったらパンも出して切らなければ、テーブルも少し汚れているから拭かなければとか、いろいろ頭の中で段取りを組み立てながら、バタバタと過ごしています。
 こういう時間の過ごし方というのは、財産をたくさん持っている金持ちと、似た面がありますね。金持ちは財産のことばかりに気を取られて神様の方を向くゆとりがなく、また財産を巡って周囲の人と争いを起こしたりします。それと同じように、忙しく時間を過ごす人も、時間にばかり気を取られて神様の方を向くゆとりがなく、また妹が働かないと言って不平を言ったマルタのように争い事を始めたりします。

3.ゆったりとした時間の中にいたマリヤ
 一方、マリヤが過ごしている時間は、もっとゆったりとしたものです。イエスさまの教えにじっと聞き入っていたマリヤは、時間のことなど、すっかり忘れていたでしょう。これが、神様と共に過ごす、時間の過ごし方です。神様の時間というのは、宇宙の始まりから現在まで、そしてさらには永遠の未来までが全て今である、というような時間です。そんな神様と豊かな交わりを持とうと思ったら、私たちは自分を縛っている分刻みのスケジュールから解放されなければなりません。
 イエス・キリストはルカの福音書10章42節で「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」とおっしゃいました。「どうしても必要なこと」とは何でしょうか。それは、神と共に歩む、ということだと思います。神と共に歩むとは、神と同じ時間を過ごすということです。
 マルタとマリヤの家で、二人は同じ場所にいましたが、神と同じ時間を過ごしていたのは、マリヤのほうだけでした。ですから、イエス・キリストはこうおっしゃいました。

「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

4.私たちも礼拝の場においてはマリヤになるべき
 ですから、私たちも、せめてこの礼拝の場においては、マリヤにならなければならないと思います。普段は忙しく過ごしているかもしれませんが、この礼拝には心を整えて臨み、神様と共に、神様と同じ時間を過ごす必要があると思います。
 そうしないと、せっかく聖書の学びをしても、読んだ箇所の断片的なことしか学べません。それでは、あまり学んだことにはならないと言えます。きょう開いている箇所はルカの福音書10章の38節から42節までという短い箇所ですが、実際は聖書全体と絡み合っています。マリヤのような、ゆったりとした心でこの箇所を見るなら、その聖書全体との絡み合いも感じることができるでしょう。しかし、マルタのような分刻みの忙しい頭でこの箇所を読むなら、この箇所の断片だけの理解になってしまうでしょう。マリヤの状態で聖書全体に思いを巡らすか、マルタの状態で説教の一部分だけに目を留めるか、1回だけなら大きな差は出ないと思いますが、これらの積み重ねは、やがて大きな違いとなって来るのではないかと思います。マリヤの状態で聖書を読むなら、やがて聖書全体がつながって来て、大きな恵みが得られるだろうと思います。しかし、マルタの状態で聖書の断片を読むなら、なかなか聖書全体がつながって来ないのではないかなあ、と思います。聖書全体がつながって来ると、神様との交わりも、より強く実感できるようになります。聖書は一つの書であるという実感が得られるようになると、何とも言えない素晴らしい心地が得られることと思います。
 
 いま姫路のシネパレス山陽座で、山田洋次監督の『東京家族』という映画を上映しています。私は、この映画を観て、時間というのは本当に大きな単位でとらえないといけないなあ、ということを感じています。
 この映画は1953年に公開された小津安二郎監督の『東京物語』をかなり忠実になぞって作った作品です。細かい点ではいろいろ違う点もありますが、ストーリーの展開はだいたい同じです。
 小津安二郎監督の『東京物語』は国際的にも素晴らしく高い評価を受けている作品です。2012年夏、英国映画協会の『サイト・アンド・サウンド』誌が10年に一度行う歴代ベストワンのアンケートで、世界の監督たちが選ぶ部門で1位になった作品です。『2001年宇宙の旅』や『市民ケーン』を抜いて1位になった作品だということです。
 そんな凄い作品をリメイクしても、見劣りする作品しかできないことは、始めから分かっていることだと思います。実際私が観ても、1953年の『東京物語』には及ばないなと思いました。それなのに、山田洋次監督は、批判されることを百も承知で、批判覚悟で『東京家族』を製作しました。山田洋次監督は、どうしてそんなに無謀なことをしたのだろうか。そのことを考えているうちに、私は山田監督の2013年の『東京家族』も、今はあまり評価されなくても、60年後には高く評価されるのではないかと思うようになりました。
 山田監督の『東京家族』が公開された2013年は、小津監督の『東京物語』が公開されてから、ちょうど60年後にあたります。すると60年後の2073年にはまた、勇気のある映画監督がやはり批判覚悟で、『東京物語』のリメイク作品を作るのではないか、私にはそんな気がしています。必ずそういう監督が現れるような気がします。その時には、今年公開された山田監督の『東京家族』は高く評価されるのではないか、少なくとも、2073年への橋渡しになったという点においては高く評価されるべき作品になったのではないかと思います。
 山田監督の『東京家族』には、現代の東京の風景がきっちりと記録されています。東京スカイツリーがあり、人々は携帯電話を使い、車にはナビが付いています。それらは1953年の東京とは、全く違った風景です。また、2011年に東北が震災で大きな被害が受けたことも映画の中にしっかり取り入れられています。
 当初、この映画は2011年の春に撮影が開始されることになっていたそうですね。しかし、撮影に入る直前に東日本大震災が起こり、山田監督はこの出来事も映画に取り入れなければ、現代の日本を描いたことにならないと強く思い、撮影を中止して脚本を一部変え、俳優も一部入れ替わり、そうして1年遅れで撮影を行ったということです。このように山田監督は現代の日本を記録することを強く意識していました。ですから、私は60年後の2073年の『東京物語』も必ずや撮られるであろうと感じています。(それまでに再臨がなければの話ですが。)山田監督の作品というのは、そういう大きな時間の流れの中で評価すべき作品ではないかと思いました。
 映画評論家の中には、この山田監督の『東京家族』を、小津監督の『東京物語』と比較してボロクソに書いている人もいます。カット割りがどうだとか、「間(ま)」がどうだとか、テンポがどうだとか、いちいち小津作品と比べて山田作品を批判しています。そういう、カット割りとか、間とか、テンポというのは、私から見れば正に分刻み(秒刻み)のスケジュールの思考法だと思います。それはマルタの時間の中にいて、山田洋次監督を批判しているのだと思います。しかし山田洋次監督は、妹のマリヤの(ような)時間の中にいるのだと私は思います。ですから、マルタの時間の中にいるこの評論家がマリヤの(ような)時間の中にいる山田監督を批判することは的を射たものではないと私は感じました。
 また、いま私は、教報の2月号で紹介されていた本の『牧師夫人 新島八重』を読んでいます。これは大河ドラマのヒロインの新島八重を、クリスチャンそして牧師夫人という側面から描いたものです。これを読んでいて、ふと思ったのですが、当時クリスチャンになった人々の中には、キリスト教は、日本より進んでいる欧米からもたらされた宗教だから、関心を持って入信したという人が結構いたのだろうと思いました。それは、67年前の戦後もそうですね。国力で日本を圧倒して戦争に勝ったアメリカやヨーロッパからもたらされた宗教だから関心を持って入信したという人も多かっただろうと思います。『東京物語』が公開された60年前もそういう時代の中にあったと思います。私の父なども、そういう時代に教会に通うようになり、やがて洗礼を受けました。
 明治維新と敗戦後は、ともに外国からの影響で日本のキリスト教は信徒の数を増やしました。そういう大きな流れで見た時、現代をどういう風に見たらよいでしょうか。いまや、欧米の国々を日本より遥かに進んでいる国と見る人は少ないでしょう。もはや外国の助けにより大きく信徒の数を伸ばす時代ではありません。韓国の力はある程度大きいと思いますが、今のような日韓関係の中では、明治維新や敗戦後に匹敵するような力にはならないでしょう。

