飛行場・滑空場・不時着陸場・場外離着陸場・空港・戦跡など

    思いがけない所に戦跡があったりします。
     2度と愚かな戦をしない、させない意味も込めて調べてみました。

(63)東京陸軍少年飛行兵學校/武蔵村山市立歴史民俗資料館分館/大和基地

2016-12-10 19:03:56 | 飛行場関係


9月に武蔵村山市立歴史民俗資料館の分館(東京都武蔵村山市大南3-5-7)

が出来たと聞いていましたが遠いのでやっと見に行く事が出来ました。

その辺り一帯は東京陸軍少年飛行兵學校がかつてあった場所です。

広さは20万坪でしたが現在は跡形も無く住宅や学校などになっています。

舊 村山村中藤へ1938(昭和13)年9月に熊谷陸軍飛行學校内から東京陸軍航空學校は移転してきました。(熊谷

以前は所澤)そして1943(昭和18)年3月に東京陸軍少年飛行兵學校と名称が変更されました。

開校前年までここには爆弾投下場があり立川から飛んで来た飛行機が約3mの円形に貝殻を敷き詰めた場所に爆弾を投下

したそうです。

後に短期のコースも出来ましたが通常はここで1年間の基礎教育をしてから操縦、通信、整備に分かれて上級の學校に進

みます。

この資料館分館は新しい建物でしたが小さな1部屋に少飛関係だけでなく太平洋戦争に関する展示がされていました。

分館の展示物は広さの関係もあり多くありませんでした。

この分館の土地は地元の3名から寄付をされたと外の看板に書いてありました。

地元で古い資料はあっても分館では受け取ってくれず本館へ持って行ってくれと言われたが本館は遠いと言う声も聞き

ました。

今後増々収集が困難になる物ですから分館で受け取り本館へ送るだけだと思うのですがね。

尚、館内には撮影禁止のプレートがありましたので展示品の撮影は出来ませんでした。

 乗っていた飛行機を撃ち落とされた米兵が落下傘で奇しくも少飛學校内に着地したので憲兵に引き渡されたという事件

がここではありました。捕虜を殺らずによかったと戦後職員が話していたといった話も聞きました。

分館の隣にも私設の「少飛思い出館」という開館不定期の資料館もありますがこちらは運が良ければ入れるかもしれ

ません。

分館見学後に「東航正門跡」碑を見に向かいましたが途中にも「陸軍少年飛行兵揺籃之地」碑がありました。

この地には1963年に陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑が大きな横長の碑でありましたがどうも税の関係で場所を移動し

ここには写真のような小さな碑を新たに作って残し1990年には市内岸の禅昌寺にも新たな物を作ったようです。

碑の横にある看板には學校北側練兵場でグライダーによる滑空訓練が行われたとも書いてありました。

少飛13期の方に伺った事がありますが13期(東京陸軍航空學校8期1941年10月入校1942年9月卒業)

はここで滑空機訓練はしなかったと言っておられたのでもっと後の期だと思います。








滑空機訓練はこの図(陸軍少年飛行兵史より)では省かれている図の上部にあった練兵場でプライマリーグライダーとゴム索

を使用した滑空訓練が行われたそうです。

格納庫と書いてある場所には滑空機が収納され左下の物置と書かれた場所は練習用具修理工場で隣は滑空機工場だった

ようです。

現在の分館は図の貯水場のあたりです。

少飛學校の滑空機部門で当時働いていた地元の方からここには戦争前から滑空機操縦で名の知られた中野徳兵衛大尉が

いたという話を今回聞くことができました。



この少飛學校の近くには1941年10月創設の村山陸軍病院跡(現 東京経済大学村山キャンパス)



とその隣には病院の数倍の敷地に所沢陸軍航空整備學校立川教育隊(村山医療センターや感染症研究所等々広い敷地で

すので多くの施設が現在はできています。)もありここでは短期整備教育が行われました。

陸軍少年飛行兵史補遺にあるこの立川教育隊の卒業生名簿を見ると15期から17期の3期だけが載っていました。

ここは陸軍高射砲第七聯隊がかつてあった場所です。





東大和市武蔵村山市瑞穂町の写真集には広い野原に双発機が映っている写真がありましたので立川教育隊でも航空機が

離着陸をしていたかもしれません。


帰りには隣の東大和市にある舊 日立航空機株式會社立川工場変電所の壁に大量に残っている銃撃痕も見てきました。

日立航空機はかなり広い敷地でしたが数度の空襲により甚大な被害を受けて壊滅状態だったそうです。

そこが1955年2月から1973年6月末まで米軍の大和基地として接収されていました。



今回は行けませんでしたが東村山市には東京陸軍少年通信兵學校が1942年(昭和17)10月23日に移転して

きたと市史にありました。ここでは2年間の電信技術教育を受けたそうです。

戦後の兵舎は町立中学の校舎として使用されたともありましたので東村山市立第一中学校(東村山市富士見町1丁目5-2)

の沿革を念のため確認すると「東村山市回田2450番地所在の元陸軍通信兵学校校舎一棟を大蔵省から借り受けて、

東村山町立東村山中学校として設立を認可される。」とあり開校は1947年4月15日だそうです。


今回も何人かの方に当時のお話を伺う事が出来ました。

気になった事は戦争がいやだと言っておきながら選挙では戦争好きな政党に投票をするという矛盾です。

経験者なのに何も考えていない、それでは当時と何ら変わらないではないかと思ってしまいました。

飛行機乗りは優秀な人が多かったから亡くなった方が生きていればもっといい世の中になっただろうと話し合った

のですがね。



(書込みはできません)



〇あゆのすけ様 ありがとうございました。

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