おわりに
 では、これからの時代、日本はどのような方向に向かって行くのでしょうか。これこそ、私たち皆が、妹のマリヤになって感じ取るべきことではないでしょうか。神の前に静まって心を整え、神の時間の中に身を置く中で感じ取るべきことではないでしょうか。
 お兄さん、お姉さんである欧米から教わるのでなく、一人一人がマリヤのように神と向き合って感じ取って行くべきではないでしょうか。分刻みのスケジュールに追われる中でではなく、ゆったりと流れる時間の中で感じ取るべきことだと思います。現代に生きる私たちはマルタのように忙しく働くことが必要な時も多いでしょう。しかし、イエス・キリストはこのようにおっしゃいました。

「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」

 私たちも、そのどうしても必要な良いほうを選び、神の時間の中に身を置いて神と共に歩んで行くことができる者でありたいと思います。
 神と共に歩む信仰生活は平安に満ちた素晴らしいものです。
 是非、多くの方々にこの素晴らしい恵みを味わっていただきたいと思います。

私たちのではなく、神の戦い(2013.1.27 全文)

2013年01月28日 09時44分52秒 | 礼拝メッセージ全文
2013年1月27日礼拝メッセージ

『私たちのではなく、神の戦い』
【Ⅱ歴代20:14~22】

はじめに
 きょうは短くメッセージを取りついだ後で、教会総会を行います。総会に向けて心備えをするために示された聖書の箇所は、歴代誌第二の20章です。説教題は「私たちのではなく、神の戦い」です。説教題を短くするために「戦い」を一度しか使いませんでしたが、これは、「私たちの戦いではなく、神の戦い」である、ということです。
 教会の活動というのは、私たちの活動ではなく、神の活動です。私たちは教会で素晴らしい恵みをいただいていますから、この恵みを地域の方々とも分かち合いたいと願っています。これは私たちの願いでもありますが、何よりも、神の願いです。人々が平和を愛し、一つになることは神の御心であり、神が願っていることです。その願いを達成するために、神は人間を使って人々に呼び掛けます。その呼び掛けに私たちは応答して、この教会に集いました。そして、神は今度は私たちを用いて、この地域の人々に呼び掛けます。ですから、教会の活動とは、私たちの活動ではなく、神の活動です。この戦いは私たちの戦いではなく、神の戦いです。そのことが書かれているのが、第二歴代20章の15節です。

1.この戦いは人の戦いではなく、神の戦いであると告げた主
 20章15節を、ご一緒に読んでみましょう。

20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。

 これは、主の霊がレビ人ヤハジエルの上に臨んで、ユダの全ての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王に告げられた主のことばです。「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。」
 この時の状況を、少し説明しておきます。
 時はユダの王の、ヨシャパテ王の時代でした。ヨシャパテの父はアサ王で、アサはレハブアムの孫でした。レハブアムはソロモンの子で、ダビデの孫でしたね。ということで、ヨシャパテは、ダビデの孫のレハブアム、の孫のアサ、の子でした。
 ヨシャパテ王の父のアサ王は晩年につまずきますが、全体としては善い王、善王でした。そしてアサの子のヨシャパテも善王でした。
 少しページを戻していただいて、第二歴代17章、17章の3節から6節を、お読みします。

17:3 はヨシャパテとともにおられた。彼がその先祖ダビデの最初の道に歩んで、バアルに求めず、
17:4 その父の神に求め、その命令に従って歩み、イスラエルのしわざにならわなかったからである。
17:5 そこで、は、王国を彼の手によって確立された。ユダの人々はみなヨシャパテに贈り物をささげた。彼には、富と誉れが豊かに与えられた。
17:6 彼の心はの道にいよいよ励み、彼はさらに、高き所とアシェラ像をユダから取り除いた。

 このように、主はヨシャパテと共におられました。そのヨシャパテの治めるユダの国が、20章にある、危機にみまわれました。20章の1節から4節までを、お読みします。

20:1 この後、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。
20:2 そこで、人々は来て、ヨシャパテに告げて言った。「海の向こうのアラムからおびただしい大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツァツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」
20:3 ヨシャパテは恐れて、ただひたすらに求め、ユダ全国に断食を布告した。
20:4 ユダの人々は集まって来て、の助けを求めた。すなわち、ユダのすべての町々から人々が出て来て。を求めた。

 モアブ人とアモン人がユダに向かって攻めて来ました。それは、おびただしい大軍だした。ユダの人々は恐れ、主の助けを求めました。その時に、主からあった言葉が、先程ご一緒にお読みした20章の15節です。15節の後半からお読みします。

「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。」

 そうして、主の言葉はさらに続きます。16節を飛ばして17節、

「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいるの救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。はあなたがたとともにいる。」

 そして18節と19節、

「それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も【主】の前にひれ伏してを礼拝し、ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、を賛美した。」

 モアブ人とアモン人の大軍が押し寄せて来て、恐怖に震え、主に助けを求めたところ、このような主の御告げがあったために、ヨシャパテ王たちは地にひれ伏しました。そして、レビ人たちは立ち上がり、大声を張り上げて、主を賛美しました。20節、

「こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。『ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。』」

2.聖歌隊を軍隊より前に出して賛美したユダ王国の民
 ヨシャパテは、「あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい」と言いました。その忠誠を示すために、何をしたかというと、21節、

「それから、彼は民と相談し、に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。『に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』」

 何とヨシャパテは、賛美する聖歌隊を、武装した軍隊よりも前に出して、歌わせたのですね。マンガみたいな滑稽な場面とも言えると思いますが、ユダの人々は、これを大まじめにやったのですね。これがヨシャパテたちが考えた、神を信じ、忠誠を示すために採用した方法でした。
 私は、この第二歴代20章の場面が大好きです。ヨシャパテたちは、本当に主を信じ、主を愛していたということが、よく伝わって来ます。何かに夢中になっている人々というのは、傍から見れば少し滑稽に見えるものだと思います。鉄道に夢中になっている人たちや、天体観測に夢中になっている人たちなどのオタクぶりは、ちょっと変と感じたりすることがあります。でも、それだけ彼らは鉄道や天体を愛しています。逆に言えば、傍で見ている人が滑稽に感じないようであれば、その鉄道ファンや天体ファンの愛は大したことがないとさえ言えるかもしれません。あまりに変な人と思われるのも良くないかもしれませんが、少しぐらい変と思われるぐらいが、ちょうど良いのではないかなあと私は思います。
 先日の祈祷会では、第二サムエルの、ダビデが神の箱の前で力の限り踊った場面を開きました(6:14)。ダビデの妻のミカルは、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしている様子を見て、さげすみました。ミカルから見たら、ダビデのしていることは、ひどく滑稽に見えたのでしょう。しかしそれは、ダビデがそれほどまで主を愛していたということです。
 ヨシャパテ王たちも主を愛し、主を信じて、武装した軍隊よりも聖歌隊を前に出して、主を賛美しました。すると、22節、

「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」

 これはヨシャパテたちの戦いではなく、神の戦いでした。それで、ヨシャパテたちは戦わず、主を賛美したところ、主が敵を打ち負かして下さいました。

3.ユダの戦いを現代に当てはめるなら、サタンとの戦い
 このことを現代に当てはめるなら、サタンとの戦いと言うことができるのではないかと思います。サタンとの戦いであれば、それは私たちの戦いではなく、神の戦いです。私たちがサタンと直接戦っても、勝てるわけがありません。主を信じ、主に忠誠を示せば、主が打ち負かして下さいます。
 昔のこの教会の様子を写真で見せていただくと、かなりにぎやかだったことがわかります。それが、2012年の1回あたりの礼拝の人数は8.8人でした。別に計算するまでもなく、最近はたいてい8人前後ですね。これは、やはりサタンが働いているのだと思わざるを得ません。このサタンの働きは私たちの教会に対して、という限定的なことではなく、世の中全般に対して、ということです。
 始めにも言った通り、私たち人類が平和を愛し、一つになることは神の御心であり、神が願っていることです。しかし、アルジェリアの人質事件や、核兵器の開発を進める北朝鮮、そして日本のキリスト教会の衰退など、サタンはあらゆる手を使って、世界、そして日本が平和になることを阻止して、主の御心の通りになることを妨害しています。

おわりに
 ですから、これは私たちの戦いではなく、神の戦いです。このような戦いでは、私たちは勇ましく戦う必要はありません。ただ主を愛し、主を礼拝し、主を賛美すれば良いのだと思います。霊とまことによる礼拝を捧げて、私たちは、今年の聖句の詩篇65篇4節のように、「あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りる」ことができるようになれば、良いのだと思います。

あなたのみことばを歌う(2013.1.20 全文)

2013年01月20日 19時10分03秒 | 礼拝メッセージ全文
2013年1月20日礼拝メッセージ

『あなたのみことばを歌う』
【詩篇119:1~16、161~176】

はじめに
 きのうと今日の二日間にわたって大学入試センター試験が行われていますね。先日の礼拝説教で、私は入試の試験監督をした時の話をしました。そして、試験監督は結構疲れるから、大変だという話をしました。しかし実は、一番大変なのは、試験問題の作成委員になった時です。
 試験監督は長い時間、入試会場に詰めきりになって大変ですが、事前の説明会への出席を含めてもそんなに何日も関わるわけではありません。また採点委員も大変ですが、これも短ければ1日、長くても数日間で役目が終わります。しかし、試験問題の作成は、何か月も前から始まります。私も大学で日本語の教師をしていましたから、試験問題の作成委員になった時には、外国人留学生のための入試の、日本語の試験の問題作成をしていました。学部の入学試験が年1回、大学院の入学試験は春入学と秋入学の試験の2回ありますから、1年で3つの試験問題を作っていました。
 試験問題の作成委員会の会議は、入試のかなり前から動き出し、最初の会合で大体の方針とスケジュールを決めます。問題作成は複数のメンバーで行い、まず一人一人が多めに問題を作り、会議で突き合わせていました。そういう会議を何回も持って、だんだん絞り込んで行き、絞り込んだ問題も細かいことについて議論し合い、そうして完成した問題も、ミスがないか、何重ものチェックを行います。こういう入試問題の作成委員には、毎年なるわけではありませんが、それでも私は、それなりの頻度で関わっていました。
 どんな仕事も大変ですから、仕事量だけで言えば、入試の問題の作成委員だけが特別に大変ということはないと思いますが、入試問題の作成委員の場合は、自分がその委員であることを周囲に明かしてはいけない、ということが一番しんどいことだと思います。たとえば、教団の代表や局長の仕事も大変だと思いますが、私たちは誰が代表で誰が局長かを知っています。そして、教団内部のいろいろな問題の細かいことは知ることができませんが、きっと大変なんだろうなと察して、お祈りすることができます。しかし、入試問題の作成委員というのは、自分がその委員であるということを、そもそも秘密にしておかなければなりませんから、家族や友人にも同情してもらうことができませんし、そのためにお祈りしてもらうこともできません。さらに入試問題の作成委員は、他の仕事が免除されるかというと、特に免除されるわけではありませんから、仕事が重なる時期だと、本当に大変です。でも、その大変さを人に言うことができませんから、その精神的な負担がとても大きいです。

 いま少し長く、入試問題の作成委員の話をしましたが、それは最近、以前、日本語の教師をしていた頃のことを、もっと積極的に思い出すよう示されていることが関係しています。日本語教師というのは、「ことば」を教える語学の教師です。外国人が日本で暮らす場合、日本語が話せるのと話せないのとでは、暮らしやすさが全く違います。ことばが生活に密着していることは、誰でも知っていることだと思いますが、その生活に密着したことばの重要性を、日本語の教師だった私は一般の人よりも知っているはずなんですね。その経験を大切にしなければならないことを、いま私は示されています。なぜなら、「ことば」はイエス・キリストだからです。
 ヨハネの福音書は「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)という出だしで始まり、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)と言っています。ことばば人となって私たちの間に住まわれました。この、「ことば」であるイエス・キリストのことを伝えるために、神様は私に、私が日本語教師であったことも、もっと活かしなさいと言っておられるようです。
 「ことば」であるヨハネの福音書のイエス・キリストは、時空を越えて、いろいろな時代に存在しています。この時空を越えるということに関して、私は、かつて理工系の研究者で量子力学に興味を持っていたことを活かすように示されています。この理工系の経験を活かすことは、以前から示されていたことです。しかし、それだけではなく、日本語の教師であったことも、活かすよう示されています。つまり、私がこれまでに経験したことの全てを活かしてイエス・キリストを宣べ伝えなさい、ということを示されています。
 私はもう1年以上、ヨハネの福音書は、どのように読むべき書であるかと言うことを、姫路教会以外の方々にも示しているのですが、どうも、あまり良い反応が返って来ません。それはきっと、私が聖書を本格的に学び始めてから、まだほんの数年しか経っていませんから、何十年もやって来ている方々からすれば、なかなか本気で受け取ることはできないのだろうなという気がしています。ですから私も、私自身の何十年分もの経験を総動員しなければならない、理工系の材料の研究者であったことと、日本語という生活に密着した「ことば」の教師であったことの経験を総動員してイエス・キリストを宣べ伝えなければならない、そのために私は召されたのだと感じています。

1.ことばへの愛を告白している詩篇119篇
 さて、きょう開いていただいている詩篇119篇は、一言で言えば、「『ことば』への愛を告白している詩篇」である、と言えるのではないかと思います。詩篇119篇は全部で176節もある長大な詩篇ですが、空行の入り方を良く見ると、8節ずつが一つのグループになっていることが分かります。そして、そのグループは全部で22あります。8節×22グループで、全部で176節になります。
 日本語訳ではわかりませんが、もともとのヘブル語では1節から8節までは、全部、同じ文字で始まります。その文字は、ヘブル語のアルファベットの最初の文字のアレフです。そして9節から16節までは、全部、ヘブル語の2番目の文字のベートで始まります。そしてへブル文字は全部で22文字ありますから、22のグループというのは、へブル文字の数に相当します。
 英語のアルファベットはaからzまで26文字あります。ギリシャ語はアルファからオメガまで24文字です。ギリシャ語の1番目の文字をアルファ、2番目をベータと言いますから、アルファ・ベータでアルファベットです。ですからヘブル語のアルファベットをアレフベートと呼んだりもします。
 詩篇119篇はアレフベート22文字のそれぞれを最初に持って来た8節を、1つのグループにした構成になっています。このことだけで、この詩篇119篇の詩人が、いかにへブル語ということばを愛していたか、ということが良くわかると思います。
 日本語にも「いろは歌」がありますね。「いろはにほへと ちりぬるをわか」ではなくて、

 色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ
 有為の奥山  今日越えて 浅き夢見じ  酔ひもせず

ですね。
 この、いろは47文字を1回ずつ使った「いろは歌」を味わう時、「あ~、日本人に生まれて良かったな~」という思いがします。そして、「いろは歌」を作った作者は、日本語ということばを本当に愛していたんだな、と思うことであります。
 詩篇119篇の詩人も、本当にヘブル語ということばを愛していたんだなと思います。そして、この119篇は、最初の文字がアレフベートで始まるということだけでなく、実際に【ことば】という単語も多く使われています。
 1節から8節までには、【ことば】という単語は使われていませんが、9節から16節まででは、3回使われています。9節の3行目、
「あなたの【ことば】に従ってそれを守ることです。」
 11節の2行目、
「私は、あなたの【ことば】を心にたくわえました。」
 16節、
「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたの【ことば】を忘れません。」
 また、17節以降でも17節の2行目に
「私があなたの【ことば】を守るようにしてください。」
とあるように、多くの節で、【ことば】という単語が使われています。
 また、1節から8節までには【ことば】という単語が使われていないと言いましたが、【ことば】と同等の意味で使われている単語をいくつか見ることができます。
 1節の3行目、「主の【みおしえ】によって歩む人々」の【みおしえ】、
 2節の2行目、「主の【さとし】を守り」の【さとし】、
 4節の「あなたは堅く守るべき【戒め】を仰せつけられた」の【戒め】、
 5節の2行目、「あなたの【おきて】を守るように」の【おきて】、
 6節の「私はあなたのすべての【仰せ】を見ても恥じることがない」の【仰せ】、
というように、【みおしえ】、【さとし】、【戒め】、【おきて】、【仰せ】の5つの単語が使われています。
 これらの【みおしえ】、【さとし】、【戒め】、【おきて】、【仰せ】という単語を見ると、実は119篇の詩人が愛している主の【ことば】というのは、主の「律法」であることがわかります。

 119:1 幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。
 119:2 幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。
 119:3 まことに、彼らは不正を行わず、主の道を歩む。
 119:4 あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。
 119:5 どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。
 119:6 そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。
 119:7 あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。
 119:8 私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。

 旧約聖書を読み慣れていないと、119篇の詩人がどうして、律法をこんなにも愛しているか、なかなかわからないかもしれません。
 以前の私もそうでした。これは、もう何度も話したことですが、私が高津教会の一般の信徒であった時には、私は聖書の通読はいつもレビ記で挫折していました。律法の、「~しなければならない」、「~しなければならない」の連続に嫌気がさして、それ以上読み続けることができなくなってしまうのでした。
 しかし、この姫路教会にインターン実習で来てしばらく経った時に、レビ記の1章を読み始めたところ、涙が溢れて止まらなくなったという、不思議な体験をしました。その時、律法は、主がご自身の民を本当に気に掛け、深く愛して下さっている証しなのだということがわかりました。父親が幼子の我が子を慈しみ、愛し、そのために、いろいろと教え、さとし、戒めているのだということがわかりました。それ以来、私の聖書理解はそれまでよりも深まり、ヨハネの福音書のことも良くわかるようになりました。
 律法とは、私たちが小さい子どもに、横断歩道を渡るときには手を上げて渡りましょうと教えるようなものだと思います。子供は体が小さくて目立ちにくく、また状況判断が適格にできませんから、子どもが安全に道を渡るためには、車が来ようと来まいと、いつも手を上げることが望ましいでしょう。しかし、状況判断ができる大人は、運転手とアイコンタクトを取りながら、必要な時にだけ手を上げて合図を送れば良いのです。律法は、まだ信仰が幼かった旧約の時代の民に与えられたものです。そこには、我が子をあらゆる危険から守りたいという、父の深い愛が感じられます。

2.「ことば」は、いつも私たちと共にいるイエス・キリスト
 詩篇119篇の詩人はそのような父の愛を、律法に感じていたことでしょう。聖書の記者には、聖霊が注がれています。第二テモテでパウロは次のようにテモテに宛てた手紙の中で書いています。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ3:16,17)

 聖書は、すべて神の霊感によるものですから、詩篇の詩人にも聖霊が注がれていました。それは三位一体の神が、詩人と共におられたということであり、「ことば」である御子イエス・キリストも、共におられたということです。
 詩人の律法への愛は、父への愛であり、「ことば」である御子への愛でした。こうして詩人は、176節に及ぶ壮大な詩を作り、「ことば」への愛を告白しました。17節以降でも、主のみことばへの愛が、延々と連ねられています。ページをめくっていただいて、少し飛ばして81節、

「私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。」
97節、
「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう」
105節、
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」

 この105節は、引用されることが多い聖句ですね。
 先週、愛餐会の後で、今年のみことばの分かち合いの時を持ちました。お一人お一人がみことばを大事にしておられ、我が足のともしびとされていることを感じました。皆さんがみことばを大切にし、みことばを愛していることを感じ、本当に感謝なひと時でした。これほどまでに、皆さんがみことばを愛しているのは、それはやはり、「ことば」は御子イエス・キリストであるからだと思います。
 ヨハネの福音書の「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」というのは、二千年前の出来事だけでなく、現代においても、ことばは私たちの間に住んでいるのだということができると思います。
 きょうの説教の始めの方で、入学試験の試験問題の作成委員になると、そのことを人に言えないから、誰にも同情もお祈りもしてもらえない、という話をしました。そういう、人に言えない苦労は、試験問題の作成委員でなくてもあるでしょう。人に言えない苦しみを抱えている人も多いことでしょう。しかし、人には言えなくても、イエスさまはちゃんとご存知です。御子イエス・キリストは、いつも共にいて下さり、私たちを励まして下さいます。
 それゆえ私たちは、賛美します。
 119篇の最後の22番目の文字(タヴ)のグループに飛びます。171節と172節、

「私のくちびるに賛美がわきあふれるようにしてください。
 あなたが私にみおきてを教えてくださるから。」
「私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいから。」

 主が私たちを愛していて下さることを感じ、私たちもまた主を愛しているなら、私たちのくちびるには、自然と賛美が湧き溢れるようになると思います。そしてみことばを歌うように、喜んで主のみことばを口ずさむようになると思います。173節、

「あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。」

「私はあなたの戒めを選びました。」ヨハネの福音書に記されている最後の晩餐で、私たちはイエスさまから新しい戒めをいただきました。最後の晩餐でイエスさまは、このようにおっしゃいました。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

 私たちはイエスさまに信仰の告白をして、この戒めを選びました。それゆえ、174節、

「私はあなたの救いを慕っています。主よ。あなたのみおしえは私の喜びです。」

3.弱い私たちは羊のように迷い出ることもある
 私たちは主の救いを慕い、主のみおしえを喜び、精一杯の賛美を捧げます。
 しかし、それでも私たちは弱いですから、たましいが弱ってしまうことも、時にはあります。それゆえ、詩人も175節のように、祈り、願います。175節、

「私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。そしてあなたのさばきが私の助けとなりますように。」

 さまざまな試練の中を通る時、時には道を見失い、迷ってしまうこともあります。たとえ主を慕っていても、様々なことが一度に起こると、主を離れて迷い出てしまうことも、ありうることです。それゆえ、私たちは祈ります。176節、

「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。」

 たとえ私たちが迷い出てしまっても、主は99匹の羊を置いて、1匹である私を捜し求めて下さいます。
 きょうは最後に、この176節を、しっかりと味わいたいと思います。
 最後の晩餐で、弟子のペテロはイエスさまにこのように言いました。

「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」(マルコ14:29)

すると、イエスは、ペテロにこう言われました。

「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が(二度)鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」(マルコ14:30)

 そう言われて、ペテロは力を込めて言い張りました。

「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14:31)

 ペテロは「力を込めて言い張った」のです。このように、力を込める時は、自分の力を頼りにしている時です。しかし、結局はペテロがイエスを三度知らないと言ってしまったように、自分の力、自分の自信というのは、全くあてにならないものです。
 ですから、私たちは力を込めるのではなく、逆に力を抜いて、すべてを主に委ねなければなりません。そのように力を抜き、自分に頼らず、主に拠り頼んでいれば、主は必ず私たちを救い出して下さいます。それが176節の言っていることではないでしょうか。

「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。」

おわりに
 私たちが主のみことばを歌い、礼拝を捧げる時、ひとりよがりのものであってはなりません。力を抜き、主にすべてを委ねなければなりません。それが、「霊とまことの礼拝により、満ち足りる」ということだと思います。そのように主にすべてを委ねる時、

「私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう」(詩篇65:4)

聖なる宮の良いもの(2013.1.6 全文)

2013年01月06日 13時49分49秒 | 礼拝メッセージ全文
2013年1月6日礼拝メッセージ

『聖なる宮の良いもの』
【詩篇65:1~13】

 元旦礼拝に続いて、きょうも詩篇65篇の学びを続けます。元旦礼拝では1節から4節までを見ました。きょうは5節から13節までを中心に見ていきます。
 聖書朗読では詩篇65篇の全体を読んでいただきました。この詩篇65篇の全体を改めてじっくりと眺めてみると、この詩篇は不思議な配列をしています。
 1~4節には、元旦礼拝の説教で話したように、神に礼拝を捧げることで満ち足りるということがつづられています。そして、5節から13節には、神はどのような方か、ということが書かれています。
 普通の流れから言えば、まず5節から13節までの、神がどのような方であるかをつづり、それを受けて1節から4節の、こんなに素晴らしい神をほめ讃え、賛美し、礼拝しようという流れになるのではないかと思います。
 しかし、この詩篇では、まず、神への礼拝の思いがつづられています。この詩篇の詩人のダビデは、それほどまでに神への思いが抑えがたく、はち切れるほどに膨らんでいたのではないでしょうか。

1.ダビデの抑えきれないほどの神への熱い思い
 エレミヤ書に、こんな一節があります。

「私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。
 私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、
 主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、
 私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」(エレミヤ20:8,9)

 エレミヤの時代、それはエルサレムが滅亡する直前のことでした。エレミヤは人々に、主から心が離れているエルサレムの人々は、バビロンへ捕囚として引かれて行くであろう、という主のことばを、告げました。しかし、人々はこのエレミヤの叫びをあざけり、全く耳を貸そうとしませんでした。
 エレミヤはそしられ、笑いぐさとなってしまったことに耐えかね、もう「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いました。しかし、エレミヤは主のみことばを心の中にとどめておくことができませんでした。「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません」とエレミヤは訴えます。
 少し物騒な例かもしれませんが、去年、飲食店のアルバイトの女性が、バイト先にあった強力な洗剤を少し分けてもらってコーヒーのアルミ缶に入れて持ち帰ったところ、帰る途中の電車の中でアルミ缶が破裂して、女性が負傷するという事故がありました。洗剤がアルミと化学反応を起こして気体が発生し、中の圧力が高まって破裂したのですね。主のことばを宣べ伝えまいと思ったエレミヤの心の内も圧力が高まり、破裂寸前でした。主から聖霊が注がれた預言者の口から語られる主のみことばは、高い圧力で噴出するように、ほとばしり出ます。
 ダビデの主への賛美の思いも、ダビデの心のうちで、相当に圧力が高まっていたのでしょう。詩篇65篇の1節から4節まで、その溢れる思いを噴出させましたが、そこでとどめることができませんでした。主の偉大さ・素晴らしさを出し尽くすまで、ダビデは止めることができず、詩のことばが、なおも溢れ出て来ました。それが65篇の5節から13節までではないでしょうか。
 私たちも、こんな風に、抑えきれないほどの熱い思いがほとばしるような賛美と礼拝を捧げたいものだと思います。私たちが、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛する(申命記6:5)時、それは霊とまことによる礼拝となります。そして神様はそのような礼拝を捧げる私たちの教会を豊かに祝福してくださるでしょう。神様に祝福される時、65篇の4節にあるように、私たちは、神の家、神の聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。

2.地の果て果てまでを支配する義なる神・力ある神
 きょうの説教のタイトルは「聖なる宮の良いもの」です。神が私たちに与えてくださる良いものとは、どのようなものなのか、それは5節以降を読んで行くことで、段々とはっきりとしてくると思います。
 まず5節から8節までを、交代で読んでみましょう。

65:5 私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。
65:6 あなたは、御力によって山々を堅く建て、力を帯びておられます。
65:7 あなたは、海のとどろき、その大波のとどろき、また国々の民の騒ぎを静められます。
65:8 地の果て果てに住む者もあなたの数々のしるしを恐れます。あなたは、朝と夕べの起こる所を、高らかに歌うようにされます。

 ここでダビデは、義なる神、力ある神が国々の果て、地の果て果てまでを支配していることを、ほめ讃えています。神は天地を創造し、私たちの命を創造した方ですから、私たちの全てを支配しています。それゆえ神を恐れ、神を第一とする信仰生活を、私たちは送らなければなりません。神を恐れ、神を第一とすることは、エジプトから救い出されたイスラエルの民だけでなく、イスラエルの民ではない私たちもしなければならないことです。
 ですから、神を恐れず、神から離れている者には、神の怒りがとどまります。ヨハネの福音書には、次のように書かれています。

「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3:35,36)

 御子に聞き従わない者は、神の怒りがその上にとどまります。昨年の年末から繰り返し言って来ていることですが、聖霊が注がれた預言者や詩人たちには、旧約の時代であっても、新約の時代の私たちと同様に、三位一体の神が共にいます。ですから、エレミヤやダビデの叫びは、御子イエスの叫びでもあります。ダビデと御子イエスは一体となって5節のように言います。

「私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。」

 私たちは義の神を信じれば永遠の命を持ち、聞き従わなければ、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまります。

3.神は大地を水で潤し、命を育むお方
 神を信じ、神に聞き従う者には永遠の命が与えられます。続く9節から13節までは、その永遠の命を感じながら読んでみたいと思います。
 では次に9節から13節までを交代で読みましょう。
 
65:9 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。
65:10 地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、夕立で地を柔らかにし、その生長を祝福されます。
65:11 あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。
65:12 荒野の牧場はしたたり、もろもろの丘も喜びをまとっています。
65:13 牧草地は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をおおいとしています。まことに喜び叫び、歌っています。

 神である主は、命を育む方です。大地を水で潤し、穀物を豊かに実らせます。青々とした牧草を豊かに生えさせ、羊たちを育てます。ここには、豊かな水が植物や動物たちの命を育む様子が描かれています。そして霊的に思いを巡らすなら、これは私たちの魂に生命力を与えてくださっていると感じ取ることもできます。
 たとえば9節の「あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています」は、神さまが私たちに聖霊を注ぎ、聖霊で満たして下さる様子を私は感じますが、皆さんはいかがでしょうか。
 ここで、ヨハネの福音書で聖霊を水に例えている箇所を、2か所ほど、ご一緒に見てみたいと思います。まず、ヨハネの福音書の4章の、ヤコブの井戸端でイエスさまがサマリヤの女に話したことばです。11節から14節までを、交代で読みましょう。

4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 イエス・キリストが与える水を飲む者は、魂が豊かに潤い、永遠のいのちが与えられます。その水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。これは何と豊かな恵みでしょうか。
 もう1か所、ヨハネの福音書の7章を開きましょう。7章37節から39節の途中まで、私のほうでお読みします。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

 私たちが聖霊に満たされる時、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。私たちが聖霊に満たされる時、頭のてっぺんから手の指の一本一本の先まで、そして足の指の一本一本の先まで、満たされる感覚がします。体の中の太い血管だけでなく、毛細血管の隅々まで満たされる気がします。そんな毛細血管の隅々までが聖霊で満たされる感覚を描写しているのが、詩篇65篇の10節のように思えます。詩篇65篇に戻って10節をご覧ください。10節、

「地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、夕立で地を柔らかにし、その生長を祝福されます。」

 地の「あぜ」や「溝」を水で満たし、という表現に細かい所の隅々まで水が行き渡る様子が感じられ、私の体の中の毛細血管の隅々までが聖霊に満たされるような感覚がします。
 こうして私たちの魂に豊かに生命力が与えられます。11節、

「あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。」

 大地をしたたる油で豊かに育む神は、私たちにも豊かな命を与えて下さる方です。12節、

「荒野の牧場はしたたり、もろもろの丘も喜びをまとっています」

全地は喜びで覆われています。そして13節、

「牧草地は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をおおいとしています。まことに喜び叫び、歌っています。」

 植物も動物も、そして私たちも、喜び叫び、歌います。こうしてダビデは、主をほめ讃え、礼拝を捧げる喜びを歌い上げます。12節と13節を、もう一度、お読みします。

「荒野の牧場はしたたり、もろもろの丘も喜びをまとっています。牧草地は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をおおいとしています。まことに喜び叫び、歌っています。」

 全地も植物も動物たちも主から豊かな油が注がれ、喜び叫び、歌っています。そして、この喜びこそが、4節の「満ち足りる」時に感じる喜びではないでしょうか。「私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう」
 私たちは聖霊に満たされて、満ち足ります。神は愛ですから、それは、神の愛に豊かに満たされることでもあります。霊とまことによる礼拝を捧げる時、神さまも私たちを愛で豊かに満たして下さり、私たちは満ち足りることができます。

 このような霊とまことによる礼拝を捧げるために、私たちは礼拝について、ある程度心得ておくべきことがあります。それを東京フリーメソジストの野田秀(のだしげる)先生が『礼拝のこころえ』という本に、簡潔にまとめて下さっています。後ろの本棚に置いておきましたので、是非、皆さんで回し読みをしていただけたらと思っています。
 週報に、この本の構成を紹介しました。大きく、Ⅰの「礼拝とは何か」、とⅡの「礼拝の実際」について書かれていますが、特にこの本の特徴として、Ⅱの1にあるように、礼拝のプログラムの一つ一つについて、その意義が説明がされ、それらをどのように行うべきか、の野田先生のお考えが書かれています。私がこの本で教えられたことは、礼拝のプログラムは、どれも平等に大切であり、一つとして疎かにしてはならない、ということです。プログラムの中で、二番目の招きのことばは、私たちの教会にはありませんが、後は全部私たちの教会でも行っていることです。これらの一つ一つに意味があり、一つとして疎かにせずに心を込めて、これらを行う時、私たちは霊とまことによる礼拝で満ち足りることができるのだと思います。

4.おわりに
 クリスマス礼拝のメッセージで、私はベートーベンが第九交響曲の合唱で大きな喜びを表現したことを話しました。13節も、「牧草地は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をおおいとしています。まことに喜び叫び、歌っています。」とあり、喜び叫ぶ時に歌があることをダビデは示しています。
 いま全国の映画館で上映中の映画『レ・ミゼラブル』も、全編が歌で満ち溢れています。この映画は、クリスチャンにもクリスチャンでない人々にも評判が良いので、私も早めに観ておきたいと思って、私は一昨日、姫路駅に着いてから、荷物をコインロッカーに入れて姫路OSに観に行きました。ミュージカルの舞台を映画化した作品ということで、この映画は、全編が歌です。喜びも悲しみも怒りも絶望も、全てが歌で表現されています。歌の表現力は本当に凄いと思いました。特に、ラストで、革命のために立ち上がった人々が大合唱をする場面は圧巻でした。皆が喜び叫び、歌う時、皆が一つになると感じました。そして皆が一つになるとき、大きな力が生まれます。
 私たちの教会も、今の時代の厳しい中を通って行く時、皆が一つになって進んで行く必要があります。神が私たちを聖霊で満たして下さる時、私たちは一つになります。私たちが礼拝で満ち足りる時、私たちは主にあって一つになっています。からだは一つ、御霊は一つです(エペソ4:4)。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです(エペソ4:5)。
 霊とまことによる礼拝で満ち足りて、皆が一つになることができる教会でありたいと思います。

聖なる宮で満ち足りる(2013.1.1 全文)

2013年01月01日 23時20分39秒 | 礼拝メッセージ全文
2013年1月1日元旦礼拝メッセージ

『聖なる宮で満ち足りる』
【詩篇65:1~13】


  新しい年を迎え、新たな一歩の踏み出しとして、まず教会に集い、主に礼拝を捧げる恵みを共に分かち合うことができる幸いな時が与えられていることを、心から感謝に思っています。
 一言、お祈りして、神様に心を整えていただきましょう。

「私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」(詩篇65篇4節)

(祈り)

 今のお祈りの冒頭でも引用しましたように、今年の私たちの教会の聖句は詩篇65篇4節の「私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう」を神様に与えていただきました。「あなたの家、あなたの聖なる宮」とは現代で言えば教会のことですね。「良いもの」の「もの」とは物質的な物ではなく、霊的なものを思い浮かべるべきでしょう。その良いもので満ち足りるとはどういうことか、自問自答しながら、共に歩んで行ける一年であったらと願っています。
 具体的な「目標」として掲げたのは、プログラムにも書いたように、「霊とまことによる礼拝で満ち足りる」ということです。

1.霊とまことによる礼拝で満ち足りる教会は祝されている
 きょうは詩篇65篇の全体ではなく、まず4節までを重点的に見て行くことにしています。詩篇65篇の1節から4節までは、礼拝を想像しながら読むと、イメージが膨らむと思います。4節の「私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」では、教会の礼拝で満ち足りる様子を想像していただけたら、と思います。
 満ち足りるとは、自己満足することではなく、私たちが霊とまことによる礼拝を捧げることで神様が私たちを祝福して下さり、そのことにより満ち足りるということです。そのような礼拝を捧げることができたなら、とても幸いだと思います。

 私たちの教会は今はとても小さな群れです。けれども、どんなに小さな群れであったとしても、私たちが霊とまことによる礼拝を捧げ、満ち足りているのであれば、神様は私たちを祝福して下さっているのですから、神様は必ずや最善に導いて下さるでしょう。
 しかし、もし私たちが礼拝で満ち足りることができていないとしたら、もしかしたら私たちは神さまから離れているのかもしれません。果たして私たちは、満ち足りる礼拝を捧げることができているでしょうか。

 一昨日の礼拝の時、各家庭一部ずつですが、教報の1月号を週報袋に入れました。この教報の1月号はおとといの朝9時頃に届きましたから、私は礼拝が終わるまで読むことができずにいました。そして礼拝後に読み始めたところ、4ページ目の「国内教会局から」というコラムに目が留まりました。国内教会局のU先生が書いた短い文ですが、私が詩篇65篇4節を今年の年間聖句にしようと決めた時に、漠然と思い描いていたことを、文章にしてハッキリと示して下さっていると感じました。既に読まれた方も多いと思いますが、ここで全文を引用させていただきます。
 タイトルは「ホンモノの礼拝を」で、
サブタイトルは「神の臨在を感じられますか?」です。以下、本文です。

「教会において、最も効果的な伝道の場はどこでしょうか。特別伝道集会でしょうか。コンサートでしょうか。楽しい食事会でしょうか。私は迷うことなく、それは『礼拝』であると言います。礼拝は教会員が一番結集するときであり、教会の霊的実質が一番明らかになる場面です。礼拝において、私たちは生ける神さまとお会いし、喜びをもって主を誉め讃えます。礼拝を通して、私たちは、生きる力を主から受けます。
 そのような祝福された場面に、求道者が同席されるのは、何とすばらしいことでしょうか。私たちが礼拝する姿が、求道者に強いインパクトを与えるのです。礼拝で、神さまの臨在を感じることができれば、彼らは、心から神さまを求めるようになります。自分もあの人々のようになりたいと願うはずです。
 求道者が、次の週もぜひ出席したいと願うようなホンモノの礼拝を、毎週ささげたいものです。」

 ご家庭に帰られたら、是非もう一度、この教報4ページ目の「国内教会局から」というコラムをじっくり読んでみていただけたらと思います。

2.私たちの教会は霊的な雰囲気を大切にしているだろうか
 U先生は、「礼拝は…教会の霊的実質が一番明らかになる場面です」と書いています。それは、それぞれの教会がどれくらい霊的であるかは礼拝を見ればわかる、ということでもあります。教会は大きな教会もあれば小さな教会もあります。しかし、それぞれの教会が捧げる礼拝が霊的なものであるか、あまり霊的ではないかは、教会のサイズが大きいか小さいかには全く関係がないと思います。教会のサイズではなく、その教会が霊的な雰囲気をどれだけ大切に考えているか、その大切に考えている度合が大きいか小さいかで、その教会が霊的であるか、それほどでもないかが、決まると思います。私たちの教会は、ぜひ霊的な雰囲気を大切にする教会でありたいと思います。霊的な雰囲気を大切にすることで、私たちは、より一層満ち足りることができるだろうと思います。
 では、どこをどうすれば、霊的な雰囲気を大切にしていることになるのでしょうか。野田秀先生による『礼拝のこころえ』という本があり、1月6日の礼拝では、その本のご紹介もしたいと思っていますが、まずは、お一人お一人に、自分に修正すべき点はないか、ご自分で考えていただくところから始めたらどうかと思います。それは、もちろん、私自身も含めてのことです。
 私自身の反省点は、私はいつも、皆さんが会堂にいらっしゃる直前まで、印刷物の準備に追われているということです。だいたいいつも、Mさん方が最初に来られるのですが、Mさんが来られる直前に、ようやく印刷物を週報袋に入れ終わるという状態です。月末で、月報や会計報告など印刷物が多い時には間に合わないで、Mさんに週報袋に入れるのを手伝っていただくこともあります。
 こんなに直前までバタバタしていては、心を整えて礼拝に入ることができず、これでは牧師が率先して礼拝を霊的にすることを妨げていると反省しなければなりません。このようなことになってしまう原因は、私が印刷物の印刷を前日に済ませずに、礼拝当日の朝まで残しているからです。これには理由があって、私は夜にはいつも頭があまり働かなくなっていますから、前の晩に印刷すると、印刷物にミスが残る可能性が高くなります。一方、朝は頭がすっきりしています。ですから私はいつも、すっきりした頭で原稿の最終チェックをして、印刷するようにしています。説教の原稿もそうですし、週報の原稿も、その他の印刷物も、全部、当日の朝、頭がすっきりしている時に原稿を最終チェックしてから印刷します。しかし、このことによってバタバタしてしまい、礼拝が霊的なものになることを妨げているとしたら、考えを改めて、少なくとも説教の原稿以外は、前日に印刷を済ませておくべきなのでしょう。クリスマス礼拝の時は、私は1週間掛けて準備をしましたから、比較的余裕がありました。印刷は、説教の原稿以外は全部、前の日の晩までに済ませました。普段の礼拝の時も、このように、もっと余裕を持って準備しなければならないと反省しています。
 皆さんも、まずは、お一人お一人で、改善すべき点があるかどうか、考えてみていただければ、幸いに思います。そうして、この教会の礼拝を、満ち足りることができるものとしていくことができたらと思います。

3.詩篇65:1~4から感じる「満ち足りる礼拝」
 さて、ここまで聖書をあまり見ずに来ましたから、ここから詩篇65篇の1節から4節までを見て行きたく思います。1節、

「神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。」

 神を感じるには、まず静まることが大切です。あなたの御前には静けさがあると感じられるまで、心を整える必要があります。この静けさの中で、神の愛の大きさ、神の愛の広さ・長さ・高さ・深さを感じることができると思います。
 複数の人々が集い、静まる時、そこには神聖な雰囲気が漂います。このような雰囲気の中で捧げる礼拝は、霊的なものとなるでしょう。
 今回、この「あなたの御前には静けさがある」、ということを思い巡らしている時、ふと大学の入学試験の会場のことを思い出しました。私は以前は大学の教員をしていましたから、受験シーズンになると毎年、1月のセンター試験か、2月の大学ごとの試験のどちらかでは、試験監督をしていました。試験監督は疲れますから、あまりやりたくないという先生が多いですが、私はけっこう好きでした。それは、特に1時間目の試験が始まる前、教室の中が非常に神聖な厳かな雰囲気になるからです。その中に身を置くことが私は好きでした。試験が始まる前には、問題用紙と解答用紙が配られますが、その配るための時間は、余裕を見て多めにとってあります。ですから、問題用紙を配り終わってから、試験が始まるまで、何分間か時間があります。試験が始まると、ページをめくる音や、鉛筆の音など、それなりの物音がしますが、試験が始まる前は、大きな会場で100人以上の受験生がいたとしても、全く静まりかえっています。特に1時間目の前は、受験生は皆、引き締まった顔をしていて、本当に厳かで神聖な雰囲気になります。入学試験は若い人たちの人生を左右する、とても重要な場ですから、そこには、神さまが実際にしっかりといらっしゃることでしょう。そして、愛するご自分の民をしっかりと見守って下さっているのだと思います。このように厳かで神聖な雰囲気の場は、その場に身を置くだけで、心が洗われるような気持ちになります。
 65篇1節の、「あなたの御前には静けさがあり」には、そういう、その場に身を置くだけで心が洗われるような雰囲気があるように感じられます。教会の礼拝の場も、そこに身を置くだけで心が洗われるような気持ちになれたら、素敵だろうなと思います。そうして心が洗われた気分の中で賛美をすることができたなら、礼拝で満ち足りることができるでしょう。2節、

「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。」

 私たちは、様々な肉的な思いに支配されています。主の御前に集う、この礼拝のひと時、そのような肉的な思いから解放されるなら感謝です。3節、

「咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。」

 聖なる神の御前に集う時、肉なる思いに支配された自分を思い、咎に圧倒されることもあるかもしれません。しかし、神は、私たちの背きの罪を赦してくださいます。
 この65篇の3節は、旧約聖書でありながら、全く新約聖書的な一節ですね。一昨日の礼拝で私は、三位一体の神を信じるクリスチャンの私たちは、旧約聖書の詩人や預言者たちにも三位一体の神が共にいたと信じなければならないと話しましたが、この65篇3節は正に、この詩篇の詩人のダビデと共に三位一体の神がいたことを、如実に表している箇所と言えると思います。
 私たち人類は偶然による生命の誕生と進化によって生まれたのではなく、創造主・造り主である神によって造られました。ですから、神を信じず、神を恐れぬ言動を平気で行うことは創造主である神に背く重大な罪です。そのような者たちは神に滅ぼされたとしても仕方のない者たちです。そして私たちは皆、かつてはそのような者たちでした。しかし、御子イエス・キリストの十字架の贖いゆえに、私たちの罪は赦されています。このように、私たちには神の大きな愛が注がれています。この大きな愛が注がれているゆえに、私たちには心の平安が与えられています。
 キリスト教を知らない人は、宗教を精神安定剤のように思っている人が多いのではないかと思います。宗教を信じることで心が安定するなら、結構なことで、そういう人は信じれば良い。私はその人の信仰を尊重する。でも私は信じない。そういう人が多いのではないかなあと思います。私もそのような者でした。しかし、私たちは創造主によって造られた存在ですから、父である創造主を信じなければなりません。信じたい人だけ信じれば良いというものではありません。信じない人の上には神の御怒りがとどまります(ヨハネ3:36)。それゆえ4節、

「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。」

 神の御怒りがとどまっておらず、神の大庭に住むことができる者は本当に幸いです。この4節の、「あなたが選び」の「選び」は様々に解釈することができると思いますが、私は、選ばれた者たちというのは、人々に伝道するために、まず選ばれたのだと考えます。選ばれた者だけが救われ、残りの者が滅びるのではなく、まず選ばれた者が人々に神の福音を伝える役割が与えられているのだと考えます。

 それこそが、国内教会局のU先生が書いておられることだと思います。
U先生の文は、きょうの詩篇65篇の1節から4節までの学びに、実に良くマッチしていると思いますので、もう一回、引用させていただきたく思います。

「教会において、最も効果的な伝道の場はどこでしょうか。特別伝道集会でしょうか。コンサートでしょうか。楽しい食事会でしょうか。私は迷うことなく、それは『礼拝』であると言います。礼拝は教会員が一番結集するときであり、教会の霊的実質が一番明らかになる場面です。礼拝において、私たちは生ける神さまとお会いし、喜びをもって主を誉め讃えます。礼拝を通して、私たちは、生きる力を主から受けます。
 そのような祝福された場面に、求道者が同席されるのは、何とすばらしいことでしょうか。私たちが礼拝する姿が、求道者に強いインパクトを与えるのです。礼拝で、神さまの臨在を感じることができれば、彼らは、心から神さまを求めるようになります。自分もあの人々のようになりたいと願うはずです。
 求道者が、次の週もぜひ出席したいと願うようなホンモノの礼拝を、毎週ささげたいものです。」

 このようなホンモノの礼拝を捧げる時、神さまは私たちを祝福して下さり、私たちは満ち足りることができるでしょう。そのように祝福される教会であるなら、たとえ今は厳しい中を通っていても、神さまは必ず最善に導いて下さることと思います。

4.おわりに
 私たちの今年の聖句は詩篇65篇4節の、

「私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」

です。そして目標は、「霊とまことによる礼拝で満ち足りる」です。「霊とまことによる礼拝」とは、ヨハネの福音書の4章に出て来る表現です。イエス・キリストはサマリヤの女に、このように言いました。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23,24)

 「霊とまことによる礼拝で満ち足りる」ことは目標ですから、今すぐにはできなくても、まずは一人一人が自分にこれまで足りなかった点はないか考え、改善すべきことがあれば改善することで、次第に整えられて行くのではないかと思います。私も、今日の印刷物は、昨晩のうちに印刷を済ませました。これからも、できるだけそのようにして、礼拝の前に印刷物のことでバタバタすることがないようにしようと思います。そして、心を整えて礼拝の時を迎えることができるようにしたいと思います。

「私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」

 このような礼拝を、毎週捧げることができる教会でありたいと思います。私たちが満ち足りている時、それは神さまに祝福されている時です。まずは私たちが、この恵みを共有できるようにしたいと思います。そしてこの幸いな場に地域の人々をお招きし、多くの方々とこの恵みを分かち合うことができる教会となることができたら、幸いだと思います